その日の喫茶あすらは大盛況だった。
どうも来る人来る人が熱狂的な視線をもって店へとやってくることに違和感を抱きながら、桃は店を手伝っていた。
「桃、スマイルひとつお願いします!」
キッチンを手伝っていたシャミ子が、休憩がてら客席の方に座ってそう言う。何をふざけたことを、と思ったものの、壁には「おすすめ 桃はんのスマイル 無料や。」と書かれた貼り紙が確かに存在していた。
「これ、シャミ子が貼ったの?」
「いえ、元からありましたけど……」
「だよね。口調からして紅玉ちゃんかと思ったけど……あの子がこんな悪戯するとは思えないな」
不思議がって貼り紙を眺める桃だったが、その文体を見ているとなんだか無性に腹が立ってきたので、とっととひっぺがして捨てることにした。
「あーっ! 桃!? スマイルは!?」
「いや、言われて出せるものじゃないから、その注文は無効。欲しかったら自分の力で手に入れて」
「ぐぬぬ……」
悔しがるシャミ子を尻目に、桃は違和感の正体について考えていた。何か大切なことを忘れているような気がして、念のため店長や紅玉にも訪ねて見たが、わからないとのことだった。
「しかしまあ、確かに今日の繁盛っぷりは異質だ。皆まるで前からここの常連だったような振る舞いをしている」
「せやなぁ。ウチもなんか足りん思っとったとこやねん。人手やないで? なんちゅーか……元々あったものがのうなった感じなんや」
二人の反応からして、少なからず、この周辺で何かが起こったことは間違いない。そう確信した桃の表情はどんどんスマイルからは遠ざかっていった。流石に一度落ち着こうと、水筒に手を伸ばしたところで、桃はハッとする。
「あれ……? この水筒って、何が入ってたんだっけ……」
思い返すと、自分の行動こそ不可解なものばかりだった。大好きなシャミ子の作ってくれた夕食を断って、昨日からはこの水筒の中身しか啜っていない。
「……ッ! すみません、ちょっと抜けさせてもらいます!」
「えっ!? 別に構わないけど……何かあったのかね!?」
「わかりません! でも恐らく……かなり大変なことが起こってる気が……!」
桃は拒絶するように水筒から手を離し、すぐ上にある自分の部屋へと戻る。部屋に入ってすぐに、机の上に積まれたポイントカードに目が行った。どうして今の今までおかしいと思わなかったのか理解できないが、今はそれどころではない。
「桃、何かあったんですか? 急に飛び出して……って、それは……!」
「……うん、どうやら私、まぞくを手にかけちゃったみたい」
「な、なんで……!?」
「私もわからない……覚えてないんだ。敵の術か何かに掛かったんだと思う……そう思いたい」
「そんな状態のお主の側にシャミ子を置いておいて大丈夫なのか?」
「ごせんぞ!」
「ちょうど話してるのが聞こえたのでな」
「あんまり大丈夫じゃないと思う……けど、このままじゃ手がかりがなさすぎる」
「桃、顔色悪いです。このままだと闇堕ちしてしまうかも……」
「ふむ……桃にかけられた術が闇堕ちした時にどう働くかもわからぬ以上、確かに調べた方がよいか」
「シャミ子、能力で私の抜けた記憶の中に潜って、何があったか探って欲しい」
「しかし、罠かもしれんのだぞ? 夢の中で何者かがシャミ子を待ち構えてる可能性も──」
「大丈夫です、やります。私だって成長してるんです。それに、この街を守るって約束した以上、宿敵として今の桃を放っておくわけにはいかない!」
「シャミ子……わかった。余もできる限りサポートしよう」
桃とシャミ子は店長に、リリスは蛟に話をつけた後、桃の家に再集合した。
「このポイントカードは確か、昨日の夜からあった。昨日の記憶を辿れば何があったかはわかる……はず」
「何かあったら余がお主を起こすからな」
「了解です、では行きましょう、桃」
「うん」
二人が布団に入って目を閉じる。
気づけばシャミ子はショッピングセンターマルマにいた。桃の姿も見える。
「いや〜桃はん、付き合わせてしもうてごめんな?」
「まあ、殺傷沙汰になるよりかはずっといいですから」
「動物って殺しても器物損壊にしかならないんやで?」
「そういう問題じゃないです」
この日、桃はリコと一緒に買い物に来ていた。バクしか愛せないマスターをどうにか振り向かせるべく、桃に相談を持ちかけてきたのだった。
「あの狐のまぞくさん、なんだか見覚えがあるような……」
「ああ、余もだ。桃の反応からして、多分余たちと関係があったが、存在ごと忘れさせられてしまったと考えるのが妥当だろうな」
「でも、なんで私に……恋愛相談するならもっと適切な人がいるじゃないですか」
「ん〜、でも桃はんは、シャミ子はんのこと好きやろ?」
「……っ、それが何か?」
「現在進行形で恋してる桃はんの話の方がためになるかと思って〜」
「恋とはちょっと違うと思いますけど……」
「ええの。桃はんから見てうちはどうすればええか教えて欲しいんよ」
「私から見て……ですか。正直、白澤さんがバクしか愛せないのはどうしようも無いと思います。人間だって動物に恋することは稀ですから」
「やっぱり痩せたバクに化けるしかないんかなぁ」
「リコさんはそれでいいんですか」
「マスターが愛してくれるなら別に構わんけど……」
「はあ。まあ、聞いてください。恋愛対象ではないにしろ、リコさんはもう白澤さんに愛されてると思うんです。終生養うなんて言葉、よほどの相手にしか言いませんから」
