学園のジムやターフ、屋内プールといった設備については、実は職員も利用することが出来る。福利厚生の一環という枠組みだ。
言うまでもなく生徒優先であり、専ら祝日や終業後かつ混雑していない時間帯に限られるが。
それでも競技ウマ娘養成期間という職場柄故か、私が現役の頃からそれなりに需要は大きかったと思う。あの頃はトレーナー君と呼び慕っていた彼もまた、頻繁に活用していた記憶がある。
こうして、自分自身がその恩恵に預かれる日が来るなどとは、あの頃は思っていなかったな。
本校舎最上階の学園長室を出て、廊下を抜けて、エレベーターまで向かったものの、思い直して階段を降りることにする。
我ながらなんともみみっちい努力。いくら昇降に階段を使ったところで、そもそもの仕事内容が座りっぱなしの管理職なのだから、焼け石に水という表現すら烏滸がましい。
それでも、これから本腰を入れて身体を動かそうと決意したことで、なんとも言えない罪悪感も多少は和らいだような気がした。
そもそも太って絞るのは身体作りの基本である。肉がつくこと自体はなにも悪いことではない。その後にしっかりと、相応の運動をこなすことこそが肝要なのである。
急な呼び出しに備えてスマホを取り出しやすい内ポケットに入れ換えながら、心なし早足で階段を下っていく。
校内は静かに走るべし。この学園の規則だが、しかし仮にも学園長という肩書きの私がバタバタ走り回れば威厳に拘わる。
組織の長たるもの、常にゆとりを持って年季を示すべきだと、秋川理事長に諭されたこともあった。ちなみに、その当時の彼女は成人を迎えた翌日だったが……いや、重要なのは発言者ではなくその中身だろう。
かつんかつんと、ヒールの音が人気のない吹き抜けに反響する。
埃一つないリノリウムの床に、輪郭のぼやけた私の影だけがちらちらと踊っていた。
踊り場に面した磨りガラスから、すっかり昇りきった太陽の柔らかな陽射しが射し込んでいた。折り返す際それに包まれてみれば、温もりこそ感じられないものの、心が解れていくのが分かる。
あと二週間も越えれば梅雨を迎えるだろう。去年一昨年と、近頃は異常気象が立て続きだから、心地よい日光を楽しめるのも、あと少しなのかもしれない。
繁忙期を終え、こうして風情を楽しむ余裕が出来たことを有り難く感じる一方で、少々、恨めしい気持ちも沸いてくる。
こんな日和にも関わらず出勤させられて、いざ顔を出してみればやること無しとは……この時間を、旦那君と我が子達とのお出かけにでも使えていたら、さぞ有意義な休暇だったろうに。
子供三人、折角の祝日だというのに、それを犠牲にしてまでやることがメールボックスのリロードとはどうしても納得がいかなかった。
昔から……ともすれば、学生の頃から仕事中毒の気がある私だが、こうして家族が絡んだ時ばかりは、どうしても仕事に嫌気が差してしまう。相応の手当と昇進さえあれば満足できる段階は終わったのだ。
「ん、学園長さん。おは……こんにちは」
「ああ、こんにちは」
二階から一階に降る途中、生徒会の庶務とすれ違った。陽の光をさんさんと浴びながら、私と同じ色をした髪をゆったりと波立たせている。
生徒会室は今日は閉めてあるから、所用でこの本校舎に訪れただけだろう。
私が言えた義理ではないかもしれないが、我々やトレーナー達と違ってまだ学生の身であるから、休日はしっかり休んで欲しい。
会釈を交わしてすれ違う。
完全に私の視界から外れた直後、背中の彼女が振り返るのを気配で感じた。
ウマ娘に普遍的な特徴ではあるが、その中でもとりわけ私は感覚が鋭い。その視線に、どこかこちらを探るような、好奇の色があることも気付いてしまう。
直接視認できない背後の様子を窺うのは、レースにおいて必須のスキルだ。昔取った杵柄というやつか、それは今でも衰えていない。
「……あっ」
そこでようやく、私の片耳が自分に向けられていることに気付いたのか。
ぎょっと息を呑む声を残して、慌てたように階段を昇っていく庶務の娘。
「……」
今年転入したばかりということもあるのかもしれないが、それを差し引いても少し怯え過ぎではなかろうか。
今朝みっともない姿を見せてしまったばかりの生徒や職員ならまだしも、彼女とはこうしてすれ違ったことすら数える程しかない。
