朝の目覚めには、陽気なジャズミュージックこそが相応しい。
片手間でラジオの音量をカチカチと弄りながら、私は愛車のハンドルを握る。
空は快晴。絶好の外出日和ということもあって、歩道も車道も大いに賑わいを見せていた。
一つ前のワンボックスカーでは、楽しそうな一家団欒の光景が繰り広げられている。対するこちらは、運転席の私と助手席の彼とで、たったの二人だけ。
この歳にもなって寂しいなどと言うつもりはないが、折角の休日にも関わらず子供達をああして遊びに連れていってやれないのは、やはり親として申し訳なく思う部分がある。
放っておいても勝手に動き回って満足する我が子達だが、それに甘えてばかりもいられまい。テイオーはともかく、無理しがちなツヨシは特に心配だ。
「……………」
朝っぱらから考えるには、少々後ろ向き過ぎたか。
しかし悲しいかな、ルームミラーに目をくれても、後部座席はぽっかりと口を空けたまま。気を紛らわしてくれる元気な姿もそこにはない。
広々とした自家用車。家族五人、一度に乗り合わせてもなおゆとりがある程。
ただ、ファミリーカーと呼ぶには少々馴染まないかもしれない。それほど車に詳しくない者でも、名前を出せばよっぽどでない限り通じる高級車なのだから。
正直、プライベートで使用するだけなら、こんな大層なものなど必要ない。しかしこうして出勤でも使用する以上、URA幹部である私自身の体面を考慮しなければならないという、大人の事情がそこにはあった。
社用車での送迎も頼めるのだが、帰宅ついでに子供を拾ったり、個人的に運営している孤児院の様子を見に行ったりということも多々あるので、多少金がかかっても私はこのスタイルを貫いていた。
それに今日みたいな日だと、愛しの旦那君と二人きりでのんびりお話しながら出勤出来るのも魅力的である。
同じ職場に勤めているからこそのご褒美だ。はっきり言って、会長の席が回ってきたとしても、もうURA本部には戻りたくない。
「………………………………」
「………………………………」
まぁ、今現在この車中はのんびりとお話どころか、永久凍土もかくやという程に凍りついているわけだが。
運転席でハンドルを握る私の隣には、えらく居心地の悪そうに縮こまっている旦那君。
彼が助手席について以来……なんなら玄関を出てからずっと、私達は言葉を交わしていない。
何度か横から視線を感じていたものの、私はそれらを全て無視していた。
無言だ。ただただ無言でハンドルを握りながら、親の仇でも見るからにフロントガラスを睨み付け、機械的に渋滞の波を捌いている。
道中、たまたま目があった通行人やら宅配のドライバーやらが、揃いも揃って反射的に目を逸らす程には、酷い顔をしているらしい。
それは勿論、彼にとっても同じであり。
ミラー越しに見える旦那君は、今は車外を眺めている。
おや、どうした旦那君?君の愛しのシンボリルドルフはそこにはいないぞ。
「あー……その、ルナ。すまなかった」
「旦那君。人と話をする時は相手の顔を見るべきじゃないかな。生憎私は運転中だから、君と目を合わせることは出来ないが」
「……はい」
蚊の鳴くような返事と共に、ゆっくりとこちらに向き直る気配。
かつてトレーナー君と呼んでいた頃から妙にふてぶてしいと言うか、肝の据わった部分のある旦那君だが、それでも本気で怒った私には一向に馴れないと、ついこの前だって言っていた。
ああ、それは決して嘘ではないのだろう。
どう見ても彼は怯えているし、そして私は怒っている。やはりミラー越しとなるが、自分の頭のてっぺんに並んだウマ耳が、ギリギリと後ろに引き絞られているのが確認出来た。あまりにも角度が急で、正面からは姿が見えない程。
これでも皇帝と呼ばれたウマ娘。学園で生徒達を束ねていたあの頃から、更に経験を積んできた。
そうでなくとも、幼い頃から感情表現のコントロールについてはこれでもかと仕込まれている。抑えようと思えばいくらでも抑えられるが、そうしてやる気は更々無いので好きなだけ寝かせておく。
