影絵   作:箱女

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十七

―――――

 

 

 

 「国文学の決定的な転換点とされる本居宣長が為した――」

 

 菫はいま前から二列目の廊下側の席、前と後ろとにある戸のうちの前のものにほど近い席で授業を受けている。この席に利点と呼べるほどの利点はなく、そのくせ時間によっては日光が黒板に反射して板書がひどく見にくくなるのが厄介だった。そもそも建てる際にそういった部分の検討をしなかったのだろうか、とほとんど難癖に近い思いを頭に浮かべるが、結局はどうにもならないことがわかっているから菫は誰にも文句を言わなかった。そもそもがくじ引きで決まった席のうえに、自分より一列前に座っている女子はもっと大変な目に遭っているだろうことが簡単に想像がつくのだから余計なことを言うのも無粋だと考えたのである。

 

 国語教師の話を耳に入れつつ菫は教科書に目を落とす。著名な人物の短編あるいは抜粋がずらりと並ぶそれは、学校の勉強という意識さえ抜ければ読み物として非常に面白いものだと菫は捉えている。そう考えるようになったのはまだ彼女が中学二年生の冬の初め、終わった単元を読み返していた時のことだった。どこがテストに出るのか、を考えなくてよい文章は自然と彼女の感受性に働きかけた。対象に触れる際の意識の違いだけでこれほどまでに受け取り方に違いが出るのか、と菫はそのとき驚愕した。残念ながら菫はずっと昔から今に至るまで、文学作品や論述の著者に対する興味を抱いたことはなく、彼らがどんな人生を送ったかということは彼女にとってはむしろ余計な情報でしかなかった。一方で作品の中に見られる独特な観点や人間そのものに対する鋭い観察眼、またそれらを壊すことなく成立させる手腕には強烈にのめり込んだ。その頃から彼女のお小遣いの使い道の選択肢に本というものが入った。

 

 「宣長はいくつか面白い警句を残していることでも知られて――」

 

 カチカチとシャーペンの背をノックする。短くなっていた先端が後ろから押し出されて伸びていく。その様子をじっと見つめるほど菫は退屈していた。人には話を聞かせる能力に長けた人とそうでない人がいる。いま教壇に立っている国語教師は後者ということだ。そういう人が他人の興味を引く話をするには例外的に面白い話題を持ってこなければならない。残暑の厳しい教室の中で顔を上げて真面目に聞いているクラスメイトが何人いるだろうかと菫はちいさく息をついた。

 

 顔こそ上げていないものの話を聞くには聞いていた菫は、あるタイミングを境に国語教師の声が耳に入らなくなっていた。気になる話が聞こえたからだ。賢人が物を考えるときに山深くの静かな場所を好むのは自然なことだと言われているが、彼はむしろ市井の騒がしさの中に身を置いたほうが考えも進む、静かすぎればかえって落ち着かない、という言葉を残したのだという。なるほどと菫は思った。自分ならどうだろうとも考えた。まるで人の声のない自然の中を空想さえしてみた。その結論は、わからないの一言に落ち着いた。

 

 

 授業と授業の合間の時間に、菫はふと窓の向こうに目をやった。廊下にほど近い席から眺めると窓そのものがスクリーンのように見えた。もう暦の上でも意識の上でも夏は終わっているのに、まるで夏の忘れ物のように大きな雲がどっしりと構えていた。どんなかたちをしているのか掴めないほど白と灰の配置が乱雑だった。ひょっとしたらひとかたまりの雲ではないのかもしれない、と菫に思わせるほどの陰影の付き方だった。秋がもうすぐ来るのに、あるいはもう来ているのに、その立体感はぴたりと季節を押し留めていた。

 

 クラスメイトがたまたま菫のほうを向いて、楽しそうに表情を綻ばせてひらひらとちいさく手を振った。その行動自体に意味がないのは知っているが、コミュニケーションを取ることには意味がある。菫もそれに合わせて手を振り返した。

 

 

―――――

 

 

 

