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「あれは……何なんや」
パン屋の前に停車した黒いトラックから、二人の異界の住人が降りてきた。
一人は鰐の頭部を持つ、がっしりとした体格の男。もう一人は軟体生物のような半透明の肉体を持ち、呼吸するたびに輪郭を不規則に変化させていた。
「降ろすぞ」
「へいへい」
二人はトラックの後部へ回ると、観音開きの扉を開けた。
荷台の中から運び出されたのは、透明な膜によって真空包装されたような、巨大な袋だった。
その大きさはさまざまだ。
人間一人が収まりそうなもの。
大型動物ほどの大きさのもの。
中には、どうやってトラックの荷台へ収めていたのか疑問に思うほど、巨大な袋まで混じっていた。
袋の内側では、何かがわずかに蠢いている。
「ここからやと、中身までは見えへんな……」
街路樹の陰へ身を潜めたジョンは、目を細めた。
「ユミル。あれが何か、見え――」
振り返ったジョンは、途中で言葉を止めた。
「大丈夫か?」
「あ……あれ……」
ユミルの顔から血の気が引いていた。
短い尻尾を体へ巻きつけ、口元を押さえながら、今にも吐き出しそうな表情で震えている。
「もしかして……あの袋に入っとるんは、異界の住人か?」
ユミルは青ざめた顔のまま、何度も首を縦に振った。
「そうか……」
ジョンはユミルの背中をさすりながらも、視線だけは荷下ろしを続ける二人から外さなかった。
袋の中身は、生きている異界の住人。
しかも、ユミルには遠くからでもそれが分かるらしい。
メリルから聞いた失踪事件。
色を持つ物体。
そして、パン屋の前へ運び込まれる大量の異界人。
すべてが一本の線でつながり始めていた。
「ユミル」
「なに……?」
「お前はここに隠れとってくれへんか?」
「いや!」
ユミルは即座に首を振り、ジョンのスーツを強くつかんだ。
生地に深い皺が刻まれるほどの力だった。
小さな手は震え続けている。
ジョンが離れてしまうことを、母親が消えたときと同じくらい恐れているのだ。
「大丈夫や。絶対に迎えに戻ってくる」
「ほんと……?」
「ほんまや」
ジョンはユミルの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「お前のオカンを見つけて、必ずここへ戻ったる。せやから、ちぃとばかし、ここで待っとってくれへんか?」
「でも……」
「大丈夫や」
ユミルの体を抱き締め、震える頭をそっとなでる。
「ワイは約束を破らへん」
しばらくの間、ユミルは何も答えなかった。
だが、ジョンの胸元へ顔を押しつけているうちに、少しずつ体の震えが収まっていく。
やがてユミルはスーツを握っていた手を緩め、涙をためた目でジョンを見上げた。
「絶対だよ」
「おう」
「絶対、戻ってきてね」
「ワイは約束を守る男やで」
「じゃあ……ここで隠れてる」
「ええ子や」
ジョンはユミルを街路樹と建物の隙間へ隠し、周囲から見えないことを確認した。
「危ないと思ったら、声を出さんと奥へ逃げるんや。ワイ以外のやつが来ても、絶対についていったらあかんで」
「うん」
「ほな、行ってくるわ」
ユミルの頭をもう一度なでると、ジョンは腰を低くしたまま、パン屋へ向かって歩き始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「さーて、もうひと頑張りするかぁ」
「早いとこ終わらせて、飯にしましょうや」
「そうだな」
ジョンがトラックへ近づいたときには、二人の男は荷物をすべて降ろし終えていた。
鰐頭の男は腰を伸ばし、軟体の男は溶けかけたような腕を振って、気だるそうに話している。
