「あ、いらっしゃいませー」
男がヘルサレムズ・ロットに来てから、数日がたった。
彼は今、ダイナーの従業員として働いていた。大学時代に飲食店でアルバイトをしていた経験が役立ったのか、従業員としては十分な働きを見せている。
男がビビアンに泣きついたあと、その哀れな姿を見かねた店のマスターが、アルバイトとして雇ってくれたのだ。
あのときの男は、プライドというものを一切捨て去り、ビビアンに縋りついていた。
あるときは「こんな哀れな自分を見捨てるのか」と情に訴え、またあるときは自分がいかに役に立つ人間であるかを必死に説明し、どうにか雇ってもらったのである。
「これ、一番テーブルに持っていって」
「はーい」
この数日間、ビビアンと話すうちに分かったことがある。
どうやら、『血界戦線』の主人公であるレオナルド・ウォッチは、まだこの街へ来ていないらしい。
もっとも、彼がこの街にいるかどうかにかかわらず、ヘルサレムズ・ロットが危険であることに変わりはない。そういう意味では、どうでもいいことではあった。
しかし、『血界戦線』という物語を知っている以上、その物語がすでに始まっているのかどうかは、男にとって重要な問題だった。
「お待たせしました。異界蟹のハンバーガーです」
本当に、この街には異界の住人が多い。
街を歩く者の半分以上は、人間ではなく異界の者たちだ。
今、男が客のもとへ運んだハンバーガーも、紫色の蟹を丸ごとパンに挟んだ代物だった。それを受け取り、甲羅ごとばりばりと食べている客も、もちろん人間ではない。
この街へ来て、まだ数日しかたっていない。
それでも、男の中にあった常識は、すでにぼろぼろになりつつあった。
「それにしても、お前、自分の名前は思い出せたか?」
「それが……」
ビビアンに尋ねられても、男は曖昧な愛想笑いを浮かべるだけで、答えることができなかった。
そんな男の様子を見て、ビビアンは呆れたようにため息をつく。
「そのままだと、ジョン・ドゥって呼ぶぞ」
「名無しの権兵衛ですか」
「お前にはぴったりだ」
ビビアンはそう言って、男の頭を指先でつついた。
男は、自分の名前を忘れていた。
この世界へ来るまでは、当たり前のように名乗っていたはずの名前。それを、きれいさっぱり忘れてしまっていたのだ。
財布の中に入っていた身分証明書は、何かに焼かれたかのように真っ黒になっていた。スマートフォンに登録されているはずの名前も、文字化けしたように崩れ、読み取ることができない。
まるで、この世界へ転移した代償として、名前そのものを奪われてしまったかのようだった。
「さーて。これ、三番テーブルによろしく」
「はい」
男は今日も、この危険な街で危険を避け、生き延びるために、ダイナーで働くのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あれがターゲットか?」
「そのはずだ」
車の中からダイナーを見張っていたのは、赤髪の偉丈夫と、顔に傷を負った黒髪のスーツ姿の男だった。
二人は店内で働く男を見つめながら、短く言葉を交わす。
どちらも目つきは鋭く、周囲の動きを警戒しているようだった。
「まさか、神降ろしを行おうとした馬鹿どもの影響を受けた男が、これほど近くにいるとはね」
「早急に身柄を確保し、彼と話をしなくてはならない」
鍛え上げられた巨躯を持つ男――クラウス・V・ラインヘルツは、隣に座るスティーブン・A・スターフェイズへそう返した。
二人は、数日前に行われた神降ろしの儀式で、生贄として捧げられていた男の行方を追っていた。
クラウスとスティーブンが儀式の現場へ踏み込んだとき、儀式を行っていたと思われる者たちは、大口径の銃弾で手足を撃ち抜かれ、全員が行動不能にされていた。
当初、二人は何らかの内部分裂が起こり、儀式が中断されたのだと考えていた。
ところが、現場を詳しく調査した結果、神に類する存在が実際に降臨したことを示す証拠が、いくつも発見された。
そのため二人は、儀式の関係者を虱潰しに調べていたのである。
そんな折、裏社会に近年まれに見る高額の賞金首が現れた。
その額、異界の通貨で六百億。
一生どころか、子々孫々に至るまで遊んで暮らせるほどの大金だった。
二人は、その賞金首こそ、自分たちが捜している男ではないかと考え、行方を追っていたのだ。
「お、出てくるぞ」
「私が行こう」
何か使いでも頼まれたのだろう。ダイナーから、目的の男が姿を現した。
その姿を確認した二人は、すぐさま行動を開始する。
道路の反対側に停めた車から降りると、男に接触するべく歩み寄っていった。
男もクラウスたちに気づいたらしい。
どこか諦めたような表情を浮かべ、その場に立ち止まった。
そのときだった。
クラウスと男との間に、突如として虚空から一台の車が現れた。
「なっ――」
すべては一瞬の出来事だった。
虚空から飛び出した車は男をさらうと、そのまま再び空間の中へと消えていった。
クラウスは男が立っていた場所へ駆け寄った。
しかし、どれだけ周囲を見渡しても、男も車も、影も形も見当たらなかった。
「やられたな、クラウス」
「どうやら、先を越されたようだ」
クラウスは、その場に男がいた唯一の証拠である、買い物用のトートバッグを拾い上げた。
そして、厳しい表情でそう呟いたのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「こいつが、神をその身に宿した男か? なんだか冴えねえ男だなぁ」
「はっはっは! そんなの関係ねえよ! そいつの首には、六百億の賞金が懸かってるんだ!」
下品な笑い声が、車内に響き渡った。
運転席に座るトカゲ頭の男は、唾液らしき液体を辺りにまき散らしながら、大声で笑っている。
「ええと……何かの間違いでは? ははっ……」
「そんなわけねえだろ。ほらよ。これ、お前の顔だよなぁ?」
誘拐犯の一人が、ようやく手に入りかけていた平穏な生活から一転、さらわれた姫のような立場になってしまった名無しの男の眼前へ、一枚の紙を突きつけた。
そこに印刷されていたのは、確かに名無しの男の顔だった。
いつ撮られたのかは分からないが、写真の中の彼は、なかなかいい笑顔を浮かべている。
そして、その顔写真の下には、六百億という賞金額が大きく記されていた。
わずかに救いがあるとすれば、「生死不問」ではなく、「生け捕り」と書かれていることだろう。
(なっんにも! 救いじゃない!)
