影絵   作:箱女

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 がたん、ごとん、と揺れる電車は都心からは離れる方向へと進んでいく。太陽はまだ沈んではおらず、西日が菫と照の背中側から斜めに差し込んでくる。ふたりのいる車両にはあまり人が乗っていない。時間帯で言えば、多くの社会人はまだ仕事をしているだろうし、遊びに出かけている人はこれからが本番というところだろう。だから不思議なくらいに車内に人は少ない。

 

 ふたりが電車に乗ってから五分ほど経っているが、どちらも言葉を発さない。ただ前をじいっと見つめているだけだ。おそらくどちらの視界にもオレンジ色の光線を受けてきらきら光る手すりが目に入っているだろう。冷房のせいで少し冷たい空気と、流れていく景色と、際限なく一定のリズムで続く線路と車輪がたてる音。ときおり体を左右に揺られながら、それでもまだ言葉は生まれなかった。

 

 

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 菫の目には、決勝戦がひどく不自然なものに映っていた。それは原因を突き詰めていけば結局は宮永照が負けたということに落ち着く。現実に自身が肌で感じた “最強” が屈するというのは菫にとっては受け入れにくいものがあった。たとえそれが天才と呼ばれる相手であっても、である。東三局で照が連続和了できなかったとき、菫は半ば放心したようにスクリーンを眺めていた。インターハイに出場している他校のどの選手よりも彼女のプレイングに関する異常性を知っていたからこそ、なおさら菫の感情は目に映る現状を認めようとはしなかった。唯一の救いは、それでも照がまったく表情を変えなかったことだった。

 

 それから表彰式までの時間をどのように過ごしたのかを、菫ははっきりと憶えていない。色素の薄まった川を遡行するように、ただただ何にもぶつからないように移動していたことだけは憶えている。しかしその間に話した相手の顔や内容、手にした飲み物やそういったものの具体的な事柄は何ひとつ記憶にない。気が付けば観戦していたときとは違う席に座って表彰式を見ていた。

 

 決勝卓についた四人にあてられたライトは、画面の向こうの現実をどこか遠い世界での出来事のような印象に作り替えていた。優勝者に贈られる楯を受け取ってうすく微笑む戒能良子は控えめに見たって絵になっており、それこそ次に発売される麻雀雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないような姿だった。誰もが認める王者の姿。それも二年連続優勝というめったに見られないオマケつきだ。観客たちはその音が届かないことを理解しつつも彼女への拍手をやめなかった。万雷の、という感じではなく穏やかに祝福する拍手が場内に響く。同席している白糸台の部員も菫自身も拍手を贈った。だが、それでも、という思いを菫は捨てきれなかった。それでも一番強いのは宮永照なのだ、と。

 

 

 女子の部の全行程が終了したのは午後四時を過ぎたころで、西と東の地区の違いはあるとはいえ同じ東京ということで白糸台は現地解散だった。大きな荷物は午前の段階で発送しているし、そのまま街へと繰り出すのもアリだろう。もちろん羽目を外しすぎないという前提はあるが。そうしたなかで、菫と照はまっすぐ帰ることを選んだ。別に事前に約束していたわけではない。いざ解散、となったときに迷うことなくふたりは駅へと向かって自宅のあるほうの電車へと乗り込んだのだ。

 

 人のいない車内で、菫の意識がとある音を捉えた。それは電車の立てる音ではなく、ぽたぽたと何かが布地をうつ音だ。ちょうど雨が降り始めたときに聞くものとよく似ている。外を見れば雨が降っているわけでもないし、電車で水漏れというのもなかなか考えにくい。さてどこからこの音がするのかと辺りを見回してみれば、なんとすぐ隣に座っている少女の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れていた。透明な滴は頬を伝って小さな顎の先端に集まり、不規則に滴っては制服を濡らしている。拭うでもなく堪えるでもなく、ただただ溢れるそれをそのままにしている姿は、まるでそのように創ることを目的とした彫像のようだった。

 

 菫は今すぐ言葉をかけるべき状況であることを理解していたが、肝心の言葉がなにも浮かんではこなかった。通りいっぺんのものならそれなりには思いつくが、それはきっと照の体を上滑りしていくだろう。いきおい菫は黙らざるを得なかった。正しい選択とは言えないが、決定的な間違いをしないだけいくらかマシだろうとの考えのもとの判断だった。名前のない感情のかたまりが身体の中で暴れるのを、菫はじっと耐えるしかなかった。電車の窓には、その構造のせいで二重にブレたふたりの姿が映っていた。