 外は絵の具で塗り潰したように均一にねずみ色で、そして夜のように静かだった。屋根も地面もどこも濡れていないのが不思議なくらいの空模様だ。秋雨前線なんていう言葉もあるにはあるが、それにしたって重すぎる。卓上競技である麻雀に直接的な影響はないにしても精神的な影響が出るのは無視できないだろう。ラシャの上を踊る牌の音のあいだを蛍光灯のノイズが埋めていく。

 

 誠子は半荘の練習対局を終えて中央階段のほうへと歩いていた。休憩のためにいつもの缶ジュースを買おうと思ったのだが、どういうわけか誠子のお気に入りは中央階段を下りた昇降口の近くにしか売っていない。そのためいつも部室から昇降口までの往復をしなければならず、もう慣れたとはいえさすがに距離について何も思わないわけにはいかなかった。いざ階段を下りて視線を足元から戻すと、ここ最近で一気に見慣れた少女の姿がそこにあった。

 

 「へえ、いつも上履き持ってきてたんだ」

 

 「うん、だって私の下駄箱まだないしね。へへ、エライでしょー?」

 

 「はは、偉い偉い。それに平日にも来てるんだから大したもんだよ」

 

 「電車一本で来れるのがおっきいかも。坂とかちょーメンドーだけど」

 

 腕を使って坂の傾斜を表しながら楽しそうに笑う。靴を入れるケースは使っていないほうの手に、スクールバッグは坂を表現しているほうの肩に掛けている。制服から違うというのにどうしてかこの少女が白糸台という景色にマッチしているのが誠子には不思議だった。

 

 「あ、ちょっと気になってるんだけどさ」

 

 「ん? なーに?」

 

 まるで一年はともに過ごしているかのような気安さを淡に対して抱いていることに誠子は気付けない。それこそ今年麻雀部に入部した同期や、あるいはこちらは自然かもしれないが部の先輩方のほうがどちらかといえばまだ緊張してしまうくらいだ。しかし誠子はそのことに気付けない。意識に上がってこない。ただもちろん人と人とが、部活における先輩と後輩とが仲良くなることは何も間違ってはいない。

 

 「他の高校からオファーなかったの? 淡くらいの実力なら引く手あまたってやつじゃない?」

 

 「推薦のハナシ? そんなのないよ、だって中学じゃ部活入ってないし」

 

 「へ? 部活入ってないの? あんなに打てるのに?」

 

 「みんな口ばっかでやる気ゼロだし弱っちかったからすぐ辞めちゃった」

 

 聞きたかったのは決してその部分ではないが、天真爛漫な普段の態度からは見えない中身が誠子には見えた気がした。同時に淡がこの白糸台にやってきた理由が手に取るようにわかる気がした。そしてもしそれが正しいのならば、という仮定の上に推測を重ねて導いた結論に確信を得るために、誠子は質問を続けなければならなかった。

 

 「……ひょっとして白糸台(ウチ)を選んだのって」

 

 「そうだよ、テルーを倒すため」

 

 「やっぱりかー、やっとちょっと淡のことがわかったかも」

 

 「あれ? 珍しいね。テルーを倒すなら白糸台以外が自然だろ、とか言わないんだ」

 

 「宮永先輩に個人で勝ちたいってことでしょ? 個人相手ならむしろ近くにいたほうが、ね」

 

 「ふふー、亦野先輩もけっこーナイスだよね、やっぱここ来て正解だったよ」

 

 そう口にして淡はにっこりと笑みをもう一段階深くした。まっすぐで快活な、何も隠していないあけっぴろげな、見ている誠子もつられて笑ってしまいそうになるほどの素敵な笑顔だった。

 

 話しながら歩いていたからか二人の歩みは遅く、まだ階段を上がり始めて少しの地点にいた。

 

 「それにしても淡ってさ、よく宮永先輩にあんなに絡んでいけるよな」

 

 「へ? あー、そう、亦野先輩でもそんな感じなんだ」

 

 ほんの短いあいだだけ目を掠めた不思議そうな顔が、すぐに納得のいった表情に切り替わったのを誠子は見た。おそらくは見えているものが違う。背すじに冷たいものを感じつつ、誠子は無意識のうちにこの場から救済してくれる象徴としてなぜか菫のことを頭に思い描いていた。

