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「この子のお母さん、見かけへんかったかぁ!」
ジョンはユミルを肩車したまま、周囲を行き交う大人たちに声をかけていた。
最初は、ユミルが母親とはぐれたという場所で、大声を上げて呼びかけていた。しかし、十分待っても、二十分待っても、それらしい人物が現れる気配はない。
仕方なく、今度はユミルの母親を目撃した者がいないか、周辺の人々に聞き込みを始めたのである。
「まったく、子供ほっぽらかして、どこにおんねん」
「うぅ……おかあしゃん……」
「ほら、泣くんやない。ワイが必ず見つけたるから、安心せえって」
「うん……」
ユミルはジョンの肩の上で、短い尻尾を力なく垂らしていた。
先ほどまでよりは落ち着いたものの、母親がいないという不安は、幼い少年の心に重くのしかかっているようだった。
「オカンを最後に見たんは、あそこのベンチで間違いないんやな?」
「うん。おかあしゃんと一緒に座ってたのに……ちょっとよそ見したら、いなくなっちゃった」
「ちょっと目ぇ離しただけで、か……」
ユミルが指さしたのは、広場の端に置かれた赤いベンチだった。
金属製の脚と、赤く塗られた木製の座面。
観光地や公園に置かれていても違和感のない、ごくありふれたベンチである。
ジョンはその周囲を何度も調べ、近くにいた住人や露店の店主にも聞き込みを行った。
だが、ユミルの母親を見たという者は、誰一人としていなかった。
「どういうことや……?」
親子で一緒に座っていた。
それなのに、子供が一瞬目を離した隙に、母親だけが消えた。
人混みに紛れたというだけなら、誰か一人くらい目撃していてもおかしくないはずだ。
そのとき、ジョンの脳裏に、先ほどメリルから聞いた噂がよみがえった。
相次いでいるという、異界の住人たちの失踪。
もちろん、ユミルの母親がその事件に巻き込まれたという確証はない。
ただ、胸の奥にあるウルフウッドの勘が、二つの出来事は無関係ではないと告げていた。
「とりあえず、あそこに座ってみよか」
「うん」
ジョンはユミルを連れ、母親が消えたというベンチへ近づいた。
座る前に、念のため全体を確認する。
座面の裏側。
脚の付け根。
周囲の地面。
何かの術式や装置が仕掛けられていないか調べたものの、怪しいものは何も見つからない。
やはり、どこにでもある木と金属で作られたベンチにしか見えなかった。
「よっこらせ……っと」
ジョンが腰を下ろすと、ユミルはすぐにその膝の上へ座り、胸元へしがみついてきた。
「どないした?」
「……」
ユミルは答えず、ジョンのスーツをぎゅっと握り締めている。
まるで、ほんの一瞬でも手を離せば、ジョンまで母親のように消えてしまうと恐れているようだった。
「大丈夫や」
ジョンはユミルの背中を、あやすように優しく叩いた。
「ワイは勝手におらんようになったりせえへん。オカンも、絶対に見つけたる」
「……うん」
ジョン自身は結婚したこともなければ、子供を育てた経験もない。
それでも、今の彼の中には、孤児院で暮らす幼い子供たちをあやしていたウルフウッドの記憶があった。
貧しい生活の中でも年下の子供たちを気にかけ、泣いている者がいれば頭をなで、空腹を訴える者がいれば自分の食事を分け与える。
荒っぽい言葉遣いとは裏腹に、誰よりも優しかった男の記憶。
その経験が、ジョンの手を自然に動かしていた。
「ん……?」
ふと顔を上げたジョンは、広場の向こう側に、一人の女が立っていることに気づいた。
人混みの中にいるにもかかわらず、なぜか女の周囲だけが不自然なほど静かに見える。
見覚えはない。
知らない女のはずだった。
それなのに、どこか懐かしい。
嫌悪しているはずなのに、同時に好ましいとも感じる。
会いたくなかったような気もする。
ずっと会いたかったような気もする。
相反する感情が、ジョンの胸の中へ一度に流れ込んできた。
だが、一つだけ確信できることがあった。
あの女は、明らかに異常だ。
「お前……誰や」
ユミルを抱えたまま、ジョンは警戒して腰を浮かせる。
その瞬間、女はゆっくりと片手を持ち上げた。
親指を立て、人差し指をジョンへ向ける。
まるで、子供が拳銃をまねるような仕草だった。
「バーン」
女の唇が、そう動いたように見えた。
直後。
ジョンの足元で、赤い光が弾けた。
「なっ……何やこれは!」
先ほどまで何の変哲もなかった赤いベンチが、内側から脈打つように発光し始めたのだ。
赤い光は座面から背もたれへ走り、複雑な紋様となってベンチ全体へ広がっていく。