「………………………」
「………………………」
またしても沈黙に帰った車内。
そのまま車を走らせていれば、竹林のようなビルの連続も終わりを迎えて、繁華街を抜けたあたりで渋滞も解消した。
よくよく考えれば、自家用車を使うよりも脇のウマ娘専用レーンを走った方が速いのだろうか。それはそれで魅力的だが、しかし肝心の旦那君と一緒に通勤出来ないので却下だ。
先程とはうって変わって、快適に府中の大通りを飛ばしていく。
そんな中、場違いに陽気なミュージックにも終わりが告げられて、代わりに日常の小さな悩みを投書で相談するコーナーが始まった。
本当に些細な悩みだ。
子供の忘れ物癖が酷いとか、何度言っても実家が野菜の仕送りを止めないだとか、そんな感じの。
日常密接型であるが故に、身近な人間関係が主なテーマ。友人関係、兄弟関係、親子関係、そして……夫婦関係。
『……さて、本日のお悩み相談ですが、まず最初の投稿。静岡県浜松市にお住まいのリスナーさんからですね』
『今日は連休初日。どこもかしこも浮わついた雰囲気ですが、さて、そんなハレの日にどのようなお悩みでしょうか?まずは読んでいきましょう』
『……皆さん初めまして、いつも楽しく拝聴させて頂いております。ところで、私には結婚して二十五年になる夫がおりますが、近頃どうにもつれない態度でして、なんでも私の腹回りが成長しすぎたとのこと。それで先日、怪しく思って興信所をつけてみましたらば、彼は仕事帰りに夜のお店で、嬢の娘と……』
「は?」
「ひっ」
……おっと、いけない。
思わず飛び出してしまったその声は、隣の旦那君がすっかり怯えさせてしまった。
うん、これはあくまでラジオのお話。それもスタジオに届けられた、名前も知らない誰かの体験談だというのに。
ああ勿論、私の旦那君がそんな、私の預かり知らぬ所でどこのウマの骨とも知らない女と懇ろになるなんて、そんなことあり得るわけがないのだから。
シンボリ家が張り巡らせた根と、私自身が十数年かけて築き上げてきた情報網。少なくともこの首都圏において、私の目を欺ける者はない。それはたとえ、旦那君であろうとも。
「……まったく、些細な悩みと言うには、余りにも重すぎるんじゃないかな旦那君。なぁ、仕事前に挟む話のネタとしては、些かそぐわないだろうに」
「い、いや……そんなこと俺に言われても」
「とにかく、これは消すべきだな。切歯扼腕だ」
左手の親指でぐりぐりと電源のスイッチを押し込めば、ブツンと虚しい音を最後にラジオの音声が切り落とされる。
これでBGMも無くなり、正真正銘、本物の静寂が車内を包み込んだ。
恐らく旦那君にとって不幸中の幸いだったのは、順調に通りを飛ばせたお陰で、数分足らずでトレセンへと辿り着いたことだろう。
職場こそ同じであるものの、私は学園長で彼はトレーナー。互いの役職も業務内容も全く異なることから、仕事中に顔を合わせることは殆どない。
一応、組織系統上は私が旦那君を……と言うより学園のスタッフ全員を監督する長であり、直属の上司であるから、その気になれば呼び出すことぐらい容易いのだが。とは言え、職場にプライベートを持ち込むつもりは毛頭ない。
なので、ひとまずここで彼とはお別れとなる。
ゲートを抜けて学園の駐車場に侵入し、ハンドルを回転させて車をバックで入れつつ、私からはぼそりと一言だけ。
「それで、どう言い訳してくれるのかな」
「いや、その……ついうっかりと言うか。悪意があって言ったわけじゃなくてだな……」
「知ってたさ。君はあの時、私をルナではなくルドルフと呼んでいたものな」
二人きりの時にはルナと呼ぶ。かつて三冠を取った頃、彼との間で交わした約束であり、今となっては夫婦間における常識だった。
なのにあそこでルドルフの名を呼んだということは、その本質において私に向けられた言葉ではなく、彼にとって独り言のようなものであり……それはすなわち、本心から出た言葉だということ。
いっそ、悪意から生じた謂われのない誹謗中傷の方がまだマシだったかもしれない。
