影絵   作:箱女

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 梅雨時にあって珍しい快晴。いつもならじくじくと気分を悪くさせる空気中の水分がこの日だけはやけに少なく感じられた。あるいは普段の湿度が高すぎるために、その落差でそう感じるのかもしれない。まだ六月の半ばで、梅雨明けには少なくともあと三週間は必要だろう。今日は休日ではあるが部活に向かう生徒が多いらしく、駅からの通学路には白糸台の夏服が散見された。じりじりと近づいてくる夏に、学生たちの光る汗が応えているようだった。

 

 菫も鞄からハンドタオルを出して首筋に滲んだ汗を拭きとる。洗剤の清潔な香りが鼻腔いっぱいに広がる。母親と香りの好みが近くてよかったと菫は思う。あまりくどさのない、くすぐるようなタイプのもの。考えてみればこういった嗜好が彼女のイメージを脇から固めていったのかもしれない。それが実像と結びついているかどうかは別にして。

 

 

 弘世菫と宮永照は同じクラスで共に麻雀部に所属しているが、二人が同卓するという場面はそれほど多いものではなかった。それは主に実力をその原因としている。団体戦のレギュラー候補にさえ絡めなかった菫と、入部してすぐに絶対不動のエースへと上り詰めた照。たとえ菫が中学時代に全国大会に出場した有望な選手であっても、それはこの白糸台高校での現実に何らの影響も及ぼさない。とくにこれからインターハイまでの時期は出場選手を仕上げていかなければならないため、部内の実力者同士が卓を囲むことが多かった。

 

 それでも打つ機会がまったくないかといえばそういうわけでもなく、濃い青をしたきれいな空が見えるその日に、菫と照は卓を囲むことになった。

 

 

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 卓の向こう、いや正確には菫の下家の照は、気合を入れるでもなくただ座っているだけだった。少なくとも表面上はそう見える。その表情があまりにもいつも通り過ぎて菫は叫びだしたくなる。照の顔は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。怒らない笑わないイヤそうな表情ひとつ浮かべない。それがここに至るまで継続されていることが菫にとっては何より怖かった。部に入るくらいなのだから麻雀に対する思いは他の競技よりは強いだろうことは容易に推測される。だがそうであるはずなのにこの麻雀という競技に臨む場面において目の前のこの少女は眉ひとつ動かすことはなかった。それはまるで表情を作るという機能そのものを切り落としてしまったのではないかと思わせる。あの部活初日の感覚が菫の中から消えることなどついぞありはしなかった。

 

 ( そうだ、この目だ )

 

 菫は局が始まると同時に起きる照の変化に息を呑む。あの平板な目が卓全体どころか打っている相手そのものまで見ようと動く。決して焦ったような動きなど見せずに流れるように視線を配る。実に奇妙なことに、東一局であれば照はそれを同じ相手にも繰り返す。同じ面子で続けて打つ場合でもそれは変わらない。菫はそこにこそ突破口があると思うのだが、未だにそれは具体的なかたちをとってはいなかった。

 

 ただ山から牌を自摸って河に捨てるだけの動作を見られているだけなのに、受ける感じはそれとはまったく違っている。彼女の目には本来なら見通されるはずのない別の何かが映っているような気さえするのだ。それはわずかな不快感とともに菫の気持ちを逸らせる。早く撃ち落とせと理性が怒号をあげる。信じられないことに宮永照が卓につけば、そこには東一局から閉塞感が生まれる。誰もそれを打ち破れない。だから彼女がこの部の頂点に君臨しているとも言えるのだが。

 

 他家の様子を見てみれば、菫と大差ないようだった。闘志こそ失われていないがそれぞれの内側から聞こえてくる “アレは倒せない” という声にどう逆らっていいかわからないのだ。気温のせいではなく額に滲む汗がそれを如実に物語っている。照を除く全員が必死にもがく。未だ場は東一局で、なおかつ卓上におかしな事象は起きていないというのに。彼女たちは理解しているのだ。次局に移ってしまえば照の時間が始まることを。それは太陽とともに朝が来るのと同様に、避けられる類のものではないことを。

