前世の記憶を取り戻したら、原作開始前に死亡する予定のラスボスの妻になっていた件について 作:しらたま大福
過去捏造祭り。
私にとって、妻のルフィーナは不思議な存在であった。
私が長谷川幸一として、ウラジオストクで『長谷川写真館』を開いたのは20歳の時だった。町外れにある日本人が開いた写真館。そんな変わり者の開く写真館に訪れる人間はそんなに多くはなかったが、ウラジオストクには気のいい人間が多く長谷川幸一という人間を受け入れてくれていた。
私が設定した「長谷川幸一」という人間は、穏やかな性格でお人好し、だがちょっと頼りない所が玉に瑕という設定だ。一般的な日本人のイメージとしては分かりやすいキャラであり、スパイというイメージ像とは真逆のキャラ設定だと我ながら思っていたものだ。
誰も私が日本軍の情報将校であり、ロシアの情報を日本に流すスパイだなんて想像すらしていなかった。
それなりに充実していた。優しい現地の住人に、滞りなく進む仕事。全てが穏やかで、1人で過ごす異国の地は静かすぎる程だった。
『こんにちは、少々よろしいですか? 私の可愛い弟の写真を撮ってもらいたいんです!』
そんな日々に突然現れたのは、八歳年下の弟を連れた金髪の少女だった。彼女は自らの名前を「ルフィーナ」と名乗り、その薄藍色の瞳を柔らかく細めた。
『ええ、どうぞこちらに。せっかくなのでお姉ちゃんも一緒にいかがですか?』
『そうですね、じゃあ一緒に撮ります!』
これが長谷川幸一と、後の妻となるルフィーナの初めての出会いだった。
ルフィーナはウラジオストクで生まれ育ったごく普通の娘であり、当時二十歳だった私より五つ年下の少女だった。珍しいものに興味を持ち、楽しいことがあれば屈託なく笑い、冗談を言ってからかえばムスッとした顔でむつけたりし、悲しいことがあればぽろぽろと涙を流すごく普通の少女だった。
『おや、ルフィーナさん』
『長谷川さん、こんにちは! 今日も弟と一緒に来ちゃいました』
そして彼女は私によく懐いた。私の話す故郷の話にキラキラとした目で続きをねだり、幼い弟と一緒に出来上がる写真を興味深そうに眺めていたりもした。
さて、そんなルフィーナであったが、彼女はロシア人にしては妙に日本人ぽい所があった。礼儀礼節を重んじていたり、時には変に謙虚な所があるし、なぜかマイナーな日本語の意味を知っていたりした。
そんなあべこべなルフィーナの事を、気になり始めている私がいた。
果たして、この感情は『恋』なのだろうか。一時期はそんな事を馬鹿正直に自問自答する時期もあった。だが、自分はスパイとしてロシアに潜伏している身であり、この身は祖国のために捧げたも同然。同じく日本国民である女性に恋するならまだしも、相手はちょっと中身が日本人ぽいとしてもロシア人だ。
将来敵になるかもしれない国の人間を利用することはあったとしても、「恋」するだなんてありえない。
私はそう結論づけて、その感情に蓋をした。それからは、出来るだけ彼女と過ごす時間を減らしたりして距離を置いた。
そうすれば、この
少しずつルフィーナと距離を置き始め、ついに半年が経った。最初の頃は週に三回は訪れていた彼女も、私からの遠回しな拒絶にいつの日からか写真館を訪れることはほぼ無くなっていた。
日常に何かが足りないと思う違和感に気付かないふりをしながら、今日も日常を送る。「これでいいんだ」と言いながらも、ずっとじくじくと痛む胸の痛みなんてもう麻痺してしまった。
『……長谷川さん、私の写真を取ってもらってもいいですか?』
ある日彼女はいつもよりも着飾った服装で写真館へとやってきた。久しぶりに見たルフィーナは、少しずつ少女から大人の女性へと変わり始めていた。その怪しげな色香に一瞬言葉を失ったが、なけなしの理性を総動員していつもの“親切な長谷川幸一”を演じる。
『今日は素敵な装いですが浮かない顔ですね、どうしましたか?』
撮影部屋に通した彼女は、綺麗な格好をしているのになんだか元気がなさそうだった。
『……実はこの写真、お見合い用の写真なんです』
椅子に座った彼女は、苦笑いをしながらワンピースの裾を掴んだ。
『私も、もういい歳なのでそろそろ結婚しないと行き遅れになるって両親が言ってて……』
『……弟くんはいいのですか?』
彼女の弟は好奇心旺盛で物静かだが、目が離せないお転婆な少年だった。興味のあることには何が何でも満足するまで突き詰める、たとえそれが危険なことだったとしても。
両親が共働きな彼女の家では、そんな目が離せない弟をルフィーナがずっと面倒を見ていた。そんな彼女が嫁いでしまえば、弟の面倒を見る人間がいなくなってしまう筈だ。
『弟はついに自分の趣味を見つけたみたいで、もうそこまでお転婆はしないから大丈夫よってマーマが言うんです。あと、私の嫁ぎ先がきまったらマーマが仕事の量を減らすって言っていて……。もう結婚を先延ばしにする理由がないんですよ』
