時々、夢を見るんだ。
家に帰れば愛しき家族が居る。
決して大きい家ではない。
それに、裕福とは言い難い暮らしかもしれない。
それでも、皆で食卓を囲んで、他愛も無い談笑に興じ、朝は皆で陽の光を浴び、夜は皆で布団を並べて眠りに付く。
いつでも幸せを分け合える距離に家族がいる。
ささやかで、慎ましい幸せな日常。
そんな、「存在したかもしれない未来」。
でも。
幸せになんてなれないよ。
それは所詮夢物語で。
現実はそれ程生易しくはない。
「存在したかもしれない」未来に縋る暇があるのなら今を生き抜く術を講じろ。
今日を、明日を生き抜く事だけを考えろ。
家族、友人、恋人等といった下らない夢を抱くな。
人は裏切りの生き物、いずれ裏切る。
信じられるのは自分だけ。
今までもそうだっただろう。
何度他人に裏切られてきた。
何度明るい未来を夢見て、大事な物を失ってきた。
痛い。辛い。苦しい。寂しい。悲しい。怖い。虚しい。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。
なぁ、
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夢を、見ていたい。
辛いことも苦しいことも忘れられる、夢を。
何に縛られるでもなく、ただただ幸せな夢を。
夢ならば、悲しむこともない。
夢ならば、何度だってやり直せる。
夢ならば、何も失わない。
でも、往々にして夢というのは儚い物で。
始まりがあれば終わりもまた然り。
夢は、いずれ醒めるからこそ夢たりえているのかもしれない。
『人』の『夢』と書いて『儚い』と読むのもなかなかに因果じみた物を感じるよね。
そしてそれは現実世界だって例外じゃない。
今ある幸せは、明日には跡形もなく砕け散っているかもしれない。
当たり前だと阿呆のように信じ切っていた日常が、当たり前じゃなくなるのだって、何ら珍しい事でもない。
この世に絶対なんて物は存在しないのだから、掴まる物も無しにゆらゆらと揺蕩う俺達もまた、不安定なんだと思う。
不安定で、不完全で、不眠症で。
……不眠症は俺だけか。
でもね、そんなあやふやでいつ消えて無くなるとも分からないこの世界も、そういう意味では虚ろな夢の一つに過ぎないのかもしれないんだ。
俺が見ているこの世界も、全部全部夢で。
誰かが目を覚ましたら、それでおしまい。
呆気ないけど、そういうもんでしょ。
だって、夢って醒める物だし。
なんて言ったりして。
まあそんなことある訳ないですよね。
仮にこの世界が夢なのならば、その世界に生きる俺達も夢。
夢がこうして夢を見るというのも、おかしな話ですし。
……ああ、この夢もどうやらそろそろ醒めてしまうみたいです。
いい加減融通の利かない現へ目を向けるとしますか。
俺達は所詮、何かに縛られ続ける生き物。
自由になんて、なれやしないのですから。
日が昇れば、いつかは沈んで。
夜が深ければ、いつかは朝ぼらけがやってくる。
そうして時間という名の半強制的サイクルの為すがままに、今日もまた一つ夢が醒める。
……だけど。
この悪夢だけは、何時になっても醒めない。
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微睡みが晴れれば、徐々に顕になっていく身体の軋み。
その違和感に、朝方のトレーナー室で目が覚める。
何とも煮え切らない目覚めです。
いつもの事と言ってしまえばそれまでですが、それにしたって今日は酷い。
閉め切られた筈のカーテンの隙間から射し込む旭日が、じりじりと肌を焦がす様に照りつける。
こうなりたくなかったからカーテンをちゃんと閉めたのに。
僅かな隙間を潜り抜けた一筋の直射日光の通り道で眠ってしまうとは俺もなかなかツイていない。