 

 十二巡目に菫が二年の先輩に振り込んだ。焦るあまりに周囲のケアを欠いていたことそれ自体は否定できないが、菫の手も仕上がりつつあったため難しい局面ではあった。苦い表情を浮かべて、ひとつ息を吐く。ここからだ、と菫は気合を入れなおす。ここから先は部内でも地区予選でも誰一人として止められなかった宮永照の時間だ。最初の和了はどれだけ遅くとも六巡目までには達成されるだろう。もちろんそんな馬鹿げたスピードと張り合うつもりなど菫にはない。この局で菫が確かめなければならないのはまったく別の点にあった。

 

 三年の先輩が一鳴きしただけで、他に動きは見られることなくあっさりと照が五巡目で自摸和了ってみせた。たしかにそれなりに麻雀を続けていれば、たまにはこういう早い巡目で和了ることもあるだろう。だが宮永照はそれを意図的に引き起こす。それが彼女にとっての普通であるからこそ対局者の精神にダメージを与える。まるで照だけが別のルールのもとで闘っているかのような気にさえなってくる。怪物はにこりともしない。

 

 ( 集中しろ、感覚を研ぎ澄ませ )

 

 菫は聡い。照に真正面からぶつかったところで敵わないのは理解している。だからそんな存在に対してただ挑んで、ああ負けた、なんてバカな真似はしない。いま弘世菫は宮永照に一矢を報いることだけを考えている。その絶対性を崩してやろうと考えている。()()()()()()()()()()()()。そんな思いを胸に菫は次の局へと向かう。

 

 

 それでも照は圧倒的だった。ほとんど速度を落とすことなく打点だけを上げ続け、次の和了りで菫を飛ばせるほどの段階まで差し掛かっていた。もちろんのこと東二局で和了って以降、彼女の連荘は続いている。山牌がせり上がってくるのを、照はただ無感情に眺めている。彼女の次の条件は最低でも六翻、跳満だ。いくら照といえどもその条件を一翻と同じようにこなせるわけではない。それでもせいぜいが一、二巡の遅れにしか繋がらないが。

 

 そのわずかな遅れが菫にとっては値千金だった。彼女が挑んでいるのは、自分が和了ることではなく他家のアシストだからだ。事実として個人の技量で照に及ぶプレイヤーはこの部にはいない。だが二人がかりならばどうか、それでもダメなら三人がかりでどうか。菫はそう考えた。もちろん事前に話を通すだとかそんなことは許されないしするつもりもない。だから彼女は先輩たちに鳴かせることでそれを実行しようとした。だが席順に運がなかったと言うべきか、下家には照が座っていた。つまり菫から先輩たちへのアシストはポンしか存在しないのだ。この事実は菫の集中力を跳ね上げさせた。他家が欲しがっている牌をピンポイントで射抜かなければならなかったから。

 

 そのとき何が起きたのかは当人である菫でさえ理解できなかった。

 

 目に映る情報の無意識下での統合と極限まで高まった集中とが重なった結果なのか、それともただの幻覚なのか。先輩たちが待っている牌が、なぜか手に取るようにわかった。別に手牌が全部透けるだとかそういうことではなく、ピンポイントでどの牌が彼女たちのキーになるのかが見えるのだ。意識ははっきりとしているし思考もきちんとできる。とくに危険な状態に陥っているようには思えない。自分自身を訝しむという奇妙な体験をしながらも、菫はとりあえず自分を信じることにした。三年の先輩が欲しがっている (と菫には思える) 三萬を捨ててみた。

 

 ポン、と菫の捨てた牌をさらうための発声がなされる。本来ならば鳴かれることはあまり歓迎するべきことではないのだが、今の目的を考えれば成果とさえ呼べる。菫は不思議な興奮を味わっていた。彼女の矢そのものが照に届いたわけではないが、それはこの閉塞感を打ち破る可能性を持ったものだった。

 

 

