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いくら天才と称されていても人には違いない。人の身であればこそ落ち込みもするし、どうにか気を紛らわせる必要もある。高校生のころはまるで縁のなかった缶コーヒーを片手に戒能良子は天井を眺める。別にそこに何があるというわけではない。目に過度の刺激を与えないようにカバーをされた電灯と、おそらくデザイナーの仕事によるのだろう天井があるだけだ。
(言葉としては理解しているつもりなんですがね)
もはや焦点を合わせる気もなくなって、ただ宙に意識だけを泳がせる。視界がぼんやりと滲んで何もかもがあいまいな色の世界に変化する。背中を壁にもたせかけて、ときおり深く息を吸う。太陽から遠く切り離された屋内であるせいか、空調が作動していると知っているにもかかわらずどこか肌寒く感じられる。ぽつりぽつりと浮かんでは消える思考の切れ端を追いかけようともせずに彼女は姿勢を保っていた。
やがて指先に鈍い痺れを感じて、拗ねる時間も終わりかと良子は一度まばたきをした。これ以上引きずるようでは次に悪影響が出かねない。プロとして活動している以上は最高のパフォーマンスを発揮できるように努めるべきであるというのが彼女の考えだった。
かなり頻繁とはいえせっかくの遠征、おいしいものくらい食べなければ損かと考えてスマホで検索していたところに不意に声が飛んできた。それまで静かだった空間にはまったく似合わない、場違いなほど楽しそうな声。
「ようよう戒能ちゃん、なんだこんなとこにいたのかい?」
「三尋木プロ、そちらこそどうして」
良子からすると今もっとも顔を合わせたくない人物だった。なにせついさっきの対局で叩きのめされた相手である。それを良子が意識していることを知ってか知らずかいつもの調子で接してくることがかすかに彼女の癇に障る。
「どうしても何も晩飯でも一緒にと思って探してたらまさか廊下とは、わかんねーもんだね」
「いやいや三尋木プロ、私たち先ほどまでコンピートしてましたよね」
「そいつがどうかしたのかい?」
咏の純粋に疑問に思う声は、理由として不十分どころか成立している点を探すことさえも困難であるかのように響いた。三尋木咏がファンを集める要素のひとつにその言動が挙げられるが、これは良子には理解が及ばない部分の話だ。謎は募るばかりだがその内容が真剣なのかからかっているのかわからないという点も評価されている。しかし実際に相対するとなるとこれほど面倒なこともなかなかない。テレビの向こうだから真意がつかみにくいというのではなく、本当に面と向かってさえつかみどころがないのだ。良子の見る限りでは、表情と感情と言動と思考が一致した場面など見たことがない。現に今でさえ単に食事に誘いに来たのか、あるいは他の目的があるのかの判断が下せない。しかしそれ以上に三尋木咏が危険なのは、日頃から彼女にそういった印象を抱いていたとしても直に接している時には警戒心を持てないというところにある。もしかしたら神経を麻痺させるなにか特別な毒のようなものを持っているのかもしれない。
いざ咏に先ほどまで対局していたことがどうして理由になるのかと返されてしまうと、良子もそれを根拠とすることに自信が持てなくなった。プロとして対局しているのだからプライベートで敵対する必要がどこにあろうという誰でもたどり着ける考えに彼女が行きつかないわけもなく、良子は空いた手を額にやって軽く頭を左右に振った。
「……いえ、すみません。なんでもありません」
「アタマ良いのはその辺に転がってるけどさ、戒能ちゃんは加えて消化が早えーよな」
「ソーリー、少し意味が……」
「若けーのに感心だね、って思ってるってことだけわかってくれりゃいいよん」
満足そうにふふんと鼻を鳴らされても、と良子は思う。いまの会話、とくに自分の発言に感心するところなどあっただろうかと振り返ってもそんなものは見当たらない。まさか心の中を読むなどという芸当ができるはずもあるまい。もしもそんなことができれば麻雀ほど楽しみを失くすゲームもないだろう。自分に話しかけてきたのはその麻雀のプロ、よってその線はなし、と良子は結論づけた。
「あ、これ食べたいってやつあるかい? モノによってはいい店知ってるぜぃ」
