巻き上がった灰塵。
反射して煌めく光芒を眺めて、憂慮に耽る。
こんな時だというのに、不思議と思考は冷静で。
熱りにも似た残滓が引けば、残ったのは途方も無い虚脱と一抹の疲労だけ。
天「…………はぁ」
溜息とも嘆息ともとれる中途半端な吐息が、廃れた空気と混ざる。
つい先刻まで頭蓋を張り裂かんばかりに反響していたあの声も、今ではすっかり鳴りを潜めてしまった。
束の間の安息が齎す静謐に浸る。
では何故これ程までに溜息が止まらないのか。
こうして宛もなく呆けていると、否が応でも先に控える現実が脳裡を過るからです。
天「そろそろ行かなきゃ、ですよね」
落ち着いたら落ち着いたで、今度はまた別の厄介事が俺を待っているのです。
これから幕を開ける丸一日の同棲生活。
試練だか罰だか知りませんが、ここまで来ると最早嫌がらせの域じゃないですかこれ。
そこんとこどう思いますか三女神様。
これだから神仏の類は好きになれません。
仮にもこの学園に勤めておきながらアンチ三女神というのもおかしな話ですが。
世知辛いものです、ほんとに。
別に彼女と会うのが嫌という訳ではありません。
彼女自身、二人きりの時は意外におしゃべりですし。
皇帝たりえる為の紐を緩めた彼女と過ごす時間。
夢を追うべく東奔西走する日々の中でのそれは、二人にとってもかけがえのない心の安らぎなのです。
それも今日を除いては、の話ですが。
心の安らぎになるならまだ良い。
しかし今日ばかりは全くもって心が安らぐ気がしない。
寧ろ擦り減る気しかしない。
何なら既に擦り減っております。
自分自身のコントロールという、人として初歩的な課題を齢21にして意識するとは夢にも思いませんでした。
自信が無い。
彼女から無邪気にも放たれる猛攻を耐え切る自信が。
知ってか知らずか、時たま生じるクリティカルヒットを躱す自信が。
天「……でも、やるしかない。
逃げ道はもうありません。
だったらここで腹を括ってしまうに限ります」
シンボリルドルフさんは俺の事を信頼して下さっている、と聞きました。
仮にも彼女の宰相を名乗らせて頂く以上、何に代えても譲ることの出来ない矜恃が俺にもあります。
それは、その信頼に然るべき覚悟で応える事。
彼女に待つ艱難辛苦を背負えるだけの器を持たない俺に自ら課した、最低限の使命。
それすらも遂行出来ないのであれば、元より彼女の隣に立つ資格など無かったという事だ。
しかし俺は、今日まで彼女と共に数多の苦難を乗り越えてきた。
大丈夫、俺なら出来ます。
何故なら俺はデキるトレーナーだから(自己暗示)。
それに俺には式間さんから頂いた、鋼の意志という保険があります。
えーと、確か″窮地に陥った際に発動する最後の砦″でしたっけ。
理想は発動する事無く一日を終えるのがベストですが、中々そうも行かないでしょう。
しかし、一度発動さえしてしまえば俺の理性崩壊メーターは振り出しに戻る。
何度追い詰められても、その度に鋼の意志で平常心を取り戻す。
鋼の意志と俺の精神力をもってすればどんな誘惑にだって俺は負けません。
何故なら俺はデキ(ry
よし、行ける。
行けます。
俺なら出来ます。
一日という長いを通り越して永い時間も、平常心の前にはあっという間な筈。
大丈夫、我慢強さには自信があるんです。
生来の精神力と鋼の意志という揺るぎない双盾がある限り、俺は何者にも屈しない。
何故な(ry
……腹は括りました。
覚悟も決めました。
シンボリルドルフさんの幸せの為に。
絶対に負けられない戦いが、そこにある。
揺るぎない覚悟と決意を胸に、
─── 一方その頃 ───
式「天風の奴、上手くやってるかなー。
ま、最悪くっついてくれちゃっても俺はいいんだけどねー。
寧ろめでたしめでたしー」
式「…………あ」
式「……鋼の意志の効果に限界があるコト、天風に伝え忘れてたー」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
天「……来ちゃっ、た」
歩いていたら、到着する。
そんな当然の摂理さえも、今となっては恨めしくて堪らない。
いっそ爆発とか何かで消し飛んでたら良かったのに。
ええい、こんな所で立ち往生しても状況は変わらない。
そう己を奮い立たせ、無駄に分厚いトレーナー室のドアノブに手をかける。
きっとこの扉の向こうにはシンボリルドルフさんがいらっしゃる。
あぁ、何かの間違いでシンボリルドルフさん来てないと良いなあ。
天「(俺の理性、後は頼みました)」
半ば自暴自棄になりつつ、扉を叩く。
歯切れのいい硬質な音が2回。
次に扉の向こう側からどうぞ、と女性の声が届いた。
既に冷や汗と動悸は止まらないが、知った事じゃない。
ここまで来たら開ける。
開けるったら開ける。
肚を決して、冷えきったドアノブを憂いごと力強く捻った。
除かれた隔たりの先に待っていたのは、適度に冷房の効いた空調と。
見慣れた光景に不思議と馴染む、珈琲の仄かな香り。
それから、部屋の端でソファーに腰掛けた──。
ル「……ああ、おはようトレーナー君。
会うのは二回目だね」
天「 」
……パタン。
ル『おや、トレーナー君?』
いやいや。
閉めちゃいましたよ扉。
何してるんですか、俺。
だって本当にいらっしゃるとは。
いや、いらして当然ですが。
でもでも、心の準備が。
天「すぅぅぅぅぅ……」
長く細く、空気を肺から押し出す。
序にその辺に飛び散った魂を引き戻すように、両頬に平手打ちを決め込む。
ぱしん、と乾いた音と頬に走る鋭痛が、僅かなれども平静を齎した。
この期に及んで現実から目を背けて無いものねだりを続けるとは。
何とも往生際が悪い。
いいから開けなさい。
ガチャ
天「おはようございます。
もういらしていたのですね、先を越されてしまいました」
ル「お、おはよう。
どうして一度扉を閉められたのかは気になるが……。
時に君、学園からのメールにはもう目を通したかい」
天「はい、既に。
今回は生徒会が対応に当たる必要は無いそうですね」
ル「ああ、有難い事だ。
ここ数日生徒会の業務が立て込んでいただけに、こういった形で君との親睦会も兼ねての休息が設けられるとはね。
理事長の粋な計らいに感謝しなければな。
という訳で、お邪魔させて貰っているよ」
天「………ごゆっくり」
粋ですね。
ほんと粋ですね。
迷惑なくらいに、ええ。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
こうして改めてトレーナー室の内装に目をやると、存外に殺風景であった事に気付く。
一応俺は住宅街のアパートの一室を住居として借りてはいますが、トレーナー室で衣食住が事足りてしまうため殆どトレーナー室に住んでいる様なものです。
加えて、キッチン、インターネット回線、シャワー等の生活に欠かせない物品は学園側が殆ど支給して下さるとの事。
これに関しては、俺と同じくトレーナー室に半ば住み込む形で業務に勤しむ方々を見兼ねた秋川理事長のポケットマネーによって施行されたと聞きます。
無論、後に計画書を発見したたづなさんとのデスチェイスが勃発したのは言うまでもなく。
通勤時間さえも業務に充てたい俺にとって、それは願ってもない報せでした。
かくして、早一年以上自宅が空き巣状態となっている訳ですが、しかしそれにしてはもうひとつの住居であるトレーナー室に些か私物や生活必需品の類が少ないような。
俺は俗に言うミニマリスト、というやつなのかもしれません。
実際、トレーナー室には業務をこなす上で欠かせない必要最低限の物品しか置かない事を心掛けています。
いや、この3年間を通して仕事以外に何かをした記憶が無い為、図らずともそうなったと言った方が正しいのかも。
娯楽なんて柄でもないですし。
唯一の娯楽と言ったら、式間さんから譲り受けたマリモくらいでしょうか。
娯楽というよりかは友達……と零してしまうとシンボリルドルフさんにまた虫を見るような目を向けられる羽目になるので止めておきましょうか。
兎にも角にも殺風景ではありますが、俺にも彼女にも、このくらいが居心地が良いものです。
そんな閑散とした空間に、ちょっぴりお高めのコーヒーメーカーがひとつ。
ぽこぽこと奏でられる可愛らしい調べといい、荒んだ心を撫でる様な芳ばしい幽香といい、安物の長机の中央にぽつりと佇むそれは、無機質な内装も相まって、明らかに場違いで。
でも、きっとこれでいいのです。
部屋に2人が揃った時、ミーティングよりも先に先ずこれで珈琲を淹れる。
どちらから始めた訳でもなく、それは気付けば習慣になっていました。
マグカップは勿論、随分前のクリスマスに彼女からプレゼントされたペアデザインの片割れ。
並べると向かい合った猫の尾がハートを描くという趣向の凝らされた一品ですが、それを活かす勇気が無いため結局並べた事は一度もありませんでした。
