影絵   作:箱女

24 / 29
二十三

―――――

 

 

 「ねえ菫、このあいだの合同練習はどうだった?」

 

 数学の教師が体調を崩して珍しく一時間目から自習になったのだが、だからといって騒ぐには高校二年生というのは歳を重ね過ぎていたし、そのうえ天気もどんよりとして気分が上がらない。たまに吹いてくる風さえ湿っていて、クラスメイトの多くは自分の席で何をするということもなく静かにしていた。残った少数派さえ退屈をしのぎに図書室へ向かうくらいのものだった。照が不意に声をかけてきたのは、そんな灰色の時間だった。

 

 声がしたからと菫がそちらへ顔を向けると頬杖をついた照の姿があった。てっきりこういった時間を読書のためのものと捉えているだろうと思っていた菫はわずかとはいえ驚いた。またその具合もイメージとは離れており、それはたとえば菫がよくやるような軽く曲げた人差し指ををすこし顎に当てるといったような上品なものではなく、手のひらにべったりと頬のあたりを預けるようなものだった。したがって頬のうすい肉が潰れるのだが、照の場合はそれが驚くほど似合わなかった。彼女は相変わらず表情を変えないから、本来その動作に付随してくるはずの感情の動きが欠落していた。彼女を相手にそれを説いても仕方がないのだろうが、普通なら頬杖をついて友人に話しかける時に素直に笑いかけるのが自然だろう。または不機嫌を示すような視線の外し方や声の出し方というものがあるはずだ。しかしもちろん宮永照にそれらのものはなかった。

 

 「……収穫があったか、ということか? そういう意味ならいい練習だった。勉強になったよ」

 

 すらすらと出てきた菫の返事は彼女自身が本当にそう思っていることを窺わせた。実際にすさまじくレベルの高い合同練習であったことは疑いようもなかった。そこに彼女の収穫があったという言葉があったなら、それは真実なのだろう。そもそも菫は元来そういうところでウソをつくタイプでもない。彼女は根本的に真面目なのだ。

 

 頬を潰した少女は無感動に、そう、とだけつぶやいた。ノートや教科書のページをめくる音やペンを走らせる音くらいしか聞こえない静かな教室の中なのに、彼女たちの会話は二人の間だけにとどまった。まるで他のクラスメイトが顔を失くしたか、もしくは逆に菫と照の二人だけが顔を失くしたかのような奇妙な空間だった。誰も消しゴムひとつ落とさなかった。

 

 「うれしいことを言われたよ、辻垣内にも愛宕にもな」

 

 菫は視線をふいと黒板のほうへ戻した。表情からではなかなか考えにくいが意外と照れているのかもしれない。照の影響があるかは定かではないが、菫も高校生とは思えないほど感情の読み取りにくい少女である。表情自体には変化があるぶん、もしかしたら照よりも感情の機微といった点では菫のほうが判断がつきにくいということさえあるかもしれない。もちろんそんなことを比べたところで何にもならないが。

 

 「どんなことを言われたの」

 

 「リップサービスでないことが前提だが、私にも警戒される程度の実力があるそうだ」

 

 普段がハスキーな声をしているだけにほんの少しとはいえ弾んだ調子は特別に聞き取りやすい。友達と楽しい話をしているのとはわけが違う。彼女の内心は推し量りようがないが、感情の発露を押し殺そうとしているようにさえ見える。しかし立ち止まって考えてみると、菫からすればそれは無理からぬことなのかもしれない。なにせその声をかけてくれたのは菫が中学時代にどうしようもなく高い位置にいると感じていた相手なのだから。当時は凶悪とすら思えたあの領域に踏み込みたくて鍛錬を積んできたと言っても差し支えはないのだから。しかし菫はその憧れを誰にも話していない。彼女は自分を離れた位置から見ることができるから、弘世菫が同世代の代表レベルとはいえライバルから認められたことにはしゃぐのは不自然だと瞬時に理解していたのかもしれない。