生徒会もまた私の所轄であり、そこに席を置く生徒の顔と名前、学年は全て記憶している。そもそも彼女とは昔馴染みだ。顔を見れば絶対に気付けるので、やはりその認識に齟齬はない筈。
となると、やはり打ち解けづらいのだろう、私は。かつてはそのことに随分頭を悩ませたものだが、今はそういうものだと受け入れている部分もある。
他人に抱く印象など、誰かから言われてどうにかなるものでもない。やれることは全てやった。それでもどうにもならないのなら、それが私に対する正しい評価なのだ。
そう納得できるあたり、私も大人になったのだろうか。
「……ぐすん」
嘘。やっぱり寂しい。
だってあの娘、私の旧友の娘だし。
◆
「うーわ。そりゃうっかりだとしてもですよ。怒られて当然ですってトレーナー」
「そうだよな。うん、分かってる」
「反省してくださいね。長年連れ添ったといえども……いえ、だからこそ、です。可愛さ余ってなんとやらじゃありませんけど」
「肝に銘じておくよ」
「約束ですからね!」
もう、と自慢の芦毛を揺らしながら人差し指を突きつけてくるのは、たまたま今朝捕まえた俺の担当ウマ娘。というより、自分からこの部室にやってきた。
どうも友人との待ち合わせの都合上、午前中に中途半端な空き時間が生まれてしまったらしく、ぶらぶらとこの辺りを彷徨いていたとのこと。
休日ぐらい、レースのことはすっぱり忘れてしまった方がメリハリもつくわけだが。どうやら彼女曰く、がらんとした部室を覗くことで、今日が祝日だと実感できて幸せな気持ちになれるらしい。
まぁ、オフになにをしようが彼女の自由だ。
一方的に絡まれたとして、相手をしてやるのは吝かではない。どうせ今日に回してあったのは細々としたルーチンワークだし、雑談の片手間で片付けるぐらいなんでもなかった。
いきなりルドルフとのもつれを追求されたことには、少々驚いたが。
「まぁいいです。これでようやく納得がいきましたから。学園長が、朝っぱらから不機嫌な理由」
「ん?今日ルドルフに会っていたのか。アイツのことだから、てっきり本校舎に直行したもんだと思っていたが」
「いえ、私はまだお会いしてないです。会ったのは……といってもご挨拶しただけですが、生徒会関係の子達で。あっ……クロスも入ってますね。私を待たせてなにしてるんだろ」
そう言いながら、彼女はスカートのポケットからスマホを取り出してタップを続けた後、ディスプレイをこちらに見せてくれた。
てっきり待ち合わせの連絡交換かと思っていたが違ったようで、コミュニティルームのヘッダーには彼女とその友人の二人のみならず、かなりの人数が画面に名前を連ねている。
見たところ、一学年には到底収まりきらないだろう。
そしてなによりも気になるのが、そのコミュニティグループにつけられている名前。『シンボリ・リポート(1096)』……と、またえらく射程範囲の広い調査なことで。
しかも我が校の生徒の総数は2000であることから、仮にこのグループが生徒のみで構成されていると仮定した場合、優に過半数を越えている。
一学年が入れ替わったばかりだということも考慮するなら、その割合はさらに跳ね上がるに違いない。
「なにこれ」
「学園長を忍びやかに監視、実況して情報共有することを目的としたルームですよ」
「いや、全然忍べてないんだけど。集団ストーカーというか……一周回ってただの仲間外れだろ、これ。え、ルドルフ虐められてるの?」
「ふふっ。生徒に虐められる学園長とは前代未聞ですね。この場合、誰が保護者として出てくるんでしょうか。やっぱお姉様ですかね?」
「俺が出るさ。それはそうと、ちっとも笑いどころじゃないんだが。本当のところはどうなんだ。なぁ、ワン?」
夫である俺すら知らない間に、妻がえらいことに巻き込まれていた。
この学園は良くも悪くも人が流動的で、春頃に限らず生徒の入れ換わりは頻繁に発生している。近年は海外との交換留学も盛んになってきたから尚更だ。
そういうこともあってか、熱しやすく冷めやすい空気が確かにあって、大抵のブームは長続きしない。
