その後のことは、よく覚えていない。なにせもう、あれから一月も経ったのだから。
テイオー達から解放されたあと、あたかも草むしりを必死に終わらせてきたみたいな顔をしながら、寝室を片していた両親に合流したのだったか。果たしてテイオーの予感は正しかったようで、向こうもこちらの様子を見に来ようかどうかというところだったので、まさにこれ以上ない引き際だった。
あのまま物置で粘っていては、勝負服を勝手に身に付けていたことも、草むしりをサボって遊んでいたこともバレていたわけだし。前者はともかく後者については、正直誤魔化せたかかなり怪しいところだけど。
あとは風呂で汚れを落として、年の暮れらしく家族全員で食卓を囲んで、そのまま就寝。そんなところだろう。
それがあの日の顛末だった。年が明け、学校も始まった今となっては、当事者であるテイオーとツヨシですら、もしかしたらもう記憶が朧気かもしれない戯れ。結局、あの勝負服に執着しているのは、皮肉にも無理やり着させられた筈の僕自身だった。
深夜。短針が頂点に差し掛かり、小学生である僕にとってはあまりにも遅すぎる時間帯。一旦ベッドに潜ったふりをして、家の中が静かになった頃、こっそり物置へと忍び込む。
ぱちぱちと音を立てて明滅する蛍光灯に神経を尖らせながら、予め持ち込んでおいた脚立を使って棚からあの木箱を抱え下ろした。
「ぐっ……おも……」
重い。そしてなによりも大きい。あまりにもバランスが悪いなか、踏み外さないよう慎重に慎重を重ねながら脚立の段差を踏みしめる。
幾度となくこの作業を繰り返すなかで、一見して動かしたことがバレづらいように、それでいて取り出しやすさも考慮した結果、元あった棚の一番手前に保管するという形に落ち着いている。
だが最悪の事態を思えば、多少のリスクを犯してでも出し入れの容易い一番下の段か、いっそのこと床に直置きしてもいいかもしれない。勝手に移動させたことは怒られるかもしれないけど、これからやることと比べたらずっとまともな行為だし、それが露見するよりよっぽどマシだ。
無事床に足をつけたことを確認して、ゆっくりと箱を足元に横たえた。
両腕でも抱えきれないサイズだから、全くの無音というわけにもいかない。だが、家族の寝室はここから離れているし、そもそも階が違う。さしものウマ娘の聴力といえども、この程度の物音を察知することは不可能だろう。
普段から移動が面倒だと思っていた広大な間取りに、この時ばかりは感謝を捧げる。
あえて緩く被せておいた蓋を取り外し、中からジャケットとシャツ、スカート、ソックスと手袋にシューズと、一式を取り出して並べる。
その場で服を脱ぎ、丁寧に畳んで手近な棚に積んでおいた。着替えはできる限り手早く済ませなければならない。
相変わらずオーバーサイズだが、かといってなにかしら手を加えて調節するのは流石に躊躇われた。ソックスとシューズ、手袋、それからスカートの腰回りだけ、持ち込んだゴム紐でどうにか脱落を阻止する。最初は苦戦したそれも、回数を重ねた今となってはほとんど無意識の内にこなせてしまった。
上はまぁ、妥協するしかないだろう。幸いこの勝負服は胸を強調するデザインではないため、性差や多少のサイズ違いを気にすることなく柔軟に扱うことができた。決して、初めからこういった使用を想定した設計ではないのだろうけど。
「……よし」
ものの数分で着替えを終えて、静かに物置を後にする。長い廊下を焦らず渡って、裏口から家の庭に出た。
季節は真冬。それも真夜中。天気は快晴といえども、外の空気は身を斬るように冷たい。ましてやこの服はただでさえ通気性重視な上に、サイズが大きいぶん隙間も多く、その上下はスカートだから、殆ど防寒の用を為していなかった。
身を震わせながらも、庭から出て家の前の坂道を下っていく。流石に夜の山に入るほど無謀ではない。目指すは歩いて十数分の麓にある街。
「……………」
女装して、夜の街を歩く。
なにも最初からこんなことをしていたわけではない。物置でこっそり試着を楽しむ。ただそれだけで十分だった。
だけど、いくら夜中とは同じ屋根の下で暮らしている以上、露見の可能性は常につきまとう。だからいっそ、誰の目にも届かない外に出ようと思い至ったのが動機。
これが中々、快感だった。
