影絵   作:箱女

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二十五

―――――

 

 

 それなりの期間があるとされる人生においても、覚悟という言葉と向かい合う機会はそれほど多くはない。あるいはその言葉を軽く見積もればそんなことはないのかもしれないが。ただ、菫には多くの物事を重く見る傾向がある。そのこと自体の良し悪しはさておいて、彼女はまだ十七歳でしかないのに覚悟を定める必要があった。立場のせいもあったのかもしれないが、大きな原因は彼女が弘世菫であることだった。頭の回転が早いこともそうだし、生真面目に過ぎた。そして一定の意味で善意の人間だったからだ。

 

 

 その日の登校中を菫はよく覚えていない。気が付けば照を伴って廊下を歩いているような感じさえした。放課後の廊下はひどく寒く冷たく、太陽が出ていないこともそれに拍車をかけていた。窓の向こうでは風が唸っていた。

 菫はその日をとくに考え抜いて選んだというわけではなかった。ただなんとなく、目を覚ました瞬間に今日だということを理解したというのが表現としてはもっとも近かった。それに日を選んでどうなることもない。次の日はどうしたってやってくるし、結果が変わることなどありえない。その日の機嫌で対応が変わるような相手なら彼女も頭を悩ませたのかもしれないが、今回に限ってはそんなことを考える必要はないと言っていい。あるいは不可能だと言ったほうが適切かもしれない。どちらにせよ宮永照という名前にはそういった意味が含まれてしまっていた。

 

「最近の菫は練習中に部室を出ることが増えた」

 

 お前が何を言う、と菫は心の中で優しい色合いのため息をついた。大きな大会は近くには控えておらず、むしろそのせいなのかメディア対応のために照はよく練習の席を外すことがあった。それで疲れたところをまるで見せないのだから大したものだと菫は常々思っていた。おそらく自分がその立場にあったとしたら無理をしている風の演技をするか毒づくかをしているに違いない、とも。

 

 一定のリズムで上履きがリノリウムの床を叩く音が続いて、それがあるタイミングで止まった。どこ、と説明するのも難しい中途半端な場所だった。廊下ではある。そしてそれ以外に言いようがない。そんな場所で菫は足を止めて何も聞かずについてきた少女に向かい合った。

 照の動きは不自然なほどにぴたりとかみ合った。初めから止まることがわかっていたように二人の距離は一定に保たれている。菫の真向かいにある顔はいつものものと寸分の違いもない。そこに起こる感情は慣れなどであるはずがなく、やはり恐怖に近いものだった。止まったままの時計を眺めることに何も思わないのならそんなこともないのかもしれないが、残念ながら弘世菫の感性はそのようにできてはいなかった。

 

「お前、自分の妹に何をしたんだ?」

 

 努めて詰問にならないようにさりげなく菫は問うた。これは宮永照に刺さるはずの問いだったから。より正確には、根幹や核心といったものに触れるものでなければならなかったから。

 それでも彼女はただまっすぐ菫を見つめているだけだった。少なくとも菫には動揺の欠片さえ見つけられなかった。その表情は朝のホームルームの担任の話を聞いているのと差がなかった。そのせいでむしろ混乱したのは菫のほうだったが、質問した側であったために彼女が言葉を続けることはなかった。

 

「…………麻雀を嫌いにさせた、と思う」

 

 ひとつの回答が別の疑問を連れてきた。照に妹がいることを予想していた人間は過去にもいたのだろうし、今現在も部にいるだろう。そんなことは菫にはわかっている。しかしこの先はそうではない。おそらくはここからが誰も知らない宮永照の領域なのだろう。それは麻雀的ではない、ひとりの人間としての意味合いにおいてだ。当然、菫の中で妹が麻雀を嫌いになるようにしてしまったことと妹がいないと口にすることにつながりは見出せない。あるべきではないとさえ思える。その言い方は価値基準に絶対的な間違いがあるように感じるからだ。

