雲ひとつない青空の下、リン・サザナミはある場所を訪れていた。
サザナミ商会の所有する農場、その一画にある名もなき墓。墓標の下には、何も埋まっていない。なぜなら、本人はグフ・パサードのコクピット諸共、蒸発してしまったのだから。
ここは、リムド・リンクリッツの墓であった。
その墓の前には、一人の男が立っている。
「また、ここに来ていたんですね」
「……そう簡単に、拭いきれるものではないからね」
アラン・ダレン。
ホワイト・クリフスにおける戦いの後、アランとジャンは数日のあいだ連邦軍に拘留されたものの、サザナミ商会の手回しによって解放されていた。
温かな陽光と青空に相応しい、平穏な日常がまた訪れる。
しかし、アランの心には未だ暗い雲がかかっていた。
「トリントンの方を攻撃したジオン残党軍も、ほぼ壊滅。向こうはモビルアーマーや、ガンダムまで出現したという話もある。……そのガンダムが、こちらにもあればな」
ぼそり、とアランが呟く。
ガンダム。
リンはいまアランの口から出たその言葉が、彼の中で呪いのようなものなりつつあることを理解した。
まるで、ジオンという言葉と同じように。
「もし、ガンダムがあったら……。貴方がガンダムに乗っていたら、どうするつもりだったんですか?」
問いかけるリン。
アランは光の陰った瞳で、リムドの墓標を見ている。
「リムドを守るために、もっと何かができたかもしれない。少なくとも、もっと早くリムドの機体を無力化できていた。いや、連邦軍の機体だって止められただろう。ジャンをあそこまで危険に晒すことも────」
スッと立ち上がるアラン。
彼は自らの拳を握りしめながら、青空を見る。
「俺に力が、ガンダムがあれば……!」
アランの空を見る目に、リンは戦場の残滓を感じた。
それはホワイト・クリフスという戦場の残滓。
荒涼とした砂漠の乾いた熱、モビルスーツがぶつかり合う重たい金属音、そして人の憎悪や怒りが入り混じった声。
戦場という場所に魂を引っ張られている。ガンダムという力に、心を引っ張られている。
リンはそう感じ取り、立ち上がったアランの肩をグッと強引に引っ張り、彼女の方を振り向かせると。
パチンッ。
アランの頬を叩いた。
目を丸くして、リンを見るアラン。
それに対してリンは、曇りのない瞳でアランをまっすぐに見つめる。
「アラン。それは呪いです。
「だが、俺に力があれば救えたはずの命だ。その力がガンダムだと言うのなら、俺は……」
「力を、ガンダムを手に入れて、それからどうするのです? 世界中の人を、貴方ひとりで救えるとでも?」
かつてないほどに力強い、リンの言葉。
「貴方は戦った。けれど、リムドは死んでしまった。……それでも、貴方が戦ったことで何も変わらなかったわけじゃない。何も残らなかったわけじゃない」
リンの瞳に宿る、眩しいほどの光。青空の中で輝く太陽と同じくらい、晴れやかな瞳。
かつて、月面のターミナルでアランが初めてリンと邂逅したときのように、アランは彼女の言葉に聞き入っていた。
「戦ったから変わったもの、抗ったから守れたものも、必ずある。だけど、わたしにも貴方にも、限界はあるんです」
リンはゆっくりと自身の両手を伸ばし、アランの右手を握る。
「それでも……。それでも、誰かを救いたいという願い、何かを守りたいという思いの価値が、なくなるなんてことはないんです。己の限界の中で、必死に手を伸ばし続けるから、人間はいまもこうしているんです」
リンのその言葉が、アランの瞳を晴れさせた。
彼の目にあった戦場の残滓が、少しずつ消えていく。
「……まったくこの歳になってもまだ、迷いっぱなしだ」
「ふふっ。そういう貴方だから、リムドさんも惹かれたんだと思いますよ」
「────ちょっと。アタシの父親の墓の前で、
そんな二人の間にわざと割って入るように、不機嫌そうに唇をへの字に曲げたシャーラ・リンクリッツが現れた。
「ごめんなさい。だけどわたしたち、仲良し夫婦ですから」