 

 前を向いた菫を照が頬杖をついて覗き込む構図は変わらない。菫は自習となれば本当に教科書とノートを出して自学自習に励むし、照は違っていつもならそれを自由時間と受け取って本を読む。しかし今日はお互いがいつもと違っていた。菫はノートと教科書こそ出してはいるものの明らかに自習に身を入れていないのが一目でよくわかる。ペンケースから何も出ていないのはこれ以上ないくらいの証拠になるだろう。一方で照は本を出さずにただ手のひらに頬を乗せたままにしている。ただの高校生として見ればそれは当たり前の光景だったが、彼女たちを相手にただの高校生という形容はいささか無理があるだろう、失礼かもしれないが。

 

 顔を失くした教室は天気や気温も相まって、時間が経つだけ陰鬱になっていった。声を投げかける対象に自分が含まれているというそれだけで数学の授業が懐かしく思えるような空気が室内を満たしている。気が付けばそうなっていたというだけで、クラスメイトの誰が悪いというわけではない。強いて言うならそういう空気が存在していると認めてしまったことそのものが悪かった。空気や雰囲気は存在を認められれば実体化する。菫は照を通してそのことを同世代の誰よりも知っていたが、かと言って対抗する術を持ってはいなかった。

 

 「お前はどうだったんだ、合同練習」

 

 「楽しかった。ああいう人たちと()()()打てるのは貴重だと思う」

 

 「……? まあ、あれだけ強いのはそういないとは思うが」

 

 「そういうことじゃないけど」

 

 意図するところが合致していないのは明らかだったが、それ以上詰める気は菫にはなかった。会話の相手である照には言葉を尽くそうとする意識がもともと希薄だからだ。何かを話したあとに追加で言葉を重ねるということがないから、わからなければそれでいいと彼女の態度は常に主張しているように見えた。

 

 集中する気になれないからか、菫はつらつらと照の言動について思いを巡らせていた。公の場に立てば論旨や要点をはっきりさせた発言をしているぶん、なおさら普段の落差がひどいように感じられるのだと結論を導いた。逆に部内では、とくに後輩からということだが、足りない言葉を勝手に補足して神格化が進行しているきらいがあるが、さすがにそこまでは菫の領分ではない。一個人をそのように扱ってしまえば手出しのできなくなる部分が生まれてしまうが、その存在が一個人なのだと発見することは他人から学ぶべきではないというのが菫の考えである。したがって菫は照と他人との付き合い方にああしろこうしろと口を出したことは一度もない。それに部長とはいえまだ女子高生の身分なのだ、そういった部分の世話を焼けるほど人生に習熟しているわけでもない。

 

 「ねえ、またこういう練習試合がしたいな」

 

 「それは私じゃなくて監督に言え」

 

 「そう」

 

 

 

―――――

 

 

 「――という話を照としたんだが、お前はどうだ?」

 

 「ちょームカついた。とくにアタゴ? とかいうの、あれゼッタイ私が倒す」

 

 菫が淡にこんな話題を振ったのは、偶然にも練習の合間にちょうど淡と二人になる機会を見つけたからである。お互いに似たようなタイミングで卓を離れ、同じように窓際に位置を取ったのだ。淡はいつものように椅子に座り、一方で菫は腕組みをして立ったまま窓に背を預けていた。さて菫が合同練習のことを話題に出した理由のひとつには、目の前のこの少女が先日の合同練習を通じて何を受け取ったのかを知りたかったというのもあった。さらにもうひとつには単純にその面白い思考回路がどんな答えを返すのかが気になったというのがあった。そして返ってきたあまりにも “らしい” 回答に、思わず菫はニヤリとしてしまった。

 

 「ちょっと! スミレなんで笑ってるの!」

 

 「悪い悪い、別に面白いってわけじゃないんだ」

 

