「ほら、見てよトレーナー! エレジーちゃんだよ!」
「おう、ほんまじゃな」
桜色の髪を揺らして、春を冠するウマ娘ハルウララが、ホールに飛び込んできた。そして、その後ろに続いてのっそりと現れたのは、現役時代よりも痩せ細った今でも、学園で随一の剛力を誇る男だった。
「ウララさん?」
「あ! キングちゃんだ! ごめんね、遅れちゃった」
「いえ、それは私はいいのだけど、どうして浦戸トレーナーはちょっとくたびれてるのかしら?」
キングヘイローの指摘通りに、ハルウララの専属トレーナーである浦戸は、ジャケットを手に持ち、シャツも少しばかり汚れや乱れがあった。
「そら俺が聞きたいわな。学園はいつの間に心霊スポットになったがな」
「え? それはどういう……」
「キングちゃん! トレーナーすごいんだよ! お相撲さんみたいにドシーンドシーンってしたら、開かなくなったドアとか、飛んできたロッカーとかドーンってしちゃうんだ!」
「え、ええ……?」
ウララ語の解読に手間取りながら、キングヘイローが彼女の話を纏めると、このホールに来るまでにトレーナー室に閉じ込められたり、廊下に備え付けてある掃除用具のロッカーが飛んできたらしく、その度に浦戸が力任せに突破してきた。という事らしいのだが、その様な所謂心霊現象が起きたなどと信じられる訳がない。
だが、ウララだけでなく浦戸までもが、同じ内容の事柄を口にしている。にわかには信じられないが、本当に起こったと考えてよさそうだ。
「しかしめったちや。南坂さんとターボともはぐれてしもうた。まあ、南坂さんやきかまんろうけんど」
「でもトレーナー、すごいよね。〝あの子〟達、すごくビックリしてたよ」
「おんしにしか見えちゃあせんがやき、言われてもにゃあ……」
浦戸が太い顎を掻きつつ言うが、周りの者達には何が起きているのかさっぱり分からない。
とにかく、二人の会話をどうにか理解しようと、必死に頭を働かせる。
だが、そんな中でいち早く復帰した者が居た。
ゴールドシップだ。
「待ってくれ。ウララ、……エレジーが、見えるのか?」
「?、見えるよ。トレーナーも見えるよね」
「んあ? そら、そこに映っちゅうがやき見えらあよ」
ゴールドシップは一瞬、二人が何を言っているのか理解が追い付かなかった。
もう自分ですら霞み始めた姿と名前、それをはっきりと二人は呼んだ。
その瞬間だった。
『……リボテ…レジー! 前に出た! 先頭! 先頭はハリ……テ…レジー!』
ノイズに沈んでいたスクリーンに、色が戻ってきた。
だが、
奴は存在しない
奴は存在しない
ハリボテエレジーは存在しない
『……リ…テエレ……』
「ダメだよ! そんなイジワルに負けちゃダメ……!!」
次第に消えていく色と音に、ウララが叫んだ。
「エレジーちゃん……!!」
「ウララ、どういたがな? 映りは悪いけんど、そんな言う程かや」
「トレーナー、エレジーちゃんを呼んで! このままだと、エレジーちゃんが本当に居なくなっちゃう!」
「ああ? どういう事な?」
「アタシからも頼む! 今あいつを覚えてんのは、アタシとあんた達だけなんだ!!」
「おん?」
奴は存在しない
奴は存在しない
ハリボテエレジーは存在しない
ハリボテエレジーは存在しない
……お願い、もうやめて
浦戸も二人が何を言っているのか理解出来なかった。
浦戸の認識では、ハリボテエレジーは確かにあの重賞レースで勝った。
あの日、誰もが驚愕し、そして歓喜した。不可能であるとされた種族の壁を乗り越え、可能性の果てに届いたあの娘。手作に頼まれ、トレーニングを見ていた浦戸はよく覚えている。
あの根性の塊の娘。その昔、足りない体でがむしゃらに稽古に励み、満身創痍になりながら、それでも頂点を目指していた嘗ての自分に重ねて、ウララと共に親身になって、彼女のトレーニングを見た。
そして、彼女は壊れる事無く夢を掴んだ。人がウマ娘に勝つという夢を。
あの一回だけかもしれない。次は無いかもしれない。だが、彼女達の夢を一回だけで終わらせないのが、自分達トレーナーの役目だ。
夢半ばに倒れた浦戸は、そう考えている。
だから、浦戸はウララの夢を諦めない。いつか、あの大舞台に立ち勝ちたいという夢を。
そして、あの娘。ハリボテエレジーの夢も諦めない。
「ウララ、俺には今何が起きちゅうのかよう分からん。やけど、エレジーがちゃがまりそうながやな?」
「うん」
居ない居ない居ない居ない
奴はもう居ない!
