アメリカンドリーム編①
買った。というか、買ってしまった。
柵の上からヒョコリと顔を出す可愛らしい黒鹿毛の一歳牡馬の前で、俺は頭を抱える。
完全にやってしまった。完璧なまでにやらかしてしまった。
安馬らしかったとはいえ、この目の前にいる可愛らしい一歳馬を、俺は衝動買いしてしまったのだ。
セリでは俺以外に手を挙げる人はいなかった。理由としては、馬体があんまりにもみすぼらしく、他の馬主が「醜いアヒルの子」と呟いていたほどだ。
けれども、俺はその一歳馬を見てしまった瞬間、即行で手を挙げてしまう。
なぜだか俺もわからないのだが、恐らく可愛いと思えたからだろう。で、つい衝動買いしてしまった、と。我ながらなにやってるんだ。
頭を抱えたままでいると、心配してくれたのか、目の前の一歳馬がヒヒンと嘶く。可愛いとしか言えない。
「あ、ああ。すまん」
お詫びとばかりに、馬の首から頭にかけての部分をわしゃわしゃと撫でてやる。近所に住む猫でこれをやろうとしたら逃げられたが。
……案外、馬は気持ちよさそうに目を瞑っている。猫には嫌われても馬には好かれる体質なのか?
こんなに可愛い馬だ。それになにより、自分から買った馬でもある。最後まで面倒を見るつもりだ。
この馬はそのうち、競走馬になる。現役生活を走り終えたら、せめて少しでも、いや、絶対に労いたいものである。
「元気に走って、元気に過ごしてくれれば、それでいいさ。俺との約束だぞ?」
最後に優しく頭を撫でてやる。馬は変わらず気持ちよさそうに目を瞑っていた。
……聞いているのかな? これ。というか、聞こえているのかな?
心地のよい風で牧場の芝が揺らめく光景を尻目に、俺は馬の頭に額を寄せた。
「俺に買われてくれて、ありがとうな」
一年を経て。
遂に俺の愛馬が、デビューを迎える日となった。
新潟競馬場の芝一八〇〇m。それがデビューの舞台だった。
真夏の暑さが頬を焼き、汗が滲み出る。その汗をハンカチで拭いながら、俺は馬主席で今か今かと待ち侘びていた。
六月頃に美浦の野坂祐太郎厩舎に預託。それからは調教の日々だという。
今は八月の終盤なのだが、野坂先生から「予想以上に仕上がりが早いので、八月終盤の新馬戦に出します」と連絡があった時は慌てて予定を空けた。
その甲斐もあって、念願である愛馬のデビュー戦に赴くことができたのだ。
鞍上を務めてくれる騎手も調教師の野坂先生に任せている。まだまだ新米馬主である俺が下手に口出しをするのは得策ではないと見た。
「岡田さんか。上手そうな方がよく乗ってくれたな」
岡田秀雄。美浦に所属する騎手で、『天才』福原洋太などと同期。騎乗の評判はそこそこであるらしいが、素人目からして上手そうな人だった。
そんな人が乗ってくれるだけでも、とても心強い。
さて、そろそろレースが始まるようだ。
俺の愛馬──シアトルスルーは七頭中二番。有利そうな枠を引けたようである。
だが人気は馬体で決められたようで三番人気。少し不満ではある。
当のシアトルスルーだったが、特に暴れることもなく、鞍上に岡田騎手を据えてゲート入りを完了させた。
そして──
──ガシャン!
『スタートしました。ややバラついたスタートか。先頭には二番シアトルスルーがスッと前に持ち出しました。そのままリードをニ馬身、三馬身、四馬身、なんと徐々に差を広げにいっております。場内にもどよめきが広がっております』
なんとスタート直後からかなり差を広げにかかった。六、七馬身くらいはあるのではないか。
胸の中が緊張で強張っていく。あれだけの大逃げをかませば、あとは沈んでいくだけなのでは……。
岡田騎手は何を考えているのだろうか。彼は先行抜け出しを得意とする騎手だが……。
だが岡田騎手の表情を眺めると、笑っているように見えた。
──まさか、と背筋が震えた。
『最終直線に入りました! 先頭はシアトルスルー! 先頭はシアトルスルー! リードはさらに広がって八、九馬身、十馬身。後方勢は追っているが全く差が縮まらない。これはいったいどういうことか!? シアトルスルー先頭で残り一〇〇m! これはもはや決まった! シアトルスルーの圧勝でございます! 見事ゴール板を一着で潜り抜けました、シアトルスルー! 鞍上岡田秀雄、やりました!
勝ったのは三番人気の二番シアトルスルー。三番人気の二番シアトルスルーが、十八馬身差の圧勝で決めました』
「なかなかのものでしょ? シアトルスルーは」
勝利後のウィナーズサークルにて。岡田騎手は満足そうに笑っていた。
「なかなかどころか、その……」
「ええ、あのカブラヤオーやテスコガビー以上ではないか? と言いたいのでしょう?」
岡田騎手は笑みを深め、言った。
「たぶんですが、世界一の馬かもしれませんよ、これは」
史実を調べてもらえたらわかると思いますが、シアトルスルーは本当に「凄い」としか言葉が出てこないレベルの名馬です。ぜひぜひ。