慟哭   作:ネオン(ハーメルン垢)

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皇帝だって、甘えたい。

天「……~~~っあ……

痛たた……」

 

 

 

天に向けた掌を限りなく高く伸ばす。

高く高く、限界と思われた時点からもう少しだけ高く。

そうすると凝り固まった首周りの筋肉や関節から、およそ人体が発する筈のない、してはいけない音が鳴り響く。

身体に少なからずして損傷を与える行為だと分かっていても、一時的に疲労が解れた気になるので止められないのです。

 

青々とした芝の匂いを乗せた緑風が、廃れた身体を慰めるかのように頬を撫ぜる。

その爽快感を打ち消すかのように、じりじりと肌を焼く初夏の旭日。

何とも煮え切らない不協和音が、精神を逆撫でする。

 

この学園名物の夏合宿前の激務にも慣れてきた頃ですが、やはり3週連続の4徹というのは何処か身体にクる物があって。

そろそろ休息を取らないと、明日には意識を保っている自信がありません。

新人の頃はもう少し無理を働く事が出来た筈ですが。

齢21にして自分の身体の消費期限をひしひしと思い知らされる今日この頃。

自分の身体にそれ程愛着がある訳でもありませんが、やはり何処か哀しいものです。

 

遥か上空で光の束を零したような日差しが照りつける学園の練習場。

連日の雨の影響でしょうか……湿気を含んでしっとりとした天然芝が、烈日を受けて金剛石のように煌めく。

人工芝と違って上質な天然芝は太陽の光を浴びると透き通る様な輝きを放つので、中央の練習設備のクオリティの高さが目に見えて分かるものです。

それらが全て秋川理事長のポケットマネーで揃えられている事には目を瞑るとして。

 

時間にして午前6時半。

今俺はシンボリルドルフさんと朝練をする為にトレセン学園の管轄下にある練習場に来ています。

彼女もよくこんな朝早くから精を出せるものですね。

学園改修工事の案件で生徒会の業務も立て込んでいる事でしょうし、彼女だって早起きは得意ではない筈なのに。

 

朝練で取り組んで頂く内容は早朝にある程度組んでは来ましたが、天候やバ場のコンディションや周囲の状況は当日まで変わり続ける物。

梅雨入りを間近に控えたここ1ヶ月は尚更の事。

その為、俺はトレーニングメニューに最終調整を加えている所です。

皇帝のトレーナーたる者、最後まで抜かりがあってはいけませんから。

 

当のシンボリルドルフさんはストレッチ中。

直近に控えるレースも無い為、ここ1週間の練習は実力を向上させるのでは無く、来たる日に備えて脚の調子を保つ事を主たる目的としています。

周囲の方々からは偶にそんなにゆっくりしていて良いのか、と言われる事もありますが、安全が第一ですし、ある程度力を抑えて走る中でも大量の情報が頭に入ってくる物です。

過酷なトレーニングが全てではありません。

要するに、全力を出さずとも学べる事は沢山あるのです。

 

更に、シンボリルドルフさんの強みは圧倒的な実力に加えて、それを裏付けする策略的思考能力。

戦術の呑み込みも早いですし、何より一度のトレーニングで吸収する情報量が一般のウマ娘と比べて格段に多いのです。

その為、実力を高めるトレーニングよりも此方のトレーニングの方が意外と彼女には合っていたりします。

 

彼女は今まで「皇帝」という理想の元に生きていました。

その肩書きは、たったひとりの少女が背負うにはあまりにも重く、残酷で。

それ故に3年前まで自分の特性を知らずにただただ過酷なトレーニングを自分に課していたシンボリルドルフさん。

ですが少なくとも俺なら彼女の本質を見出す事が出来ると自負しております。

 

皇帝という先入観は捨てる。

本当のシンボリルドルフさんだけを見る。

皇帝ではなく、シンボリルドルフさんの為のトレーニングを。

これが、彼女のトレーナーになった時から揺るいだ事の無い覚悟です。

 

時々俺のやり方が果たして正しいのか、彼女と同じ視座で同じ夢を掲げる事が出来ているのかどうか、迷いが生じる日が無かったとは言いません。

……いえ、本当の事を言うと常に不安です。

それでも、彼女はそんな俺を信じてくれています。

道に迷った時も、前が見えなくなった時も、いつだって彼女は暗闇の中で俺の手を引いてくれました。

その唯一無二の輝きで、歩むべき道を指し示してくれました。

ならば、喩えこの身に代えようとも彼女の気持ちに応えてみせる。

これも覚悟の内の一つでしょうか。

 

 

 

天「……何を犠牲にしても 叶えたい強さの覚悟〜」

 

 

 

″覚悟″の二文字から導き出された一節。

シンボリルドルフさんの十八番、“winning the soul”の歌詞の一部です。

トレーナーにとって愛バが歌う曲ほどの名曲はありませんからねぇ。

 

 

 

天「No fear いち──」

 

 

ル「………ふーっ」

 

 

天「うわぁッ」

 

 

 

突如耳に走る生暖かい吐息の感触。

一人語りから現実世界への大層なお出迎えです。

全然No fearじゃありませんでした。

 

 

 

ル「っはは、いつも仏頂面の君がやけにご機嫌だったから珍しくてつい、ね。

今日は槍でも降るのかな?」

 

 

天「あ゙ーっ………まだ身体がゾワゾワする……」

 

 

 

悪戯っぽく口角を持ち上げるシンボリルドルフさん。

うちの皇帝さんはいつからこんなに悪戯好きになったのでしょうか。

つい、で背筋を凍らされた俺の身にもなって頂きたい。

 

 

 

ル「鼻唄を歌う君を見ることが出来るとは……早起きは三文の徳とはよく言ったものだ。

珍しく上機嫌な様子と見るが何か喜ばしい事でもあったのかい」

 

 

天「ぁ、えっ。

その……ええと」

 

 

そう指摘されて初めて自分の様子に違和感を覚える。

……言われてみると自分でも何故ここまで気分が浮ついているのか分かりませんね。

4徹明けなのでいつもの事ながら体はだるい筈ですが。

普段の俺は鼻唄なんて歌いません。

少なくとも一人で居る時は、鼻唄を歌う暇があるならPCを開いて書類の山と格闘している筈ですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………まさか、シンボリルドルフさんが近くに居るから……?

