胸一つ分持ち上げた高さにバーをホールドさせて、ルドルフはようやく椅子から立ち上がった。
そのまま重りを取り外しにかかる。手伝いたいのは山々だったが、私が手を出したところでかえって負担を増やすだけなのは明白だったので、あくまで後ろから見守るだけ。
持ち運びにもコツがあるのだろうが、それでもまるで不安定感を残さずに淡々と元の置場所に並べていく姿を見ていると、やはり性差を越えた種族の差違というものについて実感せざるを得ない。
トレーナーである私にとっては、本当に今更な話である。しかし、そういった積み重ねで破綻に至る夫婦が社会において少なくないことを考えると、決して単純な話ではないのかもしれない。
実際、そういう部分についても擦り合わせを推奨する、ウマ娘向けの恋愛メソッドのようなものが世の中に溢れている。
悪い言い方をするなら、常に配慮し、男性を上に立てるというもの。
自分の方が力があるからといって、重い荷物を全て持たない。
側頭部は可能な限り髪で覆い隠す。
日頃から車道を走り慣れているとしても、異性と歩く時は歩道側に立つよう心がける。
その際、歩く速さも相手に合わせること……
個人的には、こんな気の遣われ方をされたところで、かえって申し訳ないというか、居心地が悪くなるだけだと思うのだが。ウマ娘はウマ娘らしくしているのが一番だろうに。
だいたい、目に見えた種族差も呑み込めない程度の異性関係など、どう手を尽くしたところでいずれ破綻するなんて、身も蓋もない感想が真っ先に飛び出してしまう。
他ならぬルドルフ自身がそういった部分の立ち回りも完璧だった以上、私が言っても説得力はないのかもしれないが。彼女の場合、その配慮もごく然り気無く、こちらに悟られないよう徹底していたものだから尚更。
幾つか組み合わせていた重りの最後を片付け終わって、ルドルフは肩を回しながら私の方へ戻ってきた。
「それで、君はどうしてここに?流石にその服装でトレーニングは無理があると思うが」
「ああ、単に様子を身に来ただけだ。マシンの入れ換えがないかとか、そのあたりについて。まぁ……なにも変わっていないか」
「見ての通りだ。予算の決議なら先日済ませたばかりだからね。変化があるとするなら、たぶん来月からではないかな」
「そう言えばあったな。そんなのも」
確かその処理こそが、連休前の最後の山場だったように記憶している。そしてそれを片してしまったが故に、こうして暇を持て余しているのだろう。
ゲームセンターの機種でもあるまいし、そう簡単に入れ替えができるわけもないか。多少なりとも変化があれば、それを基に現行のメニューに色づけ出来るかと期待していたのだが、どうやら空振りに終わったらしい。
「結局、旦那君も暇というわけだな。テイオー含めて、チームの子達は皆ここにはいないんだろう?」
「ついさっき、最後の一人が出ていったところだ。強いて言うなら、その見送りが今日の仕事かな」
「君のことだから、資料室あたりに籠ってシミュレーションにでも勤しんでいるんじゃないかと思っていたが」
「頭の体操にも飽きが来たんだ。それに俺が行くと、あっちの受付が無駄に仕事をしなくちゃならなくなる」
「まぁ、そうだな」
それは言い換えるなら、受付の係員にサボさせてやりたいという意味になるが、しかしそんな放言にもルドルフはなにも突っ込まず首肯する。
彼女にしては珍しく……本当に珍しく仕事にやる気のない様子。
他のマシンに乗り換えることもなく、軽く息を吐きながら、きょときょととあちこちを見渡している。どうやら、身が入らないのは仕事だけでもないらしい。ここまで集中力が散漫なのは、子供達をほったらかしにしている申し訳なさだけでは説明がつかないだろう。
「どこか痛めたか?」
「いや、あのウェイトでそんな失敗はしないさ。ただ……うむ、そうだな。少しだけ、身体が重たいような気もする。本当に、少しだけだが」
「風邪かな」
ヒトより免疫の優れるウマ娘だが、それでも病から完全に無縁というわけではない。時には風邪を引くことだってある。
ただ、少なくとも私の見る限りにおいては、その手の不調であるようには見えなかった。ウマ娘の健康管理はトレーナーの主たる仕事の一つであるし、仮に熱があったとしたら、玄関で抱擁を交わした際に気付けていないわけがないのだから。
「……いや、うーん……どうだろう。君にはどう見えるかな」
「俺は医者じゃないからはっきりしたことは言えないが……まぁ、熱があるようには見えないな。他に異常でも?」
「特にこれといったものは。ただ、この頃妙に身体が重いというか、快調とは言い難かった……かな」
「何時から」
「先月の頭ぐらいかな。本当に些細な気怠さだったものだから、てっきり年度末の疲れが尾を引いているものだと思っていたんだが」
だいたい二ヶ月近くか。慢性と言うには、まだ短いが……。