普通では考えられない女性の格好で、小学生にはまだ許されない夜の散歩を楽しむ非日常感。
そんな趣味にかの皇帝シンボリルドルフの勝負服を消費しているという背徳感。
万が一にでも巡回中の警官に、いやたとえ一般市民でも誰かに見つかりでもすればただでは済まないという緊張感。
それら全てが胸を高鳴らせる。大掃除での悪ふざけなどとは、まるで比べ物にならない大事だ。このことを母が知ったら、果たしてどんな顔をするだろうか。かつてこの国の夢を託された衣装が、どれだけ金を積んだところで手の届かない作品が、今やこんな欲望の捌け口に使われているなどと、一体誰が想像できるだろうか。
他でもない、僕だけが知っている。その独占欲が満たされていく感覚は、僕を狂わせるのに十分な魅力を誇っていた。
たぶん、この気持ちが芽生えたのも、あの大掃除での一件がきっかけなのだろう。
これが妙に自分にしっくり馴染むと知った瞬間、無性にこれを手に入れたくなってしまった。分不相応だと分かっているからこそ惹かれるのだ。
そして同時に、誰かに見て欲しいと感じてしまっている自分もいる。自分がこれを着こなせることを、もっと沢山の人に認めて欲しいのかもしれない。そういえば、カメラに収めた僕の姿を、あの後テイオーはどうしたのだろうか。
「……っ。ダメ」
放っておけばどこまでも危うい方向に転がり落ちていきそうな思考を、頭を振ってどうにか中止する。とうに手遅れな気もするが。
あまり考えに浸っているのはもったいない。そもそも時間が時間なので、帰りも計算に入れるとなると、自由に動ける時間はせいぜい二十分程度。本質的には散歩と変わらないので、それでも十分ではある。
長引けば長引くだけ、必然的に不在がバレる可能性も上がっていくわけだし、なにより明日が辛くなるのだから。欲をかくと火傷は避けられない。
今日は少しだけ風が強い。
ただ歩いているだけでも、あおられた深紅のマントがばさりと翻る。
「……あれ」
麓の幹線道路と合流したところで、遠く前方に人影の見えたような気がした。
本当に、ずっと距離の離れた場所。男女の区別はおろか、ヒトかウマ娘かの判別もつかない。というより、そもそも本当に人影なのかも曖昧だ。分かるのは、とりあえずなにかが立っているという事実のみ。
当然どっちの方向を向いているかも分からないが、仮に正面合わせだったとしても、この暗さと距離でこちらの存在に気付いている可能性は皆無と言っていい。なにか、特殊な探知手段でも備えていない限りは。
逆にもう少し近づいても大丈夫だろう。最初の曲がり角で折れてしまおうと算段を立てながら、僕は歩みを再開する。
……思えば、そこが引き下がる最後のチャンスだったのかもしれない。
一月近く繰り返して、ついぞ何事も起こらなかった結果、心のどこかで油断とか、慢心のようなものが芽生えていたのだろうか。スリルに酔っていたこと確かである。
そしてなにより、この山には僕達家族しか住んでいないという、当たり前の事実を再認識しておくべきだった。山道から麓まで何かが降りてきて、それが人影だと分かったなら……それは必然的に、家族のうちの誰かだという確信を、相手に与えてしまうのだと。
おおよそ十メートルほど前進したところで、急に、遠くの影が駆け出した。
大きな動作。たまたま動き出すタイミングが一致したわけではなく、明らかに接近が引き金となっている。案の定、それはこちら向かってくる動きだった。
まずい。そう悟ったところで既に時遅し。
今の姿が姿なので、助けは呼べない。というより、そんな猶予自体が残されていない。遠く点だった影はみるみる大きく、輪郭を成してきて、頭のてっぺんに揃った長い耳と、揺れる尻尾が確かに確認できる。文字通り人間離れした速度は、間違いなくウマ娘のそれだった。
今着ているのは、調整したとはいうものの、まるで大きさの合っていない服と靴。帰り道は上り坂で、全く遮るものがない一本道。そして相手は大人の娘。百人いたら百人が詰みと答えるであろう、そんな絶望的な状況。
僕はただ、迫ってくるそれを見据えるのみ。
別にこの窮地を突破する奇策などではなく、諦めたのだ。ウマ娘に追われているという局面において、下手に逃げたり抵抗したところで、かえって傷口を広げるだけだと経験から理解していた。