『……そうですか』
彼女が、私の知らない男と結婚する。その事実に、自分の中で完全に蓋をしたはずの感情が再び暴れだそうとしている。
……この感情はダメだ、表に出してはいけない。情報将校として、ロシアでスパイ活動をしている自分が本来だったら抱いてはいけないものだ。
感情を振り切るように、私はカメラのレンズをのぞき込んだ。
『ルフィーナさん、結婚はしたいのですか?』
『……私これでも女の子なので、好きな人との結婚は夢ですよ』
レンズ越しに、彼女の薄藍色の瞳と目が合った。彼女はふっと表情を弛め、私の好きな微笑みを浮かべた。
『……長谷川さん。私……あなたの事が好きでした』
『――っ』
『この気持ちがご迷惑な事も分かっています。あなたは自分のお国を愛していますし、いつか日本に帰るんだろうなって事も分かります。私はロシア人で、なんの特技もないただの町娘。素敵な長谷川さんに釣り合わない事も分かっています。だから――私の未練を断ち切るために、あなたの気持ちを聞かせてください』
これは最後のチャンスだった。彼女へと思いを伝え、自分のものにできる最後のチャンス。きっとこれを逃せば、彼女は私以外の男と結婚し、やがてその男の子供を産むのだろう。
『……私、は』
それを想像してみた。彼女の傍で私以外の男が馴れ馴れしくルフィーナの肩を抱き、彼女の腕の中にはその男の赤子を抱いて幸せそうに微笑む彼女の顔を――。
その光景は酷く不快だった。どうして彼女の隣に立つのが自分じゃないのか、彼女の瞳の先にいるのが自分ではという事に酷く苛立った。
あぁ、もうダメだと気づいた。飲み込まれた、既に手遅れだと。そう実感してしまえば、なんだか楽になった。
だから、私は素直に気持ちを口に出す。この気持ちがもう戻ることができない所まで肥大してしまったのなら、もう彼女に責任を取ってもらおうと思った。
『……私も、あなたの事が好きです』
『……っ、!』
まっすぐ彼女の目を見てそう話せば、彼女の瞳が揺らぎ、薄らと涙が浮かぶ。
『……すみません、あなたの気持ちに気づいていながらも遠ざけるような真似をして。だからどうか……「好きでした」という過去形にしないでください』
早く、私と同じところまで堕ちてきて欲しい。そう思っている時点で、私の負けだった。
『ルフィーナさん、私にあなたをフィーナと呼ぶ権利をください』
『……はい、私にもあなたをコウイチと呼ぶ権利をください』
こうして、私達は結ばれたのだ。日本のスパイとしての役割は忘れてはいない、だけど――この気持ちはもう止められなかった。
***
フィーナと結婚して3年が経った。中々子宝には恵まれなかった私達に、ついに可愛らしい天使が舞い降りた。妻になった彼女は今、幸せそうに私の隣で幼子を抱いていた。
薄ら生えている産毛はブルネット、瞳の色はフィーナ譲りの薄藍色。私達の間に授かった可愛い愛する娘に『
今までの人生の中で一番幸せな日々だった。愛する妻と可愛い娘に囲まれ、ごく普通の人間のように過ごす日々。
ほんのちょっと心の隅にある、罪悪感には気付かないふりをした。
しかし、そんな幸せは脆くも崩れ去った。
あの日、秘密警察がやってくるのを察していた私は、フィーナとオリガを安全な彼女の実家へと帰らせた。ここで死ぬ気はさらさらなかったが、もしも何かがあったときのためにフィーナには金貨を持たせた。
秘密警察を退けた後、私は彼女に全てを話して共に日本に来て貰うつもりだった。
……彼女達の幸せを願うとしたら、このまま迎えに行かずに自分一人だけ日本に帰るべきだろう。生まれたばかりの赤子を抱えて、誰も知り合いがいない異国へと連れて行くのは憚れる。だが……私はフィーナを手放せなかった。
もしも、彼女が私を選んでくれるとしたら、私は全ての力を使って彼女達を守ると誓っていた。
しかし、運命という者は残酷だった。実家へと帰ったはずのフィーナは、途中でとある手配書を拾った。皇帝暗殺の実行犯、『ユルバルス』と『ウイルク』。その二人の似顔絵は――フィリップ、グリゴリーと名乗って私から日本語を学んでいた人物だった。
フィーナは私が危ないと思ったのだろう。
だから、彼女はそのまま実家へとは戻らず、私の元へと戻ってきた。
秘密警察をある程度かたづけた時、私はぞっとするような光景を目撃した。血だまりに沈む愛しい妻の姿、その傍ではオリガが母親の変わり果てた姿に泣いていた。
頭が真っ白になった。どうして戻ってきたんだ、なんで約束を守ってくれなかったんだ――たくさん言いたいことがあった。しかし、この場には私達以外の人間もいる。
