Mercenary Imperial Japan 〜幕府〜 作:丸亀導師
1661年 家綱はこの年のはじめ頃長きにあいだ明への派兵を行っていた、徳川光国を本国へと帰還させ本国にある軍師等へと、西洋の戦と此度の戦の相違点の洗い出しを命じた。
これは、様々な戦場へと赴いた生きた情報を得て、より軍の力を集中できないものかというものであった。
帰国した光国の顔は見るからに疲れたものがあった。一人の将として向こうに派遣されたかと思えば、結局国を運営しなければならず。お飾りの明国の王、公主をたてるように振る舞わなければならない。気疲れは、並の大名の比ではない。
この帰国で彼は水戸藩を継ぐことになり、日本国の陸軍の完成形を組み立てた。光国の軍制《①》
この年、甲斐国でとある疫病から来る嘆願書が幕府の目付けへと届けられた。
その疫病が媒介している村は酷く腹が膨れ、痩せ細ったものばかりとなり、もはや村として機能するのが不思議なほどに荒れていた。
ここに、蘭方医 漢方医関わらず多くの医者がそれに派遣される。《➁》
鄭氏の長である鄭成功、台湾島南部にて日本の追討部隊との交渉にて、日本の軍門に下る。
1662年
明の官僚のその悉くは日本の傘下へと下り明は、帝国としての歴史に幕を下ろし、王国としての歴史を歩み始めた。
このとき、国王は女系とする旨が日本国から提案される。
この年、中東等で外交を行っていた使節団が帰国をすると、オランダへの反応が硬化する。これは、オランダが幕府へと行っていた銀や銅の相場が法外なものだと言うことが、知れ渡ったからだ。このとき、オランダ商館は冷や汗を流し打首になるのかと思われたが、一部台湾への利益を奪取することでこれを免れた。これによって台湾は、事実上日本の帰属。直轄領へとなる。
1663年 幕府は各地の藩へ地図の作成を命令する。決められた単一の方法による検地と、それによる大規模な図への作図。
後の世に、大日本沿海輿地全図と呼ばれる地図の作成が始まった。もっともこれは家光の時代に行われたものの、より精確な図面への書き起こしである。《③》
この年に導入された、三角測量法による緻密なそれは向こう百年以上、繰り返された。
1664年 日本国内にて寛文印知が行われる。これは所謂土地の確定であり、これによって日本各地にあった村どうしの水の取り合いや、藩どうしのいざこざを無くすことに成功する。
また、これを朝鮮にも適応し見事、両班の汚職の実体と確定していなかった土地の所有者が判明し、名実共に朝鮮半島へと大名の配置が行われた。
1665年 日本国内で顕微鏡を使用した小動物実験が行われた。これは、主に土の中に存在していた未知の小さな虫。茸等に行われ、細胞というものが日本国内で初めてスケッチされた。これは同じ頃のロバート・フックによる著書顕微鏡図譜が刊行される一月前であった。《④》
同じ年、オランダから万有引力の法則が伝えられる。噂程度のものではあったが、合点のいった者たちがいたのだろうそれを、彼等は計算で導き出そうとした。またこのとき、同じく地動説が日本国内の天文学者間での主流となった。《⑤》
① 光国の軍制
徳川光国による、日本国の〘備〙と言われた戦闘隊形への一つの答えである。元来各大名によってバラバラだったそれは、槍を完全に廃止し銃と一体化した銃剣を生み出した。
➁ 日本の盆地に多くあった、日本住血吸虫症そのものである。
③ 大日本沿海輿地全図
現実でも年代によって地図が異なっており、同じようなことは行われていたようだ。
④ 顕微鏡
現実の世界で日本に伝わったのは1750年頃のようだ。
⑤ 地動説
地動説が日本に入ったのは1606年頃、なんとイエズス会が日本に持ち込んだ。
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