 

 

 

……いえ、この想いはもう封じ込めたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺じゃ彼女に釣り合わない。

 

 

 

そんなの分かってるんです。

 

 

分かってるんですが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつからでしょうか。

俺はシンボリルドルフさんの隣にいると、少しずつシンボリルドルフさんと一緒に居たいという気持ちが強くなっていきました。

 

 

シンボリルドルフさんの傍にいる。

たったそれだけで、俺という醜く穢れた存在が綺麗になっていくような、冷たく凍てついた心が温かく溶かされていくような。

……普通の(・・・)男になれたような。

そんな気がしました。

 

 

彼女が子供の様に純粋にはにかんだ時。

つまらない駄洒落を思いついた事をいちいち俺に報告した時。

俺を遠くからトレーナー君、と呼んだ時。

 

 

それらは単なるありふれた日常の一コマに過ぎません。

それなのに、彼女が居るだけで、その全てが俺にとってかけがえの無い幸せに感じるのです。

 

 

この幸せがずっと続けば良いのに。

そんな事を考えた事もありました。

 

 

胸の奥で熱を持ったまま一向に冷めないこの感情に、何と名前を付けたら良いかは自分でもよく分かりません。

 

 

信頼。

 

親愛。

 

そのどれとも似てはいるが、確かに違うこの想い。

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ一つ、確かに分かるのは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抱いてはいけない感情だったという事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

考えても見て下さい。

 

 

俺が彼女に見合う男になれるでしょうか。

 

俺と一緒に居て彼女は幸せになれるでしょうか。

 

俺に彼女を幸せにできるでしょうか。

 

………俺は彼女の隣に居て良いような人間でしょうか。

 

 

答えは全て否でしょう。

 

 

世間の目については問題無いかもしれません。

 

 

けれども、シンボリルドルフさんの掲げた夢……人とウマ娘が幸せに暮らせる世界。

 

 

そこに俺は必要無い。

 

いや、存在してはいけない。

 

 

 

 

 

 

……大切な人を守る事すら出来ない俺が、どうして彼女の側に居られましょうか。

 

 

人の幸せを何度も奪ってきた俺が。

 

あの時動けなかった俺が。

 

あの時気付けなかった俺が。

 

今でも、人を信じられない俺が。

 

 

彼女の夢見る世界に存在して、ましてや彼女の側に居て良い人間だと思いますか?

 

 

それに、また失うかもしれませんから。

 

彼女との関係を深めれば深める程、俺はきっと過去を繰り返します。

やっとの思いで掴んだ幸せを。

守りたいと思えた大切な人を。

俺は幾度となく目の前で失くしました。

 

彼女を失うくらいなら、この気持ちを、この想いを無かった事にしてしまう方が何倍も楽です。

 

 

俺なんかが居なくても彼女は幸せになれます。

いつか、彼女を幸せにしてくれる人が現れてくれる筈。

 

俺なんかよりももっと容姿端麗で。

俺なんかよりももっと優しくて。

俺なんかよりももっと綺麗で。

俺なんかよりももっと彼女を幸せにしてあげられるような人が。

 

 

烏滸がましいかもしれませんが、俺はそれを見届けたいのです。

俺の最初で最後の夢、″シンボリルドルフさんの幸せ″が叶う瞬間を、この目で。

全てを見届けた後は、彼女の邪魔にならないように、

 

 

静かに終わらせようと思います。

 

 

そうすれば人とウマ娘が幸せに、シンボリルドルフさんも幸せに暮らせる世界が…

彼女の夢と俺の夢が叶うのです。

 

 

 

 

 

 

 

そしてその夢の世界に、俺は居ない。

 

 

 

……なんて、素敵な世界なのでしょう。

 

 

 

俺が居なくなって、初めて完成する夢の世界。

いずれ来たる″終わり″の日に、楽に終えられるように。

未練を残さないように。

 

 

その為に、この想いはもう捨てた筈なのに。

 

 

それでも忘れられないというのは己の弱さ故でしょうか、はたまた……。

 

 

 

 

 

 

 

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天「これだから俺は駄目なんです………自分の感情すら制御出来ない……ええ知っていましたともどうせ俺はその程度の存在………ぶつぶつ

 

 

 

……トレーナー君が俯いて何か言っている。

やたらご機嫌な様子であの曲を口ずさみながらトレーニングの準備をしているものだから何があったのかと問うたらこれだ。

一分前の様子からの落差が大き過ぎてやや心配になる。

普段無表情な彼は自己嫌悪に陥ると呪詛の様に何かを呟きながら、いつもに増して無表情になる癖がある。

私としてはこの顔がとても好きだが、見る人が見たら不気味で仕方がないと思う。

一切の表情を削ぎ落としたトレーナー君と暗闇で対面した時の心臓が潰れる様な感覚と言ったら、それはもう。

 

 

 

ル「……トレーナー君?」

 

 

天「……ん、あぁ、ごめんなさい。

ちょっと考え事してました」

 

 

ル「……して、随分ご機嫌な様だが何かあったのかい?」

 

 

天「あー……えっと……いえ、今日は良い天気ですから、少し浮かれてましたね。

ごめんなさい、気を付けます」

 

 

ル「いや、別に構わないが……」

 

 

 

……彼は嘘をついている。

彼は何か隠し事をする時、普段は猫のように丸まっている背筋がやけに伸びるから分かりやすい。

そして彼は焦ると右肩が2センチ程上がる癖がある。

今まさに右肩が上がった。

苦し紛れの言い訳かな?

まあ全てお見通しだが。

 

とはいえ、別にそこを追及しよう等という気は更々無い。

今の私は気分が良いからな。

何故かって……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トレーナー君を落としにいくからだ。

 

事前にある程度のプランは練った。

 

首を洗って待っているがいい、トレーナー君。

必ずジュリはルナの物にしてみせるからねっ。

 

 

 

天「あ、そういえばストレッチ終わりました?」

 

 

ル「ああ、準備万端だ」

 

 

 

とはいえ、トレーニング中はトレーニングに集中したい。

トレセン学園の生徒としてレースに生きる以上、惚れた腫れたに現を抜かして本分を疎かにするなど言語道断。

そう、決戦はトレーニング終了後だ。

 

 

 

天「……ところで、何だか涼しくなってませんか。

心做しか湿度もやや下がったような。

俺がトレーナー室に居た時はもう少し暑かったと思うのですが」

 

 

ル「ふむ、言われてみるとそんな気もするな」

 

 

 

因みに私の湿度は上がりっぱなしである。

 

 

 

天「……ちょっと待ってて下さいね。

読み直しますから」

 

 

 

そう言って彼はその場にしゃがみこみ、ターフにそっと手を置いた。

 

 

 

 

 

芝を読む。

 

 

 

それは彼自身が独自に編み出した計算技術であり、彼が天才と呼ばれる所以の一つ。

 