会話を聞き取るため、ジョンは灰色の通行人たちの間を縫うようにして、少しずつ距離を詰めていった。
しかし、あと少しというところで、二人はトラックの運転席へ乗り込んでしまう。
そのままエンジン音一つ立てず、黒いトラックは灰色の街並みの向こうへ走り去っていった。
「……追うべきか」
今なら二人を捕らえられるかもしれない。
だが、ジョンはすぐに追跡することを選ばなかった。
敵の人数も、能力も分からない。
相手がただの人間であれば、問答無用で確保していただろう。
しかし、ここはヘルサレムズ・ロットである。
異界の住人の中には、銃弾を受けても平然と動く者もいれば、倒した瞬間に周囲ごと爆発する者さえいる。
常識など、何の役にも立たない。
何より、ジョンにはユミルを無事に元の世界へ帰すという目的があった。
ここで無謀な戦闘を仕掛け、負傷するわけにはいかない。
「ウルフウッド本人なら、何の問題もなく片づけるんやろうけどな……」
ニコラス・D・ウルフウッドは、暗殺者集団〈ミカエルの眼〉で鍛え上げられた戦闘の専門家だ。
潜入。
尾行。
痕跡の隠蔽。
標的の制圧。
そのすべてが、記憶としてジョンの中に残っている。
しかし、記憶があることと、実際に問題なく実行できることは別だ。
この世界へ来てから、ジョンが優先して身につけたのは、戦闘に必要な射撃と肉体操作だった。
潜入や諜報活動まで完全に再現できる自信はない。
「無理して格好つけても、しゃあないわな」
トラックが完全に見えなくなったのを確認し、パン屋の周囲を調べる。
すると、建物の裏側に、地下へ続く階段を発見した。
階段の先には、無骨な金属製の扉が設置されている。
「さて……何が出るんやら」
ジョンはホルスターからハンドガンを抜き、いつでも引き金を引けるように構えた。
扉の前に立ち、取っ手へ手をかける。
「開いとる……?」
地下への入口には、鍵がかけられていなかった。
不用心にも思えるが、そもそもこの空間へ入り込める人間が限られているのだろう。
魔術的な封印や特殊な錠が施されていれば、先ほどの二人が戻るまで待つ必要があった。
だが、その心配はないらしい。
「ほな、お邪魔します……っと」
ジョンは呼吸を整え、ウルフウッドの記憶にある訓練をなぞっていく。
扉の正面には立たない。
開ける際には体を壁へ寄せる。
銃口から先に室内へ入り、視界の端から少しずつ確認する。
同じ場所に長くとどまらず、円を描くように動きながら、死角を一つずつ潰していく。
本来であれば、二人以上で行うべき動きだ。
一人が前を警戒し、もう一人が背後を守る。
だが、今は一人でやるしかない。
最初の部屋は、ごく普通の食品倉庫だった。
棚には小麦粉の袋が積まれ、大型の冷蔵庫や調理器具が置かれている。
パン屋の地下倉庫だと言われれば、誰も疑わない光景である。
ジョンは床や天井へ視線を走らせ、罠が仕掛けられていないことを確認しながら、ゆっくりと奥へ進んだ。
部屋には三つの扉がある。
正面の奥に一つ。
入口から見て右側と左側に、それぞれ一つずつ。
まずジョンは、人の出入りが最も多いように見える、正面奥の扉へ近づいた。
扉の脇へ体を寄せ、取っ手へ手をかける。
「ん……開かへんな」
何度か動かしてみたが、扉はびくともしない。
鍵穴はなく、継ぎ目さえほとんど見えない。
物理的な鍵ではなく、何らかの術式や機械によって封鎖されているようだった。
無理やり破壊できるのか。
破壊した場合、警報が作動しないか。
そもそも、扉の向こうに何があるのか。
判断材料が少なすぎる。
「ここで時間を使うべきやないな」
ジョンは奥の扉を諦め、右手前の扉へ向かった。
その横には、大きな荷物を運ぶための台車が置かれている。
先ほど二人が使っていたものと同じだった。
運び込まれた袋は、この先にある。