 

 「いや、宮永先輩をどうこう言うつもりはないけど、打ってる先輩って、なんかさ」

 

 「怖い、とかそーいうやつ?」

 

 「……うん、まあ、普段の先輩はぜんぜんそんなことないんだけど」

 

 どう言い繕ってもプラスの感情を抱いていることにはならないことに気付いて、誠子は心の中で失敗した、と後悔した。照に対する尊敬に間違いはないが、このぶんでは淡からは今後そんな感情を抱いているようには見えなくなるだろう。そう思うと途端に誠子は申し訳ない気持ちになった。歩きながらの会話であることが彼女にとってはありがたかった。

 

 「まあでもしょうがないよ、ちょっとテルーはトクベツだもん」

 

 「特別……。まあ、うん、そうだよな」

 

 「あ、違うよ? 亦野先輩が考えてるトクベツとはまた別の意味だからね?」

 

 「え?」

 

 「テルーはね、なんていうか……、まず真正面に立てる人が限られちゃうんだ」

 

 どう言ったらいいものかと悩む淡の表情はわかりやすく、かつ彼女の明るい個性を失わないという難しい条件を満たしたものだった。もし口元に耳を近づければ、うむむ、とうなる声が聞こえるかもしれない。それとは別に誠子は意外な返答にすこし驚いていた。尊敬する先輩に対して怖いと言ってしまったことへの否定がなかったもそうだし、想像していた以上に淡が、誠子とは物の見方が違うにせよ、人をよく見ていたことも彼女に驚きを与えた。

 

 「そういう意味だとその土地で祀られてる神様みたいなのに近いのかも」

 

 「全力を出せる相手が限られるってこと?」

 

 「違う違う! テルーはいつも全力だよ! その上でっていうか、なんだろ、対話? 違うなあ」

 

 淡はもごもごと口を動かして、わかんないや、と最後に呟いた。

 

 「ま、フツーの人間は神様の前には立てないよね、ってコト。だからスミレが面白いんだよね」

 

 「菫先輩? なんで急に」

 

 「あれ? 不思議に思ったことない? なんでテルーがスミレと仲良いんだろって」

 

 それは、と言いかけて誠子は口ごもってしまった。疑問にすら思っていなかったことが、いま後輩の口を借りて明確なかたちをとって誠子の頭の隅に場所を取ったからだ。

 

 誠子にとっての宮永照の像は夏の都予選と本選での姿そのままだ。周囲が勝利への意欲を剝き出しにして向かってくるなかで、ただひとり森の奥の静かな湖面のように何一つ波立たせることなく、その上で圧倒的に卓上に君臨する存在。何を楽しいと感じ、何をつまらないと感じるのかさえ読み取ることができなくて、それでもそのことを誰も指摘すらしない存在。考えれば考えるほどわからないことが渦を巻いていくなかで誠子にとってただひとつだけはっきりしているのは、チャンピオンと呼ばれるようになった彼女が倦むことなく麻雀を打ち続けているということだけだった。その宮永照が何を求めているのかを考えたときに、弘世菫という尊敬すべき先輩が対象に選ばれるのはたしかに奇妙なことに思えた。

 

 「いや、でも友達なんてなんとなくでもなるようなものじゃないか?」

 

 「テルーをふつうのものさしで測っちゃダメだって」

 

 「……それはまあ置いといて、菫先輩が面白いっていうのはどういう意味なんだ」

 

 「スミレはなんか矛盾した存在なんだよね、何も持ってないはずなのにフツーじゃない」

 

 「普通じゃない?」

 

 「だってスミレはテルーの前に立ってるでしょ」

 

