影絵   作:箱女

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十六

―――――

 

 

 

 静かな空間だと秒針の音が妙に冴えて、ぼーっとしていた意識が引き戻されることがある。菫は自室のベッドに腰かけて、自身が思っていた以上に疲れがたまっていたことに驚いていた。普段ならもう少し続くはずの集中がまるで続かない。休憩を終えて夏季の課題のために再び机に向かおうと思って、まさか長針が一周する程度しかもたないとは思ってもみなかった。インターハイ前にも並行して課題を進めておいてよかった、と心から安堵すると同時に情けなくもなる。

 

 窓の外は薄いとはいえ雲がかかっている。ここ最近の空模様を思い出せば久しぶりに珍しいものが見られた、と言いたくなるようなものだ。それでも気温は猛暑日に近くなる予報が出ているようで、この夏はほとんど異常気象なのではないかと菫は疑っている。

 

 サイドチェストに眼鏡を避難させて、菫は背中からベッドの上に身を投げた。学校ではコンタクトレンズを使うようにしているが、たとえば出かける予定もない休日などは眼鏡をかけて過ごすことが多い。よく彼女の特徴として挙げられる長い黒髪も後ろでまとめてしまっているために、服装含めて学校とはすっかり姿が変わってしまっている。いくら菫といえども常に気を張り続けるというのは無理な話だった。

 

 もう一段階しっかりした気分転換をしないとダメだと感じた菫は、乱雑に頭を掻いてベッドから起き上がり、エアコンによって過ごしやすく調節された部屋から出ることにした。とはいえ何か特別なことをしようというのではなく、水を飲もうと思っただけのことだ。冷蔵庫に入っている軟水はここしばらく菫のお気に入りで、一日を通して飲んだものがそれだけなどという日も珍しくないほどである。

 

 階段を下りて冷蔵庫を開け、目的のペットボトルを取り出す。食器棚からコップを取り出して注ぐ。別に何でもない作業と言えばその通りだが、菫はそれだけで気持ちの切り替えが半分近くはできているような気がしていた。ダイニングが完全に夏の空気になっているのは減点対象だが、それは自室に戻れば済む話だ。さっさと用事を済まそうとペットボトルを傾けると、これまで菫自身あまり記憶にないが、コップから水を零してしまっていた。ほんの短いあいだそれを眺めてちいさくため息をついて、菫はさっさと布巾で拭くことにした。

 

 

―――――

 

 

 

 晴れ通しだったインターハイのぶんを取り返すように降り始めた雨は、もう三日も続いている。わずかに勢いは落ち着いてきているが、だからといって気分が上向きになろうはずもない。三日のうち二日は部の休みと重なっていたからまだマシと言えばマシなのだが、そんなところに救いを見出しているくらいなのだからどれだけ気が滅入っているかも推し量れようというものだ。三年生が抜けて新体制が始まる初日だというのに天気と気分ががすぐれないというのもなんだか面白くない。菫はときおり側溝に流れる雨水に目をやりながら学校へと続く坂道を登っていく。

 

 水気を払ってボタンを留め、夏休みだけあって普段よりはよほど空きのある傘立てに傘を突っ込んで下駄箱へと向かう。昇降口には菫以外の誰も見当たらない。ちょうどお盆を過ぎた辺りの上にこの雨だ、ひょっとしたら外の運動部でなくとも今日の活動が中止になっているかもしれない。そんなことを考えてはみるものの聞いてもいないよその部の予定などわかるわけもない。そのことが関係あってもなくても、昇降口に誰もいないのは単純に菫が早い時間に登校したというのが大きい。満場一致で新しい部長に推されたこともあって、なんだか気合が入ってしまったのだ。

 

 

 雨音をBGMにしながら部室の前まで誰もいない廊下を歩く。さすがに用務員の方か係の教員が来ているのだろう、廊下の明かりは点いている。響くことなく短く切れる足音が単調なリズムを刻む。

 

