奥様はシンボリルドルフ   作:くまも

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それもいつかの笑い話

 

宙を舞った僕の体は、すっぽり両腕の中に優しく抱き止められる。

それで目的は達成したのだろう。母は車に張り付くのをやめて、徐々に減速を始める。恐る恐るこちらを確認していたカフェさんの顔が、ほっとしたものに変わっていった。またねと手を振ると、向こうもふり返してくれた。

僕一人が降りて、随分風通しもよくなったワンボックスカーは、がっしゃんがっしゃんと扉の残骸をご機嫌に揺らしながら小さくなっていく。あれでは次の車検は通りそうにない。

 

みるみる小さくなっていく車は、まるで躊躇うことなく最後まで最高速度を維持していた。

最早逃げ切れないと悟った瞬間、すかさず僕を切り離すよう方針転換したというわけだ。見ていて思わず感心してしまう程の、鮮やかな引き際だった。

それを弁えているからこそ、このような強行手段にも打って出たのかもしれない。

自分達の範囲内でやって欲しいものだが、あの二人にヒトの子供はいなかった筈なので、やむを得ない選択だったということだろうか。無論、だからといって他人の子供に手を出して良い道理もなく、仮に僕が許したところで法律と警察が許さないだろうが。

 

 

あと母さんも。

僕を仰向けにして膝裏と背中に腕を通し……所謂お姫様抱っこと呼ばれる抱き方でしっかりと保持しながら、駆け足から速足、並足へと落としていき、五十メートルほど進んだところでやっと停止する。

その視線は真っ直ぐ前方、車の走り去っていった方向を見つめているが、頭のてっぺんに二つ並んだウマ耳はばらばらと、絶えずあちこちを向いて周囲を窺っているようだった。きっと、この騒動の目撃者がいないか探っているのだろう。万が一本当に警察でも呼ばれていた場合、あの二人だけでなく、僕達もそれなりに不味いことになる。

いや……あるいはもう、僕に関してはとっくに手遅れなのかもしれない。他ならぬ本人の腕の中で、その勝負服を着けたまま抱えられているというのは、凄まじく居心地が悪かった。

まるで、盗みの現場を抑えられたかのような後ろめたさ。実際、勝手にその衣装を拝借しているのだから、その例えも的外れではないのかもしれない。ほぼ間違いなく、これが初犯でないことだってバレているだろうし。

 

「さて、帰るか」

 

どうやら異常はなかったようで。母はぽつりと一つ呟くと、踵を返して帰路につく。

その顔はあくまで前を見据えながらも……僕を抱く両腕の力は決して緩まない。それどころか、試しに身を揺すってみた瞬間、無駄な抵抗はやめろとばかりにより強い力で押さえ込まれてしまう。あまりにも容赦がなかった。

 

ああ……やっぱり、痛い目を見たから全てチャラなどという、虫の良い話は通らないらしい。

母は怒ると怖い。いつもは僕に鬱陶しいぐらい甘えてくるけど、怒る時は怒る。その線引きは徹底していた。親の情に絆されて、なあなあで済まされたことなど一度たりともなかった。飴と鞭を一人でこなしているような感じ。

 

「……にしても、速いんだね母さん。あの距離から車に追い付くなんて……引退して長いのに」

 

「そうかな。あの車種では私に限らず、ウマ娘を相手にするには力不足だろう。それでもまぁ……確かに鍛えてはいる。必要だからね」

 

「今でも走ってるってこと?地下レースとか」

 

「いや、そういうわけではないんだが。ほら、ママはお仕事で海外に行くこともあるだろう」

 

苦し紛れを通り越して、あまりにも露骨な話の逸らし方ではあったが、一応母は乗ってくれるつもりらしい。あたかも暇を潰すかのように、ぽつりぽつりと語り始める。

こんな時でも、自分のことをママと呼ぶのは変わらないらしい。テイオーの時からそうらしいが、生憎僕がそう呼ぶことはないのだが。どうも僕の場合、一人称はテイオーから、二人称はツヨシから影響を受けているようだった。

 

「海外のトレセンと交流する時にね、まずやることは走ることさ。走ってみて、お互いの実力を理解して、それがコミュニケーションの基盤となる。向こうでは日本の、それも過去の実績など通りが悪いから、実際に見てもらうしかない」

 

「なら、そこで遅かったら相手にもされないってこと?」

 

「流石にそんな横暴ではないけどね。ただ、今後の主導権を誰が握るかという部分に関しては、やはり影響が大きいと言える。そういったイニシアチブは後々覆すことが困難だからこそ、最初が肝心なんだ。覚えておきなさい」

 

「……はい」

 

僕の返事に一つ頷くと、ようやく母は地面に下ろしてくれた。

もっとも、帰る場所も道も同じなので、それは解放とは程遠い。ここから家まで、上り坂も含めて数百メートルあまり。素知らぬ顔でやり過ごすには、あまりにも長過ぎる距離だった。

母はあえて僕を前にやって、こちらの後ろについてくる。歩幅からして自分が先に出た方が歩きやすいだろうに、頑なにその立ち位置を崩さない様は、あくまで僕がまたしてもふらりと何処かに消えないよう警戒しているようにも見える一方で、絶対に逃がさないという無言の威圧のようにも思えた。