一つのコミュニティグループに、誰に強制されるでもなくこれだけの人数が集まっているあたり、『シンボリルドルフの観察』というコンテンツは、既にブームを通り越したある種の伝統と化していることを意味する。
ここに出戻ってだいぶ経つルドルフ。今だに生徒から懐かれないことを気にしている彼女に、この真実を伝えるべきかそうでないのか、どちらが幸せなのか私には判断つきそうもない。
「だからそのワンって呼び方止めて下さいよ……。女の子を犬かなにかみたいに。私のことはオグリって呼んで欲しいと何度も言ってるじゃないですか」
「ああ……悪い。気を抜くとつい。そっちの呼び方だと紛らわしいんだよな」
「別に、ウマ娘なら珍しい話じゃないでしょう。被りなんて」
「分かってるさ。でもしっくりくるかはまた別の話だ」
「もう……」
彼女は軽く首を傾げつつ、スマホをポチポチと操作して元通りポケットにしまう。そのまま椅子の横に置いていたバッグを肩にかけて立ち上がった。
「クロスちゃんもフリーらしいので、もう行きますね。鍵はどうしましょう」
「ボードに提げておいてくれれば……いや、いい。投げてくれ。俺ももうすぐ出るから」
「はーい」
入り口からこのデスクまでおよそ十歩分。部室の鍵は綺麗な弧を描いて私の手の中にすっぽりと収まり、それを見届けてオグリは出ていった。
そのすぐ後に続くのもなんなので、あと少しだけ時間をずらすとしよう。
机上に並べた書類を順番に並べると、角を揃えてクリアファイルの中に入れておく。とくにやる必要もない、フォルダの並び替えも終わらせると、電源を落としてラップトップを閉じた。
最後にハンガーに掛けていたジャケットを羽織り、しっかりと戸締まりをしていよいよ部室を後にする。
特に目的地があるわけでもない。存外に早く仕事も片付いたので、気分転換に外の空気でも吸いたいと思っただけだった。
ここからならカフェテリアが最寄りだろうが、休日の昼前となればかなり人も多いだろう。腰を落ち着けるには、少し騒々しすぎるかもしれない。
せっかく時間もあるのだから、マシンの具合でも確めておこうと思い、本校舎とは真逆のトレーニングエリアに足を向けた。
普段であれば聞こえてくる賑やかな掛け声や悲鳴もなく、今日は学園全体が落ち着いている。
休日だからこそ、生徒の多くは外に出ていってしまうためだ。
トレセン学園はもとより全寮制であるから、休みの日まで見飽きた校内に留まっていたいと思う者など殆どいない。まだまだ遊びたい盛りの年頃であれば尚更。
通りすがり、ぽつぽつと等間隔で立哨しているセキュリティのウマ娘達に会釈をすれば、のんびりと向こうもそれに応じてくれた。
すっかり緑一色に染まった葉桜を眺めたり、少しだけ首をもたげて、サンバイザーの鍔越しに空を流れる雲とにらめっこしたりと、各々気ままに時間を潰している様子。
シフト制のため、今日も変わらず仕事に勤しむ彼女達だが、それでも久々の平和に安心しているのかもしれない。その気持ちは、同じく生徒の監督者としてよく理解できる。
咲き乱れるつつじの赤をぼんやりと目で追っていれば、あっという間に目的地の自動ドアまで辿り着く。広大な敷地だが、意識せずとも行きたい所に行く程度のことは雑作もない。
ここに足を踏み入れて間もない頃、どこへ行くにしても案内の標識を探していたあの頃が少しだけ懐かしかった。
受付で渡されたA4用紙に名前と職員番号、入館時間を手短に記載して、壁に掛けられたバインダーを取り外す。
綴じようとして、一番上にある用紙へと自然に目を落とした時、そこに彼女の名前が綺麗に走り書きされていた。しっとりとこびりついたインクは、まだ真新しい。
「ルドルフ」
「ああ、学園長さん、ついさっきいらしたんですよ。いつも時間のないあの方のことですから、確かに珍しいですよね」
呟いたその名を聞き取ったか、カウンターから係員が身を乗り出して反応してきた。
恐らく、この事務員とルドルフとの間では、日頃から関わりもないのだろう。私的な交流は言うに及ばず、職務上での接触すらも。
「ちょっと良いものを見た」とでも言いたげな様子で、可笑しそうに耳を揺らしている。
あたかも街中で、芸能人とでもすれ違ったように。まぁ、同じようなものか。
「ところで学園長はなにか言ってたか。たとえば……そう、俺についての愚痴なんかでも」
