嘘です。ゲームが忙しいです。
青い空から顔を出し、大地に照りつける太陽。穏やかに芝を揺らす風。初夏の晴天が、今日という日を祝福していた。
──だが、今この場には、試合前特有の人々の熱気も、狂乱とすら言い換えれるあの喧騒も、全くない。
伊槌が試合会場である、とある運動公園を歩き回りながら考えていたのは、そんなことだった。
軽く見渡すと、整備されてはいるが、お世辞にも状態がいいとは言えない芝のグラウンドが目に映る。その視界を塞ぐ観客など、ちらつきすらしない。
(……本当に、俺が今までいたところとは、違う)
右手に視線を落として、改めて思い至る。袖を通したピンクと黒のユニフォームが目に入った。憲戸中のユニフォームだ。
キング・マドリードと比べれば、当然レベルは数段落ちているだろう。だが、後悔は微塵もない。
「お、来た。こっちだよー」
試合前だと言うのにどこか気の抜けた、少女の声が伊槌にかけられた。
少女、様崎は伊槌に向けて手を振って存在を強調しており、近くには同じユニフォームをまとったチームメイトが思い思いに体を動かしてウォーミングアップをしている。
少し遅れたか、と思った伊槌が、軽く手をあげて、少し歩みを早めて彼女たちの元へ近づいていく。
「おはよう、早いな」
「おはよ、まー気まぐれだよ」
はにかみながら様崎がそう溢す。そういうもんか、と伊槌が軽い調子で受け応え、スパイクへ履き替え始める。
しゃがむ伊槌の頭上に、影がかかった。訝しんで顔を上げた彼の視界は、太陽と自身の間に無籐が立っていることを認識する。
「今日は重要な試合だァ、分かってるだろ?」
「……ああ、憲戸の記念すべき、初の1回戦突破を見せてやる」
「頼もしいな」
伊槌の宣言を聞き、無籐は満足そうに凶悪な人相を歪める。そばで聞いていた靴木も頷いていた。
無籐が何かに気づいたようにこちらへ歩み寄ってくる。訝しむ伊槌を尻目に、そのまま彼の肩に手を置き、その後ろへ視線を向けた。
伊槌も導かれるようにその先を見やれば、少し汗の滲んだホープがこちらへやってくる。試合前にルーティーンのランニングを終えたようだ。
彼女は少し息を弾ませながら伊槌に気づくと、妙に素早い動作で水をあおりながらスタスタとこちらに近寄ってきた。
「ふふ、遅いわね伊槌! 早起きはなんとかの得って知らないの!?」
「……はは、三文だろ」
身長の関係上、見上げる形でビシッと指差してきたホープの言葉を、伊槌が苦笑しながら訂正する。
その背後からは、むくれた様子の彼女を、無籐の険しい眼光が射抜いていた。
「ホープゥ……勉強してんのかァ……?」
「げ、無籐先輩!?」
慌てた様子で走り去ろうとしたホープを、様崎が抱き止めて捕まえる。暴れる彼女を抱えあげることで輪の中に戻して、より一層目の鋭くなった無籐の前に貼り付けた。
「ははは! 普段から勉強してねぇからだぞ!」
「木崎、君は人のことを言えないだろう?」
「たしかに、勉強してなさそうな見た目ですしね」
「なにぃ!?」
木崎の軽口を、梵場と宵闇の2人が攻め立てる。威嚇するような声に、雷を聞いた子供のように肩をびくつかせた宵闇が小刻みに頭を下げながら久良島の手を掴む。ばつの悪そうな表情になった木崎を、久良島は曖昧な笑みで見るしかなかった。
ぎゃあぎゃあとじゃれあう仲間たちの姿に、伊槌の頬が綻ぶ。マドリードにはなかったものだ。
この関係がサッカー選手にとって良いものなのか、悪いものなのかは伊槌に判断することは、まだできない。
そんな中でも、1つだけ確かなことは──
(このチームで勝ちたい……)
自分を拾ってくれた様崎に、出来るだけのものを返したい。そして彼女が愛しているチームにも、同じように恩を返したい。
サッカーを生業とする者にとって、サッカーで報いたいと考えることは当然のことだった。
考え込むように下を向いていた伊槌の肩が叩かれる。少し驚いて振り向くと、にこやかな表情の三刀屋がこちらを覗き込んでいた。
「イヅチ、悩みゴト?」
「ああ、いや。大丈夫だ」
