白昼の微睡み。
空は、手抜きの水彩画みたいにただただ碧い。
悩みだとか憂いだとか、そんなの永久の空の下には単なる煩瑣に過ぎないのだとつくづく思う。
そしてこんな日に見る夢は、決まって曖昧だ。
目を醒ませば、夢を見たという記憶さえあやふや。
無論内容なんて覚えてる訳ない。
そうして星の数程夢が生まれて、それと同じくらいの夢が散っていく。
夢の中で会った人、眺めた光景、刻んだ言葉。
その全てが、滑稽なほど呆気なく砂に埋もれる。
欠片の一つだって残してくれやしない。
でも、別に残念とは思わないんだよな。
寧ろその逆。
だって、今まで見た夢の全部をいちいち覚えてたら気疲れしそうだ。
良い夢もあれば俗に言う悪夢だって然る訳だし。
いずれ消えて無くなるからこその美しさというか。
限りある物だからこそ、その一瞬を愛おしく思えたりするんじゃないかな。
……で、えーと、今何時だっけ。
いや、どうでもいい。
考えたくもない。
度重なる徹夜の置き土産と言うべきか、慢性的な不眠症を自覚したのもかれこれ3年前の事。
そんな中での快眠ほど有難い物は無い。
レース研究、書類の整理、トレーニングメニューの調整、文献の乱読。
積もる仕事は山のようだが、別に緊急のタスクでもないのだし。
それよりも一期一会のこの快眠を切り上げる方がよっぽど非効率だ。
それというのも、枕がふかふかなのが全部悪い。
ふかふかと言っても、しっかり反発もあって。
何だか人肌の様な温もりも備えていて。
まるで人を眠らせる為だけに存在しているような一級品の枕だ。
こんな枕があったら、無限に寝られそう。
無限とまでは行かなくても、今日くらいは気が済むまでとことん惰眠の限りを貪って───。
……あれ。
俺、トレーナー室に枕なんて置いてたっけ。
天「ん、ぅ……」
ル「……あ、おはよう。
よく寝ていたね」
天「うおっ」
看過し難い違和感に目を覚ますや否や、眼前にはあろう事か枕にしていたであろう人物の物と思われる紫水晶の双眸。
寝起きとは言え、いや寝起きだからこそこれは心臓に悪い事この上無い。
随分ご大層な目覚ましだこと。
天「わわ……ごめんなさい。
まさか眠ってしまうとは……どこか身体に痛い場所は……」
ル「ふふ、相も変わらずの心配症だ。
気持ちは嬉しいがそんな事では気が持たないぞ?」
それに少々楽しませて貰ったしね、と頬に手を当て恍惚とした表情を浮かべる彼女。
置いてけぼりにされてる感は否めないが、楽しんで貰えたのなら何より(?)です。
……そういえば、何やら首筋がズキズキ痛む。
寝ている間に無意識の内に引っ掻いてしまったのかもしれない。
不眠症の次は睡眠行動障害と来ましたか。
難儀なものです。
天「しかし、貴女の制服に皺が」
ル「何、これしきの皺はアイロンを回せば直ぐに伸びる。
それまでは着替えれば良いだけの事さ。
……着替え……。
……着替え?」
天「……どうされました?」
ル「……いや、着替えの一つくらい持って来れば良かったな、と。
流石に一日中制服で過ごすのも考え物だしね」
ここは制服に皺を付けてしまった落とし前として、私服の一つでも貸すのが筋なのかもしれない。
しかし、そうはさせないと言わんばかりに障害が立ち開かる。
私服なんて物をこの俺が持っている訳が無いのです。
生活は全てビジネスカジュアル系の服装で事足りますし。
そもそも業務外の目的で外出する機会すらも一年に一度あるかないか怪しい所。
21の若々しい男がソレはどうなのー、と一度式間さんからお叱りを頂きましたが、矢張り俺の方針は業務最優先に落ち着くのです。
天「あー……俺、私服とか持ってないんですよね。
俺が普段仕事で着てるシャツならありますが──」
ル「ッ!
