Mercenary Imperial Japan 〜幕府〜 作:丸亀導師
西暦1633年寛永10年、徳川家光より全国の大名に対して、ある勅がくだされた。
キリシタンに対する弾圧を更に強める事、スペインに対する備えを行う事、そして外洋船舶の建造である。
このときの世界は、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス等によるヨーロッパ勢の海外進出が盛んに行われ、そして多くの対立構造を作り出していた時代。
スペインとオランダは長きにわたって行われていた戦争〔80年戦争〕の真っ只中であり、互いに国力をすり減らしていた。
そして、アジアに目を向ければもう各地に欧州の植民地支配構造ができ始めていた頃である。
ちょうど同じ頃、東アジアの北東部現在で満州に当たる付近では、後金が勢力の拡大を行い明との対立が激化し戦争へと突入していた頃である。
そんな中、一足先に戦乱から抜け出した日本、当時徳川幕府はそれらの国際情勢を鑑み一大決心を行った。
スペインへの事実上の宣戦布告である。何故スペインなのか、それは日本へのキリスト教の強要があまりにも横暴であったこと、キリシタン達を先導して、内乱を画策しているという内部情報が存在していたからだ。1626年には日本国内からのスペイン勢力の一掃が実行されており、後は残党狩りの様相を体していた。
そして戦争への前段階として、国内に存在している不満を国外へと逸らすことを重要と捉え、国中に存在する浪人達の職業の斡旋も伴いオランダへと直接交渉を行った。
浪人達の集団を国家として、オランダに派遣しオランダに対する義勇兵という建前の傭兵として現地へと送る。
その見返りとして、台湾に存在するオランダの商館。それが現在幕府にかけている関税を撤廃せよ、というものだ。家光百年の計《①》という。
最初オランダはそれを渋っていたのだが、本国での戦況の変化等に左右され渋々それを受諾することになる。
ただし、これにオランダは条件を付ける。
寄せ集めよりも、正規軍を欲したというところだ。
戦国の世、最後の大規模な戦は1614年に起きた大阪の陣以来、久しく大きな戦が起きていない。1633年での実戦経験のある者たちは、基本的には国外にいたもの達や年老いた者達ばかり。
一見すれば烏合の衆に他ならない。
それをオランダは見透かすように見ていた。
しかし、それを見越したかのように、二代目将軍秀忠はある集団を結成していた。
名を徳川学校《➁》
名君ではあるが、関ヶ原、大阪の陣と父親である家康と比較されていた彼、決して軍の才能は良いものとは言えない。それ故に、後の世で軍というものを指揮するものの能力を少しでも底上げしようと、画策したものだ。
これには各国の軍師を招き、大名の軍事能力的な弱体化と〘日本〙としての軍事的な強化とより深い結束を招いた。
そして、オランダの提案にニコニコといった顔で了承した幕府。
数年後の第4次ブレダの戦いに参加することとなり、活躍をするがそれはまた別の話。
家光は1630年代に多くの事を行った。
例えば、
蝦夷地沿岸部の主要民族との公益を松前藩抜きに、幕府中心で行いかつて豊臣方で戦い、御家取り潰しになった大名達に新しい土地での開墾を行う、
様々な学問を習得し、内政、外政、算術等に携わる大学寮《④》の復興
武家の規範となる武家諸法度への参勤交代、並びに軍船建造に関わる
である。
また、朝廷と幕府の冷え込んだ中を取り持つために30万の軍を率いて上洛をし、自らを天皇の臣下と見せることによる天皇の神聖化を行ったのも1634年のことである。
これは、対キリスト教という体を成すために神道をより強く推し進めるという事を、固く決意したという意志の現れであると思われる。
また、この頃からポルトガルとの間に深い溝ができ始めており、ポルトガル商人の行き過ぎた態度に腹を立てていたという。
後にポルトガル商人がキリシタンを使い島原で事変を画策していた事が発覚すると、ポルトガル人の入国を完全に遮断した。
これを島原の計《⑥》という。
徳川による外征が始まる前には、内部の引き締めがかなりの頻度で行われていたようである。
①家光百年の計
現実の世界にはありません。確かに台湾に対する領有を画策したものは家光の時代に存在しましたが、家光本人がそれを否定しています。
➁徳川学校
現実にはありません。今で言う士官学校のようなものだと考えてください。
③復国令
現実にはありません。大阪陣での敗残した者たちの中で徳川に近く改易をくらった者たち。または譜代の中で、家督を告げず家臣へと落ちる者たち等に、蝦夷地を与え国を起こさせる。
④大学寮
律令制の中での管領育成機関。中身は別物。昔の制度を新たに作り直し、公家、武家、農、商に関わらず優秀とされた者たちを集め、国をより大きくしようとした。ここを出たものは、その代限り士族を名乗れる。
⑤大船建造の令
史実での大船建造の禁の劣化版。幕府の許可なく大型の軍船、商船の建造を行ってはならないという制度。
武器を持たない国内用の内航船は、この令に触れない。
⑥島原の計
島原でポルトガル商人達が武器の横流し、を行って現地の反乱勢力に加担していたもの。しかしながら、数が揃うまもなく直ぐに見つかり国外追放された。