 どうやっても皮膚にまとわりついて離れない真夏の雨の日に特有のべたつく空気にうんざりしながら、菫は部室の戸に手をかけた。とくに何かを意識するでもなく戸を引く動作をしようとした瞬間に、あ、と間抜けな声を上げる。これだけ早くに来たのだから鍵が開いているわけがないじゃないか、と自省するも体はすでに動き始めており、すぐにがくんと引っかかるのを覚悟しなければならない状況だった。しかし菫の想定した事態は発生しない。引き戸はいつものようにするすると滑り、廊下と部室がつながった。

 

 自分より早くに登校した部員がいたのかと目を丸くしながら部室の中を見回すと、窓辺に立って風のない雨の景色を眺める見慣れない姿があった。ふわりとした感じのロングのブロンドは少なくとも白糸台の校内で見たことはない。そもそも制服からして白糸台の生徒ではないことがはっきりとわかる。

 

 菫が戸を開ければ外を眺めていた少女がそのことに気付くのは当然の帰結で、彼女は実に自然な動作で振り返った。暗い雲が空を覆っているせいで室内の電灯が人工的な色彩を強くしているように感じられる。目を引くブロンドの下は思わず菫が黙り込むほど可愛らしいパーツで構成されている。猫のような瞳はブルーグレー。ちいさな鼻と口はそれほど特徴があるというわけではないが、血管が透けそうなほど白いのに健康であることを疑わせない肌が間を埋めることで一気に印象を作り変えている。

 

 少女が振り向いてほんの一瞬だけ何もない時間があって、そうして少女は相好を崩した。

 

 「あはっ、テレビで見るより美人だ」

 

 「……キミは誰だ」

 

 「あ、そっかそっか、スミレは私のこと知らないんだっけ。わたし大星淡、淡ちゃんでいーよ」

 

 人懐っこいだろうことをわずかな言葉のやり取りと表情だけで示して、大星淡と名乗った少女はしっかりと菫に向き直った。その佇まいは自然体なんてものを通り越して、むしろ不敵という言葉を菫の頭にイメージさせた。

 

 「白糸台の生徒ではないようだが、どうしてここにいるんだ?」

 

 「テルーに呼ばれたから」

 

 端的な回答はそれ以上の追及を拒んでいた。菫の、ともすれば普通にしているだけで威圧していると取られかねない視線を真正面から受けて、それでもなお少女はにこにこしている。尋問じみていてあまり好みではないのだが、状況が動きそうにないと判断した菫は質問を続けることにした。

 

 「アイツに呼ばれたのが本当だとして、それで今日は何をしにきたのかな?」

 

 「来年からここの部員だし、だったら練習に参加してもいいよねって感じで」

 

 返答として間違っていると言い切れはしないものの、菫にはピントがずれているように思えた。なんとも不思議な少女だ。この状況における振る舞いからいけばそれは考えにくいことだが、いつの間にか警戒心を解いてしまうような、そんな雰囲気を持っている。現に菫は部室に入った瞬間ほどの緊張感を保ててはいない。まだ落ち着きを持っているとは言えない、子供らしさが強く残った声がするりと菫の耳に入り込んでいく。

 

 窓を閉め切っているせいか、熱がこもっているような感覚がある。目の前にいる少女の金髪も、湿気のせいか幾筋か束になって額に張り付いている。少女はそれをとくに気にした様子はないが、菫は自分の髪もそうなっているのだろうかと思うと多少は気になった。

 

 「来年からここの部員?」

 

 「そ。テルーが話をつけてくれて、カントクと打って話してそれで決まり。あ、昨日ね」

 

 言葉以上の内容がほとんど拾えない淡の返答がわずかに菫を苛立たせる。過程はさっぱりわからないし、目的に至ってはあるかどうかさえ判然としない。窓に遮られて音のない雨が、止む気配もなく降り続いている。

 

 「……部員が揃ったら挨拶をしてもらう。自己紹介を考えておいてくれ」

 

 「はあい」

 

 多くの言葉を飲み込んで、菫は最低限の指示だけを出した。

 

 

―――――

 

 

 

 まったくの無名の中学生でありながら宮永照に見出され、監督に練習参加を認めさせた異物は、その日のうちにすっかりと部に馴染んでしまった。容姿も相まってか、その人懐っこさは生意気なところのある妹のような立場を瞬く間に築き上げた。それはかんたんなわがままであれば聞いてあげたくなるどころか言ってもらいたいと思う者が出てくるほどの、ひとつの魔性だった。