そもそも、ルドルフ本人もよく分かっていないらしい。原因云々以前の問題で、症状の段階から正確なところを掴みあぐねているようだった。
自分自身の消耗についてなにかと過小評価しがちで、内に溜め込みがちなルドルフではあるものの、明らかな肉体面のトラブルについては欠かさず報告してくれる。
それは現役時代からのルーチンというか、私と彼女の間における一つの約束事だった。
結局、ルドルフの身体について一番よく理解しているのはルドルフ自身に他ならない。その彼女でも分からないとなると、こちらも流石に対処に困ってしまう。
これが怪我だったなら、私の知識と経験でカバーできるのだが。それが病気となると、その判断は専門家でもない私の手には余る。
トレーナーの役割は簡単な診察と応急措置、医療機関にかかるか否かの判断であって、そこから先は医者の領分というのが決まりというか、不文律となっていた。素人が聞きかじりで医療に手を出すと、決まってろくなことにならない。
持ち主の釈然としない顔を余所に、右に左にと自由気ままに揺れている尻尾。
それを捕獲して、毛先をなぞるように具合を改める。ウマ娘の耳と尾に現れるのは感情の機敏に限らず、老化や健康状態についてもそれなりのことについて読み取ることが出来る。尻尾というか、毛艶に変化が生じるということ。
ただ、こうして直に手で触れてみても、特に普段と代わり映えはないように思える。毎日、入浴の際に欠かさず手入れされていることもあって、相変わらず見事なものだった。
肌年齢ならぬ尻尾年齢でもあれば、さぞかし脅威の算定結果を叩き出したことだろう。
そわそわと、手の中で落ち着かなく震えだしたのでさっさと解放してやる。
とりあえず、よく分からないということだけは分かった。
「今日はもう帰ったらどうだ。そのまま病院で診てもらった方がいい。なるべく大きなとこだぞ」
「それは、少し大袈裟すぎやしないかい?生活に差し障りがあるわけでもないし、それでいきなり半休を取るというのも……」
「生徒職員の監督だけならエアグルーヴだけでも十分だろ。なにかあったら俺でも手伝えるからな。それに、こういう日じゃないと病院にもかかれないだろ、君」
「まぁ、それは……」
「二ヶ月というのは、原因不明で放っておくには少し長過ぎる。それでなにかあって急に倒れでもしたら、むしろそっちの方が周りに迷惑かかるんだからな」
「……分かった。なら、そうしよう」
まだなにか言いたげだったが、最後の言葉が効いたのだろう。結局、ルドルフは首を縦に振ってくれた。
トレセン学園のみならず、URAにおける上層部の一員でもあり、与えられた権限と抱える部下も多い。両機関の橋渡し役も兼ねている以上、彼女にしか通らない申請も多々ある。
仕事内容は理解していたところで、私や秘書のエアグルーヴ、あるいは秋川理事長で完全に代替可能というわけではない。
ルドルフの抜けた穴は、現トレセン体制下においては補填不可能ということだ。
「念のため、エアグルーヴに報告と引き継ぎをしてくるよ。今日やることと言えば、勤怠管理程度だが」
「まぁ、なにかあったら連絡するさ」
持ってきてはみたものの、特に出番もなかったタオルを畳ながらルドルフは私に背を向けた。そのまま落ち着いた足取りで、部屋の外へと歩いていく。
軸にブレはなく、実にしっかりとした足取り。天性の体幹に、鍛え抜かれた足腰のしなやかさが相まって、見るたびに見事なものだと感心する。
姿勢制御はレースにおける重要な技術の一つだ。特にコーナーの切り込みと、スムーズなラストスパートへの移行で肝になる。その辺りのセンスは、テイオーやツヨシにもしっかりと受け継がれていた。
傍目には万全そのものだが、しかし油断は出来ない。本人が不調を訴えている以上、確実に何かしらの原因はあるのだから。
医者にかかって欲しいと強く言ったのは、勿論ルドルフの身が気がかりだということもあるが、なによりその原因が判明しなくては私自身が不安で堪らないからだ。こうした不調の初期段階は往々にして、本人は耐えるという選択肢をとりがちであるし、なにより彼女には前科がある。
過保護とでもなんとでも言わせておけばいい。これは彼女が学生だった時代からのスタンスであり、今更な話だった。
念には念を入れて、ルドルフが確実にこの建物から出ていったところを見届けた後、私も出口に足を向ける。
と、受付の係員が扉の脇からひっそりと顔を覗かせているのに気が付いた。よく見れば彼女だけではなく、その後ろにちらほらと後輩トレーナー達の姿も見える。皆、私と目が合った瞬間、さもここに居合わせたのは偶然だと言いたげな仕草で散会していった。
やはりと言うか、夫婦揃って同じ職場に勤めていて、おまけに片方が組織の長ともなれば、嫌が応でも好奇の目を集めてしまうらしい。偶然二人きりで居合わせただけでも、そこに何かしらの意味を見出だしたり、勘繰るのは人の性か。