そう考えて間違いないだろう。
「ふぅー……」
大きく、ゆっくりと息を吐く。
扉の脇へ体を寄せ、銃を構える。
取っ手をひねり、素早く扉を開いた。
左右。
正面。
天井。
足元。
一つずつ確認していく。
敵の姿はない。
だが、その部屋に広がっていた光景は、ジョンの想像をはるかに超えていた。
「なんや……これは……」
天井から、無数の袋が吊り下げられていた。
先ほどトラックから運び出されたものと同じ、透明な膜で真空包装された異界の住人たち。
それが、精肉工場に吊るされた家畜のように、整然と並べられていた。
巨体を持つ者。
翼の生えた者。
無数の目を持つ者。
人間とほとんど変わらない姿の者。
老若男女を問わず、さまざまな異界の住人が袋の中へ封じ込められている。
数百体。
いや、部屋の奥が暗くて見えないだけで、さらに多いのかもしれない。
「これだけの人数を……」
人間がこれほど大量に誘拐されていれば、即座に大事件となるだろう。
しかし、異界の住人は違う。
行政によって存在を把握されていない者も多く、日々街へ流れ込んでは、同じように姿を消していく。
その曖昧さを利用すれば、少しずつ攫い続けることができる。
噂として表面化するまでに、これほどの犠牲者が出ていたのだ。
「白昼堂々、一人ずつ消していったんか……」
これだけの人数を集めるには、短くても数か月。
長ければ数年単位で、計画的に犯行を繰り返していたはずだ。
誰にも気づかれないように。
誰にも助けを求められない者から。
慎重に選びながら。
「下種どもが……」
腹の底から、煮えたぎるような怒りが込み上げる。
ジョンは奥歯を噛み締め、それでも感情に任せて動くことはせず、吊るされた袋を一つずつ確認していった。
すべてを調べる時間はない。
先ほどの男たちが、いつ戻ってくるかも分からない。
だが、今日いなくなったばかりのユミルの母親であれば、比較的入口に近い場所へ保管されている可能性がある。
「どこや……」
袋の中にいる者たちは、眠っているように目を閉じている。
生きているのか。
それとも、何らかの方法で仮死状態にされているのか。
呼吸すら確認できない。
焦る気持ちを押さえながら、特徴を探す。
長い尻尾。
長い髪。
ユミルと似た顔立ち。
「これか……?」
入口から十数体目。
袋の中に、一人の女性が収められていた。
背中まで伸びた髪。
腰から生えた長く太い尻尾。
それ以外は人間とほとんど変わらない外見。
まるで、ユミルがそのまま成長し、女性になったかのような姿だった。
「見つけたで、ユミル……」
袋の側面には、一枚の管理票が貼りつけられていた。
捕獲日時。
捕獲場所。
年齢。
生活習慣。
持病。
薬物の使用歴。
さらには、普段利用する店や、周囲との交友関係まで細かく記録されている。
「最初から狙ってやがったんか」
偶然、通りかかった者を攫ったわけではない。
被害者を事前に調査し、周囲への影響が少ない者を選び、計画的に捕獲していたのだ。
「くそが……」
今すぐ袋を破り、彼女を助け出したい。
だが、この透明な膜が、生命維持装置の役割を果たしている可能性もある。
何の知識もなく破れば、中にいる者を死なせてしまうかもしれない。
ユミルの母親を助けようとして殺してしまうなど、絶対にあってはならない。
「ひとまず、オカンは見つけた」
ジョンは管理票の情報を記憶し、周囲の装置へ目を向けた。
「せやけど……ここは一体、何のための場所なんや」
異界の住人を食料とする怪物が存在することは、知識として知っている。
だが、ここまで大量の異界人を集め、分類して保管している様子は、単なる食料目的には見えない。
何か別の目的がある。
しかし、それが何なのかは分からなかった。
「もう一つの部屋も見とくか」
