「ルドルフ……その、もしかして太ったか?」「………えっ?」
我が家の朝は早い。
まず真っ先に起床するのは旦那君だ。……現役の頃や結婚当初はトレーナー君と呼んでいた彼も、長らく夫婦生活を続けるうちに自然とこの呼称に変わっていた。
旦那君は朝の五時には起床し、簡単に身支度やトレーニング用の資料を整えて学園に出勤する。
こんな早朝から家を出るのは、単純に旦那君が担当しているチームの朝練があるから。
チームは今やトレセンでも指折りの強豪であり、そのぶんメニューもそれなりにハードだ。生徒達も大変だろうが、一番過酷なのは、その管理を一手に引き受ける彼本人に他ならない。
おまけにチームには愛娘のテイオーが籍を置いているとなれば、ますます気は抜けない。
では、翻って私はどうかというと、これまた毎朝忙しい。
掲げた理想を果たすべく、トレセン学園を卒業後URAへと道を進め、結婚や三度の出産を経つつも順調にキャリアを積み重ねてきた。
その甲斐あってか、内務を統括する学園長というポストに任ぜられ、十数年ぶりに懐かしのトレセン学園へと戻ってきている。
自分で言うのもなんだが、かなり偉い立場だ。仕事には大きな責任が伴うものの、トレーナー陣と比べて時間的には余裕がある。旦那君のように、日も顔を出さないうちから出勤する必要はない。
しかし下の子二人の面倒を見なければならないため、やはり忙しいものは忙しいのだ。ウマ娘という種族柄、成長の早いテイオーやツヨシはともかく、男の子である末の子はかなり手がかかった。
幸い、三人とももうそれなりに手の掛からない年頃。最近は起床と食事の世話だけで済むようになったのでこれでも楽になったものだ。
私と旦那君のどちらに似たのか、我が子は全員手のかからない子に育っている。
まぁ、とにかく我が家の朝は早い。そして私達夫婦は忙しい。
しかしそれは心地の良い忙しさだと思う。お互い好きな事をやっているからだろう。
どう足掻いても彼の代わりになれない私と違って、旦那君は朝に子供達と関われないのが大層歯痒いらしいが。
それでも。
毎朝充実しているが……それでもたまには、こんなのんびりとした日があってもいいと思う。
「ルナ、準備は出来たか」
「ああ」
ネクタイを結びつつ、家の奥からのっそりと出てきた旦那君。私と言えば、既に支度を終えて、靴も履き玄関の土間に降りていた。
今日は全国的な連休の初日で、下の子達は私の実家に泊まりに行っている。トレーニングもオフの日だから、久々にテイオーもお休みというわけだ。
特に報告は貰っていないが、きっとメジロマックイーンのようなチームのウマ娘達、あるいは同室のマヤノトップガンあたりと街にでも繰り出しているのだろう。
世間一般には、忙しない日々に降って沸いた小休止と言ったところ。しかし生憎、私と旦那君は今日も今日とて仕事である。
私は言わずもがな、彼もまたチームトレーナーとして日々仕事に追われている立場。これまで時間の都合上後回しにしてきたメディア対応やらスケジュールの擦り合わせやらを、トレーニングのないこの日を使って片付けてしまいたいらしい。
家に子供達のいない休日だからこそ、思う存分仕事に専念出来るというのも、それはそれで本末転倒のような気がしなくもないが。トレーナーというのは、そういう職業なのだと納得するしかないのだ。
普段よりも一時間程余分に睡眠を確保出来ただけでも十分なのだろう。
旦那君は特に気の重そうな様子もなく、シューズボックスから自分の革靴を取り出してスリッパと履き替える。
隣に立つ私の腕に掴まりながらバランスを取るくらいなら、式台に腰を下ろして落ち着いて履けば良いと思うのだが、まぁ、これはこれで悪い気はしない。
「さ、行こうか」
「こら、旦那君。忘れているよ」
両方とも履き終えて、とんとんと靴先で石畳を小突きつつ業務用の鞄を脇に抱える旦那君。
玄関へと顔を上げたところで、その視界に割り込むようにして私は彼の前に躍り出る。
まったく、なにを勝手に出ていこうとしているのだろう。忙しい朝なのは十分理解しているが、それでも欠かしてはならない習慣があるだろうに。
朝食を抜いてはいけない。洗い物は夕方に残さない。家を出る前には、必ず荷物を一通り確認すること。そしてこれもまた、大事な約束の一つ。
あたかもアリクイの威嚇のように、両手を大きく広げていつものをせがんだ。
「ん」
ほんの一文字、たった一呼吸だけの短い催促。長年付き合ってきた彼相手にはそれだけでも十分だった。
「あれ」や「それ」で夫婦間のコミュニケーションが成立するようになってから、思えばとっくに五年以上は経っているだろう。
まさしく比翼連理。人バ一体とはこの事を言うのだ。見本として学園指定の国語か道徳の教材にでも載せてやりたい程である。……中高で、道徳の授業はあったかな?
