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まず初めに、私がこうして慣れもしないペンを握るという行為をなぜ行っているのかを説明しておかなければならない気がする。その理由としては、おそらく私自身のためということになるのだと思う。別に飛び抜けて文章に自信を持っているわけでもないからそもそも誰かに見せるつもりはない。だからどこをどう辿っても結局は私のための文章になるはずで、だからこそ自分に嘘なんかつかずに正直でいようと思う。でも私には完璧なんてできないから、いつかこれを読み返したときにいろいろと思い出せればいいと思う。
環境。書き始めるとしたらまずそこなのかな。最寄りの駅を降りて十分も歩かないうちに校舎がゆるい坂の上に見えてくる。その坂の半ばあたりで右に折れて、そこでやっと校門が見えてくる。私は他の高校をたくさん見たわけじゃないから言い切るのは難しいけれど、校門から先はおそらく普通のものだと思う。体育館があって、校舎があって、グラウンドがあって。校門の側に桜の木があるのは定番だと思うから、きっと普通なのだ。
校舎の窓から見える外の景色は面白かった。白糸台はちょっとした坂の上にあるから、たとえば家や木なんかが精巧なミニチュアに見える。そういった人の営みがどこにでも見られることを考えると、緑はそれなりにあるけど風光明媚というのとは違うのだと思う。風光明媚という語の正確な意味はわからないけれど、なんとなくそんな感じがする。まとめてしまえば住宅地のなかにある、普通の高校なのだ。自分の通う高校のことくらいもう少し良く書けばいいのにと思わないでもないけど、そのための表現力がないのだから仕方がない。
とにかくそういった環境のなかでのことを書いていこうと思う。
おお、なんだか序文みたいだ。
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書き始め、というものにいつも困らされる。夏休みの読書感想文にしろ、学校単位で観に行った舞台の感想にしろ、三日ももたずにやめてしまった日記にしろ。どこから書き始めれば私が望んだ終着点にたどりつくのかわからないから、いつも手探りで頑張らなければならない。たとえ同じことを言ったつもりでもその過程が違ってしまえば受け取られかたも違っていて、私はごまかすように笑うしかなかったりする。ドラマだったか漫画だったか忘れたけれど、“言葉は不完全なものだ” というセリフに、案外世の中そんなものかもしれないな、なんて思ったりもする。
物事と言ってしまうと大げさな気もするけれど、それは私が思っている以上に常に巨大で複雑なものだというのがここのところの私の実感だ。うまく説明できる気はしないけれど、ここできちんと私の考えを書いておかないと、いつかの未来でこれを読む私のためにならないと思うから頑張ることにする。
りんごと私がある同じ空間に存在するとする。他にはなにもない。りんごは上から吊るされてるでもいいし、理由もなく宙に浮いているでもいい。私はりんごについて知ろうとして近づく。でも近づきすぎると視界がりんごの皮の赤一色に染まってしまってそこで完結してしまう。かといって離れすぎてしまうと今度は砂粒ほどにしか見えなくなってしまってよくわからない。適切な距離に近づいてもりんごの前半分しか見えていない。味は、香りは、と言われるとどんどん複雑になっていく。結局、私はりんごというものを完全には把握できない。
うまく説明できただろうか。とりあえず私にとっての私と物事の関係はそういうものであって、ましてやそこに私以外の人という要素が加わると大変なことになってしまう。だから私がこれから書くところのものが不正確、あるいは間違っていたとしてもそれはどうしようもないことなのだ。どう読んでも言い訳にしか見えないね、これ。
先のたとえ話で挙げた、りんごにあたる人は二人いる。
ひとりは言わずと知れた宮永先輩だ。新入生も含めて高校麻雀に関わる人間で、宮永先輩を気にしない人なんていなかったと思う。もうひとりは弘世先輩。宮永先輩について話をしようと思えば弘世先輩の話をしないことにはどうにもならないし、その逆も成立すると思う。結局のところ二人は不可分なのだ。ただその関係性がひどく複雑で、端的な言葉では足りないから、私の目と言葉を通してなんとかかたちにできればと思う。
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出会い、と書くほど劇的なことは何もなかった。私は単に白糸台の麻雀部に入る新入生として、ふたりはそれを迎える立場の先輩として出会った。もちろん私を含めた一年生たちの目は宮永先輩に注がれていた。それは一種の不可抗力みたいなもので、少なくとも高校に入りたてのひよっこに我慢できる類のことではなかったと思う。夏にあれだけの活躍を見せて春季大会には姿さえ見せなかったこともそれに拍車をかけていたはずだ。それでも宮永先輩は落ち着き払った態度をとっていた。ああいった無遠慮な視線に慣れていたのだろうか。私より一年早く生まれただけの先輩がそれに動じないということの異常性を理解したのは今になってのことだ。ひょっとしたら本当は今でも理解できていないのかもしれない。