実はかわいい物好きという、彼女の意外性の片鱗に触れる事が出来たので結果オーライ、って事で。
珈琲豆にはあまり拘りを持たずに、近所のスーパーで購入したグアテマラ産とやらのレギュラーコーヒーを使用するというのもお決まりです。
珈琲よりも時間。
俺達のメインはあくまで談笑なので、付属品にあたる珈琲にまで気を使っていたら肩が凝ってしまいますから。
変な所ものぐさなんです、俺達。
そうして淹れられた拘っているのかいないのか分からない一杯を片手に。
机を挟んで向かい合わせに備えたソファーに腰掛けて、彼女と他愛の無い世間話に花を咲かせる。
駅前に新しくオープンした喫茶店の話。
シリウスシンボリさんとの絡み合いの話。
生徒会会議にて挙げられた少々しょっぱい議題の話。
お互いの好みの髪型の話。
その時だけは、皇帝も生徒会長も全て忘れて、青春に生きる普通の女の子になって。
ただそれだけの行為が、二人の凝り固まった時間を動かす。
日々の喧騒を置き去りにして、おうむ返しの毎日に彩りを添える。
この物寂しげな内装も、そうして初めて二人だけのトレーナー室として意味を持つのです。
だから、重たい物を全て忘れられるこの時が、堪らなく愛しい。
今日を、除いては。
……ねえ、シンボリルドルフさん。
ソファーは2つあるんです。
何故同じソファーに座るんですか。
わざわざ隣に座らなくてもいいでしょう。
ル「それでだな、トレーナー君……」
天「ヘーソウナンデスカ」
ああ、俺には聞こえます。
向こうで役目を果たす事無く手持ち無沙汰となってしまったもう一つのソファーの嘆きが。
ソファー『せやで』
カーテンの隙間から注ぐ光に長く下ろされた髪が艶やかに透ける。
吸い込まれてしまいそうなその様に、つい見惚れてしまった。
かと言って目を逸らせば、かえって紫水晶の瞳で此方の顔を胸の内に秘めた劣情ごと覗き込まれる。
瞼を下ろせば、鈴を転がしたようにころころと笑う彼女の声が脳裡に染み付いて離れなくなる。
耳を塞げば、女性特有の柔らかな匂いが懸想を焚き付ける。
呼吸を止めれば、先程から指先にくるくると巻き付けられる尾の感触が理性を繋ぎ止めている箍を徐々に、されど確実に削りにかかる。
……味。
えーと、味覚は置いておくとして。
式間さんの仰っていた″五感フルに使って責めてくる″の意味を望まぬ形で理解してしまった。
成程、これは確かに拙いですね。
一度意識してしまったが最後、彼女自身は勿論の事、彼女を取り巻く空気までもが理性を削る武器と化す。
となると最早何をしても自滅に直結するという始末。
ああ、こんな事なら水底で揺られる物言わぬ貝に生まれたかったです。
いや、俺なんかに貝は上等過ぎるかも。
石ころ……いや、酸素になりたい。
そうして身体の一部をO²に変換している間にも、俺の理性は現在進行形で順調に鑢に掛けられている。
談笑という建前でこの部屋に集っているのに、話が1ミリも頭に入ってこないという始末。
このままでは何処かで何かがぷつりと切れてしまうのも時間の問題。
しかし、だからと言っておめおめと押し切られる訳にも行きません。
俺にだって譲れない物があるのです。
欲望に流されて貴女の未来を蔑ろにする様な真似は何としてでも避けたい。
ここから先へ踏み込んでしまえば後戻りが出来なくなる事くらい、本能で分かる。
だからこそ、ここまで戦慄しているのですし。
……貴女には、いずれ俺を忘れて幸せになって頂きたい。
その隣に居るべきは、俺じゃないから。
貴女はこれから、まだまだ遠く長い道程を往く。
だけど俺は。
きっと次の春さえも貴女と迎える事は叶わない。
貴女にとって何者にもなれなくてもいい。
貴女の幸せだけが俺の生きた証。
その為なら、どんな試練だって乗り越えてみせると誓ったんだ。
喩え何かの間違いで貴女の記憶に残ってしまったとしても、思い出して頂かなくて結構だから。
だからせめて、貴女が奉じた夢の叶う時を。
そして貴女自身の幸せという、俺が遺した夢の叶う時を見届けたい。
それがトレーナーとして、そして一人の人間としての切なる願い。
その為に、三人の力を借りてある秘策に行き着いたのです。
その内の二人は「主にルドルフを応援する」との意味深な発言を残して行きましたが、そんなもん知らぬ。
秘策は秘めてこそ秘策という異論もあるでしょうが、それも知らぬ。
ピンチの時に使わないでどうする。
という訳で、今こそその効果を発揮して頂きましょう。
《レアスキル 「鋼の意志」発動》
天「(……お、おおっ。
これは凄い)」
スキルを発動した瞬間から、精神が急激に落ち着きを取り戻す。
それはまるで、風一つ吹かぬ凪のよう。
明鏡止水とはよく言ったものです。
誘惑を打ち負かす剣でもなく、誘惑を耐え凌ぐ盾でもなく。
云わばそこには、『無』のみ。
何を持ってしても彼女の誘惑の前には確実に塗り潰されるのだから、そもそも染まる要素を持たなければ何物にも染められはしないという訳ですか。
愛バの誘惑に悩める男性トレーナーに挙って愛用されるのも頷ける。
天「(……さて、これからどうしましょうか)」
煩悩を忘れて覚醒した思考回路で、解決策を捻り出す。
この場において冷静程頼もしい物は無い。
熱ぼった頭では、講じられる物も講じられないのです。
先ずはこの、肩と肩が触れ合うような身体的距離から脱しない事には話が始まらない。
このまま至近距離に居られていては、折角のスキルもいたちごっこの片棒と化すのが関の山。
不幸中の幸いと言うべきか、何処かの誰かさんの乱入というイレギュラーがありながらも、此方に距離を取るだけのスペースは残されている。
少々値は張ったものの、このソファーを購入する際に大きめのサイズを選んだ事がこんな所で役に立つとは。
三女神様も完全に見放してはいらっしゃらないみたいですね。
……御託はいいからさっさと離れてしまえばいいじゃないか、と思われるかもしれない。
しかし、そう一筋縄では行かないのがうちの皇帝さんなのです。
行くのならばここまで横着していませんし。
距離を取りたいです→はいどうぞ、とはなかなか問屋が卸さない。
考えてもみましょう。
万が一ここであからさまに距離を取った事を彼女に勘づかれてしまったら。
今朝のような涙目からの上目遣いという悪魔のカウンターが返ってくるのは想像に難くない。
最悪そこからさみしくなった彼女による抱擁という見事なまでのデスコンボだって考えられなくもありません。
今朝の経験がそう言っている。
自由自在を疑わせるまでの涙腺から放たれる涙目は、俺の良心をそれはもうはちゃめちゃに殴り付ける。
もしやこの皇帝、自分の顔立ちに意外と幼さがある事を分かっててやってるのでは。
自覚があるのであれば、尚更悪質です。
自覚が無かったとしてもそれはそれで末恐ろしい事この上ないのですが。
……何はともあれ、ただ身体を横へずらすだけだからといって一切の油断は許されない。
これから取る一挙一動が、俺のトレーナーとしての運命を左右するのです。
その為にも、自然。
あくまで自然を装うのが最低条件。
ル「その時、ふと閃いてエアグルーヴにこう言ったんだ。
『マカロニ
ええい、そのドヤ顔をやめい。
可愛いなもう。
じゃなくて。
集中しなさい、樹。
ふとした瞬間に生じるコンマ1秒の隙だって見逃すな。
一瞬の勝負で、一生が決まるのです。
何とも皮肉な話ですが、それを嘆くより先にすべき事があるでしょう。
天「……エアグルーヴさんのやる気は下げないであげて下さいね。
後で宿原さんに怒られるの俺なんですから」
ル「エアグルーヴは私の渾身の駄洒落にいつも渋そうな反応を示すんだ。
何故だろうな。
矢張り私の作る駄洒落では、彼女との垣根を除くには至らないのだろうか。
……精進あるのみ、だな」
天「精進する所そこじゃないかと……。
TPOと相手を考えましょうね」
一見何気なく談笑に興じているように思えても、神経は常に彼女の動向に張り巡らせている。
首筋を這う冷や汗は、緊張から来る物か、それとも。
未だ尾を引く動悸を悟られない為に、長く細く、そして深く呼吸をして息を整える。
……相手の一挙一動に意識を集中させているのは俺だけ、とは行かない。
頭の切れる彼女の事です、何気ない会話の中でもその思考回路はフル回転しているのでしょう。
喩えそれが今の俺程ではなかったとしても、生徒会長としての長い任期の中で培われた巧みなる話術を構成するそれは、細胞という細胞に深く染み付いて容易には抜けない癖となっている事でしょうから。
要するに、今動けば意図的に距離を置いた事がバレてステキな事になるのは目に見えている。
焦るな。
耐え忍べば好機は必ずやって来る。
天「そもそも貴女の作る駄洒落はどちらかと言うと俗に言うおやじギャグに近いのかと。
『頼む天風トレーナー、会長のおやじギャグを止めてくれ。
会長のトレーナーなんだろう?
