Mercenary Imperial Japan 〜幕府〜 作:丸亀導師
1712年6月7日 その出来て間もない街に大勢の人影が現れた。彼等は紅と青からなる服を着ており、街の人々は彼等を歓迎した。彼等の肩には一様にマスケットが掛けられており、その後ろからは馬にサーベルを携えた騎兵がいた。更にはその後ろには野砲を引く馬群がおり、これこそ正にロシア正規軍である。
彼等が派遣された場所はヤクーツク、要塞をぐるりと囲むように造られた貿易の街だ。
人口は多いとは言い難く、多く見積もっても2万が良いところだろう。
そんなところに、ロシア軍は1万もの人数が派遣された。これは、この都市の防衛のために送られたものではない。れっきとした戦争のためだ。
彼等は極東に存在する、ある蛮族の集団によって奪われたかつて存在していた居留地を取り戻すべく、遥々サンクトペテルブルクから、河を遡って来たのだ。
たかだか二万の街に彼等を食わすだけの食べ物があるのか?いや、無い。だが、彼等はそれを気にすることなどない。戦争をしているからだ。
この時代、補給線という概念自体が根付いていない一部の天才達くらいしか気にも止めないようなもの。
ならば、どうして彼等は気にもとめないのか。それは、攻撃する側は、敵より略奪することができるからだ。
敵地までの分さえあれば、後は敵地の村々を焼き払い馬や牛は屠殺して食い物とし、女は嬲り犯し。子供は、売りに出せば良い。さもなくば野垂れ死にさせ、獣が寄ってくるための疑似餌とすれば食い物に事欠くことはない。
しかしそれは、攻めているときのみに適応される。このとき、彼等は思い違いをしていた。自分達は決して守る側ではないと。
6月10日ごろ彼等はある事を知らされた。ヤクーツク周辺の開拓村が何者かにより襲撃され、村は焼き払われ略奪され。男・女問わず、皆殺しにされたという。少なくない数がヤクーツクへと逃げ込み、それを知らされた。
普通こういう場合、無理に動き出してはならない。小規模な村が野盗に襲われるのは珍しい事ではない。しかし、今回はそうでもない。野盗とは思えない、マスケット銃で武装した集団が火薬を用いて、破壊の限りを尽くしたというものだ。この時期の国というものは基本的に感情的な部分がある。
特に今回の場合、完全にロシアをコケにしたようなものであるから、いかに冷静な司令官といえど民衆はこれに怒りをあらわにする。そうなったら戦わないという選択はできない。直ぐに出立の準備が始まる。
だが、このときロシア軍は少しこの土地を甘く見ていた。起伏と針葉樹林のこの土地に野砲等という重量火器を持っていたらどうなるか。この季節、道を行く以外に進む道はない、一度森に入れば泥地帯と草原の区別はなく、最悪野砲は泥濘にはまり隊列から落後する。
結果、彼等は道なき森を抜けるという選択肢が取れず、一つの塊となって動くことしかできない。これでは、散開し戦列歩兵としての戦闘は難しく一度襲撃があればたちまち、餌食となるだろう。
そして、それは案の定であった。
6月26日彼等は、ヤクーツクより南東に約100キロ程離れた場所にあるアムガという町への道中に野営した。寝ずの番を立て、少なくない人数での野営は非常に疲労が貯まるもの。夜間まだ寒さに震えながらも、その日の夜は過ぎていった。
朝日が昇る数刻ほど前のこと、静寂に包まれていた森の中に突如として〘ピー〙という音が鳴り響く。それとともに、射撃音が森の中を駆け巡りヒュルヒュルとなにかが野営地の上空十米程で炸裂した。
眩い閃光と共に、何かの破片が彼らに降り注ぐと、それによって体中穴だらけになったりするものもいる。
数十回それが炸裂した後は直ぐに静かな森が後には残る。そして、その後には数百人の惨たらしい負傷兵が残っている。
そして、それは次の日もそのまた次の日も行われた。黙って指をくわえる訳もなく、周囲をくまなく探そうともその存在したはずの敵の姿は無かった。
ロシアの将軍は、考えた。確実に敵はマスケット以上小型野砲並の火力のあるものを保持している。にも関わらず、奴等のいたであろう場所には、車輪跡がなく馬の蹄の跡もない。あったのは、不自然な窪みと丸いなにか四足歩行の生き物の痕跡だけだ。
さて、ここまで来て日本軍がどういった編成でことに当たっていたかといえば。単純に少数による不規則な襲撃、それも機動性が無ければ直ぐに接近を許してしまうことから、騎馬であるということ。更に、少数なら火力が足りない、ならば火砲が必要となる。そう、彼等の編成は騎馬砲兵。もっと言えば騎馬小砲兵、ハンドキャノンのような花火筒それを地面に突き刺し、3号玉を500メートル程の距離で撃って逃げる。そんな、兵科だ。
