影絵   作:箱女

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十五

―――――

 

 

 

 「菫、外に出よう」

 

 それは白糸台が一位で準決勝突破を決めたあとのことで、状況としては決勝に上がってくる相手校を研究するべきタイミングでのことで、しかし宮永照にそんなことは関係がなかった。

 

 

 

―――――

 

 

 

 さて雨が降るような空模様とはどんなものだったかな、と独り言でも呟きたくなるような綺麗な青空の下を白糸台の二年生団体レギュラーふたりが歩く。その肩書だけで人を集められそうなものだが、大会中の、それも準決勝が行われているとなればすくなくとも取材をするような人々は現場を離れるわけにはいかないということなのだろう、いつかのようにホールの外に人の姿はほとんど見当たらなかった。

 

 足元の白いタイルは汚れに対して強いのだろうが、それでも重ねた年月には勝てないようで、白には違いないのだがもう真白と呼ぶには難しい色に変わっていた。手をかざして陽光を遮ろうとしても、そのタイルの反射のおかげで日の光が目に突き刺さる。さっさと通り抜けてしまったほうが目にも肌にもよさそうだった。

 

 「なあ照、どこに行くつもりなんだ」

 

 「決めてない。あっちに行ってみよう」

 

 「……冗談だろ?」

 

 振り返りもせずに歩き出した背中は、彼女自身が口を開くよりもよほど雄弁にこれからどうするつもりであるかを語っていた。わざとらしく大げさなため息をついたところで彼女がこちらを向くことはないだろう。それどころか耳に入りさえしない可能性すらある。いちいち無駄なことをするまいと菫は照の後ろをついていくことにした。

 

 

 まるでちいさな子供のように枝分かれした道にぶつかってはきょろきょろと目を配って、そして決めたあとは迷いなくその道を照は進んでいった。知らない街を適当に歩くことの面白さは菫も理解できなくはないが、何も真夏の、それも自身が出場しているインターハイ開催中にやらなくてもいいのでは、というのが正直なところだった。どちらかといえばあまり汗をかかないタイプである菫であってもさすがに限度があるようで、それこそハンドタオルで汗を拭う手が止まらなかった。

 

 異なる種類のセミの鳴き声が混じりあって、それだけでどこか自然を感じることができた。木に止まって鳴いていてくれればいい、と菫は思う。建物に止まっているのは風情がないという以上にふさわしくないものがある。もっともそんな環境を作り上げたのは人間のくせに何を言っているんだ、と思う菫がいないわけでもない。あまりの暑さに菫の頭も少し緩んでいるのかもしれない。

 

 視界の隅から照を離さないことだけは徹底した上で歩く街並みは、菫が予想していたよりも面白いものだった。疎ましいものであるはずの夏の日差しが、もちろん疎ましいのに変わりはないが、計画的に建てられた洋風の住居を輝かせている。四季それぞれの空にどんな違いがあるかを尋ねたところで菫は具体的な違いについて説明をすることはできないが、それでも夏の青空ははっきりと違うものだという思いからは逃れられなかった。光の強さのせいか空の高さのせいかはわからないが、そこには物を映えさせる何かが確実に存在している。こんなふうにゆっくりと街を眺めるのは思い出せないくらいに久しぶりだった。

 

 ふい、と途端に速度を変えて照が歩く向きを変えるのが菫の目に留まった。なにか興味を引くものでもあったのだろうかと後を追ってみると、そこにはそれなりに大きな規模の公園があった。子供たちが走り回って遊ぶというタイプのものではなく、植込みのきれいに刈り込まれている散歩に適したようなものだった。もともとが小高い丘だったのか、うねるようにいくつもの道が緩い坂になって連なっている。頂上への近道のためなのだろう階段もある。きっとその上からはちょっとだけ良い眺めが楽しめるのだろう。入口のあたりで照も公園をゆっくりと眺めていた。

 

 「ここで休んでいこう」

 

 外だというのに照の声はすこしも空気にこそぎ落とされることなく菫のもとに届いた。風の音も鳥の声も彼女の言葉を避けたような気さえした。どこまで行くかわからない散歩というのも慣れていなければ想像以上に体力を消費するもので、その照の提案に菫は一も二もなく飛びついた。やり取りそのものにはどこにもおかしいところはないのに、目の前の光景に奇妙な違和感が残っていることがわずかに彼女の気分を悪くさせていた。

 