出来るのだろう??
なあ、頼むから、なあ』と、副会長本人にげっそりした感じで懇願された時は流石に同情しましたよ」
ル「ふむ、君はそう考えるか。
おやじギャグと駄洒落の相違点……。
普段似たような扱いをしているだけに、いざ考えてみると意外と挙げられないものだな。
……おやじギャグで、おや自虐?」
天「…………。
……ごめんなさい」
ル「なあ、どうして謝るんだ、なあ」
話の脈絡を完全に無視して、突然放り込まれる駄洒落。
非常に反応に困る変化球ではあるが、それでも集中だけは何があっても切らさない。
彼女の意識は依然として此方に注がれたまま。
だけども一ウマ娘である限り、その意識に隙間が生じる瞬間は必ず訪れる筈。
肚を決してから時が経てば経つほど、耳を打つ張り裂けんばかりの拍動は加速度的にその間隔を縮めていく。
頬を伝う一筋の汗はこの気候の下ならば言い訳がつくのかも知れないが、それが冷たいタイプの汗ならば話は別。
時計の針がこつこつと時を刻む音と、頭の天辺から爪先に至るまでの血という血が粟立つような鼓動の対比が何とも気味が悪い。
正直、気を抜いた瞬間に内側から爆ぜ散ってしまいそうです。
しかしそれしきの焦燥で動き出す瞬間を見誤る程、俺のトレーナーとしての覚悟はヤワじゃありません。
俺が人に誇る事の出来る取り柄なんて精々我慢強さくらいじゃないですか。
ならば常住坐臥の忍耐力を、此処で発揮せずにいつ発揮するのでしょう。
そう、これは云わば追込の最終局面。
耐えて、耐えて、耐え切る。
そうして相手に生じた意識の隙間を真一文字に切り裂いて、何もかもを置き去りにする。
どんなに固まったバ群だろうと、突破口は必ず何処かにあるのです。
矢張り最後は、それが見えるか否か。
前者をかっ拐った者のみが、最後に笑う。
……複雑、それでいて単純明快の極みです。
その時が来るまで、耐え凌げ。
コンマ一秒だって見逃すな。
失敗は許されない、一瞬に全てを賭けろ。
乾いた唇を潤し、役目を終えた唾がごくりといやに音を立てて喉を通る。
頬を伝って、顎を伝って、冷たい汗が喉仏に乗ろうとしたその時。
その瞬間は突然訪れた。
ル「…………ん、虫……ハエかな」
天「っ!」
楽しそうにころころと笑う彼女の視界の端を小さな虫が通り抜ける。
それに乗じて、彼女は訪れた
その一瞬を、俺は見逃さなかった。
天「(今だッッ!!)」
霹靂よりも速く。
吹鳴よりも疾く。
閃光よりも夙く。
飛び回る蝿に気を取られて、彼女が俺の居る方向から真反対の向きへ視線を逸らした、刹那。
時間にして、0.05秒の出来事。
亀裂すら走らんばかりの勢いで、トレーナー室のフローリングを斜め下に踏み込んで。
残像が残る程のスピードでソファーの端へ飛び込み、彼女との間に人が一人入るか入らないかくらいの間隔を生み出す。
初速から、全速。
かつ、目的地に到着した瞬間に一切の速度を殺す。
彼女が此方に視線を戻すより先に、何食わぬ顔で今まで通りの会話を再開する。
与えられた全てのタスクを最速最短で遂行した。
それは、彼女の意識さえも置き去りにしたという事。
その証拠に当人はまだ振り向いてすらいない。
尤も、これから振り向いた所でたかが0.5人分の誤差など気付く筈もないのですが。
天「(Mission complete……!!)」
心中で、過去最大級のガッツポーズを掲げる。
同時に胸の内に深く根を張っていた緊張が、砂塔に風が吹いたように瓦解した。
先ずは第一段階、突破。
俺だってやる時はやるんです。
これなら彼女の誘惑も少しは、いやかなり軽減される筈。
よし、このまま残り一日無事に理性を守り抜───
ル「……とれーなーくん……?」
天「…………あれ」
糠喜び。
そんな言葉が良く似合う程に、期待と達成感が跡形もなく砕け散る。
振り返った彼女の表情は、予想よりも遥かに曇っていたからだ。
予想……いや、願望だったのかも知れない。
願い望むと書いて願望。
祈って願いが叶うのならば世話も無いという訳ですか。
ル「どうして……そんなに必死に距離を取らなくてもいいじゃないか……」
天「え、いや……え」
安堵から一転、背筋に氷の切っ先を突き付けられたような悪寒が張り付く。
もしかしたら、もしかしなくてもこれはピンチかもしれない。
でもどうして。
俺の仕事に抜かりは無かった。
自惚れではない、手応えもあった。
それでも彼女に見透かされたのは、一体何故でしょう。
後ろに目が付いてる訳でもあるまいし。
アレですか、まさか貴女見聞色の覇気使え……る訳がない。
動揺に任せて、先程まで彼女の目線が向いていた先に目をやると。
その先に、答えはあった。
天「……oh」
窓に反射して映った滑稽な間抜け面と、目が合う。
その主は、言わずもがな。
それが何を意味するか。
必死の形相を浮かべて全力で彼女から距離を取る一部始終が、まるで筒抜けであったという訳です。
天「……えーと、その。
違うんです。
いや、違わないけど……あ、違う、そういう事じゃなくて。
違わないっていうのはあの、違くて、違うのが違わないっていうか、違……その……ちが……」
申し訳程度の弁明を試みるが、もう遅い。
そこに動揺も加わってこの世の物とは思えない陳述を撒き散らす始末。
いっそ誰か俺を殺して下さりませんかね。
天「…………」
ル「…………」
打って変わって、静寂。
嵐の前の静けさ、ってやつなのでしょうか。
いや、嵐で済むならまだ幸せかも。
BLOW my GALEの方が余程可愛い。
ル「……トレーナー君」
失敗、それ即ち敗北。
敗北者を待つのは、激しさこそ無いものの、その代わりに残虐なまでに静かなる断罪。
少女の心を弄んだ罪はあまりに重かった。
皇帝の裁きが、幕を開ける。
ル「……私、何か気に障る事でもしてしまったかな」 しゅん……
天「ゔぁッ……!」
天「(罪悪感が!!
罪悪感が凄い!!
うるうるしないで!!)」
耳をぺたりと伏せ、潤んだ瞳で此方を覗き込む彼女。
その様は俺の良心を何の躊躇いもなしに喰い散らす。
やっぱりこの皇帝、俺がしょんぼりルドルフさんにめっぽう弱いの知っててやってますよね。
確信犯でしょ絶対。
《レアスキル 「鋼の意志」発動》
手「(すーっ……はーっ……。
落ち着け……落ち着きなさい……。
酸素。
酸素になるのです……!)」
天「……いえ、別にそういう訳じゃないんですけどね。
ただ、ちょーっと距離が近いかなーって……」
ル「……でも、あんなに激しく拒絶しなくてもいいじゃないか。
それとも何だ、私の隣はそんなに嫌なのかい」 むすっ
天「ぐはッ……!」
そう来ますか。
露骨に不満げなカオと小突くような誹議の視線が、ちくちくと胸の内側を抉る。
君が悪い、と言わんばかりにご機嫌ナナメな口調も相まって、此方の罪悪感が馬鹿にならない。
というか先程から涙目だったり頬を膨らませたりと、普段と比べて言動が少しだけ幼さを含んでいるような。
普段の彼女が大人びていらっしゃるだけであって、この様子は年相応なのですが。
取り繕わない、ありのままの彼女を出して頂けていると思うと悪い気はしませんが、そういう問題じゃない。
[レアスキル 「鋼の意志」発動]
天「(見るな、もう見るな。
これ以上目を開いていたら本当に心臓が持ちません)」
致し方ない。
ここまで来てしまったなら、最早俺に出来る事はたった一つ。
これ以上のボロを出さないように、最後の一線だけは破られないように、この場を穏便にやり過ごすのみ。
彼女の追及に対して当たり障りのない応答を繰り返していれば、10分と経たずに彼女の気も収まる筈。
ル「君が嫌だと言うのならば是非もないなー。
私の隣が耐えられずにあんな逃げ方をする程なのだからなー。
残念だなー」
天「い、嫌なんかじゃありませんよ、全然。
寧ろ嬉しいです」
ル「……今、『嬉しい』と言ったね」
天「……あっ」
嬉しいです。
その言葉を耳にした瞬間、紫水晶の瞳がギラりと妖しく煌めく。
しまった、なんて後悔も先に立たない程に。
僅かに牙を剥いて、捻り潰さんばかりの眼光を放つその様は宛らライオン。
数秒前の意気込みは、致命的な言質を取られるという形で図らずとも最速で回収される事となった。
何処ぞの政治家なんかが失言の後始末をつける際に発する、『撤回』の2文字。
その一言で社会人としての誠意をアピールできてしまうという便利な代物ですが、それはあくまで形の上での話。
こういった1on1の対話において、そんな物は何の役にも立たない。
双方の記憶として、また事実として残ってしまった発言を撤回する事など出来やしないのだから。
……それさえも抹消しようと思ったら、それこそ時でも巻き戻さなきゃいけませんし。
三女神様、なんかちょっと時間巻き戻せる的なアレ、あったりしません?