「……前々から思ってたけど、アンタ結構いい性格してるわ」
リンを僅かに睨んだあと、シャーラはリムドの墓に花を手向ける。そして、名前の刻まれていない墓標を前で目を瞑り、リムド・リンクリッツという男を改めて弔った。
彼女はいま、心の中でリムドが死んだという事実を受け入れたのだ。
「シャーラ、これから君は……。いや、それよりも先にすまない……」
そんなシャーラに、アランは恐る恐る声をかける。
「アンタが負い目を感じたりすんの、意味分かんないから」
アランの謝罪を遮るように、はっきりと言ってのけるシャーラ。
「父さんは最高の戦士だった。あのときは分からなかったけど、落ち着いた今なら分かる。あれが父さんにとって、一番望ましい方法だった。戦士として、最後に守りたいものを守ろうとした父さんの打てる、最良の一手だった」
シャーラは決して、強がりで言っているわけではない。それをアランは彼女の目と顔から理解できた。
迷いを振り切った目と、悲しみや苦しみを乗り越えた顔つき。子供のあどけなさを卒業し、一人の人間として立ち上がろうとしている覚悟。
一人前の、戦士の眼差し。
アランは思う。
この子は、本当に強い子だと。
そして、リムド・リンクリッツという男の育て方は、間違っていなかったのだと。
「ありがとう。君にそう言ってもらえるなら、救われる」
「で、言いたいことはそれだけ?」
「こちらの考えを見抜いてくるのも、
軽い笑みを浮かべて、アランは自らの上着の裏ポケットから、一枚の折りたたまれた紙を取り出した。
それは、一人の少女の後ろ姿が描かれている版画だった。
決して、手放しに褒められるほど出来のいいものではない。精緻に作り込もうとしたその意気込みは感じられるが、如何せん技術がそれに追いついていなかった。紙の質も、決していいものではない。
しかし、シャーラはそれを誰が、どういう意図で作ったのかをひと目見ただけで理解できた。
「……父さんの、版画だ」
この版画で描かれているのは、幼き日のシャーラなのだ。
彼女がまだ、名もなき戦災孤児であった頃、リムドの乗るグフ・パサードを見上げていたときの背中。
アランが初めてリムドと出会ったとき、彼が懸命に彫っていた版画はこれだった。
「もぬけの殻になったリムドたちの拠点にあったものだ。リムドが最後に座っていた机の上に、この道具箱と一緒に。君に渡すのが筋だと思ってね」
アランは小さな道具箱も取り出して、同じようにシャーラへと渡す。
────力にしか依ることのできない人間になるな。
「あるじゃん。父さんが、やりたかったこと……」
こぼれそうになる涙をどうにかせき止めようと、シャーラは瞬きをする。
「……父さん、モビルスーツの操縦は上手なのに、こういう手先だけは不器用だった。けど、亡くなった奥さんが自分に残してくれた、与えてくれたものだからって」
シャーラの声は震えていた。
僅かに残った最後の少女らしさと、彼女はいま向き合っている。
しばらくその版画を見ていたシャーラは、やがてゆっくりとそれを閉じて、自身のズボンのポケットへと仕舞う。
それが彼女にとっての、子供との決別であった。
「────アタシも。父さんが残してくれたものを、与えてくれたものを、無駄にしたくない」
再び戦士の顔になったシャーラは、アランの目をまっすぐに見据える。
「だから、それを受け継いでいくだけの力が欲しい。
小さな戦士。
一年戦争時に学徒兵だったジャンも、こんな顔をしていたとアランは思い返す。
「父さんと対等に渡り合ったアンタに、それを教えてほしい。アタシを、本物の戦士にしてほしい」
本来なら、早すぎる
まだ十代になったばかりの少女が口にするには、あまりに過酷な道。このまま何事もなかったかのように学校へと通い、同い年の子供たちと共に青春を過ごすこともできるはずだ。
だが、それこそが彼女の、シャーラ・リンクリッツという人間の選択。
様々な人間の生き死にと、人生を目の当たりにした