 まあまあとなだめながらその一方で菫は淡の返答をうれしく思っていた。それは宮永照以外のプレイヤーが彼女の意識に上がることのできる証左になっていたからだ。そして勝とうという意識を外に対して明確に意思表示したからだ。強くはあったがどこかぼんやりとしていた大星淡がここで化けるきっかけを得たのかもしれないと思うと、白糸台高校の麻雀部部長としてはどうしても頬が緩むのを抑えられなかった。確実にあの合同練習は参加者にとっての刺激になったのだ。あるいは自意識に手痛い一撃を食らった菫にとってさえも。

 

 部活が始まるころには朝に比べて雲の隙間も見えてきていた。今では雲と青空の比率がずいぶんと動いている。風こそまだ湿ったものだったが、やはり目に見える空の色が違っていれば感じ方も多少はマシになるのが人情というものである。菫も朝に比べればいくぶんかやる気を取り戻していた。

 

 あらためて部の様子を眺めてみると意外なことに全体として気合が入っているようだった。菫のロジックからいえば合同練習に参加できた部員に気合が入るのは自然だったが、そこを外れた部員がやる気を見せるのは歓迎すべき事態だが理由がわからなかった。次回があれば参加したいと考えてのことだろうか、と菫が大外れとはいかないものの当たりとも言えない予想を立てていると横から声が飛んできた。

 

 「強いヤツと対戦できなかったー、ってだけで置いてかれたんじゃたまんないもんね」

 

 「どういう意味だ?」

 

 「まだみんなレギュラー狙ってるんでしょ。何もしないで黙ってたら負けちゃうんだから」

 

 「……にしても私の考えてることがよくわかったな」

 

 「カンタンだよ、スミレは部長さん過ぎるからね」

 

 意識したからといって思考の基準がすぐに変わるわけもなく、また自身を団体レギュラーとして棚上げしながら考えていたことに気付いて菫は内心で呆れた。この夏にインターハイに出場したことも先日の合同練習で憧れの二人に警戒対象と言われたことはいったん忘れないといけないな、と自戒した。そしてその直後に淡の言葉を振り返り、それが周囲に目を配っていなければ不可能だという事実に気付いてはっと目を見開いた。

 

 とくに言葉が返ってこないのをどう受け取ったのか、淡はため息をついてぽつりとこぼした。その顔は珍しくいつもの快活なものでなく、呆れ半分と冗談半分に見えるものだった。

 

 「もっとさ、ジコチューでいいんじゃないの、間に合わなくなっちゃうよ?」

 

 「お前の言うとおりなのかもな、ちょうど似たようなことを考えていたんだ」

 

 「へー、なんか意外かも。私は部員のためにー、とか言うのかと思ってた」

 

 「ま、合同練習より前ならたぶんそう言ってたんだろうな」

 

 「いいね、期待してるよ、スミレ。もっともっと強くなってよね」

 

 「……お前はどの立場の人間なんだ」

 

 わかりやすくため息をついて返すと、にんまりと口角を上げた淡の顔がそこにあって、なんだか抵抗のしようもなく菫も笑ってしまった。ふわりと力が抜けた。もちろん肩肘張る立場であることに間違いないのだが、それ以前に自分は一人の雀士なのだとやっと心から思うことができた。自分はこれからもうひとつ強くなれると根拠なく確信できた。それはきっと、技術だけでなく。

 

 どちらも何も言わないのにそこでぴたりと会話は終わって、互いにもう次の対局へと意識を回していた。他の部員は卓に着いているか観戦しているかのどちらかしかいなかったため、この貴重なやり取りの存在を知っている者はいなかった。菫は自身では気付いていないが、一人では堂々巡りしかねない問題をこの一幕で通り抜けていた。その意味で大星淡は確実に特別な存在であった。弘世菫は麻雀部部員にとってあまりにも頼れる存在であり過ぎたし、宮永照にとっては菫が菫であるという事実さえあればそんなことなど些細なことでしかなかった。

 

 冬が近づき、そしてその後ろに続く季節がゆっくりと歩を進めていた。

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。