ないですよね知ってました。
ル「嬉しい、か。
ふふ、そう言われると私も止まれなくなってしまうな。
……それじゃあ、遠慮なく」
天「ま、待っ──」
猛獣の如く瞳を滾らせながら、獅子は動き出す。
それも、舐るようなじっとりとした眼差しで。
抗議の素振りも待たずして、ソファーの上をじりじりと這い寄る。
満身創痍の獲物に牙を突き立てるが如く、その血肉を骨に至るまで喰らい尽くすが如く。
あれだけ骨を折った末にどうにか確保した0.5人分のスペースは、いとも容易くシンボリルドルフさんに上書きされてしまった。
何やらしょっぱい水が目から零れ落ちそうになるのを何とか堪える。
そして肩と肩も、再び触れ合う。
僅かに残されていた心と身体の隔たりさえも押し潰して。
これでは1分前と何が違うのでしょう。
……いや、明らかに違う所が一つある。
一分前より、明らかに近い。
何がって、勿論ふたりの身体的距離が。
元々ゼロ距離だったふたりが更に距離を縮めるとどうなるか。
この場においてマイナスなんて概念は存在しません。
だから普通はそれ以上何も変わらないと思うかもしれない。
しかし残念な事に、うちの皇帝さんは普通じゃないので。
特異点さえも彼女にしてみれば通過点に過ぎないのでしょう。
ぎゅっ
ソファーの上で手持ち無沙汰となっていた手のひらをするりと優しい温もりが包む。
透き通るようで、力を込めたら壊れてしまいかねない硝子細工のように繊細なそれが誰の何であるかは、態々確かめずとも明らかであった。
ル「……君の手、温かいね。
それに少し大きい」
天「げふッ……!」
単に手のひらを重ね合わせるだけの、可愛らしい繋ぎ方ならまだ良かった。
いや、良くはないけど。
でもこれはもっと洒落にならない。
指のひとつひとつを絡めて、手のひらから一切の隙間を排除する。
相手の身体ごと引き寄せる事で、元々近かった二人が更に密着する。
心音も体温も、吐息のひとつに至るまで全てを共有する。
それは、愛を誓い合ったカップルや、新婚ほやほやのお熱い夫婦なんかがよく街中でする物。
所謂『恋人繋ぎ』というやつでした。
『レアスキル 「鋼の意志」発動』
天「(落ち着け……!
この人に他意はない。
友達に絡むのと同じような感覚なんですきっと。
今までも距離は近かった。
今日はちょっと、いやかなり激しめなだけ……!)」
そこで、妙案を閃く。
効果にこそ大した期待は持てないが、このままやられっぱなしというのも何だか癪に思えるので、せめて心許りの反撃をしてやろう、と。
俺だってトレーナーという立場上タダでやられてあげる訳にはいきませんし、きっとただ唇を噛んでいるよりかは幾分かはマシでしょう。
天「あはは、今日はいつもに増して随分と甘えん坊さんですね?
こんな所をうっかり誰かに見られでもしたら……ね」
今のシンボリルドルフさんの視線は、9割9分が此方に釘付けにされている。
それも、舐るようなねっとりとした重たい視線で。
呑み込まれるかと思わせる程には、近い。
云わば目先の障害に感けて視野が極端に狭まっている、掛かり状態のような物なのです。
ならば、と思い少し揶揄ってみる。
上手いこと刺さって彼女の羞恥心を煽る事が出来れば、この距離感も多少は改善される筈。
何せ、ターフの頂上に君臨せし百戦錬磨の皇帝とて紐を解けば多感な少女。
間違っても恥じらいが備わっていない訳ではないのでしょうし、一旦頭を冷やして視野が広がれば多少は先刻の言動が恥ずかしく──
ル「ふふ、それもいいな。
誰かに見せつけてやるのもまた一興かも知れないね」
なりませんね。
駄目だこれ。
天「全然良くないです。
誰かに見られて困るのは貴女も例外じゃないんですよ……?」
ル「おや、今更気にする間柄でもないだろう?
だれが何と言おうと、私達は私達さ。
それに私だっていつも頑張ってるんだ。
……君にくらい、甘えさせてくれよ」
天「がはッ……!」
貴女が良くても俺は良くない。
心臓にも悪ければ社会的にも風当たりの怖い事この上ない。
後者については生徒の自由を重んじるといった学園の校風の下では大した問題でもないのでしょうが、それでも怖い物は怖い。
それ以前の問題だって色々とありますし。
考えてもみましょう。
学園関係者ならまだしも事を知らない世間一般から見た俺は、女子高生に手を出した(未遂)ロ○コン。
清々しいまでの犯罪臭と最悪の世間体により、少なくとも人として生きた心地はしない。
寧ろこんな状況でいけしゃあしゃあと人生を謳歌出来る方が居らっしゃるなら、その方の思考回路は随分とおめでたい事でしょう。
尤も、俺の社会的地位なんて物は、彼女の夢の重さと秤に掛ければ傾きは歴然。
俺の社会的信用ひとつで彼女の夢が買えるのなら、それ程までに安い買い物はありません。
問題なのは、風評被害が俺だけで収まらない事。
往々にしてURA開催のレースというのはファン商売的な一面を併せ持つ。
今や日本のレース業界を構成する歯車の大部分は、ファンの力が占めると言っても過言ではないでしょう。
例言は多岐に及びますが、その中でもファン投票による出走権の獲得と言えば察しが付く方も多い筈。
宝塚記念や有マ記念が、出走バの選定方法にこれを執るレースに該当します。
無論ファンの応援があって初めて成り立つ機構というのはこれだけには留まりませんが、そんな中でスキャンダルに飢えたマスコミに今の状況を嗅ぎ回られたら最後、その先は言わずもがな。
……少なくとも、『最悪』とだけは言えるでしょう。
でも、でもでも。
『君にくらい、甘えさせてくれよ』って。
心做しかしおらしい面持ちでそんな台詞を言われたら、突き放すなんて選択肢は粉砕されてしまう訳で。
もし焦りに任せて突っ撥ねてしまえば、しょんぼりルドルフさんをおかわりする羽目になるのは火を見るより明らかですし。
そもそもそんな事が出来ないように俺の良心は雁字搦めにされていますし。
あっ、さてはこの皇帝、最初から俺が断れないのを予測して、こういう。
わあ、ずるい。
そして、盛りがついた皇帝は手を繋いだくらいでは満たされる筈もなく。
ル「……♪」 こてん
天「ぐあッ……!」
肩に、何やら温かい物が乗せられる感覚。
適度な重みと共にふわりと鼻先を掠める石鹸の香りが、乗せられた物が何であるかを囁く様だった。
尤も、視界の端でもふもふの耳が泳いでいる時点で言い逃れの予知は残されていないのですが。
時折ぱたぱたと揺らめく耳が、頬をいじらしく擽る。
座高の差が、また丁度よく枕として機能しているみたいです。
あの、シンボリルドルフさん。
いくら気を許したからって、仮にも異性である俺に対してこの思わせぶりな言動は如何なものかと。
あ、もしかして。
俺を異性として認識していないとか。
それはそれで何だか複雑ですが、間違いが起こらないという点では喜ばしい事なのかもしれない。
……何はともあれ、相手が俺だったから良いものの、こんな事を世の男性に仕掛けた日には勘違い待ったなしです。
いや、俺でも良くはありませんが。
シンボリ家の皆様、貴殿のお嬢様だいぶ危ない子に育ってますよ。
『レアスキル 「鋼の意志」発動』
天「(心頭滅却心頭滅却心頭滅却……)」
天「……こういう事、俺以外の方にはしないで下さいね。
世の中怖い人達だって沢山いるんですから」
ル「ふむ……君は見かけによらず独占欲が強いタイプなんだな。
そんなに心配しなくとも私は逃げたりしないよ?」
天「……はぁ~~……」
ル「あはは、そんな顔をしないでくれよ。
安心したまえ。
こんな事をするのは君にだけだから、ね」
天「(そういう所だって言ってるでしょ)」
天「……あとシンボリルドルフさん。
しっぽ、凄くくすぐったいです」
重ね合わせた……というより捻り込んだふたりの手のひらを愛でるように、さらさらと撫でる鹿毛の艶やかな尾。
かと思えば、腕の中でわさわさと暴れ出したり。
カッターシャツの隙間から脇腹を小突いたり。
