「………クソッ」
顔面の衝撃で、一足遅れて思考を取り戻したらしきシリウスは、そう一言毒づくとおもむろに足元に落ちたクッションを拾い上げる。
そのまま振りかぶって、ママに向かって全力で投げつけようとして……止めた。持ち直して、乱暴ながらも普通に投げ渡す。
それを受け止めたママは、拍子抜けしたような、腑に落ちないような顔をしながらシリウスを見上げる。
「なに。腑抜けたの?シリウス」
「ハッ。ああ、お前みたいなお子さま相手にムキになるほどガキじゃないさ。レースとしばき合いしか能のないお前には分からんだろうが」
「生意気な……」
肩を怒らせながら大股で出口に近付いていったママは、腕を伸ばして目の前のシリウスを突き飛ばそうとする。しかし、力と体格の差であっさりといなされてしまった。
文字通り、赤子の手を捻るが如く。さしものママでも、それほど歳も離れていないボクならともかく、大人のウマ娘相手となると分が悪いようだ。
「……ふん」
ママ自身も早々にそのことを理解したのか、不服そうに一つ鼻を鳴らすと、目の前の出口がシリウスで塞がっていて脇を抜けられそうにないので、その股の間を潜って抜けようとする。
いくら四歳児とはいえ、そう苦労せずにすんなりと潜り抜けられるとは、流石のモデル体型というか。身長もあって、なにより脚が長い。
「そら」
「!?」
そうして颯爽と尻尾を靡かせながら、ママが部屋の敷居を跨いだ瞬間。勢いよく、シリウスの両足が閉じられた。
そうなるとママは動けない。シリウスの両太ももに挟まれて、あたかもトングで拾い上げられたパンかなにかのように、そのままの格好で固められている。
シリウスなりの意趣返しなのだろうか。よく見ればママはどうにか抜け出そうとやっきになってるみたいだけど、やはり大人のウマ娘の、それも両足という最も力に富んだ部位で拘束されてはどうにもならない。
唯一自由に動かせる尻尾でばしんばしんとシリウスの脛を叩いて猛抗議しているものの、やはりそれも大した打撃にはならず、ただただ今のママの非力さと滑稽さを強調させるだけの結果に終わった。
「ははっ」
「~~~~~!!!!」
そんな無様な様子を容赦なくせせら笑うシリウスと、顔は見えずとも間違いなくバカにされていることだけは伝わったのか、みるみると怒りのボルテージを上げていく幼いママ。
ああ、きっとこの二人は大昔はこんなことばかりやっていたんだなと、ありありと伝わってくる仲の良さだった。
そしてきっと、その関係を最初に変えたのはママなんだろう。
変えたというか、変わってしまったというか。
◆
その日の夜。
お仕事を終えて、病院からツヨシを連れて帰って来たパパとボクは、リビングのテーブルで二人顔を付き合わせていた。家庭内における問題共有とか、今後の意志決定とかを行う、所謂家族会議というやつだ。
普段はパパとママの夫婦二人で行われているものだけど、肝心のママがあんな状態なので、今は家族の中で次に年長のボクが代わりに出席している。
ちなみにシリウスは、ボクたちの夕食を作ったあと、パパの帰りを待たずして早々にリビングのソファで寝てしまった。
ママとボク、セナの三人きりとはいえ、やっぱり子供だけというのは少々心もとなかったので、大人のシリウスがいてくれたのは助かった。出来ればこの席にも混ざって欲しかったんだけど、一応部外者ということで遠慮したのだろうか。
「ね、パパ。これからどうしようね」
「どうするもなにも、タキオンを待つほかないだろう。こちらとしては、他に打てる手なんてなにもない」
「まぁ、そうだよね……」
警察に相談したところでどうしようもない。この状況をどうにか出来るのは、そもそもこの状況を作出した張本人たるタキオンだけなのだから。
ここで下手に話を広げてややこしくして、タキオンの活動を阻害する方がむしろ悪手。とりあえずはボクたち家族と、シリウスの内々で留めておこうという結論に落ち着いた。
「瀬奈の乳離れが済んだ後で良かったよ。まったく」
「流石にボクやシリウスでもどうにもならないからね……」
「そう言えば、瀬奈はどこにいった?」
「パパの後ろにいるよ」
「後ろ?」
パパの振り向いた先には、ソファの上でぱかプチを枕にお腹を出して寝ていたシリウス。
その上によじ登って、セナがシリウスの耳にちょっかいをかけている。もう十分近く続いていたそれに、流石に鬱陶しく感じたのか、シリウスもさっきから目を覚ましていた。
「起きてたのか」
「ん。アイツのことなら放っておきゃあいいだろ。あの歳まで育ったウマ娘なら、そうそう滅多なことにはならんだろ。ヒトならともかく」
「簡単に言ってくれるな」
「事実だろ。アンタだって、そのあたりの事情はよく知ってるはずじゃないのか」
「いや。ちょっと時期が違うな」
「あ、あー……そっか。そうだったな」
シリウスはそこで一つあくびを噛み殺すと、うとうとと目蓋を閉じつつ、セナを床に下ろして尻尾で追い払う。
何度も這い上がろうと試みて、その度に器用に尻尾で妨害されることを繰り返した末、ようやっと諦めがついたのか、セナはけろっとしたままたどたどしい足取りでリビングを出ていってしまった。
そこで泣いてぐずったりしないのがまた弟らしい。肉体的には脆弱そのものだが、それでも十分に手がかからない範囲に含まれるだろう。ただ、流石に一人きりで放っていくのは心配だ。
最後に一つだけ、大事なことを確認しておこうか。