そんな彼等が神出鬼没に現れ、夜間。ロシア軍を眠りにつかせない、そしてそれに痺れを切らさせるためにワザワザ足跡を残し、痕跡を辿らせる。
決戦はロシアの小さな村、トロイツク。
そこには河を挟んで睨み合う日本軍本体と疲弊したロシア軍がいた。
8月13日 両軍は河を挟み南北に展開した。
このときの日本軍は、
マスケット兵七千,
野砲隊三十(百八十)
騎兵(小砲兵)千五百
輜重隊六千(内三千戦闘員)
対してロシア軍は
マスケット兵八千二百
野砲隊110(六百六十)
輜重隊五千(内千戦闘員)
騎兵五百
互いに睨み合いをするもどちらが仕掛けるかを伺いながら、戦闘が開始されない。
睨み合いは6昼夜続き、互いに砲を撃ち合うが中々近付けられない。それもそのはず、この河川一帯は湿地帯であるため野砲を川岸に近づけたら最後、待っているのは沈下しかない。
このとき、日本軍の騎兵はロシア側河岸より東に20キロ程の森林地帯に待機していた。彼等の装備はマスケットと太刀へと変化しており、その部隊の実体が見てとれる。正しく先祖返りとも取れる、特殊な戦闘集団だ。
7日目の早朝つまりは8月20日、日本軍の砲撃がロシア軍陣地司令部付近で始まった。これを予期していたロシア軍は急ぎその方向へ騎兵を突撃させる。基本的に砲兵は高速で接近する騎馬に弱く、歩兵に守ってもらわなければならない。しかし、このとき対岸に展開していた日本軍歩兵の数は以前減っておらず、別働隊の砲兵が“また”砲撃をして気を逸している。と、誤認した。
悲惨なことにこれを待ち構えていたのは、穴を掘り腰を低くし下馬した日本の騎兵の三段の戦列。彼等はその銃撃を諸に受けてしまった。
たったの三段数は3倍であるものの下馬した騎兵に力は無いはずだった。しかし、露騎兵はあるものとぶつかっていた。射撃の間隔が短いのだ。従来のマスケットと比べれば、約半分の時間で次々と撃ってくる。
露軍は、長い時間の中で慣れてしまった。少数による砲撃と脱兎の如く逃げ姿をくらます敵に、そしてそれに対する対処をそれがいけなかった。
動揺が広がるのはそれ程長い時間は掛からない、露軍は騎兵が駄目と解ると直ぐに密集を始め、騎兵による突撃を防ぐために方陣を敷き始める。
それと同時に何処からか重低音の楽器の音が鳴り響き、日本軍の渡河が始まる。
バシャバシャという音は、響き渡る銃声と馬や人の鳴き声にかき消され、日本軍の渡河を許してしまう。
水深のある河を銃を水に触れさせずに泳ぐその姿は、滑稽に見えて凄まじきものである。あるものはそこから射撃を行うという離れ業まで繰り広げる。
対岸に到着すると直ぐに背に背負っていた荷物を自らの前に起き簡易的な土嚢を作り上げる。
もしも露軍にボムケットがあったのなら、ここに砲撃することが可能だったろう。しかし、野砲だけの部隊では味方を道連れに射撃するしかない。
よって戦いは、日本軍有利のまま夜が明ける。日が出るとともに、露軍は撤退を始めた。歩兵の数もいつの間にか少なくなっている。正規軍といえども、戦列歩兵とは元々士気の高くない者たちを集めたもの。自ずと劣勢になれば、戦列を離れる者たちが出てくる。
荷馬車をおいてバラバラと逃走を開始するときには、露騎兵を潰した日本騎兵が今度は太刀を振りながら、命を刈り取っていく。
結果として露軍は野砲と、2割の兵を討ち取られ騎兵は、四散するという大敗北を喫する。
しかし、日本軍はこれを追うことなくその戦場から忽然と姿を消し、まるで戦争などはじめからなかったかのようにヤクーツク周辺は静まり返る。ヤクーツクの住人は露軍が勝ったのだと思い祝勝を祝うが、軍の人間は沈鬱であったという。
この年、大北方戦争がより激しくなってきており、露軍にこれ以上の極東での勢力拡大は不可能となっていた。これにより、ピョートル1世は日本と発生した一連の戦闘に対して形式上痛み分けという形で戦争を、終わらせるためにヤクーツクでの条約締結を日本へと送った。それが9月。
極東での寒さが厳しくなる10月の頭にヤクーツクでの条約が締結された。
この戦争において日本という国に旨味はあったのか、というところであるが露軍の自勢力における力の減少と、自らの確固たる力を誇示しもしもの場合は攻め入るぞ。という脅しの為というのが有力なものである。