随分と手癖の悪いしっぽだこと。
いや、手癖というより尾癖か。
ル「ふふ。
びくびく震える君の反応が面白くてつい。
器用なものだろう?」
ご機嫌な様子でいつぞやのしたり顔を浮かべる彼女。
褒めてない、と突っ込みたい所ですが後が面倒なのでこの葛藤は飲み込んでおくとしましょう。
とはいえ、これはまだまだ可愛い方。
この悪戯好きで子供らしい一面も、いつもの彼女の荘厳たる様を引き合いに挙げれば所謂ギャップ萌えの範疇に収まる。
……どう転んでも収まらない物が、一つあるだけ。
天「……その、シンボリルドルフさん」
ル「うむ、何だい」
屈託なく答える彼女の顔は、いつの間にか睫毛が触れそうなくらいに間近に迫っていた。
舐るようにじっとりとした眼差しが何処までも吸い込んで、此方の距離感まで狂わせる。
うっかり気を抜くと、唇が重なってしまいそうで。
……それだけ距離が近ければ、当然こんな事故が起きるのも当然という訳です。
天「あたってます」
ル「何が?」
天「……色々と」
手を繋がれた方の腕に。
何やら柔らかい物が押し付けられている。
これはあまりに体裁が宜しくない。
傍から見れば……いや、最早どう転んでもセクハラとの認識が生じかねない。
実際の所は被害者は俺なのですが。
しかし、そんなものは所詮建前。
社会人としての苦し紛れの保身に過ぎない。
そういった物を全て差し置いた一個人として言わせて頂くと、もう本当に理性が爆発しそうでして。
お気付きでしょうか、先程から10秒に1回程の間隔で鋼の意志を乱発していることを。
俺だって男なんです。
この人俺の事家族か何かだと思っているのでは。
いや、それはそれで恐れ多いのですが。
嬉しいけど、嬉しくない。
だって、しつこいようですが仮にも男性に対してこの誘惑はいくらなんでも。
ル「あたっているね。
そこに何の問題が?」
問題しかない。
天「あたって、いるなぁと」
ル「あてているのだよ」
天「……ハイ」
もうやだこの人何言ってんのか分かんない。
こうして俺は考えるのを止めたとさ、めでたしめでたし。
……ともなる筈もなく。
めでたくないめでたくないだよバカヤロウ。
拙い。
時計に目をやれば、そこにはソファーに腰をかけてから30分も経っていない事を残酷に告げる2本の針。
そのたかが30分でこのザマとは、俺この後どうなってしまうのでしょう。
明日には彼女の腹の中に収まっていないかと心配になる。
正直、俺はシンボリルドルフさんの余りある攻撃力を舐めていたのかもしれない。
でも、たった一日でここまで距離感がバグるだなんて誰が予想出来たでしょうか。
昨日までは『ちょっと近いかな』くらいの距離だった。
それが、今となっては。
恋人繋ぎをされて、しっぽで悪戯をされて、特異点を越えて密着されて、頭を預けられて、腕に凶器を押し当てられて。
怒涛のフルコースを前にして、胸の中で渦巻く欲望の並を堰き止める堤にみるみる罅が走るのが手に取るように見えた。
いつもと違う散歩ルートに興奮した大型犬みたいなじゃれつき方をされる俺の身にもなって欲しいです。
大型犬にしては随分と顔が整ってらっしゃるようですが。
天「(……でも、ここで諦める訳には行かないんだ)」
貴女の攻撃力には感服しました。
皇帝たる者、甘えるのも全力という訳ですか。
脱帽です。
しかし白旗を揚げた覚えはない。
無論、揚げるつもりもない。
生憎俺にも譲れない物があるのです。
……ねえシンボリルドルフさん。
貴女は、俺の為に死ねますか。
俺の為ならいつ如何なる時でも、例えば俺が死ねと言ったら生命を手放す覚悟がありますか。
勿論、こんなメンヘラ沁みた虚言を面と向かって尋ねる訳が無い。
あくまで物の例えってやつです。
しかしいずれにしろ帰ってくる返事は、否でしょう。
でもね。
俺は死ねる。
貴女の為なら、貴女と居る今この瞬間にもこの首を掻っ捌く覚悟が俺にはある。
ハッタリでも建前でもない、本気で。
……俺の生命なんて、元より在って無いような物。
後先少ないこの生命に残された全てを薪に変え、いつか燃え尽きるその日まで貴女を護る炎であり続けると誓ったのです。
こんな俺の薄汚い生命でも、貴女の夢の礎になれるのなら、それより嬉しい事なんてある筈がない。
それだけの覚悟の有無が。
この一日に、生命を賭けられるか否かが、俺と貴女の差です。
負けませんよ。
貴女がどれだけ俺との距離を詰めようとも、その度に俺は心を滅す。
貴女がどれだけ俺に囁こうとも、その度に俺は鋼の意志を発動する。
何度だって、貴女に抗い続ける。
そうして俺に課された一日の試練を、俺は耐えきってみせる。
さあシンボリルドルフさん。
俺の理性を、鋼の意志を。
打ち破れるものなら打ち破ってみなさい。
この一日は、試練という名の闘いだ。
揺るがぬ覚悟をこの身に宿し、荒れ狂う誘惑の波を押し返す。
一日限りの同棲生活は、まだ始まったばかりだ。
夜が更けるのが先か、それより先に俺の覚悟が砕け散るか。
さあ、貴女の力を見せて貰いましょう。
それら全てを凌いで、俺は信念を貫いてみせる。
☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩☩
まるで空を掻いているような。
先程からトレーナー君へ様々な揺さぶりを仕掛けているにも関わらず、その全てに想像していたような手応えが付いてこない。
時折、微動だにしない鉄面皮の下で僅かに動揺が伺える瞬間はあるのだ。
しかし、その直後に何かがリセットされて、全てが無に帰す。
傾いては、また戻って。
少々分の悪いシーソーゲームの片棒を担がせられている気がしてならない。
この空回りの原因は何だろうか。
元よりトレーナー君の意志が堅い事など百も承知。
だがいくら何でもこれは合点が行きかねる。
何やら裏があると見た。
ル「(……もしや、アレか?)」
脳裡に過るのは、かねがね噂に聞いていた対ウマ娘用の最後の砦なる存在。
……トレーナー君。
君はどうやら由々しき思い違いをしているみたいだ。
それも二つ。
まず、一つは、鋼の意志の存在。
聞く話に拠ればどうやらこれは君達の切り札のようじゃないか。
とある女性トレーナーが、愛バの誘惑に悩める男性トレーナー陣を守るべく、人間用として改良したレアスキルの一種。
確かに、意中の人を自分色に染め上げている最中に再び白紙に戻されては、キリが無いというものだ。
だが、油断は感心しないな。
肝心の切り札に関する情報が、耳の効く私達ウマ娘に漏れていないとでも思ったのだろうか。
随分と前の話。
自らのトレーナーの不自然な落ち着きにいち早く睨みをつけたとあるウマ娘が、彼を力業で落とした。
そして、手中に収めたトレーナーから鋼の意志の存在を引き抜いたという。
その時の彼の心情は察するに余りある。
愛バの手によって陥落させられ、その結果仲間内の情報を吐いてしまった彼を、誰が責められようか。
そうして一人のトレーナーの
無論私もその内の一人であるが故、鋼の意志の存在は既に耳に入っている。
……件の可哀想なトレーナーは、少々薄情だったみたいでね。
鋼の意志における、致命的な弱点までご丁寧に教えてくれたよ。
状況や程度に関わらず、一切の煩悩を消し去り、無に徹する集中力を齎すという、強力なスキル。
レアスキルを名乗るだけの事はある。
だがあまりに強力であるが故に、ソレに費やすエネルギーは図らずとも増えてしまうもの。
あまりに乱発が過ぎてしまうと、クールダウンが間に合わずにオーバーヒートを起こしてしまうようだ。
そうなったが最後、鋼の意志はまともに機能なんてしない。
そうして盾を剥ぎ取った後は、お楽しみの時間という訳だ。
勿論それはトレーナー君だって例外ではない筈。
恐らく先程から鋼の意志を乱発し、何とか理性を繋ぎ止めているであろうトレーナー君。
後一押しで、その余裕も理性も、根から瓦解してしまう事だろう。
分かるかい?