是非貸してくれ!!」
天「わっ、謎の食いつき……」
罪滅ぼしの提案にやや食い気味に返ってきたのは、予想以上に乗り気な返答。
別にそこまで目を輝かせるに値する物でもないでしょうに。
とは言え、彼女が望むのならばそれを断る理由など無い。
天「仕事で着てる、と言っても俺が今着てるのと同じ物しかありませんが……とりあえず持ってきますね」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
ル「……大きい」
分かっていた事ではあるが、それでも言葉にして噛み締めたい。
知的生命体の性だ。
自らのトレーナーのシャツを着る。
たったそれだけの行為が『トレシャツ』といったタグと共にウマッターでトレンド入りしてしまう程に一部生徒から絶大な人気を博しているのも肯ける。
彼は177cm、私は165cm。
余りに余った裾や襟から少々際どい部分がちらちらと顔を覗かせるが、それで目のやり場に困るのはトレーナー君だけなので良しとしよう。
尤も三大欲求に著しく乏しい彼に、そういった欲が存在するかどうかも怪しい所ではあるのだけれど。
男性用に仕立てられた物なのだから、尾に覆い被さる程にぶかぶかなのも至極当然。
だが、その着心地の悪さがどうしようもなく愛おしい。
何だかトレーナー君に抱きしめられているみたいで耳の付け根辺りがきゅっと疼く。
ふと顔を上げると、鏡に映る女の顔は酷く蕩けていて。
はしたないな、これは。
福笑いをつつく様にどうにかして表情を元に戻して、今一度漆黒のカッターシャツに身を包んだ自分を見つめた。
くるくるとその場で回ってみる。
新手のワンピースかと見紛う程の裾がひらひらと宙に舞って、心做しかまた頬が緩んでしまいそうだ。
いや、多分もう緩んでる。
アグネスタキオンの白衣にも引けを取らぬであろう袖で顔を覆ってみる。
ふんわりとした柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。
だだひとつ難点を挙げるのであれば、それがトレーナー君本人の匂いではないことくらいか。
まあいい、そんなのは直接嗅げば済む話だ。
今度はトレーナー君の癖である仕草を真似してみる。
喉仏を弄りながら、困り顔でこてんと首を傾げる。
うん、我ながらなかなかの再現度だ。
髪を濃い芦毛に染めて、そこに甘ったるい『ん~』とか『えぇ……?』の声を足せば完璧である。
ル「……。」
……往々にして、興醒めというのは突然やって来るものだ。
子どもの様にぱたぱたと遊ぶ自分の姿を俯瞰すると、物凄く恥ずかしくなってきた。
こう……スンッ、って感じ。
恥じらうくらいなら初めからするな、シンボリルドルフよ。
浮かれてしまうその心中は良く分かるのだけれど。
まったく、こんな所をトレーナー君に見られでもしたら──
天「……あの、俺居るって事忘れてませんか」
ル「あ」
……巷で言う『フラグ回収』とはこの事かな。
ル「……ど、どこから見ていた」
天「『大きい』って言いながら袖ぱたぱたしてる辺りから」
ル「全部じゃないかぁ……」
集中すると途端に盲目になるのは私の難癖だ。
鏡に映る自分にどきどきしていたのも、トレーナー君の服に身を包んでいるという事実だけで新たな扉を開きそうになっていたのも、全部見られていたという訳か。
うん、もうお嫁に行けない。
いっその事君が貰ってくれ。
ル「……えっと、その。
に、似合っているかな」
天「似合ってますよ、凄く。
かわいいですね」
子どもを見守るかのような生暖かい視線がかえって沁みる。
シンボリルドルフ、一生の不覚だ。
この際、物理的に忘れさせてしまおうか。
斜め45度で脳天に拳を放り込めばどうにかなるかもしれない。
大抵の物は叩けば直るのだよ。
それに事実は揉み消せなくても、目撃者は揉み消せる。
ル「……済まないな、トレーナー君。
名誉と威厳の為だ、少々眠ってもらおうか」
天「……あれ、シンボリルドルフさん。
どうして此方に向かって……こ、拳を下ろして。
ストップストップ」
ル「大丈夫、痛くないようにするから……」
天「そういう問題じゃない……!?
