【毒】に沈め 作:トリカブス
「また、討伐済み、ね……」
バツ印が浮かび上がった手配書を豪奢な机の天板に放り出して、紅髪の悪魔はその端正な顔立ちの眉間に皺を寄せた。
彼女、リアス・グレモリーは悪魔の貴族である。学生身分であると同時に、この駒王町は彼女の領土だった。
領土、という事はその運営もまた彼女の手腕にかかっている。その一つが、はぐれ悪魔の討伐だった。
様々な理由から離反した悪魔たち。そんな彼らをはぐれ悪魔と呼ぶのだが、ここ最近と言わずリアスへと回される案件が既に討伐済みであることが何度となくあった。
討伐などという危険な目に遭わなくていいではないか、と思われるかもしれないが、しかしそうではない。
討伐されるはぐれ悪魔は、その等級に規則性が無い。
A級以上とも目されるような存在から、C級以下の不意打ちを食らったとしても容易に対処できるような存在迄。実に様々。
問題なのは、それらはぐれ悪魔達を討伐出来る存在を、リアスが把握していないという事。
敵か、味方か。そもそも人間なのか、それとも他種族なのか、それすら把握できていない。
管理を任される側としては、煮え湯を飲まされているような物。
「少しは休んではどうです、リアス」
「朱乃……」
湯気の立つカップを持ってきた黒髪の彼女、姫島朱乃の登場にリアスは肩に入っていた力を僅かに抜く事が出来た。
「情報の方はどうかしら」
「芳しくありませんわね。周囲には、防犯カメラなども無く、目撃者はゼロ。もともと移動範囲が広い上に無軌道で動く対象でしたもの。どうしても、使い魔の監視を抜けてしまって……」
「そうよね。幸いなのは、大きな戦闘にならない事かしら。だからこそ、見つからないと言えるのかもしれないけど、けれど必要以上に周辺被害が出ていないのは良い事ね」
「不自然でもありますけれど、ね。A級以上のはぐれ悪魔を周辺被害をほとんど出すことなく、その上私たちの監視網にも捉えさせずに討伐を可能とするだなんて」
「可能性としては、神器使いかしら。それも、神滅具クラスかもしれないわ」
「ですが、それこそ監視網に引っかかる筈では?それほどの力の波動なら、私たちも感知できるでしょうし」
会話は、堂々巡り。
魔法以上に不思議な事を起こせる
どちらも、独特な力の余波というものがある。特に後者。
しかし、朱乃が言うように今回の件はそれらを一切感知していない。それどころか、昂る魔力なども一切。
だからこそ、頭を悩ませているのだ。
「とにかく、町を見張る使い魔の数を増やしましょう。相手の能力が分からない現状、人海戦術しかないわ」
結局、採れる方針などそれ位しかない。
彼女らにとっての幸いは、件の犯人が悪意を持って事を成していないという点。
不幸は、その誰かは彼女らにとって
暴かない方が幸せな事というのが、この世には確かにあった。
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「――――へっくしゅんッ!……?」
鼻をすすり、薬師孝明は首を傾げる。
左手に提げたエコバッグには、少し離れたスーパーで買った食材その他が入っていた。というのも、忙しい両親に変わって家事をする孝明なのだが、割と彼は凝り性。
家の近くにもスーパーがあるのだが、そこの野菜全般の品揃えの悪さから場所を変える程度には家事を楽しんでやっている。
勿論、冷凍食品や刺身などの足のはやい食べ物は近場で買う。余計なドライアイスなどは冷凍庫の圧迫につながると知っているから。
そんな帰路に就いたこの時間、孝明は風邪でも引いたかと考え、同時に自分でその可能性を切り捨てていた。
というのも、生まれてこの方、彼は病気という病気に罹ったことが無い。
薬師孝明という肉体に宿った【毒】というのは、彼にとっての所謂“免疫機能”も兼ねていた。
要は、病原菌だろうと、病魔だろうと、薬師孝明を蝕むありとあらゆる病気が、【毒】による攻撃対象であるから。風邪菌だろうとインフルエンザだろうと、そのウイルスを殺す【毒】があった。
自分の体の異常さを改めて再確認して眉根を寄せる孝明。一応の折り合いをつけているとはいえ、しかし気分の良いものではない。
ため息を一つ吐き出して、視界の端にとあるものが映る。
(アレって……変態の先輩、かな?)