「くそっ!」
ジョンはユミルを抱き上げ、すぐにベンチから離れようとした。
しかし、立ち上がる際に座面へついた左手が、まるで接着剤で固定されたかのように離れない。
「なんやねん、これ! 離れへんぞ!」
力任せに腕を引く。
だが、手のひらはベンチへ吸いついたまま、びくともしない。
光はさらに強くなり、視界を赤一色に染めていく。
「おにいちゃん!」
「ユミル、しっかりつかまっとれ!」
何が起きてもユミルだけは守れるよう、ジョンは少年の体を胸元へ強く抱き締めた。
次の瞬間、足元の感覚が消失した。
音も。
光も。
広場の喧騒も。
すべてが一瞬で遠ざかっていく。
そして、ジョンとユミルは、何の痕跡も残すことなく、その世界から姿を消した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「なんや……ここは……」
ジョンはユミルを抱き締めたまま、目の前の光景を見渡した。
そこには、先ほどまでと同じ街並みが広がっていた。
建物の配置も。
歩道も。
街路樹も。
行き交う人々も。
何一つ変わっていない。
ただし、色だけが失われていた。
建物も、人も、空も、道路も、すべてが灰色に塗り潰されている。
明暗の違いこそあるものの、まるで白黒写真の中へ入り込んだかのような世界だった。
その灰色の世界で、色を保っているものは三つだけ。
ジョン。
ユミル。
そして、二人が座っていた赤いベンチだった。
「おい、ここは一体……」
ジョンは近くを歩いていた灰色の男へ声をかけようとした。
「ちょっと待ち。話を――って、なんやねんこれ」
男の肩へ触れようと伸ばした手が、その体を抵抗なく通り抜けた。
肉に触れた感覚も、服をつかんだ感触もない。
冷たさも、温かさもない。
まるで立体映像へ手を差し入れたように、何の手応えもなかった。
灰色の男はジョンに気づくことなく、そのまま歩き去っていく。
「ワイらの姿が見えてへんのか……?」
「おにいちゃん……」
不安そうな声が聞こえた。
ユミルがジョンのスーツの裾をつかみ、周囲をおびえた表情で見回している。
この異常な光景に、戸惑い以上の恐怖を感じているようだった。
「大丈夫や」
ジョンはしゃがみ込み、ユミルの頭を優しくなでた。
「ワイがおる。勝手にどっか行ったりせえへんから、安心しぃ」
「うん……」
少年がわずかに落ち着いたのを確認し、ジョンは改めて周囲を観察した。
おそらく、ここは元の街と重なって存在する、別の位相にある空間だ。
灰色の人々は、元の世界を歩いている住人たちの姿が、影のように映し出されているのだろう。
そして、この世界へ入る起点となったのは、あの赤いベンチ。
そこまでは推測できる。
しかし、なぜベンチに座った者をこちら側へ引きずり込むのか。
誰が、何の目的で仕掛けたのか。
そもそも、元の世界へ戻る方法はあるのか。
分からないことばかりだった。
「すまんな、ユミル。しばらく肩車はなしや」
「どうして?」
「何が出てくるか分からへんからな。すぐ後ろをついてきぃ。絶対に離れたらあかんで」
「うん」
ジョンは腰のホルスターからハンドガンを抜き、安全装置を解除した。
引き金へ指はかけず、いつでも撃てるよう銃口を下げて構える。
幸い、足元の地面は人間たちの体のようにすり抜けることはない。
壁や街灯にも触れることができる。
すべてが実体を失っているわけではないらしい。
「ほな、行くで」
ジョンはユミルを背後に従え、周囲の探索を始めた。
「ほんま、色があらへんな……」
どれほど歩いても、視界に映るのは灰色ばかりだった。
灰色の建物。
灰色の看板。
灰色の車。
灰色の人々。
目印となる色彩が一切存在しないため、方向感覚も距離感も徐々に曖昧になっていく。
さっき通った場所なのか。
初めて通る道なのか。
それすら、分からなくなりそうだった。
「ねえ、ジョンにいちゃん」
「なんや?」
「あれ」
ユミルが遠くを指さした。
ジョンは目を細め、その方向を見る。
しかし、そこにあるのは、どこまでも続く灰色の街並みだけだった。
「何も見えへんけど」
「あっちに、色のついたものがあるよ」
「ほんまか?」
「うん。赤いやつ」
ユミルは尻尾を持つだけの人間に似た少年ではない。
やはり異界の住人らしく、人間とは異なる感覚器官を持っているらしい。
人間の目では確認できないほど遠くにある色彩を、正確に見分けているようだった。
「よっしゃ。案内頼めるか?」
「任せて!」
ユミルの指示に従い、灰色の道を進んでいく。
しばらく歩いた先に現れたのは、一台の電話ボックスだった。