そもそも自分から目の前で着替え始めておいて何をあー誰かー愛バに殺られる──」
\~~~~♪/
……本来昼休憩を告げるためのチャイム。
休校にも関わらず、どうやらそのシステムだけは健気にも動いているようだ。
そして突然鳴り響いたそれは、出張中だった正気を少々乱暴気味に引き戻した。
ル「あっ……す、済まない。
その……忘れてくれ、全部」
天「えぇ……?
助かった……のでしょうか」
諄くなるが、集中すると途端に視野が狭くなるのは私の難癖だ。
その上そんな事で愛する人を傷つけるとあっては目も当てられない。
この先勢いで撃ち落とさねばならない時もいずれ訪れるのだろうが、その時まではTPOを弁えた、堅実なアタックに努めるとしよう。
天「……もうこんな時間ですか。
何もせずに昼になってしまいましたね」
ル「ああ、本当だ。
でも、今日くらいは適度に自堕落な生活もいいじゃないか。
互いに多事多端の身だ、何処かしらで息を抜かないと肩が凝ってしまうよ」
天「この学園に身を置く以上なかなかそうも行かないものですが……まあ、ちょっとくらいはね」
そう言っておもむろにソファーから身を起こし、立ち上がった彼は壁にぶら下がるエプロンを手に取る。
それを首に掛け、背で紐をくるくると結ぶ手つきは心做しか手馴れているように思えた。
天「ああそうだ、アレルギーとかってあったりしますか」
ル「? 無いけど……」
天「良かったです。
それじゃ、昼食を作るので待ってて下さいね」
ル「……昼食、頂いてもいいのかい?」
天「はい。
ただ所詮は独り身の男が作る料理ですし……期待は駄目ですよ」
期待するに決まってるじゃないかァッ!!!!
と叫ぶのをぐっと堪える。
だって、だってだって。
愛する人の手料理ならば、出来なんてどうでもいい。
この世のどんな高級料亭を巡った所で、口にする事の叶わない味がそこにあるのだ。
それに、恐ろしく自己評価の低い彼の事だ。
此方の期待はいつも三倍返しが相場。
本人こそああは言うが、そもそも調理師免許を取得している時点で腕前の程は立証済みなのである。
ああ、どうしよう。
こんなに食事を待ち遠しく思うのは20年弱の人生において初めてだよ。
弁当を作らずに寮を出た今朝の私に盛大な賛美を贈ろう。
彼に限らず、この学園に在籍するトレーナー方の一部は自宅を持たずにトレーナー寮に住居を構えている。
そしてそのまた更に少数、そのどちらも持たずにトレーナー室に住み着くという頭のネジの飛んだ輩が一定数存在するという。
……エプロン姿でコンソメキューブをつまみ入れる灰色の髪の彼が、その筆頭だ。
尤も彼に関して言うと、家は持っているのだが帰宅に要する時間を『非効率』と切り捨ててしまったと聞くのだけれども。
要するに、私が彼と出会ってから3年、府中郊外のアパートの一つはなかなか帰らぬ主をひたすら待ち続けているという訳だ。
そうして捻出に捻出を重ねた時間は一秒たりとも余さず私の為の仕事に充てられるという。
私としては嬉しい限りだし、感謝してもしきれないが、彼の身を考えると自己犠牲も大概にして欲しいというのが率直な意見だ。
『血無くして革命在らず』
世を変える時、必ずと言っていい程人の血が流れた。
この世の本質は、何処まで行ってもギブアンドテイク。
失う覚悟も無しに望むことなど叶わないのだ。
私の覇道にもまた、少なからずして犠牲を求められる時が訪れている。
トレーナー君という大きな犠牲。
それを欠いた私はきっととうの昔に皇帝という大言壮語に圧殺されていた事だろう。
今だってそうだ、彼の血肉を礎に私は頂を臨んでいるような物。
彼の言う通り、これは必要な犠牲。
そんなの、重々承知だ。
……それでも。
それでも、彼は私にとってたったひとりの大切な人なんだ。
彼の身体から響く断末魔にも似た叫び。
目に見えてすり減る彼の魂。
ぼろぼろになって崩れていく彼の身体。
当たり前のように踏みつけてきたそれらを掬い上げた時、私はどうしようもなく押し潰されそうになる。