 

 「……負けた」

 

 小さな口がぼそりとつぶやく。大粒の涙はときおり思い出したように流れていき、制服を叩く。

 

 「ああ」

 

 「ねえ弘世、私いますごく悔しい」

 

 「ああ」

 

 「…………弘世はやさしいね」

 

 「……そうか」

 

 結局ふたりが目を合わせることはなかった。

 

 

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 インターハイの会場がある都心に比べれば自然の豊かな白糸台高校の近辺では蝉の声が少しだけ近い。さすがに降り注ぐような、とはいかないがそれでも差は感じ取れるくらいのものだ。

 

 遮るもののないまっすぐな日差しが学校を目指す菫を襲う。ちりちりと少しずつ皮膚が焼かれていくような感覚は、意識するとくすぐったいような気さえしてくる。電車から降りて五分も経っていないのにもう汗が噴き出てくる。タオル地のハンカチがだんだんと湿っていく。こんな日はプールなんか気持ちよさそうだな、なんて菫は独り言ちる。もちろん夏休みに学校に向かう理由など部活以外ないのだから菫のそんな希望は通らない。

 

 校内に入った途端にすっと涼しさを感じて菫はふう、と息をつく。日陰にいても十分に暑いのだが、その感覚がマヒしてしまうほどに外は暑い。気温自体は三十二度を上回っているが、直射日光の下で計ればそれがどれくらいの数値を示すのか想像もつかなかった。下駄箱で上履きに履き替えて廊下を歩く。今日は風もないため窓を開けても閉めても変わらない。いやどちらかといえば外の温められた空気が入り込んでくるから閉めておいたほうが正解とすら言えるかもしれない状況だ。それもこれも冷房の入っている部室につくまでの話なのだから麻雀部は恵まれている、なんて意見は菫には聞こえない。

 

 高校生の麻雀部員の最大の目標であるインターハイが終わった直後だ。それに急いで照準を合わせるような大会もない。だから今日の部活は三年生の引退式を兼ねた自由に打つ為の一日なのだ。もちろんそれとは別に引退パーティーのようなものが企画されてはいるが。そしてこの日が終われば一週間ほどの休みを経て、一、二年生だけの新体制が始まる。

 

 

―――――

 

 

 

 「菫ちゃん、ちょっといい?」

 

 「ええ、大丈夫ですよ」

 

 声をかけてきたのは肩までかかる髪を後ろで一本にまとめて下ろしている二年生の先輩だった。彼女は “部長” からこの部を引き継ぐ立場の人間だ。とても優秀で、二年生でありながらきちんとレギュラー候補にも名を連ねていた。そんな彼女に連れられて、菫は多くの卓が見渡せる窓際のほうへと足を運んだ。

 

 「せんぱ、……いやもう部長ですね、どうしたんですか」

 

 「なるほど、これは慣れないね」

 

 何かを思い出すように彼女はすこし遠い目をしてつぶやくが、菫にはよくわからなかった。

 

 「ああ、ごめん、こっちの話。もちろん本題は別だよ」

 

 彼女は申し訳なさそうな笑みを浮かべて菫に向き直る。部室全体からいつもとは違う楽しそうな声が響いてくる。いわゆる無礼講というやつだろうか。

 

 「それで菫ちゃんに話したいことっていうのは、まあ私が部長になることについてなんだけど」

 

 菫は彼女の言いたいことが掴めないために、言葉を発さずに聞く姿勢を維持している。

 

 「正直言って私には部長って立場は荷が重すぎる、と思う」

 

 「いやそんなことは……」

 

 「別に自分を卑下するわけじゃないんだけど、私には部長ほどの求心力はないし」

 

 ああ、と菫は内心で納得する。目の前の先輩を侮辱する意味合いではなく。菫は “部長” が他の人にはないような輝きを持っているとは考えていない。たしかに懐が深いような気はするが、それは割と多くの人に見られる美点だろう。ふつうに笑ったり、ときたま機嫌が悪かったりととにかくふつうではあるのだが、なぜか人望を集めた。人を引っ張るのではなく、中心にいることで安心感を与えるタイプのリーダーだった。おそらく努力では到達できない、生まれもっての人間的な魅力がそれを実行することを許したのだろう。

 

 「もちろん一年にも気を配ろうとは思うんだけど、きっと無理が出てくると思うんだ」

 