 最終的にその対局では照の連続和了を止めることはできなかった。しかし一方で、菫はその手になにか確たるものを掴んだ気がしていた。自分の手をじっと見つめながら拳を作り、また開いた。磨かなければならないが、それはきっと自身にとって大きな武器になるだろうという確信めいた予感があった。知らず知らずのうちに菫はまた、しかし今度は強く拳を握っていた。

 

 菫が先の対局で手に入れたのはそれだけではない。もうひとつのそれは、宮永照に対する見解である。彼女が強力無比な雀士であることに疑いはないし、穴らしい穴も見当たらない。それは事実だが、“こちら側から穴をこじ開けることは不可能ではない”。これが菫の新たに得た知見である。つまるところ工夫次第では彼女を封じることも可能性のひとつとして残るのだ。重要なのは常識から外れた麻雀を打たなくてもそれが実行できるという点である。ただ照に勝つことを考えた場合、そこからさらに発展した何かが必要だというのが問題だった。封じるというのはあくまで宮永照の凶悪な連続和了に限定した話であり、照そのものではない。そこが菫の限界であった。

 

 

 対局を終えてすこし離れたところで飲み物片手に休憩していると、隣に照がやってきた。彼女も飲み物を手に窓のそばに寄りかかる。何か話でもあるのかと思い、菫は照のアクションを待っていたが彼女は何もしなかった。ただ部室の様子を眺めて、ときおり思い出したように手元の飲み物を口へと運ぶだけだった。

 

 

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 東京都心の暑さは地元のものとはなにかが違う、と部長は思う。どこか、そう、身体の奥の方に重たいものを残していく暑さだ。インターハイのために移動してきて数日経つが、この暑さだけはどうしても彼女には慣れることができなかった。団体戦の序盤には試合の入らない日もあったため部員とともに街に繰り出してみたりもしたが、外で歩くことの辛さは彼女の想定をはるかに飛び越えていた。白昼夢でも見ているかのようにゆらゆらと揺れる坂の上のアスファルトの向こうの景色を見たときに変な笑いがこぼれていたように見えたのは決して気のせいではないだろう。

 

 そんなことを思い出しながら、白昼夢ね、なんて薄く笑う。

 

 たしかに夢想しなかったわけではない。()()がここ数年パッとしなかった白糸台を優勝に導いてくれることを。だがそれはあくまでそうなればいいな、という程度の可愛らしい願望であって現実にそうなる確信など持てるわけがなかった。高校生という年代は可能性がもっとも変動を見せる時期であり、そしてインターハイという環境においてそれは花開いてきたからだ。常に想像を超える人材を育んできたからだ。

 

 だが蓋を開けてみればどうか。想像を超える存在を連れてきたのはこちらではないか。嘆息混じりに部長は控室に設置された中継用のテレビに目をやる。強豪の中の強豪が集う準決勝において、やはり場の雰囲気を支配しているのは宮永照だった。先鋒から副将まで誰一人として気の抜けない学校を相手にうまく凌ぎ、チャンスがあれば点棒を奪い、なんとか二位で繋いだたすきを照は簡単に一位にまで押し上げてみせ、今はそれを突き放しにかかっている。どうにも現実感の薄い光景に部長は自分の頬をつねってみるが、どうやら現実に違いないようだ。

 

 宮永照の麻雀は、驚異的な力による制圧だけではない。底冷えのするような読みの鋭さと、真綿を思わせる繊細さをも兼ね備えている。それらは対局が終わったあとに起こされた牌譜をつぶさに検討して初めて浮かび上がる類のものであるために、彼女のその特質にたどり着いている者は実に少ない。“強い” というその事実だけで大抵の人間は満足か、あるいは諦めるのだ。

 

 

 最終的な結果は白糸台の一位で終わったものの、さすがはその年の選りすぐられた高校の大将というべきだろうか。誰一人としてハコを割ることなく準決勝を終わってみせた。それぞれやり方は異なっていたが基本的な方針は菫のたどり着いたものと同じものだった。一般的な対局と団体戦との持ち点の差はあるにせよ、それをすぐさま実践に移せたかどうかが菫と彼女たちとの決定的な差なのだろう。準決勝の終局をスクリーン越しに見ていた菫の胸中は想像に難くない。