べっとりと肌に張り付いたカッターシャツが何とも不快感を煽る。
かくは言っても今はまだ6月の始め。
暑さで音を上げるには些か時期尚早という物。
これからこの暑さが更に勢いを増し、この身に降ってかかる。
そう考えるだけでこれからの生活に嫌気が差してしまうのも、かれこれ毎年の事かもしれない。
昔の6月はまだ涼しかったのになあ、なんて言うとおじさん臭いでしょうか。
失敬な、まだ21ですよ。
ただ、これは幾ら嘆いたって仕方の無い事。
人間は心変わりの生き物。
心変わり一つで自身の行動すらも変えてしまえる。
だけど、自然はそうは問屋が卸さない。
もしも自然が言う事を聞いて頂ける程お人好しなら、災害なんて物は存在しないのですし。
幾ら空に祈りを捧げても神様はきっと聞き入れては下さらないでしょう。
………なんて、何処ぞの宗教家の様な事を言ってみたものですが、実際の所俺は神仏の類を信じていません。
何故ならそんな物が存在するのなら、
俺の様な人間は生まれなかった筈だから。
……過去を引きずるのは止めましょう。
それより今すべき事は、そこら中にこれでもかと散らばった書類やプリントを片付ける事。
ぐしゃぐしゃになった使い損じの書類を枕代わりに使用している間にこんなにも溜まっていたみたいですね。
昨夜もどうやらデスク上で寝落ちしてしまった模様。
いや、今朝と言うべきでしょうか。
書類の進行具合から察するに恐らく05時台までは起きていた様ですから。
となると俺の睡眠時間は15分という事に。
不健康もいい所です。
そんな生活に慣れてしまった自分が少々恨めしい。
ここだけ聞くと病的なまでのワーカホリックに聞こえてしまいそうですが、そこについては一つ訂正させて頂きたくて。
別に職場がブラックという訳では断じてない。
寧ろ福利厚生の充実した、超が付く程の優良企業かと。
では何故こんな仕事漬けの日々を送っているのか。
基本的に此処に勤める方々は仕事熱心な方が多いのです。
と言うよりかは、仕事熱心でないとやっていけないと言いますか。
無論例外も一定数いらっしゃいますが、他の方々と違って浅学非才の俺には身を削ってでも努力する他に道は無いのです。
ましてや俺達は少女の夢を預かる身。
生半可な覚悟では踏み入ることさえ許されない世界。
それがこの職場が『中央』の名を冠する所以という訳です。
となると、自ら嬉々として仕事量を増やしてしまうのも仕方のない事。
それも彼女の夢の為と思えば安いものですが。
トレーナーというのは、愛バの為なら何だって出来ちゃう生き物なのです。
そう、俺は「中央トレセン学園」こと日本ウマ娘トレーニングセンター学園にてトレーナーをさせて頂いている者です。
申し遅れました、俺は
21歳の トレーナー3年目です。
18歳にして中央トレセン学園の門を潜った事に対して周囲の方々から驚きの声が上がったのは、割と記憶に新しい話。
しかし本当の事を言うと筆記試験の点数はギリギリでしたし、面接等も含めた合計点数は合格水準に僅かとは言えど届いていなかった所を、面接官の斟酌により合格判定を下して頂いただけの事。
俺としてはやはり納得しきれない訳で、後日秋川理事長にまた来年出直させて頂きたい、と申し上げたのですが、試験結果を覆す事は出来ない、との事で認めて頂けませんでした。
そして、今に至る次第です。
何とも腑に落ちない形でバッヂを着ける事を許されたあの日の事は、忘れようにも忘れられません。
勿論、苦い思い出として。
今も何処かで自分を許していない訳ですが、それでもそんな俺を選んで下さり、現にウマ娘にとって最もと言って差し支えない程重要な3年間、トゥインクルシリーズを共に駆け抜けている大切な愛バが俺には居ます。