君の持ってきた秘策とやらは、まるで筒抜けだったという訳だよ。
効果の持続時間、発動条件、それから弱点……何に至るまで、全てはこの手の中にあるのだ。
無論それを黙って聞き流してやれる程、私もお人好しじゃない。
これが、君の思い違いの一つだ。
そして思い違いはもう一つ。
私の覚悟への認識の程だ。
君はきっと、私の為ならいつ如何なる時でも、例えば私が死ねと言ったら何の躊躇いも無しに笑顔でその生命を燃やし尽くしてしまうだろう。
だから君は、最悪生命を秤に掛けてでも私の未来を尊重するという選択を取りかねない。
万人に等しく与えられし24時間の全てを私の為に費やしてしまうような人だ。
自惚れかもしれないが、君がとうの昔に抱いたその覚悟を私は知っているから。
だけどね。
君との関係に文字通り生命を賭けているのは、君だけじゃない事を君は知らない。
いつでも何処でも死ねるだなんて軽々しく言えた事でもないけど。
冗談でも口上でもない、本気なんだ。
きっと私達は、同類なんだ。
求め望んだ物の為ならば何だって簡単にぶら下げてしまえる。
その為の覚悟は愚かしい程に一途で、何処までも純粋だ。
そうでもなければ君と結ばれるのなんて夢のまた夢だから。
喩えその代償が生命だったとしても、ね。
……まあ、こんなのは勿論物の例えだ。
今この状況で生命を賭けるもへったくれもあったものじゃない。
ただ、それだけの覚悟が私にもあるという事だよ。
由々しき油断と、二つの思い違い。
これらを差し引けば、残ったのは二人の揺るぎない決意。
云わばこれは、覚悟のぶつかり合いなんだ。
君の覚悟の程は重々承知。
だがそれでこそ落とし甲斐があるというものじゃないか。
君が見せる抵抗を、君が掲げる覚悟を、その全てをへし折った上で、私は君を手に入れてやる。
徹底的に、完膚なきまでに。
そうして初めて、君は真に私の物となるのだ。
妥協などという言葉は、皇帝の辞書には存在しないのだよ。
その為にも、先ずは鋼の意志を溶かしてしまうに限る。
彼を落とす工程において、スキル等といった存在は邪魔でしかないのだ。
目先の結果を急ぐばかり足元を掬われては目も当てられないのでね。
髪一つの侵入さえ許さない程に密着したこの体勢から出来る事は、存外沢山あるものだ。
言葉責めに、悪戯。
その気になれば唇を奪う事だって不可能ではないが、事に及んだ後が色々と困るので却下。
ここは能う限りの高威力な手段で、最早虫の息である鋼の意志を一気に削り切ってしまうとするか。
レアスキルを一撃で捻り潰すだけの威力と、密着体勢から繰り出せるようなコンパクトさを兼ねた一手。
それは。
ル「えい」
天「うわっ」
滑り込ませるような形で、トレーナー君の上体を少々強引に引き寄せる。
均衡を失って此方に倒れ込む彼の後頭部を、太腿で迎え入れた。
ぽす、と柔い音を立てて収まった彼と目が合う。
そう、この形こそ遥か昔の江戸より男女に長らく愛される一手。
HIZAMAKURA。
天「………???」
目を丸く見開いて固まってしまったトレーナー君。
鉄面皮の彼には珍しい。
状況をまだ掴めていないのか、無言でお互いの瞳を見つめ合うという何とも不毛な時間が流れる。
天「……!? ………!! ……!?」
どうやら自身の置かれた状況を理解したらしく、手足がばたばたと暴れ始める。
声にならない声をあげて抗議の意を示そうとするも、なにぶん声になっていないので当然何を言っているか分からない。
よって無視。
天「あぅ ぁ、ぇと その……シンボリルドルフさん……?」
しどろもどろというかカタコトというか。
口をぱくぱくさせながら必死に紡ぎ出された声は、か細く震えていて。
いつもの大人の余裕は何処へやら。
寡黙で何処となくシニカルな空気を纏った彼の口から『あぅ』なんて声が飛び出すというのは、なかなかに唆られる物がある。
そんな彼も、普段とのギャップが相まってどうしようもなく愛おしいのだ。
ル「ああ、何かな」
天「その……これは、どういう……?」
ル「どうって……膝枕だが」
天「ああ膝枕でしたかそうでしたか……じゃなくて。
えっ、なんで。
いや、これは……その、流石に」
ル「良いじゃないか、減る物でもないのだし。
それに、一度君の顔をじっくりと眺めてみたいと思っていたんだよ」
そう言って、彼の黒水晶のような瞳の底を覗き込む。
ただ見つめ合うだけの簡素な行為だと言うのに、これ程の威力を発揮してしまうのは何故だろうな。
尤も、私も彼にこうして見つめられた日には、0.5秒で自らの両の眼を潰す自信があるのだが。
天「ち、近い。
シンボリルドルフさん、近いですッ……」
天「(こ、こんな時こそ鋼の意志……!)」
その瞬間、トレーナー君が瞼をぎゅっと瞑った。
鋼の意志を発動する予備動作と思われる。
でもね、
天「(発動……しない……!?)」
そのスキルが、限界を迎えるのは。
天「ぇ、あぇ、嘘……なんで……?」
あからさまに狼狽えるトレーナー君。
どうやら鋼の意志は蒸発したという事で決まりみたいだな。
これで君は丸腰。
片や私は膝枕という優位的状況。
宛ら君は、獅子の食事を待つ鼠という訳だ。
……だからと言ってそんなに美味しそうなカオをするんじゃない。
本当に食べてしまうぞ。
かくは言ったが、実際に美味しく頂くのはまた後の楽しみに取っておくとしよう。
鋼の意志がレアスキルは疎かスキルとしての機能を放棄した今、最善の選択は攻め込むより他ないのだからな。
トレーナー君、君はよく耐えた方だと思うよ。
でも、もう楽になりたいだろう。
君の理性を繋ぎ止めていた保身やら世間体やらも、今となっては君の首を絞める鎖でしかないのだ。
だから、今君を楽にしてあげる。
ル「トレーナー君」
天「ぇ、あ、はい」
ル「……君と出会って、早3年だ。
長いようで本当に短かった。
勿論私達の往く道はまだ続くけど、こういう節目だからこそ伝えておきたくて」
ル「色々な事があった。
全てが良い思い出だったとは言わないけれど、それでもこの両手に余る程の思い出を君に貰った。
……本当に、感謝しているよ」
天「は、はぁ」
ル「だけど最近、妙に思うんだ。
私は24時間の内、君とどれだけの時間を共に過ごして来ただろう。
精々一日の半分に満たないくらいだよ、きっと。
それなのに。
それなのに、私の思い出のどのページを繰ってもそれは他の誰かとの音とか景色とかじゃなくて、全て君がくれた物だって事。
……変だよな。
別に君としか過ごしてなかった訳でもないのに」
ル「それで知りたくなったんだ、私達の在り方を。
嬉しい日も悲しい日も、どんな日だって君は私の傍に居てくれたよね。
つかぬ事を聞くが……君は、私の事をどう思っているのだろうか」
天「……?」
ル「……私は、君の事が好きだ。
この3年間ずっとそう思っていたけど、改めて今日、やっぱり君の事が好きなんだなって自覚したんだ」
天「………」
唐突な告白。
ムードも脈絡も完全に置いてきてしまったが、拗らせに拗らせ続けた私にはきっとこのくらいがお似合いだ。
これが、この状況で能う限りの最大威力の行動。
後には退けない、横に逸れるのも腑に落ちない。
ならば前に突き進むのみ。
己の道は曲げない。
当意即妙ではあっても、芯は気骨稜々であれ。
望んだ物は、真正面から掴み取る。
これが皇帝のやり方だ。
更に、この手法ならばトレーナー君の反応が振るわなかった場合に応じていくらでも言い訳がつく。
異性としてではなく相棒として、とかloveではなくlikeの方で、だとか。
不本意である事に変わりは無いが、退路を自ら塞ぐよりかは幾分かマシだ。
……それにこれは、形だけの告白なんかじゃない。
この鈍感に私の本当の想いを伝えるには、張りぼての言葉では駄目なんだ。
この恋は、嘘じゃないんだ。
だから逃げも隠れもしない。
今、この場で。
私の心に芽生えた全てを、君にぶつける。
ル「大好きな君だからこそ、君の本当の気持ちが知りたい。
上辺だけの付き合いはもう充分なんだ。
だから……君の気持ちも、聞かせて欲しいな。
トレーナーとしてじゃなくて、
天「……うーん…」
言い切った辺りから、ネジが外れたように冷や汗と動悸が全身を這いずり回る。
知らずの内に握り締めていた手のひらには、痺れさえ覚えた。
それは緊張か、期待か、それとも。
何だっていい、この想いが伝わるのなら。
さあ、どうだ。
『シンボリルドルフが好き』とたった一言。
たった一言でいいから、言ってくれ。
何なら首を縦に振るだけでいいから。
天「んー……おれ……しんぼりるどるふさんは……。
むにゃ……」
瞼の幕を下ろして、何やら考え込むトレーナー君。
時折もぞもぞと頭の収まりを直したり。
無言を貫くかと思えば蕩けた声色でむにゃむにゃ言ったり。
動揺している、と受け取っていいのかな。
それも嫌な気はしないが、そろそろ本当に返事が欲しい。
胸を突き破らんばかりの情動が膨れ上がって、今この瞬間にでもどうにかなってしまいそうなんだ。
あまり焦らしてくれるなよ。
爆発するぞ。
ル「……」
天「………」
しかし、期待も虚しく一向に返事が帰ってくることは無い。
それだけならまだしも遂に微動だにしなくなってしまった。
永遠とも思われる沈黙が二人を包み込む。
ええと、私が参考にした恋愛映画では今頃抱き合っている頃だったと思うのだが。
アレか、マルゼンスキー一押しの物を参考の対象にしたのがいけなかったのか。
ル「……あの…トレーナー君?」
流石に不審に思い、彼の顔を覗き込む。
漣に揺られるようにゆっくりと上下する胸。
腹黒い物全てを忘れた幼子のように安らかな表情。
そして溶けるように漏れる甘い吐息。
ル「……まさか。
いや、まさかな」
試しに絹のような頬を指先でつついてみる。
んー、とくぐもった鼻声が抗議の意を示すが、それさえもどことなく曖昧だ。
日頃の不摂生の代償か、反発に乏しい感触が少々癖になりそうである。
しかし応答は無い。
よく手入れされた眉毛を流れに逆らって撫でてみる。
貴女の隣に並ぶ以上は、と着飾る事こそ無いものの身だしなみに余念のないあたりが彼らしい。
ちくちくと指の腹に刺さる感触がこれもまた面白い。
矢張り応答は無い。
私達ウマ娘にとっては物珍しい耳たぶをふにふにと弄ってみる。
柔らかいような硬いような、ひんやりしているようないないような。
えも言われぬ不思議な触り心地に図らずとも目が細まる。
一向に応答は無い。
……えっ、嘘でしょ。
そんな事ってある。
いくら唐変木な君でも。
よりにもよって、今この状況で。
ル「…………寝てる」
天「すぅ……すぅ……」
ル「……すーーー……」
……吐き捨てたい言葉は山程あるが。
先ずはこれだけ言わせて。
ル「このクソボケトレ─ナ───ッッ!!」
トレーナー君の眠りを醒ましてしまわないように耳を塞ぎながら、ありったけの思いをぶちまける。
いやいや。
だって、だって。
私だって恥ずかしくなかった訳じゃないのに。
いざ面と向かって想いを伝えるとなると、怖くて不安で堪らなかったのに。
でも、今しか無いと思って頑張って勇気を出したのに。
ル「ほんっっっっっとに君という奴は……!!