夢を叶える為に大切な人を痛めつける事が、どれだけ辛く悲しく、そして痛い事か。
耳を塞いで、目を覆って、布団の中で痛みにただただ震えて枕を濡らした夜はもう数える事もしなくなった。
必要な犠牲だと振り切れないのは、不器用だからでもなければ覚悟が足りないからでもない、本当に彼の事がかけがえのない大切な人だからなんだ。
……こんな時、皆はどうしているのだろうか。
度を越して献身的なトレーナーのよく見られるこの学園には、もしかしたら答えが転がっているのかもしれない。
今度、マルゼンスキー辺りに相談してみよう。
きっとナウでヤング?な助言が貰える筈だ。
まあ、それはそれとして。
話は逸れたが、彼のようにトレーナー室に住み込みで勤しむトレーナーも一部存在するので、基本的にここの設備は充実している。
そう、下手な漫画喫茶店よりは居心地が良いくらいには。
何故かキッチンが完備されているのもその為だ。
そんな充実したキッチンにトレーナー君が立つ。
あっ、と小さく呟いた彼はポケットからヘアゴムを取り出し、清潔感を損なわない程度に伸ばされた前髪をかきあげ、後ろで結った。
その所作に、思わず吸い寄せられるように見入ってしまう。
……トレーナー君は、相も変わらず端正な顔立ちをしている。
どことなくシニカルな雰囲気を纏い、餓狼を彷彿とさせる切れ長の目。
両性的な空気をも匂わせるその顔付きとは裏腹に、筋肉という名の鎧に引き絞られた首筋に走る脈が、矢張り君は男の人なんだと顕著に主張する。
綺麗な君も、雄々しい君も、私の初恋を盗むには充分過ぎた。
尤も、一番罪深いのはその底抜けの優しさなのだが。
それと、最近の彼は表情が豊かになったと思う。
出会った頃なんてぶっきらぼう、無愛想、無表情の三拍子だったのに、今となっては。
……ほら、今私と目が合った時、優しく微笑み返してくれた。
ただし、それは私の前だけ。
気を許した者の前でない限り、彼の仮面は剥がれないみたいだ。
私としてもその方が都合が良い。
私だけの知るトレーナー君の素顔を、誰とも知らぬウマの骨と共有するなど万一にも御免だ。
そのような事があった日には、たちまち私の身は嫉妬という名の黒く醜い焔に焼き尽くされてしまう事だろう。
……そしてこれはトレーナー君の微笑みを見て思った事なのだが、エプロン姿で料理を嗜む彼の姿は、正しく世の女性が思い描く理想の男性像にぴったり重なるのではないだろうか。
男性の好みなど千差万別だが、矢張りそこに集団がある限りマジョリティが生じるのは摂理というもの。
『理想の旦那』という論点でおくと彼は断然そちらに分類されるのだろう。
ましてや家庭力もあるなんて。
よし、私の夫になるといい。
うん、それがいい。
そんな事を考えていると、キッチンから爽やかな香草の香りが立ち上った。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
天「どうぞ、召し上がれ」
ル「……す、凄いな」
天「玄米のパエリアと和風グラタンスープ、ついでに残り物でマカロンも作ってみました。
貴女のお口に合うかは分かりませんが……」
眼前に広がるのは、美術品のように美しさすら感じる料理の数々。
殺風景を極めたテーブルの上に、急激に彩が蘇る。
それは味も然る事乍ら、外見も料理という一種の芸術を構成する要素の一つであるという事を体現しているようだった。
天「冷めないうちに食べてしまいましょうか」
ル「ああ。
私もね、もう待ちきれないみたいだ」
天&ル「いただきます」
透き通ったきつね色のスープをスプーンで掬い、口に運ぶ。
ル「……!」
次の瞬間、弾けるようで、それでいてふわりと優しい甘みが水風船のように口中に溢れ出した。
さらさらと流れるような舌触りに加えて、そよ風のようにふっと吹き抜ける小麦の香り。
そこにこれでもかと出汁を効かせた旨みが加われば……なんかもう、すごい。
語彙力ごと出汁の海に沈めてしまうくらいには、美味であった。