芝に触れる事で芝の性質、水分量、生育状況、消耗具合等を読み取って数式に変換し、その数式を元にトレーニングメニューに微調整を加えたり走法や意識すべきラップタイム等を割り出す。

 

その精度は良バ場か重バ場か なんて物じゃない。

0.01%単位の世界で彼は生きているのだ。

しかもそれがダートでも可能だと言うのだから驚きである。

芝もダートも僅かな天候の変化で感覚が変わったりする事もあるので、コンマの差が勝敗を分け得る世界に生きる私にとって、彼の技術がどれ程心強い事か。

 

 

 

天「ブツブツブツブツ……

 

 

 

彼が呟いているのはその時に彼の頭の中で紡ぎ出された幾千の数式。

理解すら追い付かない様な文字と数字の羅列が彼の口から零れ落ちていく。

 

 

 

天「……少々変えますか

 

 

 

そう言って彼は徐に立ち上がり、灰色のカバンから取り出したノートパソコンを膝の上で開いた。

 

次の瞬間、

 

 

 

 

 

 

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豪雨が地を打ち付けるようなタイピング音が鳴り響いた。

 

カタカタなどという音を通り越してザー、と纏まった一つの音にしか聞こえないタイピング音の中、彼の見ている液晶画面上には私の理解が追い付く範囲をとうに超えた世界が広がっているのだろう。

 

以前一度だけ、その時の画面を覗いた事があるが、忽ち尋常でない目眩と鳥肌が私を襲い、立っていることさえ出来なくなった。

視覚を通じて何百、何千万の意味不明な数式が呪詛のように思考回路を破壊していく感覚。

全身が、脳が拒否する経験というのは後にも先にも当時が初めてであった。

それ以来、彼のノートパソコンの中身は見ない事を心に決めた。

というか見たくない。

あんな物を見ていたらいつか数式を吐いて倒れてしまいそうだ。

 

兎にも角にも、ただ確実に言えるのはトレーナー君が天才である、という事だ。

天才等といった在り来りな言葉で片付けてしまうのも偲びないが、彼のトレーナーとしての有り余る力量を表現するに相応しい単語が他に見当たらなかった。

 

……自己肯定感が著しく低いのが玉に傷だが。

トレーナー君はその飛び抜けた技術とその裏に隠された血を吐くような努力を、頑なに認めようとしない。

そればかりか、寧ろ自分の人格を否定しようとさえする。

自分に自信を持つ事も能力の内だと言ってくれたのは他でもないトレーナー君だろうに。

彼が自分を卑下すると此方まで悲しくなる。

私はこれが私のトレーナー君だぞ、と周りに見せびらかして自慢したいくらいなのに。

 

あ、でもそれによってトレーナー君の魅力が外野に知れ渡ってしまうのは頂けないな。

やっぱり今のなし。

トレーナー君を知っているのは私だけでいい。

そう、トレーナー君の全てを私の物として傍に置いておきたいのだ。

本音を言えばPCとにらめっこしているこの横顔だって、誰にも見せたくない。

全部、全部私だけが知っていて、私だけが触れられるようにしたい。

トレーナー君の全てが、欲しい。

……その為にも、これからじっくりかつ早急に「私」を彼に刻み込んでやろう。

私の元から離れるなんて気を起こさないように、な。

 

 

 

天「……これでよし、と」

 

 

 

Enterキーを叩く音。

どうやらトレーニングメニューの編集が完了したみたいだ。

 

 

 

天「それではシンボリルドルフさん、始めましょうか」

 

 

ル「あぁ、今日も宜しく頼むよ。

君の手腕に期待している」

 

 

天「こちらこそ。

……ではこれを」

 

 

 

彼から手渡されたのは手のひら大の小さな黒いケース。

簡素なロックを外し、中に佇むウマ娘用の小振りなワイヤレスイヤホンを取り出す。

慣れた手つきで装着し、聴覚に意識を集中させると彼が左手首に巻いた腕時計に向かって喋りかけた。

 

 

 

天『……えーもしもし、聞こえますか』

 

 

ル「あぁ、聞こえているよ」

 

 

 

このイヤホンは、腕時計を通して彼の声を私に届ける。

走っている最中でも意識すべき点、ペース配分、フォームの改善点や戦術等をその場で伝える為だ。

他のトレーナーはこういった事を伝えるのにメガホンを用いるが、トレーナー君はどうも大声が出ないらしい。

私が無敗の三冠を達成した時も控え室で声を枯らしながら「お゙め゙で゙どゔご゙ざ゙い゙ま゙ず………」なんて言っていたな。

私としては集中出来るし、何より走っている最中にも彼の声が聞く事が出来るので願ったり叶ったりだが。

彼の声を聞くと不思議と心が安らぐ。

f/1ゆらぎ、とでも言ったかな。

それが彼の声にはありそうだ。

 

更にこのイヤホンはウマ娘の全力疾走に耐える為、耐衝撃構造が施されている。

耐久性にも配慮されたスグレモノだ。

ウマ娘の全力疾走というのは、見た目以上に物理的な負担を伴う行為である。

大気から受けるG値や空気抵抗によって、大抵の精密機器は使い物にならなくなってしまうのだ。

その為こういった一工夫が私達のその日のパフォーマンスを左右するとも言える。

 

因みにこの特製イヤホン及び彼の腕時計は全て彼の自作。

3年前にそれぞれが僅か1時間で作り出された時は驚いた。

トレーナー君、本当に何者なんだ。

プログラミングもできて電子工学もできるトレーナーなんて聞いた事が無いぞ。

 

 

天『……よし。

では今日のトレーニングは──』

 

 

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

 

 

天『シンボリルドルフさん、右三バ身、前二バ身半辺りの位置にマルゼンスキーさんが居ると想定して下さい。

その後の判断は貴女にお任せします』

 

 

この位置から差すのは余り得策とは言えないだろう。

スタミナの浪費が馬鹿にならない。

ならばここは控えるとするか。

 

 

天『体幹はそのままに膝を1cm上げると脚力の浪費防止に繋がりますよ。

あまり馴染みのない走法かとは思いますが、ここが頑張り所です』

 

 

本当だ。

推進力が上がった気がする。

僅かな差ではあるものの、この走法を極めれば大幅な加速力の向上が見込めると見た。

 

 

天『ラップタイム:マイナス0.38。

最後の最後で躱し切る力が残らない可能性もゼロとは言い切れませんね』

 

 

む。僅かに掛かったか。

いけない、ブライアンを背に走るとどうにも焦燥を抑える事が難しい。

相手別のマインドコントロールも課題だな。

 

 

