Mercenary Imperial Japan 〜幕府〜 作:丸亀導師
1697年 家綱の治世より2年、綱吉の治世はこの頃から始まった。それまでの2年間、家綱のやり残したものを片付けをするかのごとく、周辺各国との関係改善を行ってきた。
関係の改善というと聞こえは良いが、暴力を背景に力を見せつけた後の東南アジアの属国化が正しいものだろう。
それを表すかのごとく、この年ラーンサーン朝〘①〙(以後ラオス)へと使者を遣わした。民を経由して行われたこれは、当初明の使節団であるとラオスでは認識されていたが、全く異なる言語を使用し日本人てあるということが伝わると、ラオス内部で大きな問題へと波及する。
当時のラオスでは、王位継承権争いにより国内が分裂していた。そこに彼は目をつけ、割高で軍を派遣した。火薬等はこちら持ちとしながらも、衣食に関してはラオス持ちとしつつ更に料金も採る。悪どいが、実に巧妙であった。
また、欧州でのフランス優位という状態から一転フランスが事実上の敗戦という報告が本国にもたらされた時、欧州情勢があまりにも意味のわからないものであった。と、幕府を困らせた。
大同盟戦争の終結〘➁〙
1698年 綱吉はこの年、日本本国の大名達の改易を行った。これは度重なる戦争による、国内の大名の力の増大を防ぐとともに徳川、その後ろ盾となる朝廷へと力を集約するために行われ、大小15の大名がこの年だけでその地位を追われた。
勿論、不当なものだと直訴するものもあったが、戦争の際真っ先に戦場から逃亡しようとしたもの等、大名にあらず。と切り捨てられた。保身に走るものほど、このとき処罰されたという。
また、この年ラオスにおいサイ・オン・フェが、この国の王となるもこのときの、日本に対する債務は国家予算の8割にまで及び、その返還で国内の情勢はますます逼迫していた。
また、このとき既に綱吉は一つ手をうちラオス国内の反乱勢力に旧式となった鉄砲の譲渡をするなどを行い、ラオスの国内は表向きには安定していたが、裏では反政府勢力が跳梁跋扈していた。
1699年 北米大陸との大規模通商路が確立される。また、この頃になるとアメリカンとの混血が進みつつあり、独自の文化形態が確立され始めていた。通商での基本的な物は、バイソンの毛皮やメープルシロップ等が日本に送られ、逆にそれらが日本で生産された銃。または、陶磁器に変わって帰る。
この頃になるとスペインとの激突は避けられないものとなっていたようで、度々現地で小規模な小競り合いを引き起こしては、日本側がスペイン居住地へ行っては焼き討ち首狩りを行っていたようである。
綱吉はこの年、北米へ更に使節特に宮大工や城等の建築士を送るなど、積極的にこれらに対して取り組んでいた。
日本式の城、この頃はもはや天守など設計にないそれどころか、石垣すら存在しない。〘③〙
1700年 北米大陸の西海岸で大規模な地震が発生する(カスケード地震)〘④〙この影響により日本本土へも津波が到達し、日本人居留地には甚大な被害があった。
しかしながら、支配層が武士という見栄が必要な階級であったことから、迅速に対応しその後の復興に力を入れた。
この地震から、日本では地質学というものが活発になっていく。何故、日本人の住む場所は地震が多いのかその共通点の探索が始まった。
北米大陸スペイン人居留地が壊滅、一部生存者は日本に助けを求める。キリスト教の信仰に対して、一部を認めるも特権を許さず多神教たる神道に組み込む形で彼等に信仰の自由と住を認める。
①ラーンサーン朝
この頃に実在したラオスの王族、歴史的にはこの後分裂を繰り返して滅亡する。
➁大同盟戦争の終結
戦闘自体はフランス優勢であったが、周囲すべてを敵に回し財政的に厳しくそれによって戦争の継続が困難となった。また、海軍が決して強いというわけでもないため、海外との貿易が非常に立ち行かなくなっていた。
③日本式城
現実では日本の城は戦国終結後建てられていないが、この世界では数々の戦いの中から大砲に対して、石造りの壁や天守が的となり逆に進行を容易にするという結論から、寧ろある種の原始的に巨大な溝と地形を利用した山城のようなものへと退化した。
有事の要塞であり、政務では使用されない。寧ろ、戦闘部隊用の詰め所である。
④カスケード地震
現実でもこの頃起こった巨大地震。その津波は、日本にまで到達し記録に残っている。現地での記録がないため、日本の記録から導き出されこの地震が発覚した。
感想、評価等よろしくおねがいします