 「そうでしょうね、一般的に見ても少なくない人数ですし」

 

 ようやく菫は彼女の言いたいことを理解した。それと同時にすこしだけ傷ついた。誰も悪くないことは聡い菫にはわかってはいたが、小さなため息を止められなかった。その意味を理解していたかどうかは定かではないが、新部長は迷うことなく切り出した。

 

 「菫ちゃん、一年生全体のとりまとめをお願いできない?」

 

 どのみちこうなることは避けられなかっただろうから、菫は首を縦に振ることでそれを了承した。浮かべた笑顔は寂しげなものだったがそれも仕方のないことだろう。一方で肩の荷が下りたといった表情をしている新部長の視線の先には、やはり宮永照がいた。

 

 

―――――

 

 

 

 二着で半荘を終えて、部長は雑談もそこそこに席を立った。さすがにこれまでいた立場のせいもあってかお誘いが絶えないな、とひとり思う。その目はきょろきょろと、ある部員を探していた。部室が広いうえに部員の数もなかなかなこともあって特定の部員を探すというのは意外と難しいのである。これがたとえば菫のような長身で、なおかつ立っていてくれれば見つけるのは簡単なのだが彼女が探している部員はそうではない。どちらかといえば特徴の少ない子なのだ。加えて物静かなので集団の中では本当に埋もれやすい。とはいえ勝手知ったる麻雀部、部室さえ出ていなければ見つけ出すのにそれほど時間はかからなかった。

 

 目当ての人物は椅子に座ってじっとある卓を眺めていた。それは彼女が対局時に見せるような、恐怖を抱きたくなるような視線ではなかった。ただ純粋に目の前で行われている競技を見ている、という感じだった。そんな姿を見たような記憶がなかったから、部長はわずかな間だけ卓を眺めている彼女を見ていた。卓についていないときの彼女は部員に囲まれている、弘世菫と一緒にいる、あるいは読書をしているのどれかだったから。

 

 それにしても、と思う。この少女が団体戦優勝の原動力かつ個人戦準優勝のプレイヤーだと言ったところでどれだけの人が信じるだろうか。もちろんインターハイの映像を見ていない人限定で、である。人は見かけによらないという言葉があるのは知っているし自身に対して使われることもよくあるが、宮永照に比べればまだまだだよなあ、というのが部長の正直なところであった。

 

 「や、宮永ちゃん。隣いい?」

 

 そう言って返事を待たずに部長は照の隣に座る。他の人ならいざ知らず、部長ならばそれは強引にはならない。自然と身についたものなのだろう、その動きにぎこちなさは見られなかった。ほどよく設定された室温のおかげで、椅子がすこしひんやりとしている。およそ高校生や大学生になると女子は学年の判別がつきにくくなるというが、並んで座っているふたりもまさにその通りであった。

 

 結局この子の表情が変わるところを見られなかったなあ、などと思いながら部長は隣に座る照の横顔を見やる。髪も肌もきれいだ。顔の造りは日本人的で、はっとするような美しさがあるわけではないが可愛らしいと評するには十分だろう。メディア映えする、いやしてしまうことに疑いはない。これから彼女に話さなければならない内容に思いを馳せて、部長はちょっと気が重くなった。

 

 「ねえ宮永ちゃん、インハイ行ってみてどうだった?」

 

 何とはなしに部長が話しかける。別に聞かれて困るような話題などないのだから、場所など気にする必要もない。

 

 「……よく、わかりません。全部がぱっと終わっちゃったような気がしてます」

 

 「そっか、宮永ちゃんも緊張してたんだね」

 

 部に入って四か月も経つというのに照のぼそぼそとした話し方は修正される兆しすら見せない。大の仲良しと思われる弘世菫にすらこのように話すらしいので、そこに関してはもう身についてしまった部分なのだろう。菫が彼女を心配した理由が改めて部長にはよくわかった。

 

 「……ありがとね、宮永ちゃん。団体で優勝できたのは間違いなく宮永ちゃんのおかげだよ」

 

 「先輩方が繋いでくれたからです。私の力じゃありません」

 

 それを聞いて部長は手の甲を口元に近づけてくつくつと笑った。

 

 「そうだね、ひとつ覚えておこうか。謙虚っていうのは過ぎると失礼になることもあるんだよ」

 