 

 インターハイ明けの部活の初日ということもあって、レギュラー格だと断言できるのは照と菫の二人しかいない。しかしそれでもレギュラーを争うような立ち位置にいた二年生は数こそ多くはないものの他にもおり、そんな彼女たちを相手にかなりの勝率を残した淡の実力は確かなものだとしか言いようがなかった。菫も過去の自分と比べて立派なものだと内心で賛辞を贈ったが、それと同時になにかうすいねずみ色をしたもやもやが頭の隅に浮かんでいるのが気持ち悪かった。どこにもおかしい部分はないはずなのに。雨粒を垂らしている窓の外の雲がちょうど似たような色をしているな、と菫はほんの短いあいだだけ視線を外に飛ばした。

 

 

 数日が経っても淡に対する菫の違和感は消えなかった。しかしやはり異常は見当たらない。菫自身も彼女と何度か卓を囲んだが、それこそ勝ったり負けたりの当たり前の麻雀であった。なにかが違っていてその証拠も目に見えているのにそれと認識できていない、という菫の感覚はだんだんと願望に近づいていった。勝とうが負けようが結果に関係なく、淡との対局が終わるたびに菫は首をかしげた。休みのあいだに軽く毛先を整えてもらった黒髪がさらりと波を打った。

 

 「ねえスミレ、どうかしたの?」

 

 「ん、ああ、なんでもないよ」

 

 「ウソばっかり! そんなに首かしげてばっかでなんでもないわけないじゃん!」

 

 不意に声をかけられて、普段あまり見せない詰まった調子で返す。自分からぐいぐい突っ込んでいってそれを当たり前のように正当化する淡のコミュニケーションの手法は、菫に照を想起させた。似ているという意味ではない。まるで対極にあるという意味でだ。

 

 「大丈夫だよ、それに大星に頼るような事柄でもないしな」

 

 「なにそれ、よそよそしい! あと淡ちゃんと呼べー!」

 

 ぷう、と頬を膨らませる姿はいかにも少女らしくてかわいらしい。なるほど餌付けしたくもなるわけだ、と菫は困ったような笑顔で納得する。しかしそれとは別に、現在抱えている違和感をその発生源である彼女にぶつけるわけにもいかないのは自明だった。それはよそよそしいとかそういったことではなく、菫が踏み越えてはならないと自分で決めた一本の線の向こう側のことだからだ。

 

 一拍置いて、おっと、と菫が思い出したように向き直る。淡は立っている場所も体の向きも変えずに、ただ菫が話し出すのを待っていた。くりくりと円いブルーグレーの瞳が印象に残る。

 

 「そうそう、呼び方の話なんだがな」

 

 「呼び方?」

 

 「あだ名で呼んだりするのは一応許可をもらってからにしてくれ。みんな先輩だからな」

 

 「めんどっちいなあそれ。でもま、そう言うならそうするね、けど」

 

 具体的にどれと示すことはできないが、ほんの短い間だけ、ふっと淡から親しみやすい雰囲気のようなものが消滅したような気がした。おや、と菫は思う。

 

 「けど?」

 

 「テルーとスミレだけは絶対にやだ」

 

 「どうして?」

 

 「言い方悪いけど他の先輩はなんでもいいの。でもテルーとスミレは別なんだよ」

 

 周囲のざわめきのなかで、まだ幼さの残る声が浮いていた。学校という一種の特異な環境に合わせた、白を基調とする内壁に声が調和した。室内にはエアコンが効いている。菫はその冷ややかな空気に言葉を絡めとられたように次の問いを口にできなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 「ねえ、テルー」

 

 「なに?」

 

 「どうしてスミレにこだわるの?」

 

 「言っている意味がわからない」

 

 「たしかにスミレは勘も鋭いしきちんと麻雀できるし美人さんだけどさ」

 

 「うん」

 

 「だけどテルーがこだわり続けるかってなると違う気がするんだよね」

 

 「そうかな」

 