首を傾げながらそう問う三刀屋に、伊槌が慌てて否定する。それならよかった、と彼女が軽く髪をくしゃくしゃと撫でてくる。目を細める伊槌に対し、何故か梵場の視線がこちらを刺している気がするが、彼は努めてその感覚を無視した。
彼らの間に、乾いた音が響く。監督の月並が手を叩いた音だった。
「よし、みんな集まったな! そろそろ試合が始まるぞ!」
「もうそんな時間ですか……」
橘花が虚を突かれたように言う。緊張しているのか、彼は先ほどから少し落ち着きがなかった。
月並の言葉を受けて、伊槌も弾かれたように公園の時計に目をやる。すれば、たしかにもう試合開始の時刻に迫っていた。長針が刻々と始まりへと向かっていく。
それを認めた彼らの間にはえも言えぬ緊張感が漂いはじめる。明凪が拳を握り、ピッチに視線を投げかけた体勢で口を開く。
「やっぱり……ちょっと緊張しますね……」
言葉はないが、空気が彼女の言を肯定する。生唾を飲むことも憚られる張り詰めた空気の中で、様崎が突然肩を組んできた。
「円陣しよ! みんなでさ!」
「おお、良いっすね!」
驚いた伊槌を置いてきぼりに、いの1番に乗っかった木崎が、伊槌の空いている方の肩に腕を回す。為すがままの伊槌の顔には、微笑みが浮かんでいた。
彼の動きに背中を押されたのか、他の仲間たちもどんどんと輪になって肩を組み始める。伊槌の中に、頼もしい何かが芽生え始めていた。
周囲の仲間たちの顔を見渡す。伊槌のように、勝利への自信を滾らせる表情も有れば、萎縮して自信なさげに目尻が垂れている人間もいる。
「……みんな、勝つつもりなんだね」
自信なさげな表情の筆頭格である太田のそんな呟きを、伊槌の耳は抜け目なく拾った。
反論したい気持ちも山々だったが、今はそんな場合ではない。その思考はプレーで覆す。
やはり、チーム全員が同じ方向を向いているわけではない。だが、伊槌の心は当に決まっている。
(俺は必ず──)
ぎり、と奥歯を噛みしめる。決意を確認するかのように、爛々と目をギラつかせながら、強く。
きょろきょろとあたりを覗き込むように見ていた様崎が、合点が行ったかのように、つま先を地面に叩きつけた。
そして、鈴を転がすような声が響く。
「楽しんで行こう!」
『おお!』
その雄叫びは、抜けるような青い空に吸い込まれ、天の彼方に木霊した。
────────
伊槌が、ピッチのすぐそばで深呼吸を繰り返す。久しぶりの公式戦は、嫌が応にも彼の心臓を高鳴らせていた。緊張の動悸も、興奮の拍動も心地がいい。初夏の暖かい風より熱い体を落ち着かせようと、深い息を意識する。
そこに、芝を踏む音が耳朶を打った。集中して落ち着こうとしていたからこそ気づいた微かな音。その音源へと、目だけが向かっていく。
「フフ……」
そこに現れたのは、意味深げに笑う少女だった。
肩にかかった銀髪に、右が黒、左が金の特徴的な目をしている。体格は良くなく、細身の少女ではあるがその立ち姿はしっかりと存在感を放っていた。
だが、伊槌が強く興味をそそられたのは、彼女の容姿ではなく、その服装にあった。
「泰山中のユニフォーム……」
目に焼き付いたのは、赤を基調として、袖など部分的に白があしらわれている彼女のユニフォームだ。初夏だと言うのに何故か長袖と手袋をつけている暑そうな格好なのは置いておく。
裾に9の番号が記されたズボン、そして右腕に巻かれた腕章を見るに、彼女が泰山のキャプテンなのだろう。
伊槌が彼女の正体に当たりをつけると、少女は口元を隠しながらククク、と笑い出す。その仕草は妙に芝居がかっていて、違和感を覚えた。
「貴様が伊槌鳴哉だな?」
「ああ、そうだが」
少女の瞳が、女子らしく少し高い、だが強い声とともにこちらに向く。伊槌は怖気付くことなく短く頷き首肯した。
肯定を受けた少女が、花開くように笑顔を浮かべる。先ほどまでの取り繕ったような感覚は鳴りを潜め、純粋に嬉しげな様子だ。その笑みを見た伊槌の脳裏に、ふと、スタジアムでファンと対面した時の笑顔が思い起こされた。
「はは……」