 照は今度は公園の入口に背を向けた。その先に目をやるとそこには自動販売機が置いてあって、季節のことも考えればその目的は聞くまでもないことだった。額の汗をハンドタオルに吸わせてひとつ息をつく。これ以上ないくらいにベストなタイミングだ。

 

 日の光のせいで明滅しているかどうかわからないボタンを押して飲み物を選ぶ。がこん、と音がして取り出し口からペットボトルを拾うと、照がいつもの無表情で菫の手元をじっと見つめていた。

 

 「水?」

 

 「ん? ああ、今はべたべたしたものを飲む気になれなくてな」

 

 「お茶とかもあるのに」

 

 「そこは好みの問題だ。ほら、さっさと行くぞ」

 

 照の手に握られていたのはペットボトルの紅茶だけだった。

 

 せっかくということで選んだ緩やかな坂道は、土と緑と花の匂いの混じった、まるで都心からは隔離されたかのような空間だった。どちらかといえば雰囲気は二十三区というよりも白糸台の街のほうが近いと菫は思う。すこし進んだ先には木々の立っているところもあるようで、その一本の木の下に休息のためのベンチがあるだろうことがなぜだか目に浮かぶようだった。適当に歩いてこんなところにたどり着くのだから大したものだ、と菫は隣を歩く照に目を向けた。彼女はまっすぐ前だけを見て足を進めている。構図は学校の廊下とまるで変わりない。

 

 想定していたより高いところに頂上があったようで、わずかに息を切らせながら見下ろす景色はちょっとした達成感さえ与えてくれた。広がるのは基本的には住宅街だが、向きを変えれば遠くに高いビルも確認することができる。爽快、なんて言葉が自身のうちから自然に湧いてきたのはひょっとしたら初めてかもしれない。遮るものが一本の木しかない場所に吹く風が汗ばんだ肌の熱を奪っていく。暑いのに違いはないが、これは悪くない。菫は力が抜けて自然と開いてしまった口にしばらく気が付けなかった。

 

 どちらからともなく木陰のベンチに腰を掛ける。この天気の下で不思議とやわらかい黒土の上にぴったりの木でできたベンチだった。菫の脚が長いせいで収まりがいいわけではないが座り心地は十分だ。ペットボトルの蓋を開けるぱきり、という音でさえも菫の気分を上向かせた。すでに細かい水滴がペットボトルの表面にびっしりと張り付いている。

 

 「そういえば照、お前ずいぶん珍しいじゃないか」

 

 「なにが?」

 

 菫がそう切り出すと、照はとくに驚きもせずに返した。

 

 「途中でふたつくらいコンビニを見かけたけど入らなかっただろう」

 

 「別にふつうだと思うけど」

 

 「てっきりいくらかお菓子を買い込むものだと思ってたんだが」

 

 「今日はそういう日じゃない」

 

 「へえ?」

 

 「菫があんまり食べる気なさそうだったから」

 

 「……お前の中で冗談を言うのが流行ってるのか?」

 

 首を振るでも肩を竦めるでもないから冗談なのかあるいはそうではないのか菫にはわからない。そもそも冗談とは会話における笑いを主眼に置いたものなのだからそういった意味では冗談になっていないと言うべきだが、この少女の場合は冗談の概念を理解しているか疑わしい面がある。まずもって彼女自身が笑わないどころか顔に変化ひとつ起こさないのだから、そう菫が思うのも仕方のないところだろう。おや、と菫の頭の中に何かがまた引っかかった。

 

 風で葉がさらさらと揺れて、涼しい木陰の下に木漏れ日が雨粒のように不規則に降り注いだ。土の上で踊る光のあとは名前を持ったかたちをしてはいない。菫は何を考えるでもなく、それをただぼうっと眺めていた。

 

 か細いのにまっすぐ届く声が菫の名前を呼んだ。

 

 「ねえ、満足してる?」

 

 「どうした急に。何を言いたいのかわからないぞ」

 

 「私たちは優勝するけど、それだけでいい?」

 

 明らかに言葉が足りていないはずなのに、どうしてか菫には目の前の怪物が何を言いたいのかがはっきりとわかった。決して言ってはならない言葉ではない。それでも菫の脳髄に痺れるほど血を送り込ませるだけの理由がその一言にはあった。

 

 「……それをお前が言うのか。個人の地方予選で私を潰したお前が」

 