「ママの部屋はどうしよう。これまで通りセナと一緒にしといても、正直意味ないと思うんだけど」
昨日までセナとママを一緒にしておいたのは、言うまでもなくまだ幼い弟の面倒を見るためだ。
しかし当のママが面倒を見られる側になってしまった以上、二人きりにさせておく意味もなくなってしまう。
「そこはしょうがないな。俺が面倒を見るか」
「二人まとめて一気にってこと?流石に手に負えないんじゃない?万が一ママがセナになにかした時、止めなきゃいけないのはパパなんだよ?」
「………………」
あ、黙っちゃった。
それもそうか。トレーナーをやってるパパが、自分とウマ娘の力の差を理解していない筈がない。いくら相手が四歳児といえど、自分一人の手には余るということも。
「ま、ちょうど二人いるんだから、ボクとパパで一人ずつ担当した方がいいでしょ。ボクがセナで、パパがママね」
「いや、同じウマ娘のテイオーがルドルフを見た方がいいんじゃないか」
「同じウマ娘だから、だよ。ママにとっては、ボクは正体不明のウマ娘で、たぶん単純な力だけならボクの方が上回ってる。だから警戒されてるの」
「正体不明って意味なら、俺にしても同じことだろうけどな」
「……え、あれ?パパとママは小さい頃からの知り合いじゃなかったんだっけ?」
少なくとも、ママ本人からは確かにそう聞いていた。いや、ママだけじゃなくて、実家のシンボリの人達も、シリウスだってそう言っていたのだから間違いない。
というか、ボク自身としてもそこを結構アテにしていた部分があるので、外れてもらうと困るんだけど。
「いや、まぁ、ルドルフのトレセン入学前から知り合っていたことは事実だが……最初に会ったのが、たしかルドルフがまだ九つかそのあたりの頃なんだ。だから、今はお互いはじめましてだな」
「そっか……」
「一から信頼関係構築……は、難しいだろうなぁ。流石にこの歳になると、あの頃のような無茶も利きそうにない」
「ま、だとしてもボクよりはマシでしょ。パパ相手なら、今のママでも最悪力ずくでどうとでもなるわけだしね。じゃ、ボクはセナ追いかけるから、ママのことよろしくね」
そう言い残して、ボクは椅子から飛び降りると廊下に飛び出す。
ウチは広さこそあれど、造りはそこまで単純ではない。特に苦労することもなく、ママの部屋まで行く廊下をうろうろしているセナに追い付いた。
幼いこの子なりに、自分がいつもいる部屋に帰ろうとしていたのだろう。
どうもセナはママのことをママだと認識していないらしい。遊びに来た親戚の子というあたりがせいぜいだろうか。あれだけ懐いていたあたり、シリウスのことはちゃんと理解してるみたいだけど。
「こら、も~。勝手にどっか行かないの」
セナの脇に腕を入れて抱え上げる。
そのまま猫でも運ぶように自分の部屋まで持っていくと、中にはいつの間にかツヨシまでいた。
「姉さん」
「あれ、ツヨシ。なんでボクの部屋にいるのさ。自分の部屋は?」
「……母さんに、追い出されてしまいました……」
「あー……そっか。そうなるんだね……」
そうか。ママは、自分の部屋には帰らないのか。赤の他人だと思ってるセナが一緒にいると、気が休まらないのかもしれない。
かといって、セナを追い払ってまで居座ることはしないだろうし。となると、ボクかツヨシかパパを追い出して居場所を乗っ取るほかなく……そして選ばれたのが、ツヨシだったのだろう。
今回ばかりは、争いの苦手なツヨシの気性が幸いしたかな。下手に立ち向かったところで、尚更酷い目に遭わせられるのがオチだ。
セナはボクの腕から下ろされると、ツヨシに駆け寄っていく。一目散に寄ってくる弟に困ったような曖昧な笑みを浮かべながらも、ツヨシはひとまずそれを抱き止めた。
いくら体が弱くとも、ツヨシだってウマ娘の端くれ。それも、才能にかけてはボクすら凌ぐなんて言われるぐらいだから、本当ならセナ相手に気後れする理由なんてこれっぽちもないんだけど。
単純に積極性の差かな。セナが成長するにつれて落ち着きを身につければ、このパワーバランスも変わるのかどうか。
ま、ウマ娘かつ積極性も兼ね備える、このテイオー様が最強だってことに変わりはないけど。ママはダメだ。あれには慈愛が足りなさすぎる。どうも支配するかされるかしか頭にないみたいだし、悲しきモンスターだね。
「ま、いいや。寝よっか」
「はい!」
「あい!」
流石にそんなツヨシをボクまで部屋から追い出すわけにも行かず、ボクは二人をまとめてベッドに放り込むと、電気を消す。
そうして、一人用のベッドを三人で共有すること一時間。
「……寝れない。駄目。無理。狭い。ちょっとぉツヨシ。なに勝手にデカくなってんの?」
「ご、ごめんなさい……」
「セナも。ほら、蹴らないの!蹴らないでってば……蹴るな!……はぁ」
やり辛い。だいたいシリウスはリビングを使ってるんだから、部屋の使用人数そのものは変化がないのにこのザマだ。
あーあ、パパの部屋はいいなぁ。大人の男のヒトでももて余すぐらいの、大きなベッドが一つ。あれこそ今まさにボクたちが必要としているものだ。
でもあれを借りるなると、必然的にパパとママの愛の巣に足を踏み入れることとなる。
三十を越えた成人男性と、実年齢はともかく見た目と中身共に四歳のウマ娘の、愛の巣。
夫婦だから、そりゃあ同じベッドで寝て………
「あっ……」
……あれ。これ結構、ヤバくない?
外観とか、倫理とか、あと法律とか色々……。