実は私が宮永先輩と個人として話をしたのは入部してからしばらく経ってからのことで、これは同性の人に使う表現ではないとわかってはいるけれど、先輩はいわゆる高嶺の花だった。部活中に見かけるよりもテレビや雑誌で見る機会のほうが多かったんじゃないかなんて本気で考えてしまうほどに、当時は接触が少なかった。期待していた新入生歓迎対局のときは初心者にルールから教えていたくらいだ。さすがに私も落胆したような記憶が残っている。私以外の麻雀経験のある新入生も同じようなことを思っていたんじゃないかな。
だから順番で言えば、弘世先輩が先で宮永先輩が後。このことは大事なことだったように思う。
「なにか困ったことがあったら私か部長に言ってくれ」
それがさも当然のことであるかのように弘世先輩は言った。文字にしてみると、場合によっては傲慢と取られかねない発言だ。当時の先輩はまだ二年生だったし。でもそれは実際に本人の口から聞いてみると、自然と受け入れてしまうようななにかがあった。なぜかその言葉がどこにもひっかかることなく心の奥にぴたりと嵌まる。そういうことってあると思う。
これは後になって気付いたことだけど、そのときの弘世先輩は麻雀部の全学年のパイプ役として動いていた。あらためて思い返してみるとこれはとんでもないことだ。言い方を変えればすべての学年から信頼を得ているということで、それを二年生の身でやっているのだからすごいとしか言いようがない。弘世先輩は私の頭の中にあった理想の先輩像の二段階くらい上を行っていて、二年生になったらあんな風になれるかと聞かれたら私は全力で首を横に振るしかないくらいだった。
私が宮永先輩のことについて尋ねるっていう無礼を働いたときも、弘世先輩はできる限り真剣に答えてくれてたことが今ならわかる。その時はなんだか要領を得ない答えで濁しちゃって、なんて不満にも思っていたけど、先輩はそれしかないって答えをくれていた。もし私が同じ立場に立っていたとしてもその言葉さえ出てこなかっただろうと思う。
ひと通り、そう、西東京予選が終わるまでをひと通りとして、それが終わったその時点で私が弘世先輩に対して持っていたのは尊敬だと思う。もっと適切な言葉があるような気はしているけど、それは私の使える言葉のリストにないのだからどうしようもない。これは直接は先輩たちのことに関係ないけれど、日常的に使っている言葉を厳密な意味で使おうとすると、なかなかピンポイントに当てはまらない。意外な発見だ。
宮永先輩と初めて会話らしい会話をしたのも、たしかその辺りだったような記憶がある。内容も本当になんでもないようなもので、いつも同じ缶ジュースを飲んでいたからそれが好物かどうかを尋ねられただけのことだ。これを読み返している私がこのことを思い出せているかどうかも不安なくらいに些細なこと。今でこそ誠子と呼び捨てにしてもらっているけど、そのときはまだ苗字にさん付けされてて、それでも嬉しかったことだけは覚えてる。それは誇張でなく別世界との邂逅 (意味的に合ってるのだろうか) に等しいことだったから。
とても物静かで声も小さくて、見た目以外の文学少女的要素を集めたみたいな人というのが宮永先輩に対して私が抱く印象だ。さすがに見た目は生まれ持った外見と服装の趣味、この場合は装飾品になるのだろうか、による部分が大きいから、絵に描いたような文学少女というわけではない。
思い込みに近いものかもしれないけれど、宮永先輩は弘世先輩と一緒にいるか、そうでなければひとりでいるようなイメージがある。部活以外で、たとえば廊下とかで見かけたときもそんな感じだった。でもいつだったか弘世先輩が、あいつの周りにはなんでだか知らないんだけど人が集まるんだ、と言っていた。先輩の言葉を疑うわけじゃないけど、いまでもそれは不思議に思っている。たとえば弘世先輩は誰の隣にいても違和感はないし集団の真ん中にいるのだって見事に様になっているけど、どうしてか私の中では宮永先輩はそうじゃない。違和感を持つとか似合わないという言葉だと語弊を招くような書き方になるのは理解してはいる。もっと正確に言葉にするなら、宮永先輩の隣に立つことでバランスを取れるのは弘世先輩ただひとりのように思える、だろうか。