残っているのは、倉庫へ入って左側にあった扉だ。
ジョンは足音を殺して廊下を戻り、扉の横へ張りついた。
呼吸を整え、先ほどと同じように銃を構える。
取っ手を回す。
扉がゆっくりと開いた。
室内へ銃口を向け、死角を確認していく。
「なんや……ここは……」
そこは、工場だった。
部屋の中央には、巨大な円筒形の機械が並んでいる。
透明な管が壁や天井を這い回り、隣の保管室から運ばれてきた袋へ接続されていた。
管の内部では、異界の住人たちから抜き取られたと思われる、淡く輝く液体がゆっくりと流れている。
液体は機械の中で圧縮され、濾過され、最後には小さなガラス容器へ注ぎ込まれていた。
その一本一本に、価格と品質を示す札が貼られている。
健康状態。
年齢。
種族。
純度。
まるで高級酒か宝石のように、命から抽出したものへ値段をつけていた。
機械の脇には、処理を終えた袋が積み重ねられている。
中にいた者たちは、生気を失った灰色の皮膚をさらし、ぴくりとも動かなかった。
「……なるほどな」
ジョンの声から、感情が消えた。
「生きたまま搾り取っとるんか」
助ける方法は分かった。
機械を停止させ、生命維持機能を保ったまま管を外せばよい。
壁に貼られた作業手順書と、装置の表示を見れば、おおよその操作方法も理解できる。
だが、その前にやらなければならないことがある。
この施設を運営している者たちを、一人残らず無力化する。
ジョンは静かに銃を下ろした。
胸の内側で、怒りが冷たく研ぎ澄まされていく。
そして、物音を立てることなく部屋をあとにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「へへへ。今回も大量でしたね、兄貴」
「ぼろい商売よ」
先ほどパン屋の前から立ち去った男たちは、再びトラックで三番通りへ向かっていた。
灰色の世界に点在する、色を持つ入口。
二人はそれらを順番に巡回し、罠へ引き込まれた異界の住人を回収していた。
今日も何人もの捕獲に成功し、二人の機嫌はよかった。
「この分なら、今月の報酬も期待できますね」
「上物ばかりだからな。特に親子連れの女は、健康状態もいい。相当な値がつくぞ」
「子供のほうは逃したみたいですけどね」
「どうせ、また引っかかるさ」
下卑た笑い声を上げながら、トラックは三番通りへ入った。
「ん?」
鰐頭の男が、前方を見て眉をひそめる。
「何だ、あいつは」
通りの中央に、一人の男が立っていた。
黒いスーツ。
乱れた黒髪。
サングラス。
口元には、火のついた煙草がくわえられている。
そして男の隣には、身の丈をはるかに超える、巨大な十字架が立てかけられていた。
十字架は分厚い布に包まれ、何本もの革帯によって厳重に固定されている。
「ヒューマン……?」
「おい、武器を用意しろ」
「へい」
二人は車内に備えつけられていた銃器を手に取り、トラックから降りた。
鰐頭の男は大型の散弾銃。
軟体の男は複数の銃身を持つ、異界製の短機関銃。
銃口を男へ向けながら、ゆっくりと距離を詰めていく。
だが、スーツ姿の男は二人へ目を向けようともせず、静かに煙草を吸い続けていた。
「おい!」
返事はない。
「どうしてヒューマンがここにいる!」
煙草の先端から、灰が落ちる。
「組織の人間か!」
男は肺に溜めた煙を、ゆっくりと吐き出した。
白い煙が灰色の世界へ溶けていく。
「おい、聞いてんのか!」
「一つ」
低い声が響いた。
男は短くなった煙草を指でつまみ、地面へ落とす。
革靴の底で、火種を踏み消した。
「ワイは、お前らの組織の人間やない」
右手が、巨大な十字架を固定している革帯へ伸びる。
「二つ」
金具が外れる。
何重にも巻かれていた布が、地面へ滑り落ちた。