全て気のせいだ!
突如として頭に響いた聞き覚えの無い声、何かを掻き消そうとするかの様な声が、浦戸の脳内に響いた。
そして、この瞬間に浦戸は一連の違和感に気付いた。
「ゴルシ、おまんはこれと戦いよったがか」
「え?」
「ちっくと待ちより。あの根性娘を助けるにゃ、俺らじゃ足りん」
そう言うと、浦戸は僅かに右に傾きながら椅子に座る手作の元に歩み寄る。
「のう、手作さんよ。おまん、何しゆうぜ」
「え?」
「え? やないがよ。エレジーはおまんがあっこまで連れて行ったがぞ。それをおまんは何呆けて見ゆうがなや」
土佐訛りの強い口調で、浦戸は手作に詰め寄る。
確かに、これは何かがおかしい。ハリ エ ジーは、今や誰もが知るウマ娘で、手作は浦戸にもトレーニングの協力を申し出ていた。
周囲の者達も同様だ。ハ ボテ ジーは言わば、中央トレセン学園が産み出した奇跡。
それを誰も覚えていない。
その事に浦戸は無性に腹が立った。
「浦戸さん、僕は……」
「おまんが何を忘れちゅうか知らんがよ、今ここで思い出さんかったら、俺は一生軽蔑する。おまんだけやない。ここに居る全員じゃ」
決して声を荒げる事無く、浦戸は静かに宣言した。
困惑、それ一色に染まった部屋。だが、誰も何も言わない。否、言えない。
自分達の記憶には、 ボテ レジ は存在しない。
しかし、ずっと何か違和感を抱えている。
これは一体何だ。何を自分達は失っている。
その問いを誰かが口にする前に、ウララが何かを思い出し、声を挙げた。
「あ! そうだった! ゴルシちゃん、オペちゃんが困ったら僕のチャンネルを見ろって言ってたよ!」
「オペラオーのか? いや、でもなんでだ?」
「分かんない! けど、オペちゃんは必ず必要になるって言ってた」
テイエムオペラオーを含め、数人のウマ娘はこの部屋に居ない。
そして、困ったら自分のチャンネルを見ろと、ウララに言伝てを頼んでいた。
ゴールドシップはウララの言葉の真意を図りかねながらも、彼女の言う通りにパソコンでオペラオーのチャンネルを開いた。
『おお、反逆者よ。誇り高く、気高く、折れる事知らぬ反逆者よ! 君の脚は脆く儚く、しかし君は頂に挑む事を諦めない。それは何故か?!』
『バカかお前! 妙な事言ってないで、さっさと用件済ませろ! くそ! ただの配信だってのに、なんでこんな負荷掛かってやがんだ?!』
『シャカール、食堂で氷貰ってきたよ!』
『なんで氷なんだよ!』
『アニメだとおっきなパソコンを氷で冷やしてたよ』
『それはアニメだ!』
開いたのだが、どうにも緊張感の無い絵面が映され、その場にあった緊迫が霧散してしまう。
一体なんなのだと、ゴールドシップがパソコンを操作しようとすると、メイショウドトウが画面の前で声を挙げた。
『パソコンさん頑張ってくださいぃ! 私達は友達を助けたいだけなんです……!!』
「え?」
ドトウの言葉にゴールドシップは固まった。
何故、自分以外の誰もが彼女の事を忘れてしまっている。
その筈なのに、何故友達を助けたいと、ドトウは言った。
ゴールドシップのその疑問に、オペラオーの言葉が答えとなった。
『臆するな、ドトウ。僕達の乗る船は決して沈まない!』
『船ってお前、何言ってんだ?』
『乗っているさ、決して沈まぬ金色の船に。しかし、今この船には乗組員が足りない!』
オペラオーの堂々とした声が、スピーカーから響き渡った。
『それは誰か! 我々は知っている! あの輝きを! 泥に、敗北に塗れ、それでも燦々たる輝きを失わなかったあの者を……!』
『だぁから! さっさと済ませろ!』
『無粋だね! しかし、手早くと言うなら済ませよう! 世が! 人が! 彼女を忘れたと言うのなら! このテイエムオペラオーの名をもって、彼女の名を呼ぼう……!』
一拍の間、その間を置いて、テイエムオペラオーは高らかに宣言した。
『彼女、誇り高きツギハギの反逆者〝ハリボテエレジー〟は確かに世界に存在する……!!』
瞬間だった。テイエムオペラオーのその宣言が響き渡った瞬間、世界が脈動した。
そして……
「エレ、ジー……」
手作が彼女の名を呼んだ。