 相変わらず表情が変わらないから照がどのように今の言葉を受け取ったかははっきりしなかったが、部長はとくに気にする様子もなかった。照の頭が悪くないことなど、とうにわかりきっていることだ。

 

 窓の向こうはこの夏一番と言ってもいいくらいに晴れわたっており、冷房の利いた室内にいるというのにその暑さが察せられるくらいにはすさまじい日差しが降り注いでいる。これから彼女の進む道がこの景色くらいに明るければいいのに、と部長はひとり思ってまた口を開いた。

 

 「ところで宮永ちゃん、わたしはキミに謝らなくちゃならないんだ」

 

 さすがに話の方向性がつかめず、照は無表情のまま首を傾げる。器用なものだ。

 

 「きっとこれから宮永ちゃんは少なくとも麻雀界でとんでもなく注目されることになる」

 

 「注目、ですか」

 

 「うん。雑誌のインタビューとかテレビ取材とか、わんさか来ると思う」

 

 照には今ひとつぴんと来ていないようだった。それも当然だろう。急にそんなことを言われて、呑み込める人のほうが珍しい。

 

 一応ね、と前置きした上で部長はその辺りを取り巻く事情を説明した。麻雀の熱が高まっているせいで忘れられがちだが、インターハイに出場しているのはすべて高校生である。したがって正式に取材をする場合、まずは学校を通してからでなければそれは成り立たない。これはいわゆる紳士協定であって、明確に文書化されているものではない。もちろん協会が目を光らせていることもあり、たとえば記者が選手の自宅に押し掛けるような事態は発生していない。

 

 「以上のことを踏まえてなんだけど、大丈夫? わかりにくいところなかった?」

 

 照はこくこくと頷く。

 

 「でね、実は予選以降、明らかに宮永ちゃん目当ての取材が殺到してたんだ」

 

 「……でも、そんなのひとつも」

 

 「実はわたしと学校で内々に処理してたんだよ。あ、別に感謝してほしいとかじゃなくて」

 

 実際のところは彼女が言うよりも壮絶であった。予選直後の取材申し込みは学校側で対応しきれる程度のものだったが、本選ではそうはいかなかった。インターハイ本選という有力選手が集まるような環境で、報道陣がどうにかコメントをもらおうと奔走するであろうことは想像に難くない。時には自身がインタビューに応対したり、時には監督に力技をお願いすることで部長はそれを本人どころか周囲にも悟られることなく巧みに回避した。あるいは照が実力を発揮しきれたのは彼女の働きによるところが大きかったのかもしれない。

 

 「でもわたしは今日で引退だし、宮永ちゃんの注目度はもっと跳ね上がってる」

 

 「…………」

 

 「団体優勝の立役者の上に、個人であの戒能さんに次いでの準優勝だからね」

 

 黙り込む照に対して申し訳なさを感じつつ、部長は話を続ける。

 

 「わたしはもう手出しできないし、学校側も全部断るのは無理だと思う。だから、ごめんね」

 

 「……どうして、そこまでしてくれたんですか」

 

 ごくごく珍しい照からぶつけられた質問に、部長はすこし嬉しくなった。部長の目から見ると、彼女はなんでも自分一人の力で解決するタイプに見えていたから。

 

 「たとえレギュラーとはいえ大事な一年の部員に負担をかけたくないってのがひとつ」

 

 照は眉ひとつ動かしていないがこの話に興味を持っているのだろう、部長の目をまっすぐに見つめていた。

 

 「もうひとつは、頼まれたからだよ。弘世ちゃんに」

 

 「弘世が?」

 

 「そ。アイツは取材対応なんてできないだろうから助けてやってください、ってね」

 

 言い終わると同時に部長はふわりとした笑顔を浮かべる。たしかに照がここまでのプレイヤーだとは思っていなかったが、それでも注目を集めていただろうことは間違いない。だからこの事態は避けられるものではなく、それを考えた上で部長は初めから照に全てを話す気でいた。おそらく菫はそんなことを言う必要はないと主張するだろうが、部長の考えは違っていた。部員のことを心配して自分に相談までしてくれた菫に報いるところがなければおかしいだろう。そう考えていた彼女は照を基準に考えた根拠をいくつか持ってはいたが、それを些末なものとしか見ていなかった。

 

 

 その日の部活は夏の太陽がとっぷりと暮れるまで続き、現在の部員がすべて揃う最後の時間を、彼女たちは心の底から惜しむようにして過ごした。

 

 

 

 

 

 

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