現れたのは、白い紋章が刻まれた、巨大な金属製の十字架。
武器というにはあまりに巨大で。
墓標というには、あまりに禍々しい。
二人の男が、無意識に一歩後ずさった。
「な、何だ……そいつは」
スーツ姿の男は十字架を軽々と持ち上げ、その中心へ手を差し入れた。
内部の機構が作動する。
歯車が回転し、重い金属音を響かせた。
十字架の長辺が左右へ開き、内部から巨大な銃身が姿を現す。
「三つ」
サングラスの奥。
鋭く細められた瞳が、二人の男を射抜いた。
殺気。
そう呼ぶ以外に表現できない何かが、二人の全身を貫いた。
息が止まる。
引き金へかけていた指が震える。
本能が、目の前の男は決して敵に回してはならない存在だと叫んでいる。
「ワイは、お前らに慈悲をかけるつもりはあらへん」
男は巨大な十字架――パニッシャーの銃口を、二人へ向けた。
「ま、待て!」
鰐頭の男が散弾銃を構える。
「先に撃て!」
軟体の男が引き金へ力を込める。
しかし、それより早く。
「死んで詫びろ」
パニッシャーが火を噴いた。
大気を震わせる重厚な銃声。
圧倒的な質量を持つ弾丸が、灰色の道路を一直線にえぐり取る。
「うおおおおっ!」
二人は左右へ飛び退いた。
直後、背後に停められていたトラックの前部が、爆発したように吹き飛んだ。
鉄板がねじれ、ガラスが砕け散り、巨大な車体が宙へ持ち上がる。
「何だ、この威力は!」
「撃て、撃てぇっ!」
二人が一斉に銃撃を開始する。
無数の弾丸が、黒いスーツの男へ殺到した。
だが、ジョンはパニッシャーを盾のように構え、銃弾を正面から受け止める。
金属の表面で火花が咲き、甲高い衝突音が連続して響いた。
「そんな豆鉄砲で――」
ジョンは銃撃の中を、一歩踏み出す。
「止められると思うたんか!」
パニッシャーを大きく振るう。
十字架の先端が鰐頭の男の散弾銃へ直撃し、武器ごと腕を跳ね上げた。
「ぐあっ!」
そのまま体を回転させ、反対側にいた軟体の男へ十字架の側面を叩き込む。
形の定まらない肉体が大きく歪み、男は建物の壁まで吹き飛ばされた。
「こ、この野郎!」
鰐頭の男が腰から刃物を抜き、ジョンへ襲いかかる。
巨大な顎を開き、同時にナイフを振り下ろす。
ジョンは半歩だけ体をずらし、その攻撃をかわした。
すれ違いざま、パニッシャーの銃身を男の腹部へ押し当てる。
「歯ぁ食いしばれ」
引き金。
爆音とともに鰐頭の男の巨体が宙を舞い、何度も地面を転がっていく。
直撃ではない。
発射の衝撃だけを浴びせたのだ。
それでも男の意識を奪うには、十分すぎる威力だった。
「ひっ……!」
壁へ叩きつけられた軟体の男が、地面を這うように逃げ出す。
だが、その背後へパニッシャーの影が落ちた。
「逃げられると思うなや」
「ま、待ってくれ! 俺たちは運んでただけだ! 殺したのは上の連中で――」
「ほな、その上の連中のこと、全部しゃべってもらおか」
ジョンは男の頭上へ銃口を向けた。
「しゃべらんかったら?」
軟体の男が、震えながら首を横に振る。
ジョンは笑わなかった。
「次は外さん」
直後。
灰色の世界に、男の悲鳴が響き渡った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それで、どうだったんだ?」
事件から数日後。
ジョンはライブラ本部で、スティーブンから声をかけられていた。
異界の住人たちを狙った大規模誘拐事件は、ひとまずの終結を迎えている。
「あれ以上のことは、分かりませんでしたよ」
「そうか……」
スティーブンは資料へ目を落とし、険しい表情を浮かべた。
今回の事件は、異界の住人から特殊な生命エネルギーを抽出し、凝縮したうえで人間たちへ高値で売りつけるという、極めて非人道的なものだった。