 

帰りは二人とも歩道。ガードレールの向こう側、青色に線の引かれたウマ娘専用レーンを横目に見れば、真新しいアスファルトの剥げ跡が微かに残っていた。あれだけの走りを見せておきながら、息一つ荒げていないのは流石というべきか。

 

「そう言えば、さっきの母さんの走り方……」

 

「ああ、あれかい?まぁ……そうか。君なら気付くか。うん、アスファルトでの長時間に渡る追跡に特化した走法。主に警察の交通機動隊が使ってるものだよ」

 

「でもあれって、外部非公開じゃなかったの」

 

「なにも正式に指導を賜ったわけじゃない。街に出れば、たまたま追跡の現場に出くわすこともある。それを見て、真似してみただけさ」

 

「へ、へぇ……」

 

何度か見かけて、試してみた。それで会得できてしまうのだから、天才の前には門外不出も意味などないのかもしれない。マニュアルが出回っていなくとも、理屈さえ分かってしまえばこなせるのだろう。

 

「他人の走りを観察、分析し応用するのはレース競技において必須の駆け引きだ。なにも私でなくとも、マンハッタンカフェやアグネスタキオンでも同じようなことはこなせただろう……さて」

 

ああ、とうとう話を逸らすのも限界が来たらしい。

背後につくプレッシャーがにわかに鋭くなる。背筋を這い上がる寒気は、なにもスカートの中に潜り込む夜風のせいだけではあるまい。

 

反射的にびくりと肩を震わせて、本能から前に駆け出しそうになる。

 

「逃げたいならやってみるがいい。ここから直線で300メートル、私から逃げ切れるものなら」

 

そんな僕の動きを、かつて逃げウマ娘をことごとく差し切った彼女が見過ごす筈もなく。

一歩踏み出しかけたところで、すかさず出鼻を挫かれる。

 

「これまで多くのウマ娘と戦ってきたが……流石に、自分の勝負服を追い掛けるのは、これが初めてだな」

 

「う………」

 

「どうした?ほら、逃げないのかい瀬奈。そうだな、家の玄関まで私から逃げ切れたら、今回の件は全て不問としよう」

 

「……………」

 

それはすなわち、今日の……いや、この一ヶ月のおいたを全て沙汰なしにするつもりはさらさらないという宣言に他ならず。

つい先程、目の前で車を解体したウマ娘が、ぴったりと肩の後ろに張り付いたまま、そう嫌らしく追い詰めてくるのは果たしてなんらかの罪に問われないものだろうか?

 

「……痛っ」

 

「!?……大丈夫かい。ほら」

 

そんなことをぼうっと考えていたら、唐突になにもないところで転んでしまった。やはりサイズの合ってない靴で安定して歩くのは難しい。

 

そんな情けない姿を見て、母は仕方がないなという風にため息を溢すと、ひょいと僕を背中に担いだ。

特に足を捻ったわけでもないのに、この歳でおぶられるのは恥ずかしい。いや、こんな格好して出歩いてる時点で、そんな羞恥心本当に今更なのだが。

 

「ちょっと。恥ずかしいんだけど」

 

「今更そんなこと言えた立場か、君は。これも罰だ。反省しろ」

 

「うぅ……」

 

「さて、どうだった瀬奈?この数週間のお楽しみは」

 

「どうだったって……?」

 

「親に黙っての夜遊びは、楽しかったかと聞いているんだ」

 

「まぁ……はい」

 

「そうか。それは……」

 

良かったな、と母は一つ呟いて、そのまま黙ってしまった。

鍛え上げられた筋肉の厚みを感じる、落ち着いた温かみにほのかな安心感を覚えながら、僕も黙ったまま大人しく背中に揺られていた。

やはり、自分の足で歩かないで済むのは快適で気分がいい。車や自転車とはまた気分が違う。昔聞いた話だが、牛のような動物が乗り物として最も優れている点は、自分で考えて勝手に動いてくれることなんだとか。

体だけでなく、頭すら使わなくて済むということ。こうしていると成る程と思える。流石に母親を家畜扱いするのはいかがなものかとも思うが。

 

家まで続く、緩やかで長い坂道。ゆらゆらと首を揺らしながら登っていく母の様子は、ひんやりとした夜の風に撫でられてリラックスしているかのよう。冬の風情を楽しんでいるのだろうか。

 

「さて、と。瀬奈。君の躾の件についてだが」

 

「嘘でしょ……この雰囲気でまだ続けるの?そもそもさっき、これが罰だって……」

 

「これ『も』罰だと言ったんだ。都合よく言葉を曲げるな。それにあれは、親に黙ってこんな時間帯に出かけたことの裁定であって、勝手に私の勝負服を持ち出し、あまつさえそんなヘンタイ行為に興じたこととはまた別の話だ」

 

「ならどうすればいいのさ。今更そんなこと言われたって、済んだことは取り返しがつかないよ」

 