仮にもトレーナーを名乗らせて頂くのであれば、その想いに応えるのが俺の使命であると俺は勝手に思っているのです。
……昔話も程々にしておきましょう。
目の前に広がる惨状を何とかしなければ。
俺は朝にやや弱い節があるので、机の上で目を覚ました時に遅刻しない為に出勤準備を済ませてから夜仕事に取り掛かる事を心がけています。
そのため、朝練に遅刻する等といった事が起きる心配は無い訳ですが、ここは担当バとのミーティングや休憩等に使うトレーナー室。
更に、生徒会長を務める彼女は、書類整理等の事務作業が終わった後に何かと理由を付けてトレーナー室に入り浸る事が多いのです。
迷惑ではありませんよ。
断じて迷惑ではありませんが、この爆心地みたいな空間に女性を招き入れるのは如何なものかと。
出来れば朝練開始時刻までにはキレイにしておきたい所ですね。
床には夥しい数のエナジードリンクの空き缶、目元の隈を隠す為の女性用化粧品、今後ライバルとして立ちはだかるであろうウマ娘のデータ、文献、過去のトレーニングメニュー等がこれでもかと言わんばかりにに転がっている。
こんな所を彼女に見られでもしたら、不健康だ、自分を大事にして欲しい、と怒られてしまうでしょう。
ですが、俺もこればかりは引き下がれない。
するとどうなるか。
絶対に仕事をしたい俺 VS 絶対に仕事をさせたくない彼女 の不毛極まりない押し問答が此処で繰り広げられるという訳です。
そしてその戦いの終着点は、決まって小一時間程口を聞いて頂けなくなるまで。
これも朝練開始までに片付けてしまいたい理由の内の一つだったりして。
因みに自分で距離を取っておいて寂しくなったのか、稀にやる気が絶不調に陥るケースも有りという非常に嬉しくないボーナス付き。
気を拗らせた彼女は少々めんど……大変なのです。
それも普段の質実剛健たる様を引き合いに出せばご愛嬌の閾ですが。
……間違ってもここでめんどくさいなどと思ってはいけない。
それを勘づかれたが最後、返事が全て「ああそうだよ私はめんどくさい女だよ」に置き換わるのが関の山。
そういう所だって言ってるでしょ。
そんな事を考えていると、一つの小綺麗な写真立てが目に入った。
私物の殆ど存在しない無機質なトレーナー室に佇む唯一の私物。
私物と言っても彼女が飾っていった物ですが。
そこに写っているのは、自信と威厳に満ち溢れた笑みを浮かべた彼女と、自分でも軽く引いてしまう程の仏頂面を張り付けた俺。
彼女が無敗の三冠という前代未聞の偉業を成し遂げた際にレース後の控え室で彼女に半ば無理矢理撮られた写真です。
この日に彼女が見せてくれた、年相応の少女の笑顔。
それはまるで、彼女も一人のウマ娘なのだと。
彼女の魂を突き動かしているのは超常的な何かでもなければ世間や家の強制力でもない、ただただ純粋な一つの夢である事を語っているようで。
ほんと、写真に写らなかったのが惜しいくらいです。
あの顔が忘れられなくて、今もこうしてトレーナー職という特等席を独り占めしている言ったら気持ち悪いでしょうか。
ですが、その気持ちに偽りはありません。
今も昔も、そしてこれからも。
……その為にも今はこの部屋を片付けなければ。
矢張り疲れているのでしょうか。
先程から思考があちこちに飛んでしまいます。
四徹なんてする物じゃありませんね。
よし、そろそろ本気出しましょう。
俺だってやる時はやるんです。
今じゃない気もしますが、ええ。
天風 樹、これより修羅に入ります。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
本気を出せば、意外と5分足らずで彼女の合格水準は突破出来てしまうもので。
念には念を押して、部屋の隅に溜まった埃を掃く。