健康な異界人一人から抽出されるエネルギーは、富裕層の間で若返りや身体能力の向上、快楽作用をもたらす高級品として取引されていたらしい。
善良な異界の住人ばかりが狙われた理由は、商品の価値を高めるためだった。
健康で。
薬物を使用しておらず。
大きな持病もなく。
犯罪歴もない。
そうした異界の住人から抽出したエネルギーは、純度が高いという触れ込みで、通常よりも高値で売ることができたという。
ただの非道ではない。
被害者の善良さそのものを、商品価値として利用していたのだ。
「胸糞悪い話ですよ」
「ああ」
押収された顧客名簿には、人間界の政治家や財界人をはじめ、複数の大物の名前が記載されていた。
情報が流出すると、事件は瞬く間に世間を騒がせる大事件となった。
しかし、判明したのはそこまでだった。
ジョンが捕らえた運搬役の二人以外、事件へ直接関与した者を逮捕することはできていない。
施設を運営していた組織の名前も。
装置を作った者も。
女の正体も。
顧客名簿が本物であるという確証すら、得られなかった。
大きな権力によって揉み消されたという痕跡さえない。
本当に、何も分からないまま消えてしまったのだ。
それが、この事件へひどく後味の悪い印象を残していた。
「そういえば、パン屋はどうなった?」
「完全に白だったみたいですよ」
ジョンはソファの背もたれへ体を預けた。
「パンはもともと評判がよかったらしくて、店自体には何の問題もなかったそうです」
「それはよかった」
三番通りのパン屋のパンが、異常なほど人を惹きつけていた理由も判明している。
地下施設から漏れ出した異界のエネルギーが、保管されていた小麦粉へ微量に染み込み、風味を強くしていたのだ。
当初は、パン屋も組織とつながっている可能性を疑われた。
しかし、店主や従業員には明確なアリバイがあり、地下施設の存在すら知らなかったことが確認された。
簡単な事情聴取を受けたのち、無関係として解放されている。
「むしろ、パンが売れたせいで地下に組織が目をつけた可能性もあるみたいです」
「災難な話だな」
「ほんまに」
スティーブンは資料を閉じると、何かを思いついたように顔を上げた。
「ああ、そうだ。事件現場を確認するついでに、そのパン屋で昼食を買おうと思っているんだが、どうだ?」
「ええですね。行きましょうか」
ジョンが了承すると、スティーブンはにこりと笑い、椅子の背へかけていた上着を手に取った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それで、どうやってあの世界から脱出したんだ?」
スティーブンと、ウルフウッドの姿をしたジョンは、並んで三番通りへ向かって歩いていた。
「あの世界から出るには、何か特別な手順が必要だったんだろう?」
「簡単やったで」
ジョンはポケットへ手を入れたまま答える。
「犯人どもを半殺しにして、元の世界に通じる扉を解除させたんや」
「ははは」
スティーブンは楽しそうに笑った。
「ザップだったら勢い余って殺してしまい、二度とこちらへ戻れなくなるところだったな」
「笑い事ちゃうで」
結局、ジョンはあの二人を殺さなかった。
施設の中を見た直後は、頭に血が上り、問答無用で殺してしまいそうになった。
だが、ウルフウッドの冷徹な判断力が、怒りに飲み込まれかけたジョンを踏みとどまらせた。
犯人を殺せば、脱出方法を聞き出せない。
捕らえられた者たちを安全に解放する手順も分からなくなる。
ユミルとの約束も守れない。
そう判断し、瀕死にはしたものの、命だけは残したのだ。
「正直、ワイだけやったら殺してたかもしれへん」
「そうか」
「せやけど、あいつらの記憶が止めてくれた」
ヴァッシュとウルフウッド。
