影絵   作:箱女

10 / 29


―――――

 

 

 

 「あ、あの、弘世先輩!」

 

 「亦野か、どうした?」

 

 ホームルームを終えて部室へと向かう廊下の途中で、菫はある少女に呼び止められた。窓の外は春によく見られるどちらともつかない感じの薄曇りである。地面に落ちた桜の花弁はいつの間にか雨に流されたか掃除されたのだろう、その姿はどこにも見当たらない。

 

 「その、どうして私たちは宮永先輩と打てないのでしょうか」

 

 避けられない質問であると同時に説得するのも難しい質問だった。質問をしてきた彼女の眼差しはまっすぐで、皮肉や嫌味の要素は感じられない。ただの疑問を、あるいは願望も混じっているのかもしれないが、それをぶつけているだけだ。だがそれにどう答えればよいのか菫には見当もつかない。照という一種の異常事態を別にして考えれば、新部長の下した決断は、新入生たちの実力を劣るものとみなしているのと同じことである。それを正直に伝えるのも躊躇われるし、だからといってこの質問から逃げ続けるわけにもいかない。

 

 「……すまない、もう少しだけ待ってくれないか」

 

 絞り出すように答える。おそらくテレビの向こうのインターハイしか知らないだろう彼女たちは照に幻想を抱いてさえいるだろう。それはどちらかといえば漫画やアニメの登場人物に抱くようなものに近く、現実感を失ったものであった。宮永照はもはやそういった領域に踏み込んでしまったと言っていいだろう。インターハイ準優勝の彼女に対して、挑戦して勝とうとする一年生が出てきていることがその証明だ。その幻想を叩き壊すにはひとつしかない。彼女の強さが現実に存在するということを見せつけることだ。ただ、照と一年生たちをぶつけることなくそれを達成するということになると、その機会は限られた。大会しかない。五月の末に行われるインハイ予選で直に見てもらい、肌で感じてもらうことが最良であった。

 

 「そうすれば、()()()()()()()()()()()と思うから」

 

 すこしだけ寂しそうに顔を翳らせた少女に、菫はこう言うことしかできなかった。

 

 外には薄い雲を通した弱い光が降り注いでいる。眩しいわけでも光量が足りないわけでもない。空の色にさえ文句を言わなければとても過ごしやすそうに見えた。

 

 

 

 感情の大部分は申し訳なさに支配されていたが、ごくごく一部の片隅に後ろ暗い快感が芽生えたことを菫は自覚した。決して嗜虐的な傾向を持ち合わせているわけではない。それはただ、とある秘密を自分だけが握っているときの、あの感覚であった。感情の内訳を正確に計ることはできないが、しかしそれは両の手のひらの一掬いのうちの砂粒のひとつほどの大きさだった。

 

 

 対局の見学あるいは牌譜の研究で特定の選手の特徴を見抜くというのは、一般的に考えられているよりもはるかに難しい。それはほとんどヒントのない人探しに似ている。特徴というものは他の選手とは明らかに違う部分のことを指し、そこへたどり着くにはまず違和感を抱かなければならない。そうしてその選手の戦い方の共通点を見出すことが第一歩となり、そこからようやく実際的な研究へと移ることになるのである。要求されるのは麻雀を打つという行為のなかに違和感を持てる勘の良さと、そのあとで膨大な資料と向かい合える根気である。これらの能力を持ち合わせている人物は稀にしかおらず、また高校生という条件を加えればほとんど皆無と言っても差し支えないだろう。

 

 つまり白糸台の新入生たちに、宮永照を正しく見ることなど不可能であった。

 

 菫をはじめ対局者が怯えたのは卓の向こうに存在した能面であり、決して安全圏から眺める宮永照ではない。外から見た白糸台のエースは、初めの辺りは早いけれど打点の低いプレイヤー程度に見えるのかもしれない。とくについ一ヶ月前までは中学生だった者たちにとっては。すくなくとも決勝戦の解説を務めたプロが興奮気味に語り、またインターハイを振り返る番組で別のプロが手放しで称賛したところの宮永照を正確に掴めた者は高校のトップレベルでさえほとんどいなかった。

 

 実は菫が先に受けたような質問は初めてではない。彼女は二年生の取りまとめ役を任されているため、立場としては新部長の次くらいに目立つ位置にある。そのこともあってか、照に関する質問のおよそ三割ほどは菫へと投げられた。六割は新部長、残りの一割はその他の先輩である。内訳ができるほどに質問があったと言えば多少は想像もつきやすくなるだろう。

 

 菫のため息が奇妙なほどに濃淡のはっきりした曇り空に消えていく。それは特別な意識のない、その時点で使えるだけの空気を一斉に吐き出すだけのもので、これ見よがしに長いものでも動作のついたものでもなかった。こういったため息をここ最近だけでどれだけついてきただろう。制服の下の体がいったん膨らんで、しぼんでゆくような感覚に襲われた。

 

 

―――――

 

 

 