微笑ましげな伊槌を見た少女が、ハッとした様子を見せ不敵に笑って口元に手を当てる。その頬には少し朱色が差していた。
気を取り直すように、咳払いをしてから再び口を開く。
「わ、我は泰山中キャプテンの
ビシッ、と擬音がつくほどのキレでポーズを取る。左手で顔を半分覆い、右手が左腕の肘を支えるかのように胸の前に置かれている。とても、かっこいいポーズだ。
愉快な少女の宣戦布告に、伊槌が口角を上げる。決して面白がっているわけではない。
「ああ、いい試合にしようぜ」
そう言って、右手を彼女に差し出す。握手の誘いだ。
きょとんとした表情でその手を見ていた棗だが、数秒して意図に気づいたのか、頬を緩ませながら、律儀に手袋を外してその手を握る。
「フフ……こちらこそ、楽しい試合を期待している」
棗は不敵な笑みを絶やさず、伊槌の手をしっかりと握る。
数秒の後、どちらがというわけでもなく離れた2人は、闘志に滾った視線をぶつけ合いながらチームの元に戻って行く。吹き抜けた風が伊槌の熱い頬を撫でた。
互いに相手に背中を向け、試合へと思考を進める中、ふと伊槌の耳が、めざとく音を拾った。
「えへへ……握手してもらった……」
伊槌の胸が、少し暖かくなった。
憲戸中スターティングメンバー(4-4-2)
ーー木崎ーー伊槌ーー
ー明凪ーーーー梵場ー
ーー無籐ーー靴木ーー
三刀屋ーーーーー山本
ーー様崎ーー太田ーー
ーーーー久良島ーーー
泰山中スターティングメンバー(4-4-2)
ーー鈴木ーー棗ーーー
ー和泉ーーーー荒木ー
ーー中村ーー気村ーー
内田ーーーーーー広瀬
ーー甘塚ーー関川ーー
ーーーー足利ーーーー
「……泰山は去年とだいぶメンバーが変わってる。何してくるか予測ができねぇ」
「だから、前半は特別なことしないで、サイドを軸に行くよ!」
ポジションに散らばる前に、無籐と様崎がそんなことを言う。最近の練習でも特殊な特訓は積んでこなかったため、予想できていたことだ。
明凪がうんうんと頷いて様崎の言葉を咀嚼する。
「サイドってことは、基本は私と梵場先輩のドリブル突破ですか?」
「そんで、最後に俺が決める! 分かりやすい戦術だな!」
明凪の言葉に無籐が手をあげて肯定の意を返す。木崎の軽口に梵場が笑みを見せていた。
「俺たちが守っている。お前たちは気にせず攻撃に専念しろ。そうだろう、太田?」
「え!? あ、うん……そうだね」
太田は、やはりというべきか、いまだに萎縮しているようだ。難儀な問題だな、と伊槌はため息をついた。
時間が来た。無駄口を止め、木崎と伊槌の2人が、ボールがセットされたセンターサークルに収まる。前半は憲戸ボールからだ。
伊槌の、日本での初めての公式戦。歓声も、観客もない試合だったが、今までのどんな試合よりも胸が高鳴る。その中でも、努めて頭は冷静な状態を維持していた。
ふと、棗と目があった。彼女も気づいたのか、先ほどのように不敵な笑みで挑発してくる。
(まずは様子見……お手並み拝見と行くか……!)
そして、主審の笛が高らかに吹かれ、青空に吸い込まれて行く。試合開始だ。
木崎が伊槌に軽くボールを叩き、すぐさま反転して真後ろの無籐へパスを送る。少し状態の悪い芝のせいか、パススピードが予想よりも遅かった。留意しておかなければならないことが増えた煩雑さに、伊槌が舌打ちをしそうになった瞬間──
──泰山の選手たちが、疾風のように憲戸陣内へ侵入してきた。
「!」
パスを出した瞬間、FWの棗、鈴木をはじめとし、サイドのMFたちも一気呵成に敵陣に切り込んでいく、積極果敢な猛プレスに、伊槌も、無籐も驚きを隠せない。
特攻のように全員でボールを奪いかかるこの戦術は、間違いない。
「ハイプレスだ!」
「フッ、気づいたところでどうにもできぬ!」
「チッ、キャプテン!」
棗の突進のプレッシャーに押された無籐が、すぐさま反転してCBの様崎へボールを戻す。パスを受けた様崎にも、間を置かず泰山の選手たちが果敢にチェイスしていく。
奇襲にも等しい泰山のハイプレスに、憲戸のフォーメーションは崩されろくなパスコースがない。
(いや、キャプテンなら……!)