なけなしの理性を振り絞って、ウイルク達をこの場から遠ざけた。思ったよりも出血が多いせいで、私が『だめだ』と言った言葉にフィーナが手遅れだと勘違いしていたが、あえて否定はしなかった。少しでも人の心があるとしたら、この先苦しめばいいと思った。
私にとって、誰よりも愛おしくて愛していたフィーナ。そのフィーナが、荒い息をしながら、土色の顔で苦しそうにしている。出来ることなら、私がその痛みを変わりたかった。
私は未だ泣いているオリガの脇で、フィーナをそっと抱き上げた。
『フィーナ……』
『コウイチ……』
か細い声で
どこにも行かないでくれという気持ちを込めて、少しだけ腕の力を強めた。
『……どうして、戻ってきたんだ』
『あなたが……しんぱい、だったから』
そう言って私の頬にフィーナの指が触れた。彼女の指先から血と土の匂いの中に、ほんかに私の大好きな彼女本来の優しい匂いがした。
『……フィーナ、私は――』
今この瞬間、本当の事を告げようかと思った。私は長谷川幸一ではない、鶴見篤四郎という人間なのだと。でも、そう言葉にしようとした瞬間……私は、怖じ気づいてしまった。
彼女の知る「長谷川幸一」とは偽りの人物、嘘だらけの虚像だ。私のフィーナに対する愛情は本物なのに、それを証明する手立てはなかった。
『……っ』
もしも、彼女から「私が愛していたのは鶴見篤四郎じゃない、長谷川幸一よ」と言われてしまえば、きっと私の心はバラバラに砕け、立ち直れないだろう。
結局フィーナに対しては臆病になってしまう私は、唇をかみしめ口を閉ざすことしか出来なかった。
何も語らずに黙り込んでしまった私を見て、フィーナはポツリと言った。
『違う』
いつも優しく
『……あなたは……コウイチじゃな、い』
『……え』
バクバクと心臓が鼓動する。まるですぐ近くに自分の心臓があるかのように、聞こえる心臓の音が煩かった。
『あなたの、名前は』
ゆっくりと彼女の唇が動く。
「――鶴見篤四郎……よ」
そして――
その言葉に、俺の胸がどれだけ歓喜に震えたのか、君はきっと知らないだろう。
「……っあぁ」
フィーナにはどこか鋭い観点が備わっていたことには気づいていた。でも、まさか自分の正体まで知っているとは思わなかった!! 彼女は、俺の正体を知っていながらもその事実を俺に隠し通した。彼女は私の想像以上の人物だったのだ!
私はずっとフィーナに本当の事を打ち明けられずに苦しんでいた。
でも、最愛の妻は全てを知っていた。自分が長谷川幸一ではないことを、そして“鶴見篤四郎”という人間だということを。――彼女は、全て知っていて自分と結婚していたのだと。
「君は……俺のことをっ、……知って、いたんだね」
「……えぇ、ずっと……昔から」
腕の中のフィーナはそう言ってその薄藍色の瞳を優しく細めた。
俺は彼女のその柔らかい笑みが大好きだった、愛していた。嘘で固められた長谷川幸一。その嘘すらも知っていて、包み込み愛してくれていた俺の最愛の妻。
「……あなたと、出会う前から……私は……」
いつの間にか、彼女はスラスラと日本語を話していた。その違和感さえも、この時の私は気づかなかった。今まで日本語を話したことが無かった筈の彼女が、日本人並みにスラスラ異国の言語を話すというそんな些細な謎なんて、彼女が
「……たぶん、きっと――」
彼女の肩の傷に応急手当を施しながら、私はそっと彼女の口元に指を持って行った。
「……フィーナ、傷に障る。そろそろ休んでくれ」
これ以上彼女から愛を囁かれてしまえば、俺はきっと我慢できなくなってしまう。今でさも、このままフィーナとオリガを日本に連れ帰ってしまいたい衝動と戦っているのだ。これ以上俺の理性を崩すのはやめて欲しかった。
流石に満身創痍のフィーナをいますぐ連れて日本に帰るという荒業は行いたくなかった。
「……分かったわ、おやすみ篤四郎」
「あぁ……おやすみフィーナ」
私はその後、写真館に火を放ってからフィーナとオリガを手回しした病院へと連れていった。そして、彼女の肩から摘出されたシュミットM1882の7.5ミリ弾を医者から受け取り、その弾を見て彼女が誰に撃たれたのかを知った。
私は日本に向かう前に、病室で未だに青白い顔して寝ているフィーナの元に立ち寄った。
「……フィーナ、オリガ。必ず迎えに来るよ」
愛しい家族に口づけを落として、私は黄金の髪と共に日本へと旅立った。
その数週間後、妻と娘が失踪したという報告を受ける事になるとは露知らず。
――私の中で、何かが壊れる音が聞こえた。
【補足】
夢主は原作通りの長谷川の偽名カミングアウトから『あなたは誰?』のやりとりがあったと思っているが、実際は前世の記憶とこんがらがった夢主が長谷川幸一の真名看破をやってのけていた。
若干夢主のこと勘違いもしている点もあるけど、鶴見が夢主に対してクソデカ感情を抱いているのは事実である。