相手の手心に身を任せることこそが、一周回ってお互いのためになる。現に、僕に逃げる意思がないと気付いたようで、走ってくる彼女は徐々にそのスピードを落とし始めていた。
あっという間に、お互い顔が見える距離。
前後に長く伸ばされた青鹿毛のウマ娘。その漆黒が夜の闇に溶け込んで、シルエットや距離感が掴みづらかったのか。前髪の隙間から覗く金色の瞳は、天高く浮かんでいる満月と瓜二つ。
「………ん、あれ?」
その顔には見覚えがあった。
有名人だ。僕が生まれる前から舞台で活躍しているベテラン女優で、学校でもよく話題に上がる。そして昔は母と同じく、レースでも活躍していたウマ娘だそうで、家にもたびたび遊びに来ていた。
「マンハッタンカフェ……さん」
「……昔みたいに、カフェでいいですよ。こんばんは、瀬奈くん。少し見ない間に、また大きくなりましたか……」
「え、えと……こんばんは。いい夜ですね」
「ええ……とても、気持ちのいい夜です」
カフェさんはその尖った顎をもたげると、月光に目が眩んだように、すうっと目蓋を細める。
本当に、夜の似合う人だ。そして綺麗な人。本職の女優にこんなこと言うのも、かえって失礼かもしれないけど。
束の間の静寂のあと、彼女は改めて僕を見下ろす。
それだけで足がすくんでして、上手く喉が動かない。顔見知りではあるけれど、有名人と二人きりとなるとやはり緊張する。有名人といえば、母やテイオーだって同じなのだが、家族と他人とではワケが違うのだ。
「え、えっと……カフェさんは、その、どうしてここに?」
「その質問にお答えするまえに……私からも一つ、良いでしょうか」
「え、あ……はい」
「……貴方は、こんな時間に、お母様の勝負服を着て、どうしてこんなところにいるのですか?」
カフェさんはこてんと小首を傾げて、訝しげにその細い眉をひそめながら、あまりにも当然な疑問を口にした。
その声はあくまでも淡々としていて、咎めるような響きはない。
「えっと……その、ちょっとした出来心で。つい魔が差しました」
「……何週間も継続して繰り返すことを……魔が差したなどとは言わないと思いますが」
「ひっ」
バレている。何ヵ月ではなく週間と言いきる辺り、ほぼ正確な情報を掴んでいるということ。一体どこから。
「まぁ……いいでしょう。今の瀬奈くんぐらいの歳の男の子なら、やんちゃもしたくなる時期でしょうから……」
「あ、はは……あ、母さんには秘密にしておいて下さいね!それでは」
失礼しますと、二歩三歩と後退する。
すかさず二歩三歩、距離を詰めてくるカフェさん。
そして最後に半歩身を寄せて、僕の手首をがっちりと捕えた。
「な、なんですか……?」
「………………………」
目の前の青鹿毛はなにも答えない。内心の読めない無表情で、僕の顔を観察するだけ。
それに絶えかねて、咄嗟に首を後ろに捻ると……ちょうどそれを見計らったかのごとく、一台のワンボックスカーが道を塞ぐように横付けする。
事ここに至って、僕はようやくこの状況を理解した。
街でたまたますれ違って、挨拶を交わしているのとはワケが違う。カフェさんは深夜に僕が出歩くことを知った上で、家と麓を繋ぐ唯一の通り道であるここに張り込んで、姿を現したのが僕だと確信した瞬間、走って目の前までやってきた。
それは一体、なんのために。どう考えても、お説教をするためじゃない。家族の目がなく、近隣も寝静まったこの時間と場所が、僕だけでなく彼女にとっても同様に都合が良いのだとしたら。
「あ、あの……カフェさん」
「なんですか……?」
「いつもの変な人は、今日はいないんですか……?」
必死で話を逸らす。今日になって、母が僕の不在に気が付いていて、後を追っているという万に一つも無さそうな希望にすがって、往生際の悪い時間稼ぎ。
そんな奇跡は起こらない。だってそうならないよう、緻密にお膳立てしたのは他ならぬ僕自身なのだから。
「ああ、タキオンさんですか。なら……」
カフェさんは僕の手首を離すと、ゆっくり、ゆっくりと、白くほっそりとした人差し指をこちらに突きつける。
「……ほら、今……貴方の後ろに」
「………え」
「まったく、口汚いモルモットだねぇ。この私を変なウマ娘だなんて」
妙にご機嫌な、弾むようなその声に振り返る間もなく。手慣れた仕草で、そっと顎を上向かせられる。
チクリと微かな首筋の痛みが、僕の意識を夜より深い暗闇へと誘った。