 睨むように視線を向けると、照はベンチの背もたれに思いきり体を預けてまっすぐ前を向いている。まるでいま話していることに特別なものなど何もないとでも言うように。菫の目に入ったその横顔は陶器のようにつるりとしている。決定的にこの場にそぐわない陶器が滑らかに動く。

 

 「逆だよ、菫。私以外に誰が言えるの?」

 

 手に持っているペットボトルの汗が流れてひとつの水滴になり、土の上の蟻を打った。

 

 言っていることがどこまでも正しいことは菫にもわかっている。仮に宮永照以外の人物に同一のセリフを吐かれたところで菫は満足していると答えただろう。そこに嘘はないし、実際に彼女はチームの優勝に向けて尽力している。ただ照が問うことで抉り出したのが、それと並立するまったく独立した感情だったというだけの話だ。ひとりの雀士としての、野望と呼ぶのもおこがましい意地とでも呼ぶべきようなもの。

 

 体の内で暴れ回る煮えたぎった感情は意味を成さない。強すぎる感情はきっと決定的なところで足を引っ張るだろうし、何より今はその時ではないからだ。目を伏せた菫の言葉は、そう聞こえる要素はないはずなのにほとんど宣言としか取れないような響きを持っていた。

 

 「一年だ。あと一年待っていろ」

 

 「楽しみにしてる」

 

 

―――――

 

 

 

 円形のホールに沿ったかたちで設置されている二階の廊下には、一定の間隔ごとに革張りの長椅子が置かれている。しかしそもそもこの休憩用スペースを知らない人が多いせいで、一部の選手が集中力を高めに来るほどに利用率はあまり高くない。差し込む日差しのことを考慮してか長椅子はガラス張りの外周とは反対側の壁に近い辺りに配置されており、よほどひねくれた座り方をしない限りは外の景色が望めるようになっている。すくなくともインターハイ団体が始まってからは太陽に雲がかかった場面を思い出せないくらいには晴天が続いている。外が明るすぎるせいで逆にホールの中が余計に涼しく感じられるほどだった。

 

 こんな時間に亦野誠子がお気に入りの缶ジュースを片手に腰骨のちょっと上くらいまでしかない背もたれにぴったりと身をつけているのにはちょっとした理由がある。しかしそれを素直に言うわけにはいかないから、彼女は体調がすぐれないと嘘をついてここまで逃れてきた。なにせいま行われているのは団体戦の決勝だ。部員としては応援のために席に着いているのが当たり前であって、誠子は自分がいまここにいることにどうしようもない嫌悪感を覚えていた。

 

 可能であれば応援に行きたいのだが、そちらに向かおうとするとどうしても足に力が入らなくなった。切り替えようと頭を振ってアルミ缶を傾ける。なぜか外の景色よりも床を見ているほうが安心できた。

 

 コツコツと響く靴音が妙に誠子の耳に残った。自分が言うのもどうかと思うが、おかしくないかと彼女は思わざるを得なかった。いまは最も注目されている団体決勝が行われているはずだ。この二階の休憩スペースに足を運ぶタイミングとしては適切とは言えそうもない。状況としては疑問の残る場面だが、しかし誠子は顔を上げてその人物の顔を確認する気にはなれなかった。

 

 急ぐ様子のない靴音が次第に近づいてくる。空いている長椅子などそこらじゅうにあるはずなのだが、一向に立ち止まる気配を見せない。なんだか恐怖体験みたいだなあ、なんて的外れなことを考えている自分に気付いて誠子は笑ってしまいそうになる。もしもこのまま近づいてくる人物が自分の隣に座るのだとすれば、それは白糸台の部員かあるいはよほどの物好きくらいしかあり得ない。そしてその可能性はどちらもとびきり低い。おそらくはもっと行った先に用事があるのだろうと誠子は考えた。しかし誠子の予想はきれいに外れてしまっていた。

 

 すぐ側でコツコツ立っていた音が止んで、自身が完全に停止しているときにだけわかる、人が動いたときに起きる風圧が感じ取れた。長椅子がわずかに軋んで隣に誰かが座ったことを教えてくれる。床を眺めていた誠子の視界に入った白いスカートから判断するに、白糸台の人物であることに間違いはなさそうだ。ただ、そうなると腑に落ちない部分が出てくるのも事実である。

 

 隣に座ったのが誰なのかを確かめるためにそちらに顔を向けてみると、そこには今この時間にはまずここにいないだろうと思われる人物の顔があった。それを言うなら彼女自身ここにいること自体どうなのだろうと聞かれてもおかしくない立場なのだが、いま誠子はそれどころではなかった。