 

 ともあれ初戦から十全に発揮されてきたその力量は、出場選手を含む会場にいる人々に白糸台の優勝という言葉を印象付けるには十分であった。もし彼女が大将の位置にいなければ他の学校にも優勝のチャンスはあっただろう。後ろの選手に逆転のチャンスが与えられるのだから。だが現実はそうではなく、宮永照を上回る戦果を上げなければ団体戦での優勝はあり得ない。そんなことが可能なプレイヤーはごく限られており、団体戦の妙というべきか組み合わせの妙というべきか、決勝戦の大将の卓にはそういった選手はいないことが判明している。つまりはそういうことで決まっているようだった。

 

 

―――――

 

 

 

 くらくらするような、眩しい部屋を後にする。

 

 廊下の色はよくわからない。白とも、ねずみ色とも、クリーム色ともつかない。

 

 ひどく静かだ。

 

 鈍く低い空調の音が廊下を満たすようにちいさく響いている。

 

 わたしの帰る場所まで続いている。

 

 わたしの帰る場所まで。

 

 

 

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 「お疲れ様、宮永ちゃん」

 

 「お疲れ様です」

 

 控室の前でのこのやりとりはいつの間にか通例となっていた。ただ部長が照を出迎えるだけのもので、それ以外の意味は何もない。部長は照が廊下の向こうから歩いてくるこの光景を、こうして何度も見ているがそこには常に変化などなかった。背景だとか髪の長さだとかこまごまとした違いは別にして、その顔つきや挙動は録画した映像を流しているかのように一定だった。たとえば疲労がたまっているとかそういった微細な変化であっても見逃さない自信を持っていたが、そんな雰囲気さえ感じ取れない辺り相当タフなのだろうと部長は思っている。見た目はまだまだ成長の余地を残していそうな体つきをしているが、どうやら中身は見た目通りとはいかないらしい。

 

 照が手櫛で髪を整えるのを、部長は不思議そうに眺めていた。よく見てみればずいぶんと手入れのされた逸品であることがわかる。流れるように指が通ってすぐに元通りになっている。今しがたまでメンバーにもみくちゃにされてさんざんな状態だった髪が、である。まあなんとも羨ましいものを持っているな、と思いながらも部長の関心は別にあった。それ以前に抵抗もせずになすがままにされていたことにも疑問を禁じ得ないが、その一通りの流れのなかで表情がまったく変化していないことに奇妙な感じを覚えていた。いつか読んだ漫画にそんなキャラクターがいたような気がするな、などと思考をあさっての方向に飛ばしながら。

 

 翌日は夏らしい空、という言葉がぴったりと当てはまるような空だった。くっきりとした青と白のコントラストは、まるで油絵のように後から乗せたみたいに分かれている。太陽はもう高く上がって、東京だけでなくその光の届くすべての範囲を照らしていた。日向と日陰はそれぞれ別の空間と錯覚してしまいそうになるほどに過ごしやすさが違っている。これからあと数時間も経過すれば今年度のインターハイ女子麻雀団体の優勝校が決まる。木陰がひどくゆっくりと進んだそのとき、決勝戦が始まった。その過程は現実のステップとしては必要なものだったが、しかしそれは言わば儀礼的なものでしかなかった。なぜなら宮永照が白糸台の大将に控えているのだから。

 

 

 陽が沈むまでにはまだ少しばかりの猶予がある橙色の空の下。ある大きな建物の中で、わあっと大きな歓声が上がった。まるで待ち望んでいた瞬間が訪れたかのように、観客の口が一斉に弾けるように開いた。不思議なことにそれは歓喜の色に染まっていた。あるいはそれ以外の声は圧倒的な物量に押しつぶされてしまったのかもしれない。それほどまでに場内は熱狂していた。立っている客よりシートに座っている客を探すことのほうが手間がかかりそうなくらいだ。スクリーンに映っているのは、右側のぴんと跳ねた髪が特徴の高校一年生が右腕を突き上げている姿だった。

 

 それはまるで古くから決められていた約束のように、誰もが納得をせざるを得ない光景だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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