 自室の椅子の背もたれに背中を預けて菫は目を閉じる。明らかに疲労の色が残っていた。麻雀は個人の資質による部分が大きい競技であるという定説があるが、実はこの言葉は才能だけを指したものではないということを知っている人間は少ない。麻雀を競技として捉えず、ただの娯楽として捉えるならばこれほど気楽なものもなかなかないだろう。勝者と敗者が出ることに違いはないが、四人あるいは三人で遊ぶのが基本であるために勝敗への執着が一対一で行うものよりも薄く、またその気になれば何度だってできるのだからなおさらである。

 

 しかし、競技として捉えた途端に麻雀はその姿を変える。競技としての難易度を比べるわけにはいかないが、囲碁や将棋と同様に “勝つ” ということの意味が圧倒的に重くなるのである。そこには常に良手や悪手が存在し、なにか一つのミスで勝利がその手からこぼれ落ちていくなどということも珍しいものではない。四人の思考が入り乱れることに加えて山から牌を引くという要素を考えれば、囲碁や将棋とは異なる意味での無限の手筋が存在するのだ。そしてその中で勝ち続けることと、そのための努力を続けることの難しさと不毛さを競技者たちは知っている。

 

 誰かは上に行けば行くほど条件の厳しくなる登山だと表現し、誰かは対岸の見えない底なし沼を渡ろうとするようなものだと自嘲した。

 

 そんなことを言うくらいならやめてしまえばいいのに、なんて心にもないことを菫は思う。だが競技としての麻雀の魅力に憑かれた彼らは、どれだけ苦しかろうとそう簡単には音を上げることはしないだろう。菫にはわかるのだ。それは未だに菫が麻雀から離れない理由と同じだから。

 

 そういった意味で、彼女は資質を持っていると言えた。

 

 また、彼女を取り囲んできた環境もその一助となっていた。中学生のときの全国大会で明らかに彼女より上のレベルで戦う少女たちを見たこともそうだし、何より高校で宮永照に出会ってしまったことが大きい。菫はそこで恐怖を抱くことを選択せず、憧れを抱いた。それもショーウインドウの向こうにあるような手の届かないものに対しての憧れではなく、いずれ自身も同じ舞台に立って牙を届かせてみせるという種のものであった。

 

 日本で一番だとか世界で一番だとか、菫はそういった具体的な目標を持っているわけではなかった。ただ、頑張れば挑める範囲にいる相手に負けたくない、という幼稚と見ることもできる意地が顔を覗かせただけの話である。一も二もなく彼女たちには勝てないと決め付けられることに、菫は我慢がならなかった。決して表面上に出すことはないが、菫の負けん気は上を目指す者にとっての必須のレベルをきちんと備えていた。

 

 そんな資質に恵まれた彼女が麻雀に対する研鑚を怠るはずもなく、その実力は本人でさえ気付けないほどにゆっくりと、だが確実に向上していった。

 

 

―――――

 

 

 

 いよいよ緑が深くなって、春と初夏のあいだの名前のつけられていない短い季節がやってきた。鳥も虫も活気づいて、青空の色味が明らかに変わる。春に特有のどことなくもったりとした匂いは消えて、木々や葉の匂いが強まってくる。それは比較的自然に囲まれた白糸台高校に限られたものなのかもしれないが、彼女たちはその環境以外に身を置けないのだから比べようもなかった。

 

 

 ある火曜日の放課後、部室ではなく会議室に集められた部員たちを前に、監督がメンバー選抜にあたっての話をしている。だが菫はそれをほとんど聞いていなかった。普段であればそんなことはまず考えられない。そしてこの場は今の菫にとって何よりも重要なものと言っていい。奇妙なことにも思えるが、だからこそ菫は話を聞くことができなかったのだ。それは単純にひどく緊張しているからだった。まず舞台に上がらなければ、積み重ねてきた成果を発表することさえできないのだから。体を内側から圧迫してくるごわごわした感情を押さえつけるために、菫はほんの短い間だけ拳をきつく握った。

 

 拳の握りを緩めると同時に血液が通っていくのがわかる。隣に立っている照の頭がわずかに動いた気がしたが、菫はそれを無視した。定まっていなかった視線を、一年生のための説明を終えようとしている監督の方へとやっと固定した。会議室の窓は閉め切られていて、空中に漂う小さな埃が無軌道に動いては菫の視界に入り込んだ。部員全員が集まっているせいか、すこし息苦しく、またわずかに暑い。それでも菫は高校二年の女子としては相当に高い身長だったから、他の部員よりは楽な状況に違いなかった。咳払いがひとつあって、監督の口がゆっくりと動き始めた。

 

 

 「おめでとう、がいい? それとも応援してる、がいい?」

 

 チームの発表が終わり、部員たちが会議室から部室へと戻っている最中に、菫にしか聞こえない小さな声で照が呟いた。いつものように視線は前に投げられ、話しかけた対象の方へは向いていない。ということは少なくとも冗談で言っているわけではないらしい。もし相手が菫でなかったらとんでもない嫌味になりかねない発言だ。事前にレギュラーが確約されている存在からそんな言葉をかけられて、純粋に喜べるような部員はそう多くあるまい。菫は照を誰よりも理解していたから、ため息をついてこう返した。