そちらへと視線を向ければ、見覚えのある茶髪の先輩がいた。
彼の隣には、黒髪の美少女が居る。それも、男性の視線を集めてやまない抜群のプロポーションと美貌を有した優れた容姿。
だが、孝明が気になったのは、少年を見る彼女の目。
(うわぁ……)
気付かなければよかった。視線を外しながら、孝明は内心でドン引きの声を上げる。
顔は、笑っていた。だが、その瞳に宿っていたのは侮蔑ともいえる感情。明らかに、デートをしているであろう相手に向ける目ではない。
そして、その視線に彼は覚えがある。
今までも、何度となく相対してきた人ではない何者かが自分を見てくる時と同じ目だった。
そんな目をする輩は、大抵ろくでもない。
だからといって、孝明が何かをする訳でもないのだが。ドライだとか、薄情だとか言われても、そもそも彼は件の先輩とは親しくない。というか話した事も無いし、孝明が一方的に知っているだけなのだ。
何より、薬師孝明は戦いたくない。
自衛が出来るとか、相手を瞬殺だとか、自分の身の安全が確約されているとか。どれだけ言われようとも、必要に駆られなければ御免被るというのが、彼の意見。
という訳で、孝明は再び帰路を歩き始める。二人とは、完全な逆方向だ。
人通りが多い、大きな道から逸れて暫く。不意に、彼の進行方向に影が差した。
顔を向けずに目だけで確認すれば、金髪のゴシックロリータな格好の黒い翼を背負った少女が下りてくるところだった。
明らかな人ならざる存在。ただの対面ではあるが、それでも人によっては腰を抜かすほどに驚く事になるだろう。
だが、
「……」
薬師孝明は止まらない。
降りてくる少女を一瞥する事も無く、それこそ完全に無視して帰路を進む。
「全く、レイナーレ様も心配性っすよねぇ。ま、ここの悪魔はザル警備ですし、さくっと終わらせるっすよぉ」
そんな事知った事ではない黒い翼の彼女、ミッテルトは眼前の少年をロックオン。
今回の仕事は、彼女の上司の企みに
あくまでも仮定でしかない。ないのだが、しかし可能性があるのなら潰す。
何より、高々人間一人。消したところで良心など痛まないし、何なら今に至るまで何人もの人間を消してきた。
今回も、同じ事だ。
嬲りたいとは、思っていたが。
「さてっと」
ミッテルトの右手に光が集まる。彼女の種族、堕天使の持ち合わせた基本的な能力の一つである、光を用いた槍をその手に。
さっさと殺して、死体をバラす。槍を持った右手を振り被って少年へと向けて、
「えっ――――ガッ!?」
気付けば、
その事に気付いた直後、彼女の両目を異変が襲う。
最初は、何か液体が付いたような感触。反射的に目を閉じて、空いた左腕の袖で目元を擦ってついた何かを落とそうとした。
擦り、擦り、擦り、袖が若干湿った所で、一度腕を離す。
瞼を開けて、そして首を傾げた。
「……チッ、人間らしい小賢しい事するじゃないっすか!」
先程の液体で目つぶししたのだろう、と彼女は右手に握る槍を振り回して、近くに居るであろう人間を殺さんと動き回る。
だが、十秒が過ぎ、一分が過ぎ、ミッテルトは疑問を覚えた。
高々人間の目つぶしにしては、効果が長すぎやしないか、と。
彼女は堕天使だ。下級であるため、人外の中では寧ろ弱い部類に入る。それでも、人間と比べればあらゆる面で凌駕していると言えるだろう。
そんな存在に長時間作用する術など、ただの人間は使えない。少なくとも、ミッテルトから見て、件の彼はただの人間だった。特殊な力の波動など、何も感じなかったのだから。
先程まで振り回していた槍を下し、若干の怯えを含んだ表情で呆然と前を見るミッテルトから少し離れた所で、薬師孝明はジッとその姿を観察していた。
何をしたのか。
使った技は、『ポイズンライフル』。指先を銃口として、相手が着弾するまでまず気付かれる事が無いであろう量の毒液を放つというもの。
それを、彼はミッテルトの両目へと向けて放った。
付着した毒液は、眼球の角膜を通して、眼球そのものに作用した。
失明――――などという生易しいものではない。目の前から見ている孝明だからこそ、今の彼女の現状がよく分かる。