こんな物を吸い込ませる訳には行きませんから。
仕上げに無臭タイプの消臭スプレーを振り撒けば、あら綺麗。
人間の物を遥かに凌ぐ嗅覚を備えた彼女達と会う際には、これらは最低限のエチケット。
この学園において喫煙者の数が限りなくゼロに近いのもそういった背景があっての事なのでしょう。
何はともあれ、ここまで綺麗にすれば遠慮せず彼女を招き入れる事が出来ます。
ふと壁掛け時計に目をやれば、針が指すのは6の文字。
朝練の開始までは少々時間がありますが、何事も早きに越した事はない。
それにそろそろ太陽の光を浴びないと人間ないし生物としての何かを失くす気がします。
自覚がある内が花。
という訳で早速練習場に向かうとしましょうか。
軽量ノート型PCと数枚の資料、それからストップウオッチやら救急用品やらその他諸々。
長年連れ添った相棒とも呼べるそれらを片手に、学園3階の廊下へと繰り出す。
ずしりと肩に来るこの重みが、一日の始まりを告げる合図。
そこまで道具に愛着を持つようなタチでもありませんが、大層な建前で飾り付けた日常もたまにはいいじゃないですか。
徹夜で分析し尽くした過去のレース記録のフィードバックを浮かべながら歩を進める。
三年前にこの道を進むと決めた日から、何をするにも常にウマ娘の事で頭を一杯にしている自分にふと気付いた。
今も瞼を閉じればそこに蘇る程に鮮烈で、胸が燃える様な景色。
寝ても醒めても、意識のある間はあの輝きを忘れてなんていられない。
それは根っからのトレーナーである事を誇るべきか、来る所まで来てしまった事を嘆くべきか。
複雑な物ですが、少なくとも彼女の夢を叶えるまでは前者であると信じたい。
ここまで来て今更後戻りをする気など更々ありませんし。
……それに、生憎俺には戻る場所なんて持ち合わせていない。
往こうが退こうが立ち止まろうが、逃れようがない程に絶対的な『終わり』がその先にあるのだから。
それなら、精々残された僅かな時間を俺以外の者の為に。
何処までも続く『これから』を生きる、彼女の為に。
いつか誓った、俺達の夢の為に費やしたい。
その想いに、終わりなんて無い。
喩え俺という名の夢が終わっても、彼女に遺した願いは消えない。
喩え俺という名の物語が忘れられても、世界は変わらず回り続ける。
その残滓で彼女の幸せを守る事が叶うのなら、本望なんて物じゃない。
……とまあ、散々自分語りをさせて頂いた訳ですが。
こんなのは彼女には到底聞かせられませんね。
普段から『自分に自信を持ちたまえ』と口酸く釘を刺されている身にも関わらずうっかりこんな事を零した日には、それはもう。
談話という名の説教(フルコース)待ったなし。
それに、今のを彼女にお話しする気など最初からありませんでしたし。
彼女は何も知らずに、ただ幸せになって頂ければそれでいいのです。
これは、俺が生み出した悪夢。
他の誰でもない、俺が目を覚まさなければ終わらないのですから。
そんな事を考えていると、聞き慣れた声がこちらに向けられました。
「よぉ、早いな」
「先輩こそ」
その主は俺の応えに、にかりと口角を釣り上げる。
彼の名は
何を隠そう俺の先輩にあたる存在であり、トレセン最強と謳われる天才トレーナー。
往々にして『最強』の称号というのはその重みに反して軽々しく用いられる風潮にありますが、彼は違う。
何処までもウマ娘を愛し、何処までもレースに生き、担当との間に築き上げた揺るぎない信頼を武器に数え切れない程のスターウマ娘を生み出した、正真正銘の最強を語る方なのです。
現在は最前線での指導を退き、担当もエアグルーヴさん一人に絞ったとの事ですが、それこそ全盛期は15人程の担当を務められていたのだとか。
更にそれが設立したチームに人を呼び込んだ訳でもなく、単純に1対1の専属契約×15なのだから尚更恐ろしい。
