Mercenary Imperial Japan 〜幕府〜 作:丸亀導師
最近、精神的な不安定さもあり執筆が滞っておりました。鬱というものは怖いものであります。
1686年 日清両国の戦争が終結したのだが、一つ大きな問題が浮上する。兵士のその後の職業の斡旋だ。
軍士であるがゆえに、それを維持するだけでも莫大な費用がかかる。余剰となった火薬、銃砲等々平時に使い道がないものばかり。
それらを、公共事業に振り分けるにも限界がある。ではどうするか、海外に向ければよいのだ。ではどこに?余った土地は、北部にたんまりとある。屯田兵が生まれた。
1687年 屯田兵となるものの、それでもなお足りない者達は再び欧州派遣軍として、欧州へと旅立った。彼等は、国を離れ再びこの地を踏むことはない者たちも多い。殆どが三男坊や四男坊等の家督を継げない者たちであった。
また、この年北米大陸へと更に派遣される者たちがあった。それは、武勲を立てたものの中で志願した者たちだ。彼等は日本の為に忠誠を持って北米へと移住した。
1688年 日本国内にて、識字率調査が実施された。このときの全国的な国民。士農工商すべてのものを対象としたこれに、大凡6割の人物が、読み書き算盤を行えた。これは世界的に驚異的であり、軍事国家であるゆえの強みとなった。
『高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に戦闘を行う』《①》という戦闘教義があった。
同年、欧州で巻き起こった大同盟戦争《➁》において日本はフランス側として参戦。この件によって日本とオランダとの間に、利益目的のパートナーとしての役割を終えることとなる。この頃からオランダとの間には貿易摩擦が置き始めていたのが、原因と言われる。
1689年 日本が勘察加半島の領有を決め、軍を正式に派兵した。同時に、当時係争していた民族がロシア帝国の将、ウラジーミル・アトラソフと激突する。
質量共に優れていた日本側が有利に進め、この年の8月にはチュクチ半島にまで追い詰める。
この年の冬までにアトラソフは降伏するも、日本がロシア帝国を認識し、清との不可侵をいかにきて無きものとし国土の防備をするのかというものに、思考が向き始める。
1690年 徳川家綱、鷹狩りの最中落馬する。
日本初の脳外科手術、頭蓋骨内の硬膜下血腫の切除、世界初の公式記録に残る全身麻酔による大規模な手術によって一命を取り留めるも、後遺症により左半身に若干の麻痺が残る。
将軍職の全うが難しいこととなることが確定したため、将軍を辞職しようとするも叶わず、弟である綱吉が執権として肩を並べることとなる。
1691年 綱吉、家綱の行った改革に生類憐れみの令《③》の追加を行う。
光圀これを見て、綱吉をその豪胆な態度で問い詰めた。『人の上に獣が立つか』綱吉答えて曰く『人も獣の内、故に行き倒れたるものから物を盗むなかれ』
オランダ商館長将軍と謁見し、フランス側に傭兵たちが付いたことを抗議する。オランダの独占品目であった磁器等を、フランス
との貿易産物に指定し、オランダの独占が崩れる。
このとき『我々は貴国の植民地をいつでも攻撃する用意はできている。』と言われる。
国内のキリシタンの数は最盛期の1%を割り込む。国家神道は、末端まで行き渡り、完全にキリスト教との対決となるもその考えはあくまでも唯一神を否定するだけとなる。
1692年 家綱、欧州で行われている魔女裁判というものに対して関心を示し、魔女と疑われている者たちを日本国内へと誘導するよう、欧州派遣軍へと打診する。魔女の海渡《④》
一方で北アメリカ大陸へと上陸し都市を形成していった者たちは、その人口は5万となっていた。
そして、丁度この頃になるとスペインが中南米から北米へと進出を本格化させていたため、日本との激突は時間の問題となっていた。
1693年 フランス大使が日本へと到着し、家綱と謁見する。このとき、半身不随の家綱に対してempereur(皇帝)と呼ぶも、家綱自らそれを否定し、日本国大君(Japon Général Roi)と自ら訳した。
将軍にも限らず自らを王とする称号にフランスの使節は戸惑う、それもそのはず皇帝がいるのに更に別に王がいる。
更には外交は内政は王が執り行い、皇帝はそれに対して権威を貸すという摩訶不思議な政体、そして軍事行動に至っては皇帝の名の下に行われるというのだから、困惑必至。
大同盟戦争のフランス側として、スペイン・ポルトガル両者の植民地に対して大々的に攻撃するよう要請され、それを実施する。
勘察加鎮守府の設立
1694年 家綱次期将軍に綱吉を選出する。また、綱吉の後に実子である竹千代《➄》(後の6代目家信)を将軍とするよう勅令を発す。
この年から家綱の容態は悪化するようであるが、翌年まで持ち堪える。
オランダ商館長、フランス施設長との間に軋轢が生ずる。幕府これに対して仲裁し、国内での無礼千万を行わないよう治外法権を認めない旨を強調し、西洋に対して声高々に宣言する。
1695年 11月頃から家綱意識不明となり、翌12月初頭無くなる。なお、死因としては落馬による後遺症ではなく、後遺症によって衰えていた免疫機能に対して、季節性の風邪による最後の一撃を加えられたものであるようだ。
この年、綱吉は直ぐに将軍職につき政治の混乱を治め幕府中央のより強固な地盤を作り出そうと奔走する。
1696年 家綱の計画した国土強靭化の結果がこの年から出始め、識字率が7割を超えるという国民総文民化が実現する。
これに伴い、朝鮮や台湾等の二等領地の民衆に対して教育が強化されていった。
綱吉、飢饉というものに対して学士らへ研究を行うよう発布する。しかし、既に飢饉というものに対してある程度の研究を行っていた、佐野右衛門正隆《⑥》というものから飢饉というものにも種類があること。大まかには、大規模な火山の噴火、冷夏、日照不足が深く関わっていることを聞く。
① 高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に戦闘を行う。
これは要するに、兵を少数の単位によって運営し各々の判断で突撃、防御、撤退の判断をくだせ。というもので、行き当りばったりというよりかは、作戦に対して大まかな戦術を取るから更に細かくは兵士達に任せる。というもの。
② 大同盟戦争
フランスに対して欧州西側各国が同盟を行って対抗した戦争。
これに対して、日本は欧州に首を突っ込み北アメリカで自由に動きやすいように、スペインと敵対することでフランスの支援を期待した。
③ 生類憐れみの令
悪法とも良法とも言われる、犬とか小動物並びに人の死体に対して酷いことをするなよ?という、法律。これによって日本人は、化け物から人間になったと思われる。それ以前のそれは、実際の光圀のような人間が多かったのであろう。
④ 魔女の海渡
欧州の知識層たる魔女と言われた者たち、またはそういった差別された者たちを、島流しという体で日本国へと連れてきて、自分達に協力させたこと。これによって、日本人との混血が進む。
➄ 竹千代 徳川家信
実際には死んでしまっていた、徳川家綱の息子、嫡男。
この世界では白粉が身体に悪い事が広まり始めており、この頃から上流階級では白粉花で作った7色白粉、中流では白粉花を原料とした物が中心となった。
⑥ 佐野右衛門正隆
一般的な農民として生まれ、その洞察力から学士となった気象学者。統計学的に纏められたそれは、後の時代にまで残されていく。
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