 菫は言葉を選ばなければならなかった。とくに目の前の人間が気難しいというわけではないし、言い方を少し間違えてしまったからといって誤解に端を発する面倒事も起こりはしないだろう。ただ、問いをつなぎ、この会話を完成させるには絶対に触れてはならない何かが潜んでいる。菫にはそれがありありと感じられた。

 

「仲は、よかったのか?」

 

「よく一緒に遊んだ。本の話もできたし、仲はよかったと思う」

 

 ほんのわずかなあいだだけ空いた間は、思い出すための時間だったに違いない。しかしそれこそが異常事態であることを明確に示していると菫はすぐに気が付いた。宮永照という像にぶれが見え始めている。打てば響くと言えるまでに明朗な受け答えを常としていたわけではないが、それでも会話のやり取りにおいて照は一瞬でさえ詰まることはなかった。それが、一年と半年以上ものあいだ通し続けていたそれが目の前で崩れている。このことを軽く流せるほど菫は目の前の少女と浅い付き合いをしてきたつもりはない。そしてそのことを放っておくつもりもない。

 照の口からこぼれた言葉が過去形であることに菫は不安を覚えた。もしかしたら本当に触れるべきでないことがあったのかもしれない。仮に不幸な過去があったと仮定して、そこに踏み込んでしまえば彼女はただの思慮の欠けた人物でしかなくなってしまう。たった一度だけでも取り返せない失敗はたしかに存在する。たとえそれが烙印に近いレベルで完璧であることを要求され、また達成している菫であってもだ。それでも彼女は止まるわけにはいかなかった。理由など挙げようと思えばいくつも出てくるのだろうが、どうこう言ったところで宮永照は弘世菫にとって一番の友人なのだ。分厚い仮面の下に苦しみを隠しているのだとしたら、救ってあげたいと思ってしまう。

 

「……よく麻雀はしたのか?」

 

「うん。家族で」

 

「それは初耳だな、そこで腕を磨いたわけだ」

 

「みんなが本気で勝ちに来てたから、私も負けるわけにはいかなくて」

 

 どんな魔境だよ、と菫は顔に出ないように嘆息した。既に絶対的とさえ言われている宮永照が意気込まないとならないような卓など、多少は彼女が未熟だっただろうことを差し引いても、想像するのは難しい。それはつまり、半荘の中で宮永照よりも早く高い和了を達成できる存在を意味している。妹がそれにあたるのだろうかと考えて、菫はすぐにそれをひっこめた。それは信じられないというよりも、どちらかといえば信じたくないという意味合いのほうが強かった。

 しかしそこには冗談を匂わせるものが()()()()()()。もはや具体的な意味合いを失い、象徴的名詞としての “妹” が存在していることだけが疑えない事実だった。しかしその存在が宮永照に与えた影響がどの程度のものなのかも、それが複雑であるかすらもわからない。手がかりとなる情報がないのだから、菫にそれが見渡せるわけがない。菫の目の前にあるのは結果だけだった。過程をすべてすっ飛ばして高校生最強という結果だけが提示されている。菫は胃の底にうんざりするような臭いのする体液が分泌されたような気がしていた。

 あまり深くなりすぎないようにひとつ息を吸い込んで、菫は口を開いた。

 

「なあ、照。それで “私に妹がいない” っていうのはどういう意味だったんだ?」

 

 

―――――

 

 

 昇降口の自販機にしか売っていない缶ジュースを買うために、誠子はいつも部室からそこまでの距離を歩かなければならない。そして誠子は気分によって歩くコースを変えるタイプだったから、その日は階段を先に下りようかと考えた。そこにはどんな意図もなかった。人間というものは時に、ただなんとなく、としか説明しようのない行動をとるものである。誠子がいざ階段を下りてみると、そこには尊敬する部長の姿があった。彼女がこんなところにいるのは意外なような気もするが、部室を出るときにいなかったじゃないかと言われれば誠子はきっとまあそうかと納得したのに違いない。しかしそんなことは誠子の頭を掠めもしなかった。目の前の憧れの存在が、廊下の窓に手をついて呼吸を乱していたからである。