孤立した様崎に対し、FW鈴木が狙い通りというような、迷いのないプレッシングを行う。その顔には獰猛な笑みが浮かんでいた。
「もらった!」
「そんな簡単にはあげられないかな!」
瞬間、様崎を縛る重力が消え失せる。ボールも、彼女自身も中空に浮き上がり、空を泳ぐように様崎が鈴木の頭上を飛び越えた。
「リブバインド!」
「っ!」
様崎が鈴木を完全に置き去りにする。DFでありながらチーム随一のボールコントロールを持つ彼女にとって、この程度は造作もないだろう。伊槌は賞賛を込めて笑みを浮かべた。
抜き切った彼女の視界は開け、無数のパスコースが彼女を出迎えている。
──普通ならば。
「掻い潜ったと思ったか!」
「うぇ!?」
「何!?」
無籐についていたはずの棗が、いつの間にか様崎の着地地点へと走り込んでいた。その背後からは無籐も追ってきてパスコースを作ろうとしているが、棗が体を入れて切ってしまっている。
真剣な表情で、されど子供のように無邪気な笑顔を弾けさせながら、棗がボールにアタックを仕掛ける。
「やばっ……!」
「今度こそ貰ったぞ!」
着地で体勢を崩していた様崎が、簡単に棗にボール奪取を許してしまう。伊槌も急いで戻ろうとするが、流石に距離がありすぎる。
もう1人のCBである太田もどうにかコースに体を入れようとするが、その足は重く、到底追いつかない。ペナルティエリア外とはいえ、棗がゴール前で完全なフリーだ。
「フッ、受けるが良い、我が必殺技!」
「……止めます……!」
ボールを奪った棗がすぐさまシュートの体勢に入る。
左足を強く踏み込み、右足を大きく振りかぶると、その背後に青い鱗を持つ赤い目の竜が踊るように出現した。棗と同じように、好戦的な笑みを浮かべている。
「あれは……」
振りかぶった足を、渾身の力で叩きつける。青いエネルギーがボールに集中し、そして、竜を背に空気を切り裂く。獰猛な雄叫びのように、そのシュートは放たれた。
「ドラゴンッ、クラッシュ!」
強烈なシュートがゴールへ突き進んでいく。だが、対峙する久良島は慌てない。息を吐いて、右腕に神経を集中させる。
刹那、夜の闇より深い黒が、渦巻くオーラとなって彼女の右腕に絡みつく。棗のシュートにも劣らぬパワーが内包されていることは、遠目で見ている伊槌にすら分かった。
「はああああ……!」
「貴様も必殺技を……! しかもかっこいい……!」
棗が久良島の必殺技を目の当たりにして目を剥く。彼女を尻目に、久良島が歯を食いしばりながら、渾身のストレートでドラゴンクラッシュを真正面から迎え撃った。
「真っ黒パンチ……!」
竜の顔面を、漆黒の拳が殴りつける。目に見えない力が弾け合い、周囲に強い衝撃が走った。
ドラゴンは回転を止めずその拳を喰らいにかかったが、パワーに図抜けている久良島は意に介した様子もない。数秒の拮抗の末、漆黒が弾け、拳の勢いとともにシュートを遠く弾き飛ばした。
「ナイスキーパー、アンナ!」
「くっ、遠すぎたか……」
奇襲にも等しいファーストシュートを止められた棗は唇を噛み、悔しさを露わにしている。三刀屋の言うように、この場面での失点を防いだのは大きい。
久良島にパンチングされたボールは、芝を撫でながら低空でピッチを縦断している。必殺技とはいえここまで殴り飛ばせるのは彼女の果てしない能力を暗示しているだろう。
そして、そのボールは、センターサークルでポジションを取っていた伊槌の足元に収まる。
「よし、カウンター……!?」
泰山のハイプレス、あれは諸刃の剣だ。
前に人数をかける都合、こうして一気に前線にパスが通ってしまえば一転してピンチが訪れる。
伊槌もそのセオリーに従い、陣形が整わないうちに攻め切ろうと、ボールを受ける寸前素早くターンして前を向いた。
そこには──今にもボールを刈り取らんとしてくる、MFの
「あぶねっ……!」
「うおっ、かわされたか」
冷や汗をかきながらも、冷静にボールを引いて足をかわす。危機は脱したが、まだ抜けたわけではない。伊槌は舌打ちしたい気分だった。