……だけど、仕方ないじゃないか。
いくら肉体的な強度に優れるウマ娘といえども、三人も産めば多少は体型だって崩れるさ。
縁石に後輪が触れるかどうかというあたりでブレーキを踏み、キーを抜いて隣の旦那君へと手渡す。車の運転は夫婦で交代制と決めてあり、行きが私なら帰りは彼だ。
シートベルトを外してアスファルトの地面を踏む。ドアを閉める直前、最後に挨拶だけしておいた。
「さて、私は執務室に向かうとしよう。世間は祝日ではあるが、これもレースの更なる発展とウマ娘達のより良い未来のために。今日もよろしく頼むよ……"トレーナー殿"」
「はい……」
「うん、良い返事だ」
にこりと頷いて、彼の降車を待たず私はさっさと自らの執務室へと足を運ぶ。
彼はこの後、部室かミーティングルームに寄ることとなるだろうから、ひょっとしたら定時まで顔を合わせることはないかもしれない。
駐車場に直接繋がった通路から中庭へと上がり、遊歩道から大通りへと合流。
そのままトレセンの敷地を真っ直ぐ横切って本校舎まで。
トレセン学園学園長の執務室は本校舎の最上階だ。あの懐かしき生徒会室のちょうど真上であり、理事長の執務室と同じ階である。
元々この役職、昨今のトレセン学園の規模の拡大を受けて、倍々に膨れ上がった仕事量に音を上げた秋川理事長が新たに創設したものであった。
学園長が内部の統制を司り、理事長は渉外を初めとした外部との業務に専念する。それが数年前に発足した、トレセン学園経営陣の新体制である。
ちなみに私と秋川理事長は上下関係になく、あくまでお互い対等な立場。二人揃って事務方のトップというわけだ。生徒側の代表たる生徒会長も含めて、三頭体制となっている。
その辺りの権力バランスからも、かつて生徒会長として史上最長政権を樹立した私は初代学園長として適当だったというわけだ。
正面玄関を抜けて、中央階段を一段一段踏み締めるように上っていく。
祝日ということもあって、生徒の姿はまばらだ。それでも二、三人とはすれ違い、そして彼女達は挨拶と共に私を見て……血の気の引いた顔で目をそらす。
そんな酷い顔をしているのか、私は。
車内のアレは、彼へのちょっとしたやり返しに過ぎず、決して旦那君の言葉に影響されたわけでは……
……いや、誤魔化しても仕方ない。正直に言おう。図星だったからこそ、頭にこびりついて離れないのだ。
車内でもあんな放言一つ笑って流せず、らしくもなくムキになってしまったのは、自分でも事実であると薄々自覚していたからだろう。
「くっ……情けない……」
決して体型を保つ努力をしていなかったわけではない。とっくに引退し皇帝の看板を降ろした身であったとしても、ウマ娘を導く者としてだらしない姿は見せられないのだ。
ただ、その努力が甘かったのだろう。遺憾ながら今週に入って以来、体重が『微増』の傾向にあった。
恐らく気付けるのは私と旦那君だけだ。
それも私と同じか、下手したら私以上にこの体を知り尽くしているであろう彼ですら、あそこまで密着してようやく微かな違和感を抱く程度の、そんな些細な変化。客観的に見て、まだ危機感を持つ程の段階ではない。
しかし私は知っている。
そうして油断したが最後、この魔物はみるみる内に増長し制御不能に陥るのだということを。
故に手を打つべきは今だ。
今日にでも私は己が肉体に鞭を叩き込み、かの魔物と決別しなくてはならない。
「……はぁ」
結婚してはや十数年。とっくに新婚と呼ばれる時期は脱したと言えど、それでも愛する男にはいつまでも美しい自分を見ていて欲しいというのが女の性。
なにより私を慕ってくれている学園の生徒達や、今でも私を支えてくれている現役時代からのファン達、そしてなにより子供達を幻滅させるわけにはいかないのだから。
ああ……それらの中には君も含まれるな。
「おはよう、エアグルーヴ。精神一到、今日も気を引き締めて頑張ろう」
「ああ、おはようございます学園長。今朝は一段と気合いが………ひっ」
そうか、君もか……エアグルーヴ……。