ましてやルドルフの場合、あのお堅い性格だから尚更想像が捗るのだろう。そういう意味ではエアグルーヴ夫妻だって同じだろうに、学園長秘書という肩書きを活用しつつ、私達を避雷針として巧みに立ち回っている。
そんなことはどうでもいいとして。やはり気がかりなのはルドルフの身体である。
何事もなければいいが、さて。
◆
お疲れ様です、と気のないエアグルーヴの一声に見送られながら、私は昼上がりで学園を去った。
駐車場まで歩いていって、シートに座ってドアを閉めて、ベルトも締めたところでふと、トレーナー君の帰宅手段が無くなってしまうことに気が付いた。
まぁ、ヒトの足でも十分に帰れる通勤圏内だから別にいいだろう。
彼だって、たまには私と同じように自分の足を使えば良いのだ。そうすれば口が裂けても運動不足なんて言えないだろう。いざとなればタクシーでも呼べばいい。
躊躇いなくアクセルを踏み込んで、すっからかんの駐車場を真っ直ぐ横切っていく。
街中もこのぐらい空いていればいいのに、なんて益体もないことを考えながら、私は府中の通りを飛ばしていった。
さらにかかりつけの病院の予約が取れたのは、今から四時間ほど後のこと。まとまった隙間時間もとれたことだし、折角だから子供達の顔でも見に行こう。
目指す方角は東。調布を抜けて特別区に入り、ノンストップで東京を後にする。千葉の北部を中程まで走らせれば、私の実家まで辿り着けるのだ。
旦那君の出身もまた首都圏内のため、夫婦揃って里帰りの敷居が低い。と言うよりわりと頻繁に通っているので、そもそも里帰りの感覚すら薄い。
守衛にとっても、この車は見慣れたものだ。門を正面に捉えた瞬間、勝手に門扉が開放される。彼女達にとっては、運転手が私だろうが旦那君だろうが同じことなのだろう。
顔を見せるまでもなく、速度を保ったままあっさりと敷地に入れてしまった。楽なのは嬉しいが、流石にザル過ぎやしないだろうか。
気だるそうに本館から姿を現して、ドアを開けてくれたこの青鹿毛の警備隊長には、せめて一言ぐらいはくれてやらねばなるまい。
「おや、お帰りなさいませルドルフお嬢様」
「なぁカストル、そのお嬢様と呼ぶのいい加減やめてくれないか。あと、訪問客はちゃんと素性を改めなさい。その油断でなにかあったらどうする」
「それは失礼致しました。ですが、『なにかあった』からでも、別に遅くはないと私は思いますけどね」
私の苦言などどこ吹く風といった様子で、慇懃に頭を下げるシンボリカストル。
ここシンボリ家で、長らく警備隊長を勤めるウマ娘。私と同じ種族だが、少しだけ分類が異なる。ウマ娘には種類があるのだ。それは、ヒトにおける人種よりも少しだけ大きな違い。
彼女の肩越しに向こうを見れば、のんびりと庭の手入れに勤しむ大柄なウマ娘たち。
流石レース競技界の名門なだけあって、この屋敷は圧倒的にウマ娘が豊富だった。石を投げればウマ娘に当たる。流石にトレセン学園には及ばないにせよ、血族単位で張り合えるのはせいぜいメジロ家ぐらいだろう。
「あの子達は?」
「テイオーお嬢様とツルマルお嬢様なら、今日も今日とて庭をぱかぱか駆けていますよ。瀬奈くんなら見学。目の保養でしょうか」
「君なぁ。人の息子をなんだと思って……」
言いかけて、止める。彼女は昔からこうなのだから、無意味な行為だ。
そもそも冠名から分かる通り、彼女もまたシンボリの血族の一つであるから、表向き物腰丁寧といえども、実感として上下関係の意識は薄弱なのである。
現状この家の顔であるのは、長男である私達の兄。そして姉もまた、トレーナーとしても競技ウマ娘としても結果を残していて、私に関しては言うまでもない。分家となると、今度はシリウスの存在が無視できなくなる。
各々が自分なりの道を歩んだ結果か、シンボリ家において縦の関係は緩やかだった。この辺りは当主の力が絶大なメジロ家との違いと言えるだろう。
良く言えばフレキシブルで、悪く言えばまとまりがない。どちらにしても、私が家を出て一家自由に暮らせているのは、この気風のお陰だというのは確かだった。
さくさくと短く整えられた芝の感触を楽しみながら、正門前から庭までぐるりと館の外周を回り込む。
やはり祝日ということもあってか、ちらほらと立哨にあたっている警備ウマ娘達もいまいち覇気に欠けているが、そもそも彼女達はそこにいること自体が重要なので問題ない。
ウマ娘は総じてヒトより力が強く、その中でも脚力に関してはヒトは疎か陸上生物という括りの中においても群を抜いていた。それは別に、走ることに特化した競技ウマ娘でなくとも同じこと。
それがダース単位で詰めているこの屋敷を、あえて狙う不逞な輩などまずいない。仮にいたところで、その程度も想像できない程度の侵入者となれば、結局は脅威足り得ないだろう。
カストルの言い分にも一理あるのだ。もっとも、いやしくもかつては治安維持に携わっていた者の発言としては失格という他ないが。
庭に近づくにつれて、聞き慣れた声が耳に届く。
……さて、なんと声をかけたものかな。