この鈍感! 唐変木! 堅物! 朴念仁!」
叫ぶだけ叫んだ所で、それで現実が好転するなら世話も無い。
他でもない私自身が分かっている筈の事だが、流石にこれは叫ぶなと言う方が無茶である。
仮にも一人の女が君に全存在を賭けた告白をしているというのに、その最中に寝るというのは一体どういった了見だろうか。
……最初から殆ど眼中に無い事は解っていたさ。
だが、こうも呆気なく遇われるといよいよ自信がなくなってくる。
矢張り私には興味すら無いという訳だろうか。
彼の目に映る私は『女』になりきれず『ただの教え子』といった立ち位置に甘んじているのだろうか。
だからと言って。
優しくするだけしておいて。
初恋を蹂躙するだけしておいて。
最後の最後で突っ撥ねるのはあんまりだ。
ル「せめて振り向くくらい……してくれてもいいじゃないかぁ……!
……ぇう……ひぐっ」
そう、私がどれだけ叫んでも君は何処か遠くを見ている。
遥か遠く、私の夢だとか『皇帝』の往く道だとかを見て。
置いてけぼりの私の方には決して振り向いてくれやしない。
酷い男だよ、君は。
それを無理矢理振り向かせるなどと息巻いたのは果たして何処の誰だったか。
その応酬が視界を涙で濡らしている今なのだから、全くもっていいザマだ。
……私は負けたのだよ、君に。
数多の勝利よりも語りたいとまで言わしめたたった三度の敗北に、新たなる墨を塗り足すという訳さ。
何時ぶりだろうな、五臓六腑の捻じ切れるようなこの屈辱にも似た想いは。
皇帝の名が聞いて呆れる。
……それでも、過去の汚点でもあり戒めでもある積み上げた三度の敗北が、前の向き方を私に教えてくれる。
確かに敗北というのは大きな壁だ。
だがそこで腐るようなら、最初から『皇帝』などという大言壮語を掲げたりしない。
ル「ぐずっ……泣くな。
今はそれよりもすべき事がある筈だ」
瞼から溢れ出しそうな泪を拭い、再び前を見据える。
敗北は敗北なのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
それは二度と消えない呪いとなり、この肌を灼いて焦がす刻印となるだろう。
なら、諦めるか。
たった一度の挫折でトレーナー君を諦める程、私の覚悟は取るに足らない物だったのか。
違うな。
そのような胡乱なる決意で皇帝を騙るなど笑止千万。
敗北さえも未来への糧にしてみせると、誓ったのだ。
これしきの些事で揺らぐような決意ならば、とうの昔に折れている筈さ。
弱気になる暇など無い。
泪を流す時間があるなら、その時間で少しでも多く、獲物を仕留める為の罠を張り巡らせろ。
牙を研いで、爪を尖らせて、次に喰らい付いた時に二度と逃がさない為の策を講じろ。
何時だって何度だって、私はトレーナー君の頸を狙い続ける。
私は皇帝であると同時に、君を喰らい尽くさんと欲して止まぬ色欲に塗れた獣であるのだから。
ル「……そうだよね。
疲れてたもんね、君」
それに、彼は一日の12割を私の為の研究に平気で充ててしまう
3徹や4徹なんてざらだ。
きっと今日だって、度重なる徹夜の附けが回って来ているのだと思う。
ゴミ箱に積もったエナジードリンクの骸の量、厚手のファンデーションを用いても尚隠しきれない隈、その他諸々を鑑みると3〜4日で済めばまだましなのかもしれない。
考えてもみてほしい。
数日に渡る徹夜明けに膝枕なんてされてみろ、これで夢の世界へ旅立たない者が居るのなら早急に精神科医の受診を推奨する。
水晶を敷き詰めたような好天も、ひょっとすると彼に安眠を与える為に躍起になっていたのかもしれない。
これらを踏まえた上で彼を一方的に責めるのも些か偲びない。
さしものトレーナー君と言えども正体は、全知全能などというレッテルを貼り付けた超越的な存在でもなければ、世の理からはみ出した筆舌も憚られるような人ならざる何かでもない。
身体的特徴こそ違えど男性とウマ娘間での生殖が可能である事が示すように、彼は私と限りなく近しい種なのだから、そこは致し方ないのかもしれないな。
……いや、全然致し方なくない。
いくら何でも一世一代の告白の最中に眠るというのは無神経にも程があるだろう。
君という男は、とことん私の恋心を弄ぶのだな。
無論、それだけの報いは後々然るべき形で贖って貰うのだが。
まあ過ぎた事を言っていても仕方が無い。
それはそれとして。
ル「……本当にぐっすり眠っているな」
耳を塞いでいたとはいえ、あれだけ叫んでも全く目を覚ます気配が無いというのは人間乃至生物として如何なものだろうか。
私としてはそれはそれで助かったのでいちゃもんをつける気は更々無いが、彼をここまで深い眠りに落とした原因である疲労の程が計り知れない。
休息もトレーニングの内、と説いてくれたのは他でもない彼だろうに。
充電切れを繰り返せばバッテリーが擦り減るのと同様に、日を追うごとに彼の身体には罅が入っていく。
何時かそこから穴が空いてしまえば、それは二度と塞がらない。
トレーナー君が目を覚ましたら、今一度口酸く物申させて貰うとしようか。
……とまあ、形骸化も甚だしい御託を並べ立てた訳であるが。
そんな事よりも今直ぐに君に忠告したい事がある。
ル「……随分と無防備なことだな、トレーナー君……?」
天「すぅ……すぅ……」
膝の上ですやすやと夢の世界の旅に興じるトレーナー君。
君が枕にしている者は、君を喰らってしまおうと涎を垂れ流す捕食者だというのに。
目の前にぶら下げられた餌を我慢出来る程、私は利口な生き物じゃないんだ。
そんな奴を前にして、この体たらくは不用心が過ぎないだろうか。
眼前に広がる誘惑の塊に、思わず固唾を呑む。
薄紅色の唇を、二度と命乞いが出来ないくらいに私の唇で塞いでやりたい。
漆黒のカッターシャツを剥ぎ取って、君の身体を構成する全てを嬲り尽くしたい。
君という名の美酒を搾り取って、飲み干してしまいたい。
堰を切ったように止めどなく溢れ出した情欲は、身と心を醜く爛れさせる。
君に恋をした日から綺麗に生きてきたつもりなんて無いし、醜悪なくらいが丁度いいさ。
現に先の私が、君に穢れてしまった何よりの証拠だ。
こんな様子では、トレーナー君は当分目を覚ます事は無いだろう。
そして此処はトレーナー室。
私とトレーナー君の2人きり。
ル「……いいのか?
《自主規制》とか《自主規制》とかやっちゃうぞ、いいのかー?」
天「……すぅ」
……沈黙は肯定と見なすべし。
そう古事記にも書いてあったと思う、多分。
書いてなかったら書き足すまでだ。
ル「……は、はは……ハハハッ……!