「でもそれってペットってことやん、うちはマスターと家族になりたい」
「ペットだって家族です。血が繋がってなかったとしても、大切にしてくれる家族っていうのは素敵なものですよ」
「それって…………桃はんは……桜はんがいなくなった時、悲しかった?」
「姉のことだとは言ってないんですけどね。そりゃあ、悲しかったよ」
「そっか。じゃあうち、死ぬわけにはいかんなあ」
「何縁起でもないこと言ってるんですか」
「うん? もしかして気づいてへんの?」
「……何が、ですか」
「桃はん、朝からずうっと殺気が出とる」
爆音。
隠れていたシャミ子がぴえっ、と情けない声をあげ、何が起きたかを確認するも、衝撃で停電が起こり何も見えなくなってしまう。
「何が起きてるんですか!?」
「わからぬ! シャミ子、明かりをつけるなり何かできぬのか!?」
「やってみます……暗視のつえ!」
シャミ子の視界が開ける。そこにはシャミ子が知るどのフォームとも異なる、黒い装束に身を包んだ桃がリコと対峙していた。
「ひゅう、尻尾の毛ぇが焦げてもうたわ」
「まさかぼくに気づくなんて、随分と鼻がいいんだね?」
「……ッ、身体の自由が……!」
「桃はん、ごめんなぁ、油断したらこっちがやられてまうわ。桃はんのことコアにしてまうかも」
「随分自信があるみたいだね。桜ちゃんがひた隠しにしてただけある……だからこそ、君を殺せば大量のポイントカードが手に入るんじゃないかな?」
「そう思うんやったら試してみ」
桃の中に潜んでいたそれは、長い時間をかけて桃から魔力を掠め取り、桃の身体の主導権を奪うチャンスを得た。しかし、本命を殺すよりも先にリコに気づかれたせいで、応戦せざるを得なくなった、というわけだ。
「リコさん、もしや最初から私を皆から引き剥がすために……」
「何のことかようわからんわぁ。うちは自分のためにしか行動せんよ?」
リコは術で自分の分身を作り出すと、調理器具コーナーから凶器を持ち出して一斉に襲いかかった。
乗っ取られた桃はステッキを禍々しい黒い槍へと変化させ、迫り来る包丁の弾幕を分身ごと薙ぎ払う。
「っと、危ないわ〜」
「いやあ、桃ちゃんがバカのひとつ覚えみたいに鍛えててくれて助かったよ。ぼく、あんまり格闘戦得意じゃないからさ」
「ぐ……こんなことのために……鍛えたわけじゃ……」
「それ、嫌味で言うてはる? せやったら自分、嫌味の才能あらへんよ」
「……は?」
リコは煙と共に姿を消す。代わりに現れたのは千代田桜。当然、本人ではなく幻術の一部であるが、その手を止めさせるには十分だった。
「こんなこと……桜ちゃんに対する侮辱だと思わないの!?」
「隙あり、や」
リコは桃の背後から牛刀を突き刺す。しかし、その刃は無常にもコスチュームに阻まれへし折られてしまった。
「なんやこの魔力外装!?」
「リコさん! 避けて!」
「……殺す」
「避け……あー……これは無理や」
反撃をモロに食らったリコは、大きく吹き飛ばされ、商品棚を巻き込みながら壁に激突した。
喀血。全身の骨も折れていた。致命傷こそ防いだものの、到底動ける状態ではなかった。
「なんで無駄な足掻きをするのかな、早く死んだ方が楽なのに……」
「絶対死なん。食べるという字は人を良くするんや。それを否定するあんたにだけは負けたくない。それにうち、マスターに悲しんで欲しくない」
「それなら安心して、ちゃんと君のカードを使って忘れさせてあげるよ。かわいそうだからね」
「それは……もっと嫌や。マスターがうちを忘れるくらいなら、悲しんでほしい……いや……うちらしくなかったわ」
「君、本当にぼくとは意見が合わないみたいだね」
槍が、リコの心臓を貫く。魔族といえど今は殆ど人間と同じ。心臓を突かれれば死ぬはずだ。だが、リコはそのまま槍を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。
「諦めるとか、ほんま……うちらしくない。利口な死に方なんて絶対してやらん……」
「な……」
「うち特製の魔力吸収薬……お〜いしく頂いてもらうで……?」
リコは手元の薬草をできるかぎり桃の口に捩じ込む。桃を支配していた魔力が、コントロールの大半を失っていく。
「……リコ、さん、ありがとう……ございます」
「桃はん?」
「はい、まだ少し……悪あがきしてるみたいですが」
「そう……じゃあうち、マスターには悲しんでもらえへんかもなぁ」
「今治療しますから、黙っててください……!」
「ダメや桃はん。それこそ桃はんの身体が持たんよ。シャミ子はんが悲しんでまうわ」
「……私のことコアにするつもりじゃなかったんですか」
「気が変わったんや。あの女の考えとること全部台無しにして死んだる」
「本当、性格……悪いですね……」
「泣きながら言われても……まあ、桃はんの珍しい泣き顔はいい冥土の土産や」
「リコさんは、それでいいんですか!? 悔しくないんですか!?」
「…………そりゃ、悔しいで! マスターの側にいれないのも、マスターに忘れられるのも、悔しい……!
「じゃあ……!」
「……そうや、せやったらひとつ、お願いしても……ええ?」
「……なんですか」
「────────────」
リコは桃の耳元でそっと呟くと、そのまま事切れた。リコの身体が朽ちて、血痕と、大量のポイントカードだけがその場に残された。
桃はすぐさま、カードを切る。