目の前でしたり顔を披露する黒髪の男も、伊槌と同じようにセオリーで動いていた。
攻撃時にも、カウンター警戒の為に自陣にDF以外の選手も残す。当たり前のことだが、これをしているのとしていないのとでは守備が格段に変わる。DFだけでは守りきれないスペース、DFが動くことで出来てしまうスペースも、もう一人がいれば埋めることができるからだ。
「ちっ……だけど1人くらいなら!」
「来るっぽいじゃん……!」
客観的に見て、この場で1番実力を持つのは伊槌だ。ならば、この局面で勝負を仕掛けないわけがない。
ボールを右に持ち出す。その動きに釣られて、右斜め後ろにバックステップを踏んだ気村だが、そのせいで足を必要以上に開いてしまう。
「そこだ!」
伊槌はそれを狙っていた。持ち出したボールを素早くアウトサイドで引っ掛け、彼の股下を通して抜き去る。
突然の仕掛けに、気村は見送ることしかできない。
「股抜き……! やるなぁ」
でも、という気村の声が、伊槌の耳を叩いた。
その言葉に引っかかりを覚えながらも、伊槌は気村を抜き去る。
だが、気村の体で隠れていたその背後からは、CBのはずの
「なっ……!?」
「やっぱ来た〜……」
いつのまに、なんて言う暇もない。
相手を抜き去り、少しだけ気が緩んでいた伊槌はその動きに反応できない。黄緑色のサイドテールを揺らしながら、甘ったるい声が彼の耳朶を打つ。
「眠たくなっちゃえぇ……ナイトスリープ〜……」
彼女の声が頭の中に入ってきた瞬間、伊槌の意識が混濁し始める。周囲が暗くなり、足元がおぼつかない。目の前もかすみ出す。自分が極大の眠気に襲われていることを、遅れて理解した。
「くっ……」
堪えきれず、つい膝をついてしまう。出来てしまった大きすぎる隙を逃すはずもなく、甘塚にボールを奪い去られてしまった。
うずくまりながら、恨めしそうな目でその背中を追うことしかできない。彼女が離れるにつれ鮮明になる意識に焦燥を覚えつつ、声を張り上げる。
「悪い……! 守備固めろ……!」
「ふわぁーあ……パス行くよ〜……」
伊槌の小さな叫びは虚空に吸い込まれ、甘塚が緩いロングパスを前線に送る。鈴木と太田の辺りにアバウトに送られ、体格に劣る棗はこぼれ球を回収できるように虎視眈々とポジションを取っている。
「太田ァ、奪え!」
「う、うん……!」
センターサークルから上げられた優しいロブパスが、空中で憲戸のペナルティエリア内に侵入する。太田の身長なら、冷静に対応すれば簡単にカットできるボールだ。彼もそれを理解しているのか、しっかりと頷く。だが、その顔はどこか不安げだった。
ボールが落ちてくる。タイミングを合わせて太田の巨体が地面から離れ、ヘディングでボールを跳ね返す──はずだったが。
ボールは、太田の頭を掠め、ペナルティエリア内に落下した。
「あっ……!」
「まずい……!」
靴木がそう漏らす。ペナルティエリア内での痛恨のミスを、泰山は逃さなかった。太田と競り合っていた鈴木が、素早くシュート体勢に入る。ゴールまでの距離は、近すぎるくらいに近い。
「よっしゃ、行くぞ!」
「させません……!」
だが、ここで久良島が好判断を見せた。ペナルティエリアでボールがこぼれた瞬間、すぐさまゴールを飛び出し、鈴木が打とうとしているその足元に素早く滑り込んでボールをキャッチしたのだ。
鈴木は突然のことで振り上げた足を引けず、久良島ごとボールを蹴ってしまい、ファールの笛が吹かれた。どうにかプレーを切り、憲戸の面々は緊張の糸が切れたように息をつく。
「杏奈! 大丈夫!?」
「はい……私はなんともないです」
故意ではないとはいえ蹴られた久良島を心配して、ホープがすぐさま駆け寄る。本当になんともない様子の久良島は、むしろ過剰に心配してくるホープを落ち着かせようと四苦八苦していた。
ざく、ざく、と芝を踏んで無籐がゴール前へ詰め寄る。その視線の先では、太田が青い顔をしていた。
「つまんねぇミスだぜ、太田ァ。集中しろォ」