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ふいと視線を投げると窓の外の光は線になって後ろへ流れていった。店名を掲げた看板も距離が近ければ文字としての体を成せずに姿を消していく。だからといって遠くの看板なら読めるとそう単純な話でもない。東京都心は所狭しと建物がひしめき合っていて、車から見ようと思っても看板など一瞬で物陰に隠れてしまう。とくにそこにこだわりのなかった良子は視線を前に戻し、車内ではもっとも存在を主張している料金メーターへと目をやった。どうやらまだそれほど距離を走っているわけではないらしい。どうやら自分を食事に誘ってくれたプロの先達といると調子だけでなく時間感覚も狂うようだ、と良子は料金メーターから目を切った。
「タクシー、ですか?」
咏に導かれて着いた先は試合会場の裏口で、そこに何の変哲もないタクシーが待っていたのを見て思わず良子の口から言葉がこぼれた。彼女の反応に不自然なところは何もない。そもそも選手専用の地下駐車場があるこの会場で、わざわざ三尋木咏ほどのプレイヤーがスタッフでさえ使うような普通の裏口を使うだろうか。彼女であれば気の利いた車のひとつでも乗ってきていてもおかしくないというのに。
冬空はすっかり夜が支配して、つめたい空気は日中より透明に感じられる。裏口の向こうの咏の姿は、タクシーのライトを背景にしてシルエットの縁を妖しく光らせている。打掛を羽織った姿が艶めいて見えるのは自分に日本人の血がしっかり流れているからかもしれないと良子はふと思う。逆光で運転手の顔だけが見えない。残りのすべては、咏も風景もタクシーの外装すらも不思議なくらいによく見える。コートの内側に冬の夜の外気が滑り込んで良子は身を震わせた。
「餅は餅屋ってね。車で移動ならタクシーが最善っしょ」
「ええ、まあそうですが……。それならチームの送迎車でもよいのでは?」
「おいおいプライベートな時間だぜ? そんな野暮なの使いたくないってーの」
けらけらと笑いながら良子の意見を躱す。言われてみればその通りでしかない。ましてやお誘いを受けている相手は今日の対局相手なのだからチーム内から過敏な反応が出ないとも限らない。それもどちらのチームからも。あえて邪推を加えるなら三尋木咏のような有名選手の車には妙な記者が張り付いていないとも限らない。その点タクシーなら風景に紛れ込むことができる。異性とのデートというわけでもないのだからそこまで考えるのはやりすぎなのだろうが、その辺りをいちいち分けるのも面倒なのかもしれない。彼女の促すままに良子はタクシーに乗り込んだ。
意外なほど車中は静かだった。良子の隣に座る彼女はたしかに機嫌が良さそうだったが、ただそれだけで何を話すというわけでもない。窓の外からたまに入る夜の光が、彼女の横顔をこの世のものとは思われぬほど美しく照らすだけだった。世間的には咏はゆるいが無口ではなく、解説などではお笑い寄りのイメージがある。良子もそれに賛同するものだが、だからこそこの静かな状況はなんとなく居心地が悪かった。そういえばインターハイを覗きに行ったときにも似たような事態になったな、とふと思い出す。
「よくこのように他の選手と食事に出られるのですか?」
「ん? なんだい嫉妬かい?」
「そうではなく。単純に交友関係が広いのか気になっただけですよ」
「わかんねーけど広くはないんじゃね? はやりさんとかにお呼ばれすることもあるけど」
「となると意外ですね。なぜ私をお誘いくださったのか」
「そんなん決まってんだろー。面白そうだからだよ」
競技プロという括りに位置付けられた上での “面白そう” という言葉には通常よりも意味が重ねられていることが多い。そのぶん解釈も多様になるし、なかなか単純には受け取れない。現に良子もそれをどう取るべきか決めあぐねていた。厳密な意味では平坦ではない道の上をタクシーが跳ねる。車中の体も揺れる。目指すのは中華料理屋で、個室を予約してあるという。咏のように着物のせいもあって目立つ容姿をしていてはなかなか普通の店には入れまい。良子はそう納得して、意志の力でこれから食べる料理のほうに思考を巡らせることにした。
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その食事では麻雀に関わらない話や連絡先交換などしか行われずに良子は驚いたのだが、それはまた別の話である。