「特になにも。ああでも、せっかくの休みの日に出勤させられていることに不満はあるみたいですね。特にやることもないのにって……やっぱり家族水入らずで過ごしたかったんでしょうか」
「そうか。ああ、同感だよまったく」
それでも私の場合、まだこまごまとした作業の幾つかを終わらせられたという一応の成果があるわけだが、たぶんルドルフにはそれすらもない。
学園内でそれなりの役職に就いていることもあって、彼女の業務の進行についてもそれなりの察しはつく。私の推測が正しければ、本当に今日のルドルフはただそこにいるだけの置物に過ぎない。身軽な独り身なら、それでも良かったのだろうが。
ごゆっくりと係員に手を振られながら、私は歩みを再開する。
目指すは入り口から横に逸れたところに設けられた男子更衣室……ではなく、そのままトレーニングエリアへと直行。元々様子を眺めにきただけなので、ウェアやシューズの用意もしていないわけだから。
どうせ今日は空いているだろうし、久々に身体を動かしてみてもいいのだが、隣にルドルフがいるとなるとそうもいかない。世話好きと言うべきか、あのウマ娘は昔から、ヒトウマ娘問わず『教えたがり』なきらいがあった。
開放されっぱなしの扉を抜ければ、部屋の雰囲気が一気に無機質なものへと一変した。
日本最大のアスリート養成施設なだけあって、質が規則正しくずらりと並ぶ、質も量も極まったマシンの数々。
金属の光沢が、蛍光灯の光を反射して鈍い光を放っている。
その隅っこに目を向ければ、黙々とベンチプレスに打ち込んでいる一人のウマ娘の姿。
バーに装着された重りは片方400キロずつ、計800キロ。ヒトではとてもじゃないが歯の立たない重量。持ち上げるどころか、引き摺って動かすことすら不可能である。
それを呻き声一つ漏らさず淡々とこなせるのは、彼女がウマ娘だから……というだけの話ではない。ひとえに日頃の鍛練の賜物で、その肉体は流石に全盛期を終えたといえども、まだまだ衰えるところを知らなかった。
正直、プレオープンぐらいなら今でも勝てるのではないかと思う。ともすれば、重賞出場も狙えるかもしれない。
そっと、回り込むようにして頭の上から距離を詰める。
なんの意味もない、ちょっとした悪戯心。もっとも彼女相手には不足だったようで、あるいは元から存在がバレていたのか、その両耳はしっかりとこちらに照準を合わせていた。
「おはよう。それともこんにちはかな。どっちだと思う?ルナ」
「……枝葉末節。どちらでもいいさ。君のお好きなように」
バーを胸の真上で保持しながら、涼しい顔でルドルフは私の言葉を受け流す。
思えば彼女が現役の頃も、ここでよく二人きりになったものだ。
一向に老ける兆候もない彼女であるが、袖を通しているのが学園指定のジャージではなく市販のトレーニングウェアなあたりから、確かな時間の経過が感じられる。
別に卒業後も学園の衣装を使ったっていいわけだし、身長的にはさ程の変化もないのだけれども、それ以外に大きく成長した部分があるため今は家のクローゼットの肥やしと化していた。
シンボリルドルフ縁の品だと銘打ってオークションサイトにでも流せば、さぞ高値で売れることだろう。流石に他人の私物でそんなことするつもりはないけども。
「……そうだ、旦那君。折角の機会だから、君もこれを試してみたらどうかな。もし一回でも上手くこなせたら、今朝のことは綺麗さっぱり水に流してあげよう」
「嫌だ。知っているかい。500キロの重さが胸に乗っかるとね、ヒトは死ぬんだよ。立派なクッションを二つもお持ちの誰かさんとは違うんだから」
「ああ、セクハラだね。残念だが、今期の君の俸給と人事評価について再検討が必要らしい。ありがとう、お陰で仕事をようやく一つ見つけたよ」
「どういたしまして。いいよ、そしたら君のジャージを売って糊口を凌ぐから」
「瀬奈と一緒だな。やっぱり男同士、考えることも似てくるというわけか」
ガシャン、と勢いよく音をたてて、バーを引き寄せながら、どこか感心した様子でルドルフは呟く。
いや……私の知らない間に、そんなことしてたのか……?あのたわけ息子……。
最後に出てきた名前の由来は、25戦6勝の彼です