「ご、ごめん……」
「まあまあ、点は取られなかったんだしあんま責めないであげてよ」
その低い声を不機嫌そうにさらに低くして、太田に顔を近づける。すっかり縮こまってしまった太田を見かねて様崎が助け舟を出したところで、無籐も鼻を鳴らしながら距離をとった。
やっとゴール前に到着した伊槌も、会話に加わる。
「まだ試合開始から5分も経ってない。落ち着いていこう」
「そうですよ! これからは私たちのターンです!」
伊槌の言葉に、明凪も被せて自分の胸を叩く。攻撃は任せろ、とでも言いたいのだろう。可愛い後輩の言葉に、様崎が笑みを浮かべる。
無籐も凶悪な人相を少し歪めて笑みを作り、ポジションに戻っていく。伊槌たちもそれに倣ってさっさと前線に上がっていった。
憲戸の面々が散らばっていくのを確認した主審が、笛を吹く。試合再開の合図だ。
「試合再開だよ、気張ってこう!」
「おおっ!」
様崎の檄に、数人が気合の入った声を返す。その言葉とともに、久良島のゴールキックが高く打ち上げられた。
同時に、最前線の伊槌に甘塚が、木崎に関川がピッタリとマークする。少し動いても、ポジションを気にせずしっかりとついて来た。
「マンマークか……」
「面倒くせぇな!」
木崎が悪態をつく。だが、伊槌たちにつく分には構わない。ボールを運ぶのは自分たちではないのだから。
久良島のパスは靴木に渡る。すぐさま泰山の前線が先ほどと同じくハイプレスを繰り出すが、靴木は1度受けた戦術に狼狽するほどヤワな精神をしていない。
「行け、梵場!」
「了解!」
すぐさまサイドにパスを散らし、アフロヘアーを揺らしながら梵場がボールを受け取る。サングラスに反射した陽光が頼もしい。
だが、泰山も黙ってはいない。ボールホルダーの梵場に、サイドハーフの和泉がすぐさまチェックする。
「行かせないよ!」
「フッ、生憎男に興味はなくてね……DFの子猫ちゃんとの対面を所望するよ」
梵場の世迷言を無視して、背後から和泉が体を当てる。よろけた梵場の隙を見逃さず、ボールに足を出すが、崩れた体勢の中でも華麗にボールを操りロストを許さない。
そして、体が離れた一瞬。梵場がこの時を待っていたとばかりにニヒルに笑みを浮かべた。
「スピニングドライブさ!」
「なにっ…!」
梵場が激しいブレイクダンスを披露する。そのままコマのように縦横無尽に回転しながら、和泉を置き去りにする。
「くっ……だけど!」
泰山のプレスはこれだけでは終わらない。いつの間にか詰めていたボランチの中村が梵場に素早くプレッシングをかけてきていた。
体勢が整い切っていない梵場が抜くのは、非常に難しいだろう。
「ドリブル突破は愚策だよ!」
「フッ……果たしてそうかな、子猫ちゃん!」
女子の中村にプレスをかけられたことで明らかに声のトーンが変わった梵場が、彼女の手を取り、紳士のように踊り出す。
「シャルウィダンス……私と踊りましょう」
「な、何……!?」
顔が引き攣っている彼女を巻き込み、そのまま流麗に、美しく、白鳥のように彼女と素晴らしい踊りを披露する。さながらそれは美女と野獣というべき出来だった。
つかの間のダンスのフィニッシュとして、中村をその場でフィギュアスケートのように回転させ、彼女を抜き去った。
「ふう……楽しい時間は一瞬だね」
名残惜しそうに背後に意識を向ける梵場に、サイドバックの内田が急いでプレスをかける。流石にこれ以上の突破は体力的にも厳しいものがあった。
「全く、元気だね」
「これ以上はやらせない!」
疲れたようにため息を漏らした梵場に、勢いよくDFが突っ込んでくる。だが、その瞬間、彼らの横を、疾風のようにひとつの影が通り過ぎた。
「フッ、いいところに! 君のスピードで全てを切り裂くんだ!」
「よーし、行くわよ!」
その影は、オーバーラップで上がってきたホープの姿だった。マークを置き去りにするほどのスピードで最終ラインから飛び出してきた彼女にボールが渡る。SBが飛び出したおかげで右サイドはガラ空きになっており、絶好の場面だった。