天『そのコースなら安定して後方を焦らせると思います。

前11バ身半くらいにライスシャワーさんが居るとすると、其方に圧を掛けることも可能かと。

但し、妨害に躍起になって貴女が掛かってしまっては本末転倒ですよ。

相手の視点と併せて、客観的な視点を持つ事をお忘れなく』

 

 

そうだな、まだ体力に余裕もある。

心配事は潰しておくに越した事はない。

ペースを早めて横に付くとするか。

ライバルを蹴落とす技術も、レースにおいては重要な要素の一つなのだから。

 

 

天『前も後ろもへろへろになってくる頃ですね。

念には念を入れて荒らし尽くしてから差す準備を整えて下さいね。

最終直線までにどれだけ障害を除けるかが、今回のシミュレーションの鍵と言えるでしょう』

 

 

よし、まだ出来る事は沢山ある。

一度の練習で出来るだけ多くの事をしてみよう。

去年の菊花賞に似たバ群状態……この位置ならば、私を阻む物はもう何も無い。

 

 

天『掻き回すだけ掻き回しましたね。

それでは後ろから上がってくるであろうゴールドシップさんに気を付けてそのまま差し切っちゃいましょう。

彼女が逆襲の可能性を秘めた、唯一の危険要素なので躱されてしまわないように。

コース選択は最後まで気を抜けませんよ』

 

 

ゴールドシップ。

前には行かせないよ。

ラストスパートの中でも背後に気を配るというのはなかなかできた芸当ではないが、4月からの特訓の成果をここで発揮しよう。

 

 

ル「はぁぁああっ───!! 」

 

 

 

 

 

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

 

 

 

 

 

天「お疲れ様です。

今日も良いイメージが出来ていたと思います」

 

 

ル「ふふ、ありがとう。

とても良い勉強になったよ」

 

 

 

トレーナー君の組むトレーニングは練習と言うよりかはシミュレーションに近い。

体を作るメニューは別の日に作られており、ターフを走る時は専らシミュレーションを行う。

現在ターフの上には名前も知らないウマ娘が私含め5人程しか居ないが、トレーニング開始前に架空の出走表を彼から渡される。

それを元に、彼の指示を通して敵の動きを想定する。

 

ここがこのトレーニングもといシミュレーションの真髄である。

相手ならばこう動くだろう、ああ動けば相手はどうなるだろう、と相手の立場に身を置きつつ走る事でレース本番でも相手の気持ちが手に取る様に分かる。

 

 

 

天「それは何よりです。

身体の何処かに違和感はありませんか?」

 

 

 

彼は私がトレーニングを終えると、毎回そう問う。

彼程の者ともなれば、私さえ知り得ない身体の異常まで一目で見抜いてしまえるだろうに。

それでも私の身を案じてくれるトレーナー君の優しさが、胸を貫く。

 

トレーナー君が私だけを見てくれている。

私の身体だけを案じてくれている。

その事実が、私の情緒を喰い散らかす。

 

 

 

ル「見ての通り異常は無いよ。

……それにしても、君は毎回そう聞いてくれるね。

私を心配してくれているのは嬉しく思うが、律儀に毎回聞いてくれなくとも良いのだぞ?」

 

 

天「いいじゃないですか。

俺が聞きたいから聞いてるんですよ。

 

……貴女の事が、大切ですから」

 

 

ル「かひゅっ」

 

 

 

ほらまたこうやって無意識の内に口説いてくる。

こんな発言をしておいて好きになるなと言う方が無理である。

加えて当の本人に自覚がないのだからこれがまた悪質だ。

トレーナー君、気づけ。

その顔でその台詞は、発狂モノだぞ。

 

 

 

ル「好き。

 

……じゃなくて、ありがとう。

その想いに応えられるよう、私も精進しなければな」

 

 

 

口を衝いた本音を押し殺すように感謝を上から被せた。

 

 

 

天「……本来ならばこのままトレーナー室でミーティングを行いたい所ですが、今日は少し想定外のメニューを組む事になってしまいました。

なので貴女の疲労を軽減する為にもミーティングを中止しようと思うのですが、如何でしょうか」

 

 

ル「ふむ、そうだね。

私も思ったより疲労が溜まっているみたいだ。

まあ天候には何人たりとも抗えないからな、致し方ない事だ。

そう気に病む事はないさ」

 

 

 

スケジュールにイレギュラーは付き物。

それに対応出来る柔軟性こそが真の計画性だったりするものだ。

 

……尤も、私にとっては好都合でしかないのだがな。

 

 

 

 

 

 

 

 

プランD。

 

 

全部でAからLまで用意したプランの中、プランDの実行に至る為の条件が今全て揃った。

 

プランと言っても何のプランか。

 

 

 

 

 

 

 

無論、トレーナー君をオトすプランだ。

 

私のモットーは用意周到だからな、このくらいは準備しているさ。

更に相手は長年私が向け続けてきた矢印に未だに気付きさえしない唐変木と来た。

ちょっとやそっとの揺さぶりではのらりくらりと躱されて空回りするのが関の山。

本気で仕留めにかかるのならば、準備に余念は許されないのだ。

 

下準備、よし。

状況、よし。

心構え、よし。

 

プランDを実行する為の全てが揃った今、私に怖い物は無い。

急いでは事を仕損じる、先ずは結果を急がずに私を女として意識させる事から始めよう。

第1歩にして最大の関門。

しかし一度意識させてしまえばそこからは早いだろう。

 

 

 

 

 

覚悟したまえ、トレーナー君。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ル「……」

 

 

天「……どうされましたか?」

 

 

 

トレーナー君の元へと1歩を踏み出す。

踏み締めた芝の弾力が、私の脚を前へと運ぶ。

1歩、また1歩と歩みを進める。

 

 

 

ル「……少し、動かないでくれるかな」

 

 

天「えっ……あの……怖いですよ……?

……あれ、下がれない!?」

 

 

 

後退りしようとしたトレーナー君の腿に絡めた尾が、足枷の様に彼をその場に縛り付ける。

尾の付け根辺りに力を込めると、まるでもう一つの手の様にトレーナー君の体躯が引き寄せられた。

離れかけた距離が、かえって縮まり続ける。

近づいて、縮まって、くっついて。

一歩分程あった筈の二人の距離は、あっという間に髪の毛1本の侵入をも許さないまでになっていた。

 

 

 

ル「何、直ぐに済むさ……抵抗してくれるなよ……?」

 

 

天「ちょっ……しっぽ、離して下さい……!?