そういう思い込みと文学少女っぽいっていう印象のせいか、いつの間にか私は宮永先輩を見ると離島を連想するようになった。とびっきりに透明度が高くて浅い海で、底は踏みしめただけでちょっと足が埋もれてしまうようなやわらかい白い砂が周囲を取り囲んでいるような島。楽園だとか天国だなんて形容をされそうな、たったひとつぽっかりと浮かんでいるような。文字にすると文学少女と島なんてまるで関係ないじゃないかと自分でも思いたくなるけど、でもそう繋がってしまったものは仕方がない。正直に書くと決めたのは私だ。
弘世先輩と宮永先輩は間違いなく仲が良くて、それが表面上のものでないことはふたりのちょっとしたやりとりを見るだけで簡単にわかる。思っていることを伝えるときに言葉を使うのは当然で、もちろん先輩たちも例外ではないんだけれど、ふたりの場合は言葉の量が少なくて済むのだ。決してそれが優れたコミュニケーションだとは言わないし思わない。それでもそれが特殊な領域に属しているのは間違いないと思う。まあでも大きな問題はそこではなくて。
問題は、それほどの仲なのに、私には一線を引いている瞬間が見えた気がしていたことだ。
一線、とは言っても説明が難しい。隔てなくべたべたしていれば仲良しの証かというとまた話が違ってくると思うし。それに私から見て決定的に大人に見える弘世先輩と宮永先輩のふたりがそういうことを意識していないと思えない。つまり、私の見た気がした線とはそういう線ではなくて、もっと歪んだかたちの線だった。ライバルでもなければもちろん敵でもない。繰り返しになるけどふたりは仲間に違いないし、その前に親友だ。だからその線は言葉の端々なんかからは決して読み取れないし、表情に浮かぶことなんかも絶対にない。空気や雰囲気なんて曖昧なものの隙間から、ちらっと見間違いみたいに場違いななにかが見えることだけがあるだけだった。
初めて見た (あるいはそもそもが勘違いなのかもしれないけど) のは西東京予選が終わってからわりとすぐの部活のことだった。それでも一回目だったし、それこそ勘違いとか考えすぎだろうと思って見なかったことにした。二度起きることがなければそうやって済ますことができるタイプの問題だったから。それよりも予選突破が決まって全国へ向けて部全体が活気づいていたからそんなことを考えている暇なんてなくて、忙しさに殺されるように私はその出来事を忘れていった。歪んだ線のことを決定的に意識させられたのはインターハイだ。なぜと言われれば単純な話で、何度かその場面を目撃したからだ。
ばっちり思い出したのはインターハイ団体戦初日のことだった。いまでもはっきり憶えている。次鋒戦から中堅戦のあいだのわずかな休憩時間。私たち白糸台はシードをもらってて二回戦までは出番がなかったから、レギュラー含めて自由行動だと監督から言い渡されていた。とは言っても試合観戦をする以外の選択肢はまずない。私も仲のいい友達とふたりで試合を見てて、それで私はその短い休憩時間に友達のぶんも合わせて飲み物を買ってくることにしたんだ。席を取られちゃうから一緒には行けなくて。そこでロビーに出て行ったら弘世先輩と宮永先輩がふつうに話をしてて、邪魔をしないようにと思ってちょこっと頭を下げて近くを通り過ぎたときに、まるで土の中の蔓をするすると引き抜くようにあの時の記憶がよみがえってきた。
話している内容は聞き取れなかったけど声を荒げる様子はなかったし、冷たい雰囲気も感じなかった。それどころか弘世先輩はちょっとした笑顔を浮かべていたくらいだ。宮永先輩は背中を向いていたから顔は見られなかったけど、きっといつもの表情をしていたんだろうと思う。
これは幼稚な推測かもしれないけれど、きっとあのふたりの一線は麻雀が関係しているところに引かれているんだと思う。だってそうでなければ、インハイの会場で私が何度も目撃してしまったことに説明がつかない。当然だけど私が見たのがすべてのはずがないから、もっと何かがあったに違いない。学校での頻度に比べて明らかにおかしかったのは事実だ。
やっぱり言葉が足りなかったとは思うけど、これが私から見たあのふたりの像であり関係性だ。物事は巨大で複雑で、ひょっとしたら解明なんてしないほうがいいのかもしれない。なんてわかったふりをして書いてはみるけど、何を言っているのか自分でもわからなくなった。
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私は、それぞれ意味は違っていても弘世先輩と宮永先輩のふたりを尊敬している。決して嫌いになどなるわけがない。白糸台の麻雀部員であの姿に憧れない者などひとりもいないはずだし、もちろん私もそうだ。
ただ、どうしようもなく怖くなることがある。
私が何を怖がっているのか、これを言葉にできればいくらか救われるような気もするんだけど。病的、偏執、どちらもかすっているような気もする。でもどちらも外れているような気もする。
できればこれを読む未来の私が、きちんとその辺りのことを言葉にできたり、あるいはまるごと笑い飛ばせるような成長をしていればいいと思う。