「安心しろ。既にもう考えてある。今の君にぴったりなものがな」

 

首を横に曲げて、母は視線だけをこちらに送ってきた。その深い紫の瞳が、ゆっくりと細められる。

 

「……そんなにその姿を見てもらいたいなら、思う存分心行くまで見てもらえ。より多くの人間に、そしてウマ娘達に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁ……瀬奈、本当にテレビに出ちゃったんだね。しかも結構上手いのが……それにあの耳と尻尾はなんなの?動いてるから、つけ飾りじゃないよね」

 

「CGじゃないでしょうか。ねぇ、母さん」

 

「ふふ……どうだろうな。日進月歩。映像技術の進歩もまた目覚ましいものだ」

 

うん、ベテランのマンハッタンカフェがつきっきりで指導に入ったとはいえ……中々様になってるじゃないか、瀬奈。私に代わって皇帝を演じるのだから、そのぐらい気合いを張ってもらわないと。

脚本の主人公が、マンハッタンカフェ本人であったことには少々驚いたが。しかしだからこそ、彼女には珍しくあれだけ食い下がってきたのかもしれない。かつて自分の母の代役を演じた彼女が、今や彼女自身の物語を演じていて、そこに母の代役を演じる息子が出ているというのは……因果というかなんというか。

瀬奈本人は、自身の女装が全世界に晒され、今後半永久的に残る事実から目を背けたいようで、夕食を終えるや否や早々に自分の部屋に立て籠ってしまった。

 

今眺めているのは特に盛り上がり所でもない、ありきたりな日常のワンシーンを映した場面。

マンハッタンカフェが密かにつけていた日記がよからぬものに変貌し、散々トラブルを巻き起こした後、しまいには治安維持のため私に没収されたところ。

ああ、そんなことも確かにあったな。せめて中身だけは見るなと懇願されて、実際一度も開かなかったわけだが……あそこになにが書かれていたのか、だいたいの予想はついてしまう。それが意思を持ち、引き起こした事態の中身からしても明らかだ。

彼女にとっては黒歴史同然だろうに、こうも全国公開でネタに出来るとは随分成長したものだと、現在進行形で黒歴史を生産中の息子を眺めながらしみじみと感じ入る。

 

 

感じ入って……ようやく思い出した。

 

「………!!!!」

 

「……ママ?ねぇ、どうかした?」

 

そう、学生時代の思い出に浸ったからこそ、ようやく記憶のよみがえってきたそれ。ソファから飛び上がり、テイオーのいぶかしがる声も無視して廊下に飛び出す。

 

目指すは階段下の空間に作られた物置。

壁に幾重にも据えられた棚の最上段に置き直した、あの桐の箱。

 

子供が抱えて運ぶには大きな……そう、大きすぎるのだ。たかが衣装一式と、シューズを納めておくだけにしてはあまりにも。

そしてなにより、あんな場所に置いておくことそのものが不可解。その意味について、もっと深く考えて、思い出しておくべきだった。いや、まだ間に合う。

 

固い、あえて固く閉じておいた蓋を開いて、箱の中を覗き込む。撮影を終えて、つい先日戻ってきたばかりの中身。それをどかせば、下にあるのはクッションとして何重にも重ねて敷いてある新聞紙の層。

よく考えれば、いくら緩衝材だとしても、これだけのものをしまっておくにも関わらず……なおかつ箱の材質と比べても明らかに釣り合っていない。しかし急ごしらえで整えたものだから、そのちぐはぐさも当然だった。

 

「ふんっ……!!」

 

まとめて新聞の束を引っこ抜き、そして底から現れたのは数冊のノート。革張りのしっかりとした表紙のそれは、いたく年季が入っていて……これはなにを隠そう、私が学生の頃に書き溜めていた日記帳。

それも、およそ人には見せられない類いの。勝負服と共に、奇跡と称される程の栄光に満ちたあの頃の産物ではあるれど……とにかく、あの頃の私はまだ若かったということ。

 

ずっと昔、それこそこの家に来たばかりの頃だったか。

あれもちょうど一年の締めくくり、大掃除の日のこと。たまたま旦那君にこれが見つかりそうになって……間一髪で死守し、廃棄のための一時保管としてこの箱の底に隠し、カモフラージュとして勝負服を被せ、念には念を入れて滅多に立ち入らない物置の奥底に埋めて……そして私の記憶の底にも埋もれてしまったのだろう。本当に、年は取りたくないものだな。

引き出すのに手間がかからず、かといって子供達の手にも届かない場所に置いておいたつもりだったのだが、流石にこれだけ経てば成長するわけだ。今でもまだ足りないだろうが、そこは工夫したのだろう。

 

「はぁ………」

 

深く深く、安堵のため息と共に日記帳をぎゅうっと胸に抱く。勿論それは、大事なものを二度と手放さないようにという慈しみでは断じてない。むしろその逆で、今度こそ確実に処分してしまおうと、固く心に誓いながら。

ましてやこの中身を明かすなど耐えられない。存在さえ知られたくない。マンハッタンカフェと違って……私はどうやら、さっぱり成長していないようだった。

 





第ニ章【END】
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