あの、シンボリル───」

 

 

 

がばっ

 

 

言い終わるが先にトレーナー君の背中に腕を回し、二人を僅かに隔てていた距離をトレーナー君の苦し紛れの待ったごと押し潰した。

 

 

 

天「…………え」

 

 

 

ぎゅぅぅぅぅ

 

 

 

天「………?????」

 

 

 

ゆっくり近づいて真正面から抱きつく。

たったそれだけの淡白な行為も、時と場合によっては絶大な破壊力を発揮する凶器となるのだ。

誰も見ていないとは言え、開けた屋外というこの環境におけば尚更の事。

 

 

 

天「……ぁ …え ……ぅあ……?」

 

 

 

愛バによる突然のスキンシップ(セクハラ)に、戯言を漏らしながら固まるトレーナー君。

混乱した顔も意外性があって私は好きだがな。

但し、その混乱が解けた時。

自身の状況を認識したトレーナー君がどのような反応を示すかが重要事項である。

 

 

 

天「……ぇ ぇと その……あの。

シンボリルドルフさん……?」

 

 

 

ぎゅぅぅぅぅ

 

 

 

天「ど、どうしたのですか……」

 

 

ル「……私だっていつも頑張ってるんだ。

今日くらいは少しご褒美があってもバチは当たらないだろう?」

 

 

天「ああ、そうでしたか……じゃなくて。

それが何故このような行動に……」

 

 

 

トレーナー君の声が間近に聞こえる。

私より13cm高い身長。

彼に真っ直ぐ抱きついているこの体制だと彼の声が、吐息が、私のウマ耳にほぼゼロ距離で届く。

斜め上で放たれる私特攻の兵器とも言えるその声色と息遣いは、どうしようもなく……なんかもう、凄くて。

耳腔から侵入したその声は、脳を焦がして、溶かして、掻き回して。

いつもはイヤホン越しで満足しているのに、こうも耳元で官能的に囁かれると、頭の中がそれだけで一杯になってしまいそうだ。

 

 

 

……って、違う。

目的を見失って私だけ満足してどうする。

糸のようなか細い理性で、正気を繋ぎ止めた。

耐えろ、耐えるんだ。

 

本番はこれからだっ………!

 

 

 

ル「……周りには誰も居ない。

もっと抱き締めては貰えないかな」

 

 

天「?????」

 

 

 

そろそろトレーナー君の頭がパンクしそうだ。

因みに私はトレーナー君からこのような事を言われた日には、羞恥心と興奮と混乱により0.5秒で自らの舌を噛み千切る自信がある。

 

……だが、まだ止めない。

ここで引き下がれば練った策の全てが水の泡である。

人にされたら困る事は自分もしてはいけない?

違うな。

人にされたら困るから自分もするのだ。

(レース)においては、倫理も常識も風と散る。

そう、今のようにな。

 

 

 

ル「ほら、私は抱き締めているのに君はそうしないというのは、なんかこう……不公平? じゃないか。

フェアに行こうフェアに」

 

 

天「何ですかその無茶苦茶な理論武装は……。

いや、そのっ……だって誰かに見られたら誤解待った無しじゃないですか。

ただでさえ最近のマスコミはトレーナーとウマ娘の距離感に敏感なんですから。

……第一貴女が嫌でしょう、こんな男に抱き締められるとか」

 

 

ル「私は一向に構わない。

一 向 に 構わないっ」

 

 

天「わざわざ2回言って頂かなくとも結構です。

貴女は大丈夫でも俺が大丈夫じゃないんですよ。

そういうのは貴女の将来の大切な人の為にとっておくものです。

こんな所で溝に捨てちゃいけません」

 

 

ル「なら尚更良いじゃないか。

将来の分をちょっと前借りするだけなんだぞ。

どうせ将来もこうして定期的に甘えるのだから」

 

 

天「あ、あれ。

それだと将来の大切な人が俺って事に……じゃなくて。

とにかく離れて下さいっ」

 

 

 

ああ、駄目だ。

このままでは交渉が平行線の一途を辿るばかり。

ここまで言ってもまだ折れないとは。

私は少々トレーナー君の堅物性を見くびっていたのかもしれないな。

 

プランDにおいて、横着は最も避けるべき危険要素である。

トレーナー君に冷静になる余裕を与えてしまうと、このプランの成功率は著しく下がる。

出来れば冷静さを取り戻す前に畳み掛けるのが理想ななのだ。

 

しかし、トレーナー君の唐変木は今に始まった事ではない。

このような事態も一切予測していなかった訳でもない。

この泥沼と化した状況を打破し得る唯一の手段を私は知っている。

 

出来ればこの技は、使いたくなかった。

技を乱発したことにより彼に耐性が備わり効果が薄まる事は、後の展開を鑑みると好ましいとは言えないからだ。

 

だが、今は手段など選んでいられない。

一刻を争う事態なのだ。

ならば腹を括って、この方法を執る以上、最大威力の秘技を解き放とう。

 

 

 

ル「……だめか……?」

 

 

天「ゔッ………!! 」

 

 

 

瞼一杯に涙を溜めて、上目遣いでトレーナー君を見上げる。

この顔をさせている事に対する強烈な罪悪感を煽ると共に、否とは言わせないという一種の圧力をも併せ持つ禁断の一手。

そしてトレーナー君はこの顔に弱いのだ。

 

要するに、この方法はトレーナー君の良心を苛む搦手。

悪い女だと罵るが良いさ。

手段の善し悪しなど勝者の前には塵にも満たないのだから。

 

……さあ、トレーナー君はどう来る。

この表情をまともに直視したのならば少なからずして彼の意志は揺らいでいる筈。

これでも駄目ならプランKに移行してあんな事やこんな事をするしかなくなるのだが。

初めてが野外だとかそんな野暮を働くのは極力避けたい。

しかしどちらにせよ、トレーナー君の貞操が守られるか否かは彼の聞き分け次第だ。

 

 

人知れず固唾を飲む。

全身を張り裂かんばかりの胸の鼓動。

焦り、期待、祈り、緊張。

織り重なった溢れんばかりの感情が身体を震わせる。

 

 

 

天「………っ」

 

 

ル「(何か……言ってくれ……!)」

 

 

 

何時間もの長さに思われた沈黙。

これは……駄目だったか。

 

ああ、さようなら、私の純清。

生まれてこの方誰にも譲ることなく守り抜いてきたが、君の為に散らすのならば悔いは無い。

もう少しだけムードという物が欲しかった所だがな。

 

最初で最後の喪失を覚悟し、彼を押し倒す手に力が込められたその時。

 

 

 

 

 

ふわり。

 

 

 

 

 

その沈黙を破ったのは身体を包む、優しい温もり。

 

 

 

天「…………い、嫌だったら直ぐ言って下さいね」

 

 

 

トレーナー君の長い腕が、私の身体を腕の中に閉じ込めた。

 