ル「……美味しい」
天「それは何より」
そのまま手繰られるようにスープを泳ぐパン生地を口にする。
口中でじゅわっと溢れ出す風味の爆弾に、順調に籠絡されていくのを肌で、いや舌で感じるが一向に箸は止まる気配を見せない。
寧ろ加速の一途を辿るばかりだ。
ル「……美味しい……!」
天「二回言って頂かなくても」
いいや、何度でも言わせて貰おう。
美味しい。
私とて料理について暗い訳でもない。
時々自身の弁当を作っていくという身としては寧ろ明るい部類に入るというのが世間一般の見解だろう。
だからこそこういったスープ系は味が刺々しくなってしまいがちなのは、私もよく知っている。
だがこのスープはどうだ、いくら探った所でトゲトゲの『と』の字も見当たらないではないか。
シンボリ家直属の一流料理人にも一切の引けを取らぬ、寧ろ先を往くその味にはただただ風味絶佳の一言に尽きる。
ターメリックの芳しい香りが吸い寄せるままに、今度はパエリアへとスプーンを伸ばす。
ぱくりと口に入れた瞬間に広がるのは、玄米の素朴な味わい、香辛料と香草の均衡のよく取れた香り、それから魚介の物と思わしきコクの塊。
それらが幾重にも織り成す風味が、所狭しと跳ね回る。
そう、言うなればこれは味の暴力だ。
ル「美味しい……」
天「煉獄さんですか貴女は」
ル「いや、ほんとに。
もしや君、何処か名のある飲食店で経験を積んでいたとか」
天「ご冗談を。
俺がこの職に就いたのは18の頃ですよ。
バイトの許されない高校でしたし」
ル「……出た、やろうと思えば何でも出来てしまうその才能。
全く羨ましいよ」
トレーナー業は勿論の事、電子工学、考古学、心理学、物理学、化学、プログラミング、スポーツ、重機操縦、教師、極めつけには医師免許。
ほんの一部に過ぎないものの、精通する分野としてこれらを列挙すれば彼の傑物ぶりが見て取れるだろう。
これにはまことしやかに囁かれる『変態』の通り名にも頷ける。
百歩譲ったとしても21歳のキャリアではないな、これは。
ル「人には得手不得手が然って当然と言うが……遂に君は世の理にも抗うか」
天「やだなあ、苦手の一つくらい俺にだってありますよ。
何処ぞの万能神でもないのですし」
ル「おや、意外だな。
そんな素振りを微塵も見せないものだから……例えば?」
天「……絵、とか。
いえ、俺自身はちゃんと描いてるつもりなのですが、一般にはなかなか俺の感性は度し難いみたいで」
そう言って彼はスマホを差し出す。
ル「これは……?」
見ると、赤黒い粒が渦巻いており、所々に白骨の様な形容し難い何かが散らばっている。
中央にはぎょろりと血走る目玉らしき物が3つ佇んでおり、禍々しさすら漂わせる。
何と言うべきか、見ていて全身の肌という肌が引き攣るようだ。
辛うじて絵であることのみは分からなくもないが、とても正気で描いた物とは思えない。
新手のテロリズムにでも使えそうだ。
ル「……君が、描いたと」
天「はい。
昔式間さんに誘われて学園主催の絵画コンテストに出品した作品です。
如何でしょうか」
ル「うん、当時目眩や嘔吐等の体調不良者を続出させ、学園中を軽い阿鼻叫喚の嵐に変えたトレーナーというのは君の事だったんだね」
よもや自分のトレーナーがテロリストであったなどと誰が考えようか。
何故世に放ってはならない特級呪物をあろう事か学園に貼り出したかは理解に苦しむが、報せを聞いてコンテストを即座に打ち切った生徒会長の即応力を褒めてほしい。
ル「因みに題材は何だい、これ。
地獄絵図? 三途の川? それとも──」
天「猫です」
ル「そうか猫……そっか……うん……」
天「……如何でしょうか」
ル「金輪際筆を持たないでくれ」
天「ああ、矢張り貴女にも理解して頂けませんか……」
『やれやれ仕方ないですね』とでも言わんばかりの表情には何とも腑に落ちかねるが、もうこれ以上突っ込まないでおいてやろう。
彼にとって涼しい顔で禁忌を生成している自覚は微塵も無いのだからな。