 

「先輩! どうしたんですか!?」

 

 あまりはっきりしているとは言えそうにない目を誠子のほうに向けて、彼女は無理やり作ったとわかる優しい笑顔を見せている。額にはうっすら汗が浮かび、そのせいなのか艶のある黒髪が幾筋か貼りついており、状況にそぐわないと理解していたものの誠子はそれに色っぽさをさえ感じた。

 

「……ああ、なんでもないよ。ちょっと体を冷やしたのかもしれない」

 

「そんなの信じるわけないでしょう! もう風邪がピークに来ている人のそれですよ!」

 

 そう言って誠子は強引に腕を引いて、保健室に向かうことを決断した。そうでもしなければこの責任感の強い部長は強がって平気なふりをするに違いない。だから誠子は行動を起こさなければならなかった。まさか立っているのもままならないほどふらついていたのだろう人間を、それも尊敬する存在を無視して缶ジュースを買いに行けるほど彼女は思いやりを捨ててはいない。掴んだその腕は制服の厚みを差し引く必要もなく細く、あまりにも力弱かった。ぎょっとして誠子が振り向くと小さくたたらを踏む姿がそこにあって、それを目にした瞬間にこれはただの風邪ではないのかもしれないという考えが頭をよぎった。

 慌てて腕を引くのをやめて、今度は背中に腕を回して寄り添うようにした。そうすることで体勢が落ち着いて、まず冷静でなければならかった誠子の動揺もやっと収まった。そこからのせいぜいが数十歩程度を誠子はよく覚えていない。菫に対して全神経を集中していたからなのかもしれないが、別の日にだって思い出そうとすらしなかった。重要なのは彼女にとって大きな存在である菫の安否であって、その道中など結局どうでもいいことだった。

 

 勝手にベッドに寝かせている以上、誠子は保健室にいなかった養護教諭を待たなければならなかった。放課後とはいえ本当ならいてもらわなくては困るのだが、現にいないのだからどうしようもない。ベッド脇に置かれている丸椅子に腰かけてひとつ息をつく。待つにしても見通しが立たないのは気が利いているとは言えない。ちらとベッドのほうに目をやると誂えられたような長いまつ毛にクールな眼差しが天井を貫いていた。こんなときくらい眠ってしまえばいいのに、と誠子は思ったが口にはださなかった。

 

「亦野、私はほんとうに風邪をひいているわけじゃないんだ」

 

「風邪じゃないにしたって体調崩してますよ、大差ありませんって」

 

「怖いものを見たんだよ」

 

「……へ?」

 

「そのままの意味だ。ああ、本当にキツかったな、まったく」

 

「え、あ、おばけとか、そういう?」

 

「だったらいくらかマシだと思うよ。まいった、夢に見そうだ」

 

 まったく誠子には理解が及ばないまま話は進行していく。寝ていてさえ綺麗な姿勢を保った彼女に冗談を言っている様子はない。真面目一辺倒な印象を持たれがちな菫ではあったが、ひとりの人間として接するときには冗談を言うこともあった。だからこそ誰からも慕われる存在であることができたし、周囲が評する完璧という言葉にはそういった部分も含まれていた。

 

「なあ亦野、私は食われてしまう側の人間なんだろうか」

 

 普段の空気を切り裂くようなよく通る声と比べたら、保健室で誠子に届いたのは信じられないほど弱くか細いものだった。付け加えるならその内容も弱々しい。そしてそれは誠子にとっては許されることではなかった。

 

「あり得ません」

 

「そうか?」

 

「私たちは白糸台です。王者です。その白糸台を束ねるあなたが食われる側? ギャグにだってならないです。考えることさえ許されないと私は思います。虎は食べられることを考えながら日々を過ごしませんよね。それと変わらないんですよ」

 

「……そうか」

 

 そうだよな、とさらに呟くと彼女は誠子が座っているのとは逆のほうに体の向きを変えた。

 

 

 

 

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