名無しの男は、自分を誘拐したことで六百億を手に入れられると浮かれている男たちを見て、心の中で叫んだ。
そう思うのも当然だ。
生け捕りということは、引き渡されるまでは無事でいられるというだけで、その後どうなるかなど、分かったものではない。
殺されない程度に拷問されるかもしれない。
生きたまま踊り食いにされるかもしれない。
もしかすると、生きたまま剝製にされるかもしれない。
間違いなく、ろくなことにはならない。
その確信だけが、男の中にはあった。
「それにしても、神降ろしってのは女にしかできないんじゃねえのか? こんな冴えない男に、神なんて降ろせるものなのか?」
「ここはヘルサレムズ・ロットだぞ。何が起きたって、不思議じゃないだろ」
「へへっ、違いねえ」
「でもよぉ……」
そう言うと、誘拐犯の一人が名無しの男へ近づき、その場にヤンキー座りをして目線を合わせた。
そして、どぶのような悪臭を放つ息を、男の顔へ吹きかける。
「なあ、どうやってやったんだ? 神降ろしなんて、そうそうできるもんじゃねえ。俺にちょっと、その方法を教えてくれねえかなぁ。なあ、兄ちゃん」
ぎょろりとした六つの目を名無しの男に向けて、誘拐犯は尋ねた。
名無しの男は、かつてこの手の男に絡まれたときのことを思い出した。
そのときは、自分が悪いわけではなかったものの、ひたすら謝り続けたことで、大した騒ぎにはならずに済んだ。
それでも、肝を冷やしたことだけは覚えている。
だが、今はそのときとは比べものにならないほど、命の危険が迫っていた。
もともと小さかった男の肝は、すっかり冷え切り、今や凍りついてしまっている。
「別に、教えたって減るもんじゃないだろ? なあ、兄ちゃん。考えてもみろよ。神だぞ、神! 世界中が安全に神を降ろす方法を求めてる。その方法には、六百億以上の価値があるんだ。なあ、兄ちゃん。教えてくれよ」
「いや、その……自分でも、何が何だか……」
名無しの男がそう答えた瞬間、誘拐犯は人間の数倍はあろうかという巨大な拳を、その腹へ叩き込んだ。
内臓が押し潰され、肋骨が折れる音が響いた。
男の身体は一瞬だけ宙に浮かび、重力に引かれるまま、車の床へ崩れ落ちた。
「おい、殺すなよ。ヒューマンは脆いんだからな」
「大丈夫だって。手加減には慣れてんだ」
「な……にが……手加減……だ……」
床に倒れた男を前に、誘拐犯たちはいい加減なことを言っている。
彼らなりには手加減をしたらしいが、名無しの男は、すでに半死半生の状態だった。
肋骨が折れたせいか、息をするたびに激痛が走る。
男は酸素を求め、浅く、荒い呼吸を繰り返していた。
(それにしても……六百億か……)
六百億。
その数字は、男にとって特別な意味を持っていた。
それは、『TRIGUN』の主人公、ヴァッシュ・ザ・スタンピードに懸けられた賞金額と同じ数字だった。
そんなことを考えていると、男は、近くに何かが転がっていることに気づいた。
先ほど殴られた衝撃で落ちたのだろう。
胸ポケットに差していた、ヴァッシュ・ザ・スタンピードのサングラスだった。
男は、震える手を伸ばした。
「おいおい、何やってんだ?」
誘拐犯が異変に気づいたときには、名無しの男は、すでにそのサングラスを顔へとかけようとしていた。
そう。
六百億$$の男。
ヒューマノイド・タイフーン。
そして、誰よりも平和を愛した男がかけていた、あのサングラスを。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あれは……」
目の前で目的の男を誘拐されたクラウスとスティーブンは、その行方を追っていた。
同僚の狼女に連絡を取り、わずかに残された痕跡を頼りに、男をさらった車を追跡していたのだ。
そして、二人がようやくたどり着いた先。
そこで彼らを待っていたのは、見るも無残に破壊された一台の車だった。
その傍らには、一人のガンマンが立っている。
逆立った金髪。
鮮やかな赤いコート。
そして、その手には、人間が扱えるとは思えないほど巨大なリボルバーが握られていた。
お気に入りや、評価くれたら、飽きずに続けられるかも(/ω・\)チラッ
注意:万が一感想を書いていただける場合、今後の展開を予想するのはやめていただけるとありがたいです。続きを書く気が無くなるので……。
トライガンを……
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漫画なら読んだことがある
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アニメなら見たことがある
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漫画、アニメどちらも見たことがある
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見たことがない