 

 「おめでとう、でいいよ。自力でお前のところまで行ってやる」

 

 「そう。じゃあ待っててあげる」

 

 今の言葉のやり取りに込めた菫の決意を照が読み取ったかどうかは定かではない。いつまで経っても彼女は表情を変えなかったし、口数が増えることもなかった。菫もそれについてはどうでもいいと考えているようだった。

 

 

 それからの三週間余りを、菫は自身の鍛錬を継続しながら試合形式の部活を消化していった。

 

 

―――――

 

 

 

 宮永照という名前がはじめて対外的に広がったあの大会から、ぴったり一年が経過しようとしていた。どこまでも続く比較的明るい色をした雲から、粒の小さな雨が降りてくる。大会に出場する選手やその応援のみならず、多くのメディア関係者が傘を広げてインターハイ西東京地区団体予選が開催されるホールへと集まってきていた。理由に一も二もない。宮永照のいる白糸台が出場するというそのひとつの事実だけでいくらでも人は動くのだ。あるいは彼女を打ち倒す存在がいるのならそれでも構わないのかもしれない。どちらにせよ基準点が照に置かれていることは疑いようのないところだった。

 

 傘の水気を払って盗難防止の傘立てに預け、菫は適当に観客席の空いているところを探すことにした。後ろには照がついてきている。どうせ席についたところで小説を読み始めるのだろうから、菫は照に気を遣わないことに決めていた。最悪、ロビーの背のないソファでもいいかもしれない。当たり前のように二人をセットとして考えている辺り、どれほど普段から一緒に過ごしているかが窺える。すこし探すとちょうどよく空いた席が見つかって、菫と照はそこに座ることに決めた。

 

 前年のインターハイ団体優勝を果たしている白糸台高校がシードを外れるわけもなく、予選が始まってからしばらくはただ座っているだけの時間が続いた。去年もこの予選で似たような状況になったが、菫は去年ほど目の前の試合を見るのに集中できていない自分に気が付いていた。緊張があるのかもしれない。焦りがあるのかもしれない。いくつかの対局が終われば、このあと彼女はスクリーンを眺める側の存在ではなく、向こう側の存在になるのだ。菫がどんな種類の緊張をしているのかは菫自身にしかわからないことだったし、それを正確に言葉で表現できるかもわからないことだった。ごくりと菫の喉が鳴った。照の視線は伏せられたままだった。

 

 

 それからしばらく試合を観戦していると、菫の肩を誰かが叩いた。二人で席を探したことを考えれば誰かというのもおかしな話だ。そちらへ顔を向けるとやはり照が菫の方を見ながら、親指で観客席の出入り口を指していた。もともと声が大きくはないタイプなのだから小声で話しても良いような気はしたが、とりあえず菫は照に従って廊下に出ることにした。

 

 「どうした? 何かあったのか?」

 

 「そろそろ控室に行ったほうがいいかと思って」

 

 言われてみればついさっきまで熱心に観ていた試合が大将戦であったことに菫は思い当たった。やれやれと額に手をやってから照に感謝の意を示す。どうやら本格的にいつもの精神状態とは離れた状態であるらしい。普段なら菫はむしろそういう状況で誰かの手を引いてやるタイプの人間だ。照の方が試合という場に慣れているということを差し引いても、これはちょっとした失敗だった。珍しく先導する照の後ろをついていく菫の姿には、違和感と親和性が同居したような奇妙なものが感じられた。

 

 廊下の窓ガラスの向こうに見える雲はすこし色を濃くして、木々を見れば風が出てきたようだった。それはこの時期にはよく見られる空の様子で、菫に何らの感慨も残さなかった。すれ違う出場選手と思わしき学生たちの表情はたいていが暗く沈んだもので、それらは菫の気分をより悪くさせた。単純な話、勝って次の試合に進む高校よりも負ける高校の方が多いのだ。試合の進行に合わせて控室の入れ替えを行うこの時間帯にはつきものなのだが、レギュラーとして行動するのが初めての菫にとっては多くのことが未体験であった。あるいは菫たちが着ている白糸台の制服が八つ当たりのような視線を集めたのかもしれないが、正確なところはわからない。

 

 

 それはひとつの予定調和に過ぎなかった。どの高校も白糸台を、宮永照を倒すために策を講じ、あらゆる状況を想定して練習を積み、選手を選び抜いてぶつかってきた。そして照はそのすべてを真正面から受け止めて粉々に砕いた。大将に座る彼女に出番が回った時点で勝負は決まったようなものだった。それはまるでベルトコンベアに乗って強靭な機械に破砕されるのを待つクルミのようで、全体の風景としてはどこか物悲しいものだった。一方で観客たちはその圧倒的な力に歓喜した。春に姿を見せなかった新時代の女王の変わることのない、いや、以前より増したであろう力に再び酔いしれていた。

 

 インターハイ団体戦西東京地区予選は、ファンたちの望んだ通りに幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。