ホープの動き出しに連動し、伊槌たちも激しくポジショニングを取り出す。
「こっちだ……!」
「行かせないよ〜……」
「しつけぇなこいつら!」
「点はやれねぇよ!」
ゴール前で混戦が始まる。木崎の言うように、DFのマンマークが予想以上にキツい。団子状態でポジションを取っていても埒があかないだろう。だが、伊槌にはゴールまでの道筋がすでに見えていた。
「まだだ……」
ホープがサイドを抉ってクロスの体勢に入る。その瞬間、前に入り込んでいる甘塚の横をすり抜け、ニアサイドに一気に詰める。
これこそが伊槌のストロングポイントたるオフ・ザ・ボールの動き。ボールを持っていない時にこそ、伊槌は真価を発揮する。
突然の動き出しに反応できず、伊槌は完全にフリーの状態を作り上げた。
「出せ!」
「やべぇ、誰かつけ!」
GKの
打てる、そう確信した伊槌が、声帯が潰れんばかりに声を張り上げてホープを呼ぶ。その声に反応したホープは、伊槌を見やり、そして──
「行けぇ!」
──ドフリーの伊槌を無視して、混戦から抜けたファーサイドにポジションを取っていた明凪にパスが送られた。
「クソ……!」
「また私ですか!?」
これにはDF陣だけでなく、伊槌と明凪すらも驚きを隠せない。びっくりした明凪だが、すぐさま思考を切り替え、闇色の炎を足に纏って、回転とともに空へと昇る。そして、増幅した闇のエネルギーを、高く上げられたボールにダイレクトで叩きつけた。
「ダークトルネードォ!」
「へっ、来たな……!」
足利が笑みを見せながら闇のシュートと対峙する。彼はその場でぴょんびょんと軽くジャンプをしながら、機を伺う。
そして、シュートが狙い澄ました右の隅にコースを捉えた瞬間、待ってましたとばかりに、足から飛びついた。
「シールドボレー!」
「はぁ!?」
木崎がその技に驚きの声をあげる。それもそうだろう。
何故なら、彼はGKであるにもかかわらず、腕ではなくボレーの形でセービングを試みたのだから。それも、咄嗟の判断ではなく、整った状況の中でだ。
「へっ、GKが足を使っちゃダメなんてルール……どこにもねぇだろうが!」
その雄叫びとともに、足利のボレーが明凪のシュートを弾いた。勢い余ってサイドラインを割り、憲戸のスローインとなってしまったものの、たしかに足でセービングしてみせた。
「うそ、ほんとに蹴り返された!」
明凪も驚きの声をあげる。信じられないと表情が雄弁に語っていた。手を使わない異形のGK、足利。泰山には個性的な選手が多いようだ。
そんな中、伊槌は感情の読めない表情でホープに歩み寄っていく。能面のような、怒っているようにも見える表情の伊槌に、ホープが少し腰の引けた体勢で伊槌を見上げる。
「ご、ごめん。ちょっとミスっちゃったわ!」
「……おう、お前のスピードは必要だ。次は頼むぞ」
「え、ええ!」
それだけ言って、伊槌はホープから視線を外した。
ホープが絶好のポジションを取る伊槌を無視して他の選手にパスを出したことは、前もあったはずだ。伊槌にはその意図が読めない。
だが、なんとなく、その『意図』を解決しなければ、この試合には勝てないような、そんな気がした。
「……違うな、今は集中しろ」
伊槌が頭を振って思考を振り切る。まだ試合は始まったばかりだ。
────────
前半10分
憲戸 0-0 泰山
────────
泰山中はMF気村裕斗、DF甘塚音夢、GK足利一鉄を採用させていただきました。不採用となってしまったキャラクターの作者様には、この場を借りてお詫び申し上げます。
まだまだ他の学校でも募集しておりますので、詳しくは活動報告か下記のURLをご覧ください。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=282518&uid=267938
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