「ああ、そうだったね」
面倒くさそうな仕草など欠片も見せず、旦那君は一度抱え上げた鞄を上り框に置き直し、自由になった両腕で私をそっと包み込んだ。
そのまま優しく引き寄せられる。遠慮なくその胸元に顔を埋めてみれば、柔軟剤の香りと彼の匂いが鼻腔を貫く。
私とは単純なもので、ただこれさえあれば過酷な学園長の仕事だって全く苦にもならない。どんな栄養ドリンク剤にも勝る、毎朝の活気の源だ。
「好きだな。毎朝毎朝続けているのに、よく飽きないもんだ」
「ふふっ。絶えず摂取しているからと言って、水や空気に飽きが来ることはないだろう。そういうことさ」
彼の呆れた様子を意にも介さず、私はますますぐいぐいと鼻を押し付けてやる。
手加減しているとは言えウマ娘の力であるから、ヒトである旦那君には少々苦しいかもしれないが……それでも嫌な顔一つせずに、私の背中に腕を回して力強く抱き締めてくれた。
美人は三日で慣れるなんていう言い伝えがある。
どれだけ妻の容姿が良くとも、好き合って一緒になった相手であろうとも、十年以上も共にいれば飽きが来るものなのだろうか。そもそも見栄えなんていうものは、時期が過ぎれば衰えていく一方である。
人の心は移ろうものだ。
それでも私は、彼の愛をこれまで一度たりとも疑ったことはない。どんな時でも私と子供達を心の底から大事にしてくれる自慢の杖であり旦那様だ。
「ふふ……」
その事実を今日もまた一つこうして実感出来て、私はご機嫌だった。
卒業直後、なんなら学生時代においても、私には実家経由で数え切れない程の見合い話が届いており、いずれのお相手も蓋世不抜な者ばかりだったが……それらの全てを振り切ってでも、彼と一緒になれて本当に良かったと思う。他ならぬ彼がいてこその、この幸せに他ならない。
そんな幸福を噛み締めていた矢先、私の背中を優しく撫で擦っていた彼の右手が、急に動きを止めた。
「旦那君?」
折角の心地よい感触が途絶えてしまったことに、ほんの少しの不満を含めつつ抗議の目を上に向ける。
「………………」
しかし、旦那君はそれに答えてくれない。
私の肩の上をすり抜けて、なにもない石畳に視線を落とす彼の瞳はなにも写してなどいなかった。こちらの声に全く反応せず、完全に上の空といった様子。
やがて静止していた右手は再び息を吹き返したものの、先程までのように背中を擦る動きではなく、脇腹から臀部にかけての感触を確かめるように這い回る。
「な……ちょっと、旦那君!?流石に不味いぞ。日の出たうちからこんなところで……」
確かに今は私達以外、誰も家の中にはいない。
しかしご近所さんの来訪とか予期せぬ宅配便とか、あるいは警察の巡回連絡やらが来ないとも限らないのだ。なにより今から出勤であり、嗅覚の鋭いウマ娘の総本山に顔を出す以上、変な匂いをつけていくわけにはいかないだろう。特にトレーナーである君は。
彼に求められること自体はやぶさかではないが、流石にTPOは弁えて欲しい。
慌てて身を捩ってみれば、意外にも旦那君はあっさりと私を解放してくれる。元々拘束するつもりなど無かったのかもしれない。
そして彼は、心ここに在らずといった様子で……その言葉を口にした。
「ルドルフ……その、もしかして太ったか?」
「…………………えっ?」