何処ぞのチームのチーフトレーナーともなれば学園からの援助やサブトレーナーの助力等もいくらでもあっただろうに、『真正面からアイツらに向き合いたい』とそういった類の誘いを一蹴してしまわれたのはトレーナー陣の間でも語り継がれる逸話です。
断じてチーフトレーナーの熱量を当て擦るつもりはありませんが、その愚直を絵に書いた様な姿勢こそが彼を最強たらしめているのでしょう。
俺も一応トレーナーの端くれ、15人のトレーニング管理をする事の途方も無い苦労とその裏に隠れた血の滲む様な努力が分からない程青二才でもないつもりです。
(以後 天風 樹・・・天 宿原 慎吾・・・宿)
宿「お前もこれから朝練って所か。
朝から精が出るねぇ。
おじさん身体がキツいのなんの」
天「いやぁ……俺だってそうも行きませんよ。
三年前みたいな仕事量もこなせなくなってきましたし。
二十過ぎたら全員おじさんですって」
かく言う彼も30代前半。
そんな彼でも
そうして職員の平均年齢が30代を下回る程に若手の力が必要とされる理由は至って単純。
能動的な物であるとはいえ、その辺のブラック企業をも優に凌ぐ仕事量の影響で身体が持たないのです。
四十路に至って尚この職を続けられる方なんて、ほんのひと握りにも満たない、言うなれば鉄人のみ。
この勢いだと宿原さんも彼らの仲間入りとなるのも想像に難くありませんが、大抵は活力が底を尽いて「アイツ最近見ないな」「アイツならこの前退職したよ」「マジ?」といった形で同僚の辞職を知るのが恒例となっています。
幸か不幸か、皮肉にもトレーナー業は一般職種の間では類を見ない高給取り。
無論それだけの裏は然るのですが、半端な任期で席を退いたとしてもその後の生活が何不自由なく送れる程には貯蓄が済んでいるのも拍車をかける要因の一つとなっているのでしょう。
……平均勤務年数を著しく引き下げている、即ち次々と職員が去っていく主たる原因は他にも一つ程挙げられます。
挙げられる……のですが。
口にするのも少々憚られると言いますか、その。
この職場に蔓延る闇を全て集めて煮詰めた様な、それはそれは恐ろしい事件が定期的に発生するのですよ。
この話は、またいつか然るべき時があれば。
朝からするような話じゃありません。
天「……ああそうだ、今日の午後にでも並走をお願いしたいのですが。
張り合いの無い日々に少々消化不良みたいで。
ここ最近はめぼしいレースもありませんし、互いの刺激にもなるのでは、と思いまして」
宿「ああ、良いな。
だが刺激が過ぎてシビレても知らんぜ。
なにぶんうちの女帝様は手加減ってもんをご存知ないみたいで」
天「はは、負けず嫌いはお変わりないみたいですね。
獅子は兎を搏つにも全力、という訳ですか。
……無論、獅子は此方ですけどね」
宿「……へぇ、言ってくれるじゃねぇの。
ま、お前が口だけの男じゃねえ事は俺もよく知ってるけどよ。
おたくの担当を慰める準備くらいはしとくぜ」
不敵な笑みを張り付けた彼が、痺れる様な空気感を展開する。
在りし日の覇気は、矢張り健在のようだ。
高層ビルの屋上から下を見下ろした時のような、筆舌に尽くし難い胸のざわつき。
それから、圧倒的強者を前に喉元を這いずり回る恐怖とも似た緊張。
空気中に刻まれたそれらがいやに生温い隙間風に乗って肌を撫ぜる。
自分がターフに降りて走る訳でもあるまいに、この空気の震えるような威圧感がまさに人バ一体の証なのです。
しかし、何もそれは彼のみにおける事ではない。
こんな俺でも、腐っても中央のトレーナーなのです。
譲れない物の一つや二つくらい、誰にだってある。
勿論、この闘いだって譲る気なんて更々ない。