「お、お前……!」
「……」
「お前!アタシの目に何をしたァッ?!」
悲鳴のような絶叫。
彼女は気付いた。気付いてしまった。
一向に晴れる事のない視界。瞼の上から目に触れれば、
通常、眼球があるために僅かに膨らんでいるであろう瞼が、その時は逆に凹んだのだ。
それはつまりどういう事か。
「……あなたの目は、もう無いよ。急に殺そうとしてくるんだ。こっちも自衛位はするさ」
静かに、淡々と、事実だけがそこに響く。
ミッテルトの両目は、
これが毒液の効果。両目を溶かし、その上で目の周辺の神経を麻痺させ、痛覚を遮断する。
得体のしれない化物。闇の中で、ミッテルトは、恐怖に震える。
目が見えない以上、動くに動けない。空も飛べない
立ち竦み、視力を失ったせいで敏感になった聴力が拾う、風の音すら恐ろしい始末。
「や、止めろッ!来るなッ!」
「……」
「ふざけんなって話っすよ!?人間風情に、堕天使のアタシが……!」
「でも、あなたはそうやって命乞いをする人を、何人も殺してきたんでしょう?見れば分かるよ。あなたは、
孝明の言葉に、ミッテルトの喉が引き攣った。
彼女らにしてみれば、人間を殺す事など路傍の蟻を踏み潰すようなものでしかない。圧倒的強者からの搾取。それが現実。
だが、今はどうだろうか。侮った相手に目をやられ光を奪われ、精神的なアドバンテージを完全に持っていかれた。
そして、奪われる側の気持ちを味わう。
逃げ出したい。しかし、逃げられない。立ち向かう事はおろか、自分が今立てているのかすらも分からなくなる。
不意に、ミッテルトの右足が
「ッ!?な、なにが……!」
「オレだって、別に綺麗な手をしてる訳じゃない。あなたみたいな、人じゃない存在を手に掛けてきたから。それに、正義に燃えるような質でも、悪を許せない義憤に駆られるような性格でもない。それでも、ここであなたを逃がす選択肢を採る気は無いよ。悪因悪果。自分の不注意を恨むと良いさ」
孝明が語る間にも、ミッテルトの体は
彼女の足元には、いつの間にかどす黒い水たまりの様なものが出来上がっていた。そこに、沈んでいくのだ。まるで底なし沼の様に。
「く、クソッ!」
見えないながらも、足元が原因である、とミッテルトは手に握る槍を真下に突き下ろす。
これで、自分を沈める何かを破壊、或いはつっかえ棒の様に沈下を防ごうとしての事だ。
だが、その穂先から伝わるのは、まるで粘土にでも突っ込んだかのようなあまりにも頼りない手応え。何より、槍も一緒に沈んでいく。
訳が分からない。反射的に翼を動かして浮こうとするが、しかし体は持ち上がらない。
それどころか、体が痺れてきた。
「あ……が……」
「聞こえていないだろうけど、今あなたが沈んでいるのは、毒の沼だよ。皮膚が触れるだけで体が麻痺する毒。その中で、体を溶かすんだ」
「え、げ……」
沈んでいく体。筋肉が麻痺するせいで、喉が動かない。それどころか、内臓にまで及んでいるのか一気に苦しくなり、眼球の無い眼下より血の涙があふれる。
恐怖に染まった表情。既に胸より上まで沈み、辛うじて持ち上げられた震える手を伸ばせども掴んでくれる者はいない。
最後まで、孝明は目を逸らさなかった。ミッテルトの体が、その伸ばされた指先まで完全に毒の沼に沈み消えるその瞬間まで。
その金髪の人外が完全に沈み切り、影すらも分からなくなった所で、沼が動く。
まるで意思を持つかのようにアスファルトの上を這うように動き、孝明の足元の陰に触れる。すると、まるで影の中に注ぎ込まれるようにして沼が消えた。後には何も残っていない。アスファルトにも、毒沼があったなどとは言われたって信じられないほどに綺麗な物。融けたり、削れたりもしていない。
完全に沼が消えた事を確認して、孝明は再び帰路を歩き始める。
時間にすれば、五分とかかっていない。この間に、堕天使が一人消えたなど誰が信じられるだろうか。
これが、薬師孝明の日常。そして、彼自身の内包した
彼は、己を害す者を容赦しない。それが、例え何者であろうとも。