良かった、折れてくれた。

あと1秒君の決断が遅かったら、君の貞操はあえなく砕け散る所だっただろう。

まあ遅かれ早かれ私が頂く事に変わりは無いが。

懸命な判断に感謝しよう。

 

 

 

天「…………」

 

 

ル「…………♡」

 

 

 

さて、トレーナー君を何とか言いくるめる事に成功し、プランDも完成に近づいた所だが。

 

それに対する喜びと共に、しまった、という後悔が頭の片隅に芽生えた。

そう、このプランには致命的な見落としがあったのだ。

 

トレーナー君の理性を削る為に練ったこのプランD。

しかし私は愚かな事に、私の理性が持つかどうかを計算に入れていなかった。

 

まずい。

 

自分で仕向けておいて何だが、かなりまずい。

 

この体勢、まずい。

 

彼の胸板に顔をうずめて、腕は彼の薄っぺらい背中に回しており、彼もまた左手で私の背中を、右手で私の頭を撫でている状況。

 

あぁ、駄目かもしれない。

オチる。

 

トレーナー君の甘い匂いがダイレクトに頭の中を支配しようとしてくる。

 

ここから動きたくない。

ずっとこのままでいたい。

 

トレーナー君の心音が聞こえる。

どくん、どくん、とかなり早めに脈打っているのはきっと彼だけではないはず。

私の今にもはち切れんばかりの心音も彼に聞こえてしまってはいないだろうか。

 

僅かな意識の中、私の耳としっぽがせわしなく動いてしまっているのだけは分かる。

 

でも、もうそんな事すらどうでもいい。

 

ただ今は、彼の事しか考えられない。

 

 

 

天「……」

 

 

ル「……♡」ぎゅぅぅ

 

 

ぶんぶん ぱたぱた

 

 

天「………」

 

 

ル「………♡♡」ぎゅぅぅぅぅ

 

 

ぶんぶんぶん ぴこぴこ

 

 

天「……あの」

 

 

ル「……?」

 

 

天「もう満足しましたよね。

そろそろ離れて頂けませんか」

 

 

ル「……まだだ。

もうすこし……もうすこしだけ……」

 

 

天「えぇ……?」

 

 

トレーナー君が若干後ずさりするが、彼の脚に絡めつけたしっぽが彼を逃さない。

獲物に離せと言われて離す馬鹿が居ると言うのなら見てみたいものだ。

 

 

 

 

そう、逃してたまるか。

今は、今だけは、

 

 

 

 

 

 

トレーナー君は私の物だ。

 

 

 

天「だ、誰かに見られたらどうするんですか。

この後ここをエアグルーヴさんが使うという話も聞いていますし。

ていうか貴女そんなキャラでしたっけ」

 

 

ル「……私以外の女の名を出すな。

今は私だけに集中しろ」

 

 

天「何故……」

 

 

 

目を逸らすな。

顔を背けるな。

その水晶の瞳に映すべきはただ一つ、私なんだ。

ましてやその唇が見知った女の名を発するなどとても耐えられない。

 

それに、私をこんなにしたのは君だ。

無垢な少女の男性観を君が滅茶苦茶にしたんだ。

私の瞳に映る君以外の全てを塗り潰したのは他でもない、君なんだよ。

これは到底許されたものじゃないな。

なあ、責任は取ってくれるのだろう?

 

君の返事は待たないさ。

君の全てを私の物にするまで、私は一歩も退かない。

 

 

 

天「はぁ……分かりました。

抵抗しませんから直ぐに済ませて下さいね……」

 

 

 

逃亡が無駄である事を悟ったトレーナー君は、身体中に込めていた力を抜いて此方に身を預けた。

……好きにしていい、という事かな。

いや、本当に私の好きなようにしてしまったらトレーナー君が5キロ程痩せる事になってしまうのだけれど。

 

 

 

ル「そう……それで良いんだ」

 

 

 

されるがままの状態になったトレーナー君の胸に、より一層強く顔を埋ずめる。

何処にも行かないように、誰にも渡さないように、何があっても逃がさないように。

 

 

 

 

 

 

 

………とは言ったものの。

 

実は私の理性の方も、そろそろ限界を迎えそうである。

胸の奥の奥で渦巻く劣情と独占欲が、蓋を押し上げてじわじわと私を蝕む。

真っ白なキャンバスに絵の具を垂らした時のように、自分が自分の知らない色に染まっていく感覚。

染まる前が真っ白だったとは言えないけれど。

 

しかし不思議とその感覚に恐怖を覚える事は無く、寧ろどうしようもなく悦んでいる自分が居る。

染めて、染められて。

何色になってもいいから、このまま二人で混ざり合ってしまいたかった。

 

温かい体温、優しい声色、ふわりと包み込む柔らかな匂い。

彼の全てが二人の境界線を溶かし、ひとつになろうと誘う。

 

ああ、もうこのまま欲に任せてトレーナー君を押し倒してしまおうか。

いっその事膂力の差に物を言わせて彼を抱き潰して仕舞えば万事解決ではないのだろうか……?

 

 

 

天「……っ……!」

 

 

 

ほら、アレだ。

世の中、勢いが事を分ける時だってあるだろう。

押し倒して。

うまだっちして。

すきだっちして。

大安吉日すっぴんわっしょいして。

うん、それがいい。

 

 

 

天「……さん…!

折れ……!」

 

 

ル「フーッ……フーッ……!」

 

 

 

具不退転。

使い時を少々誤っている気がしないでもないが、来た路を振り返らないという意志の元には大した差でもないだろう。

既成事実作成だって立派な戦法なのだ。

許せ、トレーナー君。

矢張り君の貞操は私がこの場で───

 

 

 

天「シンボリ、ルドルフさん……!!

骨……折れ……ますッ……!! 」

 

 

ル「あっ」  

 

 

 

絞り出すような助けを求める声が斜め上で漏れる。

出張中だった正気を手繰り寄せ、冷静に状況を判断してみると、何という事だろう。

抱き締めていたトレーナー君の上半身から壊滅的な悲鳴が鳴り響いていた。

それもその筈、情動に突き動かされて箍が外れかけた私は、ほぼ全力に近い力で濡れ雑巾を絞るようにトレーナー君にボディロックを決め込んでいたのだ。

 

 

 

ル「わわ……す、すまないトレーナー君。

力加減を誤ってしまったようだ……!」

 

 

 

急いでトレーナー君を解放すると、圧迫されていた肺に空気の入り込む音と共にトレーナー君がくたりと脱力した。

 

 

 

天「ひゅー、ひゅー……。

し、死んだかと思いました……」

 

 

 

苦しそうに肩で息をするトレーナー君。

頬を紅潮させながら酸素を求めて喘ぐトレーナー君の表情はどこか色っぽくて。

胸の中で湧き上がったピンク色のナニかが、加虐心と背徳感を擽った。

苦しむトレーナー君、案外イけるかも……じゃなくて。

 

 

 

ル「(何を考えているんだ私は……!)」

 

 

 

新しい扉を開いている場合じゃない。

トレーナー君に溺れて当のトレーナー君を傷つけてしまったじゃないか。

これではプランも何もあったものじゃない。

 

 

 

ル「だ、大丈夫か……!?