彼女に託したこの想いに偽りはないのだから、こうして押し潰されそうな空気の中でも彼女の……俺達の勝利を信じ続ける事ができる。
それこそがターフには降りずともターフの外で彼女と共に戦う、トレーナーとしての使命であり、矜恃であり、ここに立つ理由なのだから。
宿「……3年の内にいい顔になったな。
闘いに全てを賭ける、漢のカオだ。
世代ってのはこうやって変わってくもんなのかねぇ」
張り詰めた空気が一転、ふわりと解ける。
確かに俺達トレーナー同士が火花を散らしたって仕方ないと言ってしまえばそれまでですが、愛バの勝負ともなればついスイッチが入ってヒートアップしてしまうのはトレーナーの性。
こればかりは致し方ない。
天「……まだまだですよ、俺も。
全てを賭ける覚悟があったとしても、元より賭けるための持ち合わせが無いものですから。
この世界は、気持ちだけで勝てる程お人好しじゃない。
彼女の宰相たる存在として、お恥ずかしい限りです」
宿「よく言うぜ、持て余すレベルの才能を持って生まれておいて。
まったく末恐ろしい野郎だよ、お前は」
天「才能……ですか」
宿「ああ、そうだ。
お前の強みは、類稀なる天性の素質とそれを何十倍にも昇華させる努力。
そして何より、艱難辛苦をもシンボリルドルフの夢の礎に変えちまう唯一無二の覚悟さ。
最後のについては、誰もお前にゃ勝てんぜ。
俺は、そいつらを全部引っ括めての『才能』だと思う訳よ」
才能。
貴方はそう仰りますが。
そんな大層な物が俺に備わっているのだとしたら、その『才能』とやらは随分と安売りされているのでしょう。
それに、才能が無ければ大切な物を守ることすら出来ない。
そうして己の無力を呪った過去があったからこそ、今俺はここに居るのです。
迚もかくてもこの世の本質は、力。
何もかもを一寸先の目交いで失ったあの日を才能などという便利な響きで言い訳ができるのなら、俺は何を支えにして生きればいいのか分からなくなりそうだ。
宿「ま、その……但し無理は控えろよな。
足がふらついてる。
瞳の焦点のズレ、化粧で隠しきれねぇ隈、明らかに不健康そうな顔色、欠けた爪。
何なら手ェ震えてんぞ。
お前最近いつ休んだよ」
天「いつ、でしょうか。
4ヶ月から先は数えていませんが……休んでる暇があるなら彼女が勝てる方法を探したいです。
俺の使い捨ての身体一つで彼女の夢が叶うのなら、それ以上に幸せな事なんてありませんから」
表面上は見目好い言に思えるかもしれない。
しかし紐を解けば、それは彼女の為に何かをしていないと自分の存在意義を見失ってしまうが為に意思を持たない人形の様に働き続ける、滑稽な程に虚ろな抜け殻。
この生活ぶりが凡そ人間として有るまじき様である事は重々分かってはいますが、それでも。
トレーナーでない俺は、一体何者なのか。
いや、所詮俺は何処まで行っても何者にもなれない。
そう、俺には何も無いのだから。
この俺からトレーナーという大義名分を抜き取れば、きっとそこには何も残らない。
だから、せめて彼女の前では『トレーナー』でありたいのです。
はぁ、と頭を抱えて溜息をつく先輩。
この反応も当然と言えば当然ですが。
宿「………昔からそれがお前のやり方だからな、ムリヤリに止めるつもりは無ぇけどよ。
そろそろ休んだ方が良いぞ、マジで。
どーせまた四徹でもしてんだろ」
天「………!」
宿「やっぱ図星かよ」
呆れたような、諦めたような。
えも言われぬ表情を貼り付けて彼は咳払いをする。
普通徹夜の日数なんて外見上の情報のみで判るものでしょうか。
相手がウマ娘ならばそれも頷ける。
実際俺もウマ娘が相手ならば挙動や雰囲気、それから呼吸や心拍の乱れからも、案外徹夜日数くらいは判ってしまうものです。
でも俺、人間。
何なら男性。
宿「……なんで分かんねん、って顔だな。