 

 「え、先輩……、どうしてこちらに?」

 

 「ここが空いていたからだが……。ああすまない、ひとりがよかったか?」

 

 「いえそういうわけでは! じゃなくて、まだ試合中なのでは……」

 

 思わぬ言葉が飛び出したこともあってか、誠子の咄嗟の否定は大げさなもののようにも思われた。人によっては言葉の裏を読みたくなるような言動とも取れるが、誠子にとって幸いなことに菫はそうしたことに気を留めるタイプではないようだった。それよりは自分に向けられた質問に答えることを優先したらしい。

 

 「大将に回った。優勝が決まったんだよ」

 

 温度のない言葉だった。一般的には等号で結ぶことが許されない言葉が、正当な意味を持った。誠子には菫の平坦な表情の奥に単純ではない感情が揺らいでいるのが嗅ぎ取れたような気がした。

 

 「どうした亦野、もっとうれしそうにしてもいいんじゃないか?」

 

 「いやそのっ、違います、やっぱり宮永先輩ってすごいんだなって」

 

 からかうように軽く投げかけられた言葉は誠子の急所に的確に刺さった。尊敬する先輩はうすく微笑んでいて、目を奪われそうになるその表情からは悪気などかけらも感じられない。反射的に出た言葉は自分でも頭を抱えたくなるようなものだったが、口に出してしまった以上は取り繕いようもない。結局はごまかすような情けない笑いを浮かべながらなんとかその場をしのごうとするしかなくなってしまった。悪い癖だとは思うが、自分で考えているより体に染みついてしまっているらしい。白糸台にとって大将に回ることは勝利と同義で、その是非は別にして、その事実に対しては喜ぶべきである。誠子がそのあるべき反応を示せないことは、彼女がここへ逃げ込んできた理由とほとんど意味を同じくしていた。

 

 「……あの、宮永先輩の試合を見には……?」

 

 「後輩の前で格好がつかないから言いたくない、だとさすがに通らないか?」

 

 ずいぶんと不思議なことを言う、と誠子は思った。戦力としての弘世菫は次鋒の位置に入っており、今大会では活躍と呼ぶにふさわしい成果を残している。実況の目はほとんどが大将に向いていたが、一部の解説を務めるプロは彼女のロン和了になにか見るべきものがあるかのような口ぶりを見せていた。つい先ほど出ていた次鋒戦でもしっかりと収支プラスを記録している。誠子の認識からいけば格好がつかないということは考えにくく、菫の返答は噛み合ったものではないと言えそうだ。半ば決まった勝負とはいえ大将戦を見ない理由が誠子にはわからない。

 

 ガラスの向こうへ視線をやったちいさく笑う横顔は、作り物のように整っている。聞けるわけがない、と誠子は自分の内側に生まれた疑念を即座に否定した。二年生にして既に白糸台の中心に座しているふたりの仲が良くないのではないか、なんてことはどれだけ礼儀知らずであったとしても本人に聞くわけにはいかない。

 

 「私はアイツが怖いんだよ、亦野」

 

 誠子が言葉に詰まっていると、彼女の心の内を読んだかのように菫が語りかけた。

 

 「えっ」

 

 「まあ、仲は良いし面白いやつだとも思う。でもそれとは別の部分での話なんだ」

 

 まるで世間話でもしているかのように、あるいは本当に世間話と思っているのかもしれない、微笑を浮かべたままで次期部長就任を確実視されている少女は話を続ける。予想外の事態が連続して起きているこの状況に誠子の頭は混乱していて単純な思考しかできなくなっていたが、その “別の部分” が麻雀であることだけは確信できていた。他に選択肢が思いつかないこともそうだし、何よりそれは誠子がここへ逃げてきた理由と同じだったからだ。

 

 適切な相槌すらもよくわからず、誠子は理解と同意を示すために頷いた。それを見て細められた目に、誠子は言葉が形づくられる前にコミュニケーションが成立したことを悟った。

 

 「ふふ、これはナイショだぞ?」

 

 そう言って人差し指を立てて口の前に持ってくる仕草は実にかわいらしいものだったが、それと同時に真逆の奇妙な色気があった。真逆の要素、と誠子は頭の中で繰り返す。一本の線が繋がりそうな気がした。しかし混乱した頭でそれを結びつけるのは難しく、次の瞬間には何にもならないもの、と判断を下していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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