トレーナー君、怪我は…!」

 

 

天「大丈夫です……俺、こう見えて割と頑丈なので……」

 

 

 

ウマ娘の全力の抱擁をその身に受けておきながら、立ち上がるトレーナー君。

確かに頑丈みたいだ。

 

……論点はそこじゃない。

トレーナー君を籠絡する為の策の筈が、上手いこと落とされたのは私であった。

しかも彼にしてみれば、抱擁というより絞め技で全身の骨格を粉々にされかけた圧倒的被害者。

トレーナー君を私の者にするなどと息巻いた矢先にこの始末では、道程は険しそうだ。

 

 

 

ル「……」

 

 

天「……あの」

 

 

ル「あ、ああ。

何だい」

 

 

 

不完全燃焼とハプニングによりえも言われぬ気まずさが立ち込めたが、その空気に一滴の雫を垂らす様に話を切り出したのはトレーナー君だった。

 

 

 

天「ど……どうして急にこんな。

普段の貴女はいきなり抱きついたりなんてしない筈ですが」

 

 

ル「……迷惑だっただろうか」

 

 

天「いえ、迷惑なんかじゃないですけど……日頃から周囲の目を気にする貴女にしては珍しくて。

何か悩み事だったり、心配事があったりするのかなー……と」

 

 

ル「……その……あれだ。

私だって甘えたい日くらいあるさ」

 

 

 

言えない。

トレーナー君を振り向かせようと躍起になった末に欲望に歯止めが効かなくなって暴走したなんて口が裂けても言えない。

時分の感情を制御出来なくてどうしてトレーナー君の感情を操る事が出来ようか。

私もまだまだ未熟者だな。

 

……だが、収穫がまるで無かった訳ではない。

寧ろ結果のみに目を向けるのであれば、このプランは大成功と言えるだろう。

 

何故なら、このプランに隠されたもう二つの(・・・・・)目的を完璧に遂行する事が出来たからだ。

そう気を落とす事はない。

次から注意すれば改善方法はいくらでもあるさ。

 

 

 

 

……しかし何だ、その……。

 

 

自分から仕掛けておいてアレだが、何だか今になってすごく恥ずかしくなってきたぞ。

 

先程は独占欲で埋め尽くされて何も気にならなかったが、いざ離れるとまともに顔すら見る事が出来ない。

流し目をしようにも目が合った時の間の悪さと言ったらそれはもう。

冷静を取り戻した思考回路で思い返してみると、随分とまあ破廉恥な行為をやってのけたものだと実感する。

 

それとどうしようもなく寂しい。

身体中を包んでいた温もりがなくなってしまった今、いやに空気の冷たさが刺さる。

何と言うかこう、お気に入りの人形を取り上げられた子供のような気分だ。

 

更には、手元の腕時計に目をやるとそこにはトレーナー君に抱きついてから10分もの時が経った事を語る2本の針が。

体感時間は一分程であったが、色々夢中になると周りが見えなくなるのは私の短所である。

それだけの間呼吸もままならない程に締め上げ続けてしまったトレーナー君には申し訳なさで一杯だ。

 

時計の二針が指し示す事実はもう一つ。

授業開始時間まであまり時間が残されていないのである。

焦る程の時間ではないが、ゆっくりしている時間も無い。

ここに来て学生という立場が私を阻むか。

これ程までに学園を恨んだのは今日が初めてだろう。

 

 

 

だが、正直そんな事はどうでも良くて。

今はただ、この空間から逃げ出したい。

恥ずかしい。

申し訳ない。

気まずい。

 

ありとあらゆる感情が溢れ出して情報過多を起こした私は。

 

 

 

ル「……ああ、えっと。

それでは、また午後に会おう」

 

 

 

逃げるようにそそくさとその場を去る事しか出来なかった。

 

 

 

天「あっ……い、行ってしまいました」

 

 

天「……俺、これからどんな顔してシンボリルドルフさんと会えばいいんですか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学園支給のジャージから制服に着替え、学園に向かう通路に足を踏み入れる。

 

 

 

ル「……よし。

よし、よし。

やったぞ。

この結果はこれからの道程の一歩目としては申し分ないだろう」

 

 

 

スマホの液晶画面に映し出されたチェック表を元に、プランDの達成度について振り返る。

 

想定外の疲労を口実にトレーナー君に抱きつき、トレーナー君にも抱き締めてもらう。

第一段階とも言えるこの工程は、大方成功と言って差し支えないだろう。

途中に幾らかイレギュラーも見られたが結果オーライ、というやつである。

 

しかし、このプランの本命はトレーナー君に私を意識させる事の他に2つあるのだ。

 

私は普段とある香水を使用している。

学園に通うにも、プライベートで外出するにも、人と会う機会のある場所には欠かさず、だ。

去年のクリスマスにトレーナー君から贈られた、ラベンダーの香りの芳しいお気に入りの一品である。

 

いつもはそれをそのまま首の付け根や手首等に吹きかける所を、実は今日は水で程よく希釈して使っている。

すると、その香りは人の嗅覚には判らず、ウマ娘の嗅覚にのみ引っかかるようになるのだ。

ウマ娘の嗅覚は人間のそれを遥かに凌駕する。

その為ウマ娘に判って人間に判らない匂いというのは存外沢山ある物だ。

 

そして薄まった香水の香りを漂わせながらトレーナー君と抱き合う。

そうする事で、彼からウマ娘にしか分からない程度のラベンダーの香りがする。

勿論、彼は気付いていないだろう。

 

……もうお分かりだろうか。

 

トレーナー君から私と同じ匂いがする。

他の誰でもない、私とトレーナー君だけの匂いがする。

 

それはウマ娘にとって、トレーナー君は私の物だ、という意思表示(マーキング)に他ならない。

担当バの匂いを振り撒くトレーナーに手を出すウマ娘は居ないだろうさ。

つまり、このプランはトレーナー君を狙う女狐共への牽制にも一役買ったという訳だ。

奴等の存在は計画を進める上で邪魔でしかない。

雑草は刈り取るに限るのさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……だが、プランDの真髄はもっと別にある。