教えてやろうか、お前んとこのお節介焼きからリークがあんだよ。
それも定期的にな」
天「わお」
成程、彼女の差し金でしたか。
何と言いますかこう、彼女もなかなかに手段を選びませんね。
自らのトレーナーの先輩まで動員して労働中毒に釘を刺すとは。
それすらも掻い潜って今しがた四徹を完遂している時点で人の事を言えた物でもありませんが。
宿「前から言ってンだろ。
トレーナーとウマ娘ってのは比翼連理、一蓮托生なんだ。
片方が倒れちまったらもう片方も倒れちまう。
……もしかすると古い考え方かも知れねぇけど、時代の流れじゃ変えられない根底ってあるだろ。
お前だけの身体じゃねーんだ、幾ら愛バの為と言えどもっと自分の身体大切にした方が良いぜ。
お前のあいつに対する情熱は知ってるけどよ、トレーナー犠牲にして掴んだ勝利はあいつも嬉しくないと俺は思う」
宿「……お前があいつを大切に思うのと同じように、あいつもまたお前の事が大切なんだよ。
そうじゃなきゃあんなに口酸っぱく言わねえだろ。
そういうのはちゃんと気付いてやれよな」
天「……肝に銘じておきます」
メモに書き留めたい程の有難いお言葉。
自分のトレーナーとしての在り方を今一度見直さなければなりませんね。
まあその、徹夜を止めるかどうかは別として。
善処はさせて頂きましょう。
彼女にあらぬ心配をかけるのは俺としても不本意です。
となると、どうしましょうか。
いっその事睡眠と研究を並行して……出来る訳が無い。
効率の面を鑑みても、矢張り睡眠と研究のいずれかに振り切るべきです。
ただでさえ容量の悪い人間なのだから、その辺りは工夫しなければ。
……じゃあやっぱり研究に全振りするしかありませんね。
仕事を切り捨てるといった選択肢はハナから存在しないのです。
こればかりは仕方ない、そういう生き物ですもの。
これにて自己解決。
一切解決出来ていない、寧ろ悪化している気もしますが、そこは突っ込まないお約束です。
……こうして 釘を刺される → 一度は響く → 結局仕事漬けの道を選ぶ を繰り返す無限ループ。
最早日常と化した通例ですが、不思議と嫌な気はしない。
だって俺は、変わり映えの無い日常がどれだけ幸せで、かけがえのない物であるかを知っているから。
でも、そういう大切な物に限って。
風が吹けば崩れてしまう砂塔のように脆いんだ。
今この瞬間みたいに。
………! …ダ……。 …イ…。 ……ニ…!!
天「…………ッ!!」
宿「……どうした?」
ああ、また
お前も全く飽きないな。
俺みたいな独活の大木を壊して、何が楽しい。
何が得られる訳でもないのに。
天「………い、いえ……。
ではこれで……!!」
宿「あっ お、おい!」
……いや。
空っぽなのは、お前もか。
そう、あの頃と一緒だ。
何度目かも分からない押し寄せる悪夢の訪れに、俺はただ逃げるようにその場を走り去る。
別れの挨拶も疎らに、後ろは振り向かずに。
そうするしかなかった。
それしか出来なかった。
宿「……俺、何か変な事言ったか……?」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
死んだように閑散とした廊下で、一人悶え苦しむ。
今朝は綺麗な朝ぼらけだというのに、ここは暗がりに抱きしめられているかのよう。
まるで、俺を映したみたいだ。
人影と暗闇が、交合う。
そしてそれは見た事も無いような物へと変わっていく。
誰かに見られるような事は無い。
寄り添われるような事もしない。
…ロ……。 ヤ…………クイ。 …ゥ……!!!
天「ぅ……あっ…、……ぐ…………ッ」
だって俺は、独りだから。
そう、今も昔も。
天「ハァッ…ハァッ…ハァッ…」
ああ。
俺はあと何ヶ月、天風 樹でいられるのだろう。