二人の記憶は、ときにジョンの自我を侵食する恐怖の対象でもある。
しかし同時に、どれほど感情が高ぶった状況でも、最善の選択を取るための冷静さを与えてくれていた。
「……悪いことばかりではないんだな」
「認めるんは、ちょいと癪ですけどね」
「ん?」
スティーブンが何かに気づき、前方を指さした。
「あれは」
「ジョンにいちゃーん!」
通りの向こうから、ユミルが満面の笑みを浮かべて走ってきた。
その後ろには、長い尻尾を持つ母親の姿もある。
「おっと」
勢いよく飛びついてきたユミルを、ジョンは両腕で受け止めた。
「おにいちゃん、この前はありがとう!」
「おう。元気そうやな」
ジョンはユミルを抱き上げたまま、その頭をゆっくりとなでる。
事件のあと、ユミルも無事に元の世界へ帰還することができた。
捕らえられていた異界の住人たちも、ライブラの支援によって装置から安全に解放されている。
衰弱していた者は多かったものの、幸い、ユミルの母親を含め、ほとんどの者が一命を取り留めた。
「先日は、本当にありがとうございました」
母親が深々と頭を下げる。
「いや。こいつが頑張ってオカンを探しとったからや」
ジョンはユミルを地面へ下ろした。
「ワイは、ちぃとばかし手伝っただけやで」
「いえ、そのようなことは――」
「そんなことないよ!」
母親の言葉を遮るように、ユミルが大声を上げた。
その瞳は輝き、まっすぐジョンへ向けられている。
「ジョンがいてくれたから、僕はお母さんに会えたんだよ!」
「いや、せやけどな……」
「ははは」
スティーブンが横から口を挟む。
「好意は素直に受け取っておけ、ジョン」
「はぁ……」
ユミルの勢いに押されたジョンは、困ったように頬をかいた。
その様子を見て、スティーブンはますます楽しそうに笑っている。
「僕、大きくなったら、ジョンのお嫁さんになる!」
「……は?」
ジョンの動きが止まった。
「いや、お前、男やあらへんの?」
「僕は男にも、女の子にもなれるんだよ!」
ユミルは誇らしそうに胸を張り、尻尾を左右へ大きく振った。
その横で、スティーブンが腹を抱えて笑い始める。
「い、いいじゃないか、ジョン!」
「笑いすぎや! やっかましいわ!」
「将来が楽しみだな、ジョンおにいちゃん」
「スティーブンまで、その呼び方すんなや!」
困り果てるジョン。
笑い続けるスティーブン。
そして、そんな二人のやり取りを楽しそうに見上げるユミル。
その様子を眺めていた母親は、ふと腕時計へ目を落とした。
「あら、もうこんな時間」
はっとした表情を浮かべ、ユミルへ声をかける。
「ユミル、そろそろ行きますよ」
「はーい!」
ユミルは母親のもとへ駆け寄ると、もう一度ジョンを振り返った。
「じゃあね、ジョンおにいちゃん!」
「おう。またな」
母親と手をつなぎ、元気よく去っていく。
ユミルは何度も振り返っては、ジョンへ大きく手を振っていた。
ジョンも小さく手を上げ、それに応える。
「いい子じゃないか、ジョンおにいちゃん」
「はぁ……スティーブンまで、そないなこと言わんといてくれ」
ジョンは深々とため息をついた。
その後、二人は噂の三番通りのパン屋へ立ち寄り、昼食用のパンを購入した。
パンは、噂どおり非常においしかった。
しかし、ジョンは一口食べるたび、先ほどのやり取りを思い出しては、何度もため息をつくのだった。
お気に入りや、評価くれたら、飽きずに続けられるかも(/ω・\)チラッ
注意:万が一感想を書いていただける場合、今後の展開を予想するのだけはやめていただけるとありがたいです。続きを書く気がまじで無くなるので……(´・ω・`)
トライガンを……
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見たことがない