 

そう思い、手に取ったスマートフォンの写真アプリを立ち上げる。

 

 

 

ル「……ふふ、よく撮れているじゃないか」

 

 

 

液晶に映るのは、熱烈な抱擁を交わす男女の姿。

もとい私達である。

彼に抱き締めてもらった時に、こっそりその時の私達を写真に収めたのだ。

傍から見れば、互いに愛を誓い合ったカップルにしか見えないだろう。

 

写真の出来を確認した私はメッセージアプリを立ち上げ、そこから父親のトークルームを探す。

心配性の父とは学園に来てからも頻繁に連絡を取り合っている為、目当てのトークルームを探すのにそう時間を要する事は無かった。

 

 

 

 

トークルームを開き、1枚の写真とコメントを一言送信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには先程の写真と、「近い内に紹介します」の一言が佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ふふっ。

 

外堀は埋めちゃったよ、トレーナー君。

 

ルナをその気にさせたトレーナー君が悪いんだもん。

ルナ悪くない。

 

いつか、トレーナー君はわたしの事ルナって呼んでくれるかな。

ううん、呼んでもらう。

 

まっててね、ジュリ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……とは言えだ。

 

今は午前8時。

本当はあのままプランHやプランC、思い切ってプランMも実行してしまいたかったが、もう授業が始まるまで大した時間も残されていない。

 

残念だ。

出来るだけトレーナー君に冷静になる時間を与えたくなかったのだが。

 

はて、どうしたものか……。

 

 

 

 

 

 

 

《~~~♪》

 

 

 

 

 

 

 

制服のポケットに収まったスマートフォンが、メールを受信した旨を報せる振動を発した。

このような中途半端な時間帯にメールが送られてきた事に違和感を覚えつつ届いたメールを開くと、意外にも差出人はトレセン学園とある。

そのまま画面の下へ指を滑らせたその時。

 

 

 

ル「……ほう……?」

 

 

ル「……ハハッ……そうかそれは良いなぁ……!」

 

 

 

目に飛び込んできたメールの内容に、私は思わず笑みを浮かべてしまった。

 

……きっと今私は悪い顔をしているだろうな。

だが、どうやら三女神様は私を応援して下さるようだ。

ならば私は如何なる手を用いようとも、その想いに応えるのみ。

 

もう一度言おうか。

悪いのは私をその気にさせた君なのだ。

恨むのなら君の運の無さを恨みたまえよ。

 

 

 

ル「ふふ……好機到来……。

待っていてくれたまえ、トレーナー君……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天「………」

 

 

 

もやっ

 

 

 

天「……っあーもう。

頭から離れない……」

 

 

 

忘れろ。

忘れろ。

そんなに思いも虚しく脳裏に深く焼き付けられた先刻の愛バの姿は、焼印となって良心をちくちくと苛む。

 

それは一瞬の出来事でした。

正面からゆらりと近づいてきたシンボリルドルフさんにいきなり抱きつかれて。

その上抱き締めてほしいと言われて。

 

勿論最初は抵抗しました。

彼女の未来を奪うような事はしたくありませんでしたから。

しかし、俺は言葉巧みに誘導された上に特攻兵器(上目遣い)を放り込まれた末に。

 

結局彼女の口車に乗せられて、抱き締めてしまった次第です。

 

……だってシンボリルドルフさんがあんな顔するから。

あの顔はダメでしょう。

うん、俺悪くないです。

 

自分の気持ちに蹴を附けた直後にああいった事をされると……余計に自分の気持ちに収集つかなくなるといいますか。

なんかこう、押し倒してしまいたくなるような……。

 

 

 

 

 

 

…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天「……っあ──。

何考えてんですか俺……」

 

 

 

落ち着きなさい、樹。

邪念があるからそういう邪な感情が起こるのです。

邪念を払う為には。

えーと、どうしましょ。

 

あ、そうだ。

 

 

 

天「心頭……滅却ッ!!」 メツブシィ

 

 

 

 

……恐らく世界一美しい目潰しを自分にキメて何とか正気を保ちました。

ですが残酷な事に両目を犠牲にして得たこの正気もいつまでもつか分かりません。

 

当の本人に全くそういった色々しい感情は存在しないのでしょうが、甘えられるこっちは内心穏やかじゃありません。

知ってか知らずか、徐々にかつ確実に理性を削ってくるシンボリルドルフさん。

 

もういっその事俺の事を忘れて頂きたい。

忘れては頂けなかったとしても、せめて元の距離感に戻りたい。

全く、何処で彼女の距離感は狂ってしまったのでしょうか。

 

シンボリルドルフさんの身体に触れると、胸の奥がずきずきと痛む。

それは俺の居ない幸せな未来を、彼女にとって在るべき未来を摘み取っているから。

シンボリルドルフさんに触れられると、その温もりがかえって肌を刺す。

それはたった一人の女性の幸せすらもろくに守れない自分を責められているように感じるから。

 

……迷っていても仕方がありません。

迅速果断、かくなる上は彼女と少しの間距離を置く事を考えましょう。

これ以上彼女の傍に居たら何か大切な物を失う気がします。

彼女には申し訳ないのですが、これも彼女の幸せの為と思えばどうという事はありません。

 

 

 

 

 

 

 

《~~~♪》

 

 

 

 

 

 

 

そう腹を括ったその時、シャツのポケットに収まったスマートフォンが、メールを受信した旨を報せる振動を発しました。

このような中途半端な時間帯にメールが送られてきた事に違和感を覚えつつ届いたメールを開くと、意外にも差出人はトレセン学園とあります。

そのまま画面の下へ指を滑らせたその時。

 

 

 

天「……へぁ……?」

 

 

天「う、嘘だぁ……」

 

 

 

目に飛び込んできたメールの内容に、俺は思わず天を仰いでしまいました。

 

……きっと今俺は酷い顔をしている事でしょう。

どうやら三女神様は俺を見放したようです。

三女神様、俺何か悪い事しましたか。

 

罪か罰か、はたまた試練か。

俺の理性よ、もって下さい……!

 

 

 

天「……シンボリルドルフさん、何卒お手柔らかに……」

 




どーも。

ついに2万字超えちゃったネオンです。

次回からもっと短くします。

要望・意見等ございましたらコメ欄にて
ずきゅんどきゅんお申し付け下さい!

可能な限りばきゅんぶきゅん反映させていきたいと思います!

ちなみにジュリ君の「心頭…滅却ッ!!」メツブシィ
は、作者もよくやります。
眠気覚ましにあなたもいかが。
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