「電話ボックスなんぞ、久しぶりに見たわ」
その電話ボックスは、周囲の景色から浮き上がるような、鮮やかな赤色をしていた。
灰色だけで構成された世界の中に存在する赤い箱。
それは、広大な海面に浮かべられた釣りの浮きのように、異様なほど目立っている。
「ユミル、ちょおそこで待っとってな」
「うん」
ジョンはユミルを背後へ下がらせ、銃を構えながら電話ボックスへ近づいた。
扉を開く。
中には、プッシュ式の公衆電話が設置されていた。
棚には分厚い電話帳が置かれ、受話器からはコードが伸びている。
内部を調べるが、血痕もなければ、術式らしきものもない。
受話器を持ち上げても、発信音は聞こえなかった。
今時、どのような電話ボックスが主流なのかはジョンにも分からない。
だが、少なくとも見た目だけなら、何の変哲もない古い電話ボックスだった。
この世界で色を持っているという一点を除けば。
「何かあった?」
少し離れた場所から、ユミルが尋ねる。
「いや。今んとこ、変なもんは何もあらへんな」
ジョンは受話器を戻し、電話ボックスから出た。
「ユミル。他にも色のついたもん、探せるか?」
「できる!」
元気よく返事をしたユミルは、ジョンを先導するように歩き始めた。
途中で疲れ果て、「もう歩けない」と道端に座り込んでしまい、結局またジョンが肩車することになったものの、探索は順調に進んだ。
こちらの世界へ来てから、およそ一時間。
二人は周囲に点在する、いくつもの色を持った物体を発見していた。
青いゴミ箱。
黄色いモニュメント。
緑色の柵。
紫色の自動販売機。
色も形も統一されてはいない。
しかし、それらには共通点があった。
いずれも、街中で人が無意識に触れたり、腰かけたり、利用したりする場所に置かれていることだ。
「電話ボックスに、ゴミ箱。ベンチに柵……」
ジョンは顎へ手を当てる。
「誰かが触れるんを待ってるみたいやな」
偶然、こちらの世界へ入り込む入口になったとは考えにくい。
何者かが明確な意思を持ち、人々をこの空間へ引きずり込むために設置した。
そう考えたほうが自然だった。
「あっ!」
肩の上に乗っていたユミルが、突然声を上げた。
「あれ……!」
「今度は何が見えたんや?」
「あそこ。いっぱい色がある」
「いっぱい?」
ユミルが指し示す方向へ進んでいく。
やがて、灰色の建物が並ぶ通りの中に、一軒だけ色彩を保った店舗が見えてきた。
ジョンはその看板を見上げ、目を細めた。
「三番通りのパン屋か……」
つい先ほど、メリルへ情報を渡したばかりの店。
非合法な異界の食材を使用し、食べた者を魅了していると噂されるパン屋だった。
外壁には色がない。
看板にも色はない。
だが、ショーケースに並ぶパンだけは、元の世界と変わらぬ色彩を保っていた。
焼きたてのような黄金色のクロワッサン。
赤い果実が載ったデニッシュ。
緑色のクリームを挟んだパン。
不自然なほど鮮やかな色が、灰色の店内で浮かび上がっている。
「こいつが関係しとるんか……?」
店内には灰色の客や店員が何人もいる。
しかし、ジョンやユミルのように全身が色づいている者は一人も見当たらない。
つまり、少なくとも今この店には、こちらの空間へ引きずり込まれた人間はいないということだ。
「ジョンにいちゃん!」
「なんや?」
「あっちから車が来る!」
ユミルが通りの向こうを指さした。
ジョンには、まだ何も見えない。
だが、ユミルの表情は真剣だった。
「隠れるで」
ジョンはユミルを抱き上げ、道路脇の街路樹の陰へ素早く移動した。
この世界へ来て初めて遭遇する、色を持ったまま動いている存在。
敵か味方かは分からない。
相手がユミルと同じように遠くまで見通せるなら、隠れる意味はないかもしれない。
それでも、無防備に姿をさらすよりはましだった。
やがて、通りの向こうから一台の車が現れた。
色は黒。
形状だけを見れば、どこにでもある普通の自家用車である。
しかし、灰色の車が行き交うこの世界では、鮮明な黒色を持つその車だけが、異物のように浮かび上がっていた。
エンジン音は聞こえない。
タイヤが地面をこする音もしない。
完全な静寂の中を、幽霊のように滑るように進んでくる。
ジョンは木陰から、車の動きを注視した。
黒い車は速度を落とすと、三番通りのパン屋の前で静かに停止した。
「……誰が出てくるんや」
ジョンはユミルを背後へ隠し、ハンドガンの撃鉄をゆっくりと起こした。
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