 「だからさ、ね、わたしにスミレちょーだい」

 

 「だめ」

 

 「えーっ! なんで! いーじゃん!」

 

 「だめなものはだめ」

 

 「ホントどーしてスミレにこだわるのさ? 何かあるの?」

 

 「……菫は、きちんと人間というものを知ってる」

 

 「なにそれ。淡ちゃんだって人間くらい知ってるし」

 

 「淡はちょっと意味が違うけど、菫以外は誰も知らないよ」

 

 「意味わかんない。ねえテルー、それちゃんとハナシつながってる?」

 

 「きちんと理由の説明をしているつもり」

 

 「会ってからそんなに時間経ってないけどさ、時々不思議な会話の仕方するよね、テルー」

 

 「そう?」

 

 「絶対そうだよ!」

 

 「じゃあ、これから気を付ける」

 

 

―――――

 

 

 

 一歩踏み出す前に幾筋も汗が流れるような厳しい日差しの下を歩く。いくら白糸台とはいえ連日朝から晩まで練習するというわけでもなく、多くの場合は午前か午後かのどちらかに練習の予定を入れている。自主練習に取り組むのであればまた予定は変わるが、その日の菫はそうではなかった。普通に帰るのにも部長という立場にあるせいで、他の部員より少しだけ遅れて校門を出るのが常となっている。ちいさな桔梗が足元で揺れていた。

 

 ちょうど真昼ということもあってか、作りもののように人のいない下り坂は爽快だった。目線をすこし上げれば入道雲が隆々とそびえている。目に映る風景を四角に切り取ればそのまま絵葉書にできそうなほどだった。いくつもの種類の違うセミが忙しく鳴いて、菫の耳を完全に支配した。

 

 影さえ焼きつけるほどの日の光は、彼女の肌にも平等に突き刺さった。まるで切り傷から溢れる血のように流れる汗は拭っても拭っても止まらなかった。乾いていたハンドタオルが、それほど時間を待たずにしっとりと湿った。白い肌はもう赤くなっている。白い制服のせいでよりくっきりと際立った。はっきりとした強い色が取り囲む中で、その肌だけが薄い色合いだった。

 

 無風に近い空気の中をトンボが飛んでいく。あらためて見てみると、空中で静止したりまた急に動き出したりとなんとも自由な動きをしている。目で追っていると、なんだか重力を忘れてしまいそうになれた。どこから来たのかはわからないし、どこへ行ってしまうのかもわからない。すぐにどこかに飛んでいなくなってしまうだろうと思っていたが、案外とそのトンボは菫の近くから離れなかった。そんなちいさなことがうれしくて、その姿を見てすこしだけ微笑むと、途端にトンボはどこか遠くへ行ってしまった。いつの間にか足を止めていたことに気が付いて、菫はまたもう一度駅へ向かって歩き出した。

 

 

 淡の一言が、くるくると体の中で回っていた。

 

 言葉を返せなかったことも含めて不思議でならなかった。下り坂の足取りは普段よりも慎重になる。宮永照という存在が特別なのは納得するところではあったが、自分がそこに並べられることには違和感しか覚えなかった。もちろん意味合いが異なっている可能性は十分にあるし、あるいは照を横に置くことで初めて意味が生まれる類のことなのかもしれない。ただどちらにせよ詳しいところがはっきりしないのには変わりなかった。

 

 汗が頬を伝って顎の先端にたどり着いた。日差しが体中の水分を絞るように全身を焼いていく。家に着くころにはすっかり水分が足りなくなってしまうかもしれない。そんなことを考えて、菫はちょうど坂の下にある自販機で珍しくジュースに手を伸ばした。あまり味のある飲み物を好まない彼女のことを考えると貴重とさえ言ってもいいかもしれない。麻雀で酷使した脳のためについでに糖分補給を考えていたのかもしれないし、違うのかもしれない。見た目も中身もお嬢様の菫には、アルミ缶はひどく不似合いだった。こくりと喉が鳴る。缶を傾け中身を胃の腑に流し込んで、口内に残るべたつく甘さと引き換えに菫は喉を潤した。どこかクセになりそうな味だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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