他の事に能力値を振り過ぎるとこうなってしまうのか。
世はよく出来たものだ。
ル「ええと、その……絵が描けなくても生きていけるさ。
寧ろそれしきの苦手なんてご愛嬌の範疇だ」
そういう問題じゃないんですよね、とぼやくトレーナー君。
だからと言って練習などされた日には死人が出るぞ。
彼に二度と筆を持たせてはならない。
絶対に。
そう強く心に誓った。
一気に消え失せた食欲を、至極の一口で取り戻す。
絵と呼ぶのも憚られるようなかのブツも忘れさせてしまうくらいに、幸福感が上書きを連ねる。
先程までとのギャップもあってか、心做しか一口目よりも素晴らしい物に感じた。
ル「どうしたらこんなに美味しく仕上がるのかな。
使っている物は私と一緒……だよな」
天「ええ。
パエリアには魚介類をふんだんに配いました。
パエリア自体ややカロリーの過剰が目に付く料理ですが……玄米と魚介を使用すればかなりヘルシーに仕上がります。
和風グラタンスープには玉ねぎの代わりに長ネギ、それからパンの代わりに焼き麸。
そうすることでエネルギーの過剰摂取を抑えつつ、タンパク質もしっかり摂れるんです。
丁寧な裏ごしがまろやかさの秘訣ですよ」
ル「食事は私達アスリートの資本だからね。
君のようなトレーナーが居れば私は怖い物無しだよ」
天「勿体なきお言葉を」
残り物で作ったというマカロンも、ほんのりとした甘い香りが何とも癖になる。
ほうれん草やにんじん等の様々な風味が舌を蕩かすが、その全てが見事にひとつに纏まっている。
一応それらは『青臭い』と評される、ヒトの味覚にはどうしても合わない物。
しかし彼にはウマ娘の好む味などとうに把握されてしまっているのだ。
冷蔵庫の掃除から異種族の味覚まで、彼に死角などあろう筈もない。
全く恐ろしい男だよ、トレーナー君。
ル「もぐもぐ……ん」
天「……」
無我夢中のままスプーンを進めていると、じっと見入るように向けられた彼の視線に気付いた。
あまりに目の前の手料理が良く出来ているものだから、思えば物凄い勢いで食べ進めてしまっていた。
少々はしたなかったかもしれない。
ル「……トレーナー君、そんなにまじまじと見つめられると……ね」
天「ああ、申し訳ありません。
女性の口元を凝視するのは頂けませんよね」
ル「いや、私は構わないが……沢山食べる女は嫌いか……?」
天「はは、滅相も無い。
いっぱい食べる君が好き、ってやつですよ」
ル「ん゛ぐッ」
天「お、落ち着いて。
ほらお水」
差し出されたグラスの中身を勢いよく喉に流し込む。
『落ち着いて』か。
誰がこうさせたと。
喉の異物感が抜けた事を確認して、精一杯の抗議の視線で彼を避難する。
ル「……君、そういうのはあまり他所で口走ってくれるなよ。
既知の事とは思うが、今も昔もこれからも君は私の ・・トレーナーなんだからな」
天「ええ、恙無く。
そもそもこんな事、貴女にしか言いませんよ」
ル「ん゙ぐッッ」
天「デ、デジャブ。
お水お水」
ル「ごくごく───ぷはっ……!」
あ──も──。
本ッ当にずるい。
これはいつか一回痛い目を見せないとこの先誰とも知れぬウマの骨にあらぬ勘違いを植え付けかねないぞ。
いや、そうなる前に彼を私の物にして、勘違いを勘違い止まりで済ませてしまうか。
となると、これはどうやら悠々としている暇は無いみたいだ。
この食事が終われば、狩りの時間の再開だ。
首でも洗って待っているがいい、トレーナー君。
ル「...…まあいい。
君は人脈は狭くとも人望と人気は一頭地を抜くのだから、くれぐれも発言には気を付けてくれたまえ」
天「今さらっと人脈狭いって……。
まあ、事実ですけどね」
カツンッ……
ル「ぁ……」
天「……おかわり、ありますよ」
ル「……是非、お願いしようかな」
天「はい。
今装って来ますね」
でもまあ、もうちょっとだけ。
もう少しだけこの時を愛でるのも悪くはないだろう。
どうも。
いいよね、彼シャツルドルフ。
妄想が捗ります。