 その論理があまりにも当然なもののように言うものだから、誠子もああそうかとそのままそれを受け入れてしまいそうになった。しかし誠子はそのまま流されるわけにはいかなかった。この白糸台の麻雀部に所属している誰もがそうであるように、誠子も求めるものがあってここにいる。そして淡の口から出た言葉にはその求めるものと深く繋がりがある可能性があった。夜のように静かな廊下に反響する声に包まれるような感覚があった。どんなときでも頼れるあらゆる意味でかっこいい弘世菫という像の他に、なにか未だ知れぬ像が少なくともあとひとつは本当にあるのではないかということに思い至って誠子は震えた。のどの奥のほうが、きゅう、と鳴った。誠子には淡の言うトクベツの意味が理解できない。宮永照の前に立つことがどれほど特別なのか、その一点が誠子を縛り付ける。なぜなら誠子はまだその特別な存在と卓を囲んだことがなかったから。

 

 特別なものを何一つ持たないのに普通ではないこととトクベツであることとのあいだに何らかの関係があるのかと思ってまだ落ち着かない頭で考えようとしたが、そのまま淡の言う通りに矛盾しているように思えて誠子には結論が出せなかった。ただ休憩がてら飲み物を買いに来ただけのはずだったのに、気が付けば頭がくらくらするような状態に陥っている。飲み物を買い忘れてもいる。

 

 「……まあ、淡の言い方だとたしかに普通じゃないってことになるか」

 

 「コーヒーにミルクを入れて、それなのに混ざらずに綺麗に白黒に分かれてる、みたいな?」

 

 「驚いた、菫先輩はコーヒーだったのか」

 

 「えー、スミレのキャラでミルクはないっしょー」

 

 急に方針を変えた会話の機微を悟ったかどうかはわからないが、淡はきゃっきゃと楽しそうに誠子のフリに興じている。外は日の光を忘れてしまいそうになるほどに暗いのに、淡の笑顔の届く範囲はぱっと明るくなるような気がする。場の雰囲気に影響を及ぼすような個性はどうしたって天性のもので、素直にすごいなと思いつつも誠子はそれを欲しいとは思わなかった。もうそろそろ階段を上がるのも終わりが近い。あとは彼女を連れて廊下をまっすぐ行って部室に戻るだけのことで、そうすればまた普段通りの風景に変わる。頭半分くらいは背の低い淡が隣で先ほどまで話題に挙がっていた新しい部長についてたくさんの適当な推論やホラを吹いては笑っている。誠子はそれに応じてさまざまな反応を返したが、それは根本的に楽しさをベースとしたものだった。

 

 部室の入り口まであと少しだというのに、不自然なくらいに人が見当たらなかった。論理的に考えればそのぶんだけ真面目に部員が練習に取り組んでいることになるために憂慮すべきことなど何もないはずなのだが、人数規模を念頭に置いてしまうとどうしたってそれは不気味な印象を残してしまう。外が暗いのだからなおさらだ。

 

 こんなことになんて気が付かなければよかった、と誠子は内心でうんざりする。往々にしてあるタイプの人間は知りたくなかったことや意識したくなかったことに直面してしまうものである。誰が何と言おうと誠子はそのタイプに属していた。ただただ一部に蓋をして淡との会話の楽しさに身を浸していればそれでよかったはずだったのに、空を覆う厚い雲がそれを許してはくれなかった。

 

 もう二歩三歩で戸に手が届くようなところで、明るい調子を崩さないままで淡が話題を突然に切り替えた。とはいえそれはこれまでの話とまったく関係のないものというわけでもない。

 

 「ね、亦野先輩ってスミレのファンなんだよね?」

 

 「んー、ファンっていうか、まあ尊敬はしてるけど」

 

 「じゃあ気をつけたほうがいいかもしれないね」

 

 「なんだよいきなり。何のことだ?」

 

 「このままだとスミレ、■■■■■■■?」

 

 金属バットのように緩やかな曲面をした棒で脳の内側を思いきり突かれたような感覚があった。あまりにも突然に放り込まれたその発言を、誠子の脳は理解することをはっきり拒んだ。そのために彼女は足を止めないわけにはいかず、まるで対照的な比喩のように足を止めずに元気よく部室に入っていく淡の後ろ姿を、黙って見送ることしかできなかった。それは言うまでもなく耳を疑うような警告が、きれいでやわらかい金色の髪をした少女からあったからだ。ちょうど外で、雲の色に似合わない細い雨が降り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

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