これは襲われても文句は言えないよなぁ……?」
……残念だよ。
君はもう少し頭が切れて、聡明だと思っていたのだが。
先に言っておこう。
これは危機管理能力を欠いた、君の落ち度だ。
今ここで私にナニをされても、君にそれを咎める事は出来ない。
生憎君と違って、私にはこの衝動を我慢してやる義理など無いのでね。
視線が薄くてらてらと光る唇に吸い寄せられる。
そうだな、先ずは味見といこうか。
……君は、初めてかな。
私は初めてだよ。
そう、君に捧げる為の、初めて。
君の初めても、これから頂くけどね。
太陽の微笑みが、二人を閉じ込めた。
照らされたふたつの唇は、何かで紡がれたようにその距離を撓める。
燃え上がりそうな程の、頬の紅潮。
閉じられた瞼の向こう側を錯覚してしまうくらいには、近い。
それなのに、引き寄せて、手繰り寄せて、縫い合わせるように。
どちらの物か、衝き破らんばかりの鼓動も、溶けてしまいそうな甘い吐息も。
全部、混ざってしまえば気にならないから。
少し骨張った顎を、小さく持ち上げて。
背を屈めて、薄紅の蕾に口づけを落とす。
睫毛が触れ合って、鼻の先がぴとりとくっついて。
最後に、唇を───
ル「…………」
ル「……いや……矢張り止めておこう」
唇が重なるまで、1センチ。
その隙間が埋まる事は無かった。
滑稽な程呆気なく、縮まった筈の距離は再び隔たりに変わっていく。
往生際の悪い後ろ髪を振り払い、小さく溜息を押し出す。
ル「……唇は奪えても、心までは奪えないもんなぁ」
何処かで迷っている自分が居たのだ。
このキスは、本当に二人を繋ぐ物になりうるのだろうか、と。
その自問に迷わず頷く事が出来ない内は、身体で繋がるべきではないのかもしれない。
意識のないトレーナー君に愛を刻み込んだって、返って来るのはきっと私の求めた答えなんかじゃない。
虚しさに心を削るくらいなら、喩え遠回りでも真っ向から戦った方が随分マシだ。
ただの口づけで君の心を奪う事が出来るのならば、それ程までに安い恋は無いさ。
唇や舌なんかじゃ届かない、もっともっと深い所まで。
全てを私の物にするまでは、この欲望は満たされない。
往々にして、どうやら私は『皇帝』の建前では隠しきれない程に我儘みたいなんだ。
我慢も待ったも、忖度も出来やしない。
底抜けの独占欲とそれを実現しかねない力という、共存すべきではなかった二つ。
恨むのなら、あろう事かそれらを同じウマ娘に授けてしまった三女神様を恨みたまえ。
天「ん………すぅ」
そんな人知れない一悶着の間に、寝心地を悪くしたトレーナー君が膝の上でもそもそとうごめく。
自分の唇が奪われかけたというのに、呑気なものだな。
万が一この先、私のような悪い女に目を付けられたらどうするつもりなのだか。
かくなる上はそんな事が無いように一生私が傍に居てやるしかあるまい。
うん、それがいい、そうしよう。
ル「……む」
その時、私はとんでもない劇物を目の当たりにする。
寝相を変えた結果、トレーナー君の首筋が露わになったのだ。
そう、雪のように白くて、皮膚の上からでも容易に確認出来る程に野性的な血管が走っていて、男性らしく隆々とした喉仏を携えた、あの首筋が。
視界に映る度に淫靡な妄想を掻き立てて私を悶々とさせた、あの首筋が。
思わず視線を丸ごと奪われる。
同時に、一度は封じ込めた筈の醜い情欲が再び焚き上がる。
火種を失くした篝火のように、ふつふつと。
それでいて、万物を灰塵に帰す煉獄のようにめらめらと。
恋と呼ぶにはあまりに爛れた、漆黒の焔。
唇で、君の心を奪う事は出来ないけれど。
でも、
……少し痛いけど、許してくれよ。
ル「………ぁむ」
本能の赴くままに、白魚の如き首筋に齧りつく。
一抹の汗の味と、それから鼻腔を満たして脳を焦がすどこまでも甘美な匂い。
酩酊も程々に、口に含んだ壊れ物に鋭く歯を沈めると、その主は鋭痛に身体を小さく捩る。
皮膚の突き破れる感覚と共にぶわりと口内に溢れ出した深紅の麻薬の風味が、内に眠る雌の本能を暴力的に呼び覚ました。
それでも私の元から逃れようとしないあたり、口にはされないが相当に私の膝枕は気に入られたらしい。
傷口に滲む血と汗、とめどなく溢れる唾液。
全てが滅茶苦茶に混ざり合って、最早どちらの物とも知れないそれらは、何処までも堕ちようと誘う。
裂けた皮膚に舌先を捻じ込んで中をまさぐると、ぐちゅりと肉の弾ける音が淫靡に響いて。
神経が馬鹿になって、視界がちかちかと明滅する。
耳としっぽの付け根あたりがきゅっと悲鳴をあげる。
ふるふると震えて止まぬ背筋が、爆ぜるような昂りを健気に訴え続ける。
下腹部の奥が、今直ぐに君を寄越せと切なく疼く。
飛び跳ねるように拍動を刻む心臓が、無意識に私を媚びさせる。
好き、好き、好き、大好き、愛してる。
全部、君の所為だ。
……罪の意識が無いと言えば、嘘になるのかも知れない。
実の所、自分でもよく分かっていないのだ。
それというのも、君が私をぐちゃぐちゃに乱した所為。
私の中の価値観だとか罪の基準だとかは、全て君が捻じ曲げてしまった。
だけど、何処まで堕ちたとしても寝込みを襲うなんて真似が褒められた物でないことくらいは流石に承知だ。
なのに、私は。
これ以上は駄目だと、ここから先は戻れなくなると分かっていても。
それでも、君じゃなきゃ駄目。
この胸の隙間は、君のカタチでしか満たせないんだ。
君は知らないかもしれない。
だけど、私は越えるべきでなかった一線をとうの昔に踏み越えてしまっていたみたいだ。
許されざる罪を犯す私を許して欲しい。
でもね、引き下がるには全てが遅すぎたのだよ。
口中で味わい尽くした劇物を嚥下し、閾を越える寸前の欲望を押し留めて
ここから先は、本当の意味で戻れなくなってしまいそうだから。
じわりと滲む血を舐めとるように、舌を這わせる。
掃除と称するには少々至らない、ほんの気持ち。
痛かっただろうに、済まないな。
ル「ぷはっ……♡」
唇を銀色の糸が紡ぐ先には、残酷なまでにくっきりと刻まれた、証。
その傷は、赤い糸と呼ぶにはあまりに仰々しい──。
そう、言うなれば二人をきつく縛り付ける鎖の様に思えた。
ル「……つくづくどうしようもない女だよ、私は」
そして、私はその刻印に笑みを浮かべる。
救いようのない程に君を愛した愚かさを、噛み締めながら。
善か悪か。
通り一辺倒な話でこそあるが、私は後者に分類される自覚はある。
皆の幸せを願う気持ちに偽りは無いが、その裏で私自身の幸せを天秤に掛けているのもまた事実なのだから。
清廉潔白な生徒会長だなんて、真っ赤な嘘。
化けの皮を剥がせば、君にとことん染められた醜い雌の登場さ。
でも、今の私は中途半端。
己の欲望に素直になれず、堕落を迷う自分が何処かに居るんだ。
しかし私は、既に一歩を踏み出した。
後戻りは出来ないし、する気もない。
それならば、堕ちる所まで堕ちてしまうとしようじゃないか。
君の首の噛み跡は、誓い。
君をもう逃がさない為の、それから私がもう迷わない為の。
君の瞳に私がどう映っているのかは分からない。
もしかすると眼中にすら無いのかも知れない。
二つしか離れていなくても、私は子供。
それに対して彼は、分別のある『大人』で、全てに責任の伴う『社会人』で。
そして何より、私の事を大切に思ってくれる『トレーナー』だから。
だから、だからこそ。
私は君を、危険に晒したい。
その鉄壁の保身を噛み千切って、揺らいだ決意の隙間に漬け込みたい。
姑息とでも卑劣とでも罵るがいい。
そんな減らず口も今日が最後と思えば名残惜しくもある。
今日中に、カタをつけてやろう。
不毛な押し問答を長々と続けるつもりも無い。
一日中一緒に居られる機会なんて、この先どれだけあるか分からないからな。
尤も、相手は告白の最中に眠るようなボケナス鈍感トレーナー。
一筋縄では行かない事など百も承知だ。
だからこそ、落とし甲斐があるというものだろう。
……まあ、あまり気負いが過ぎても頂けない。
二人きりの時間をゆっくり楽しもうじゃないか。
だって──。
ル「一日限りの同棲生活は、まだ始まったばかりなのだからな」
血塗れた舌なめずりが、トレーナー室に妖しく光った。
どうも。
長いっ。
3万字弱は流石に長過ぎるっ。
キスはダメでも噛むのならOKというよく分からない皇帝を書いてしまいました。
コンプラ的にどうなのかなと悩みましたが、あくまで本作はいちウマ娘ファンという立場の上での執筆であり、モデルとなったご本人(馬)のイメージを損なわせるといった意図は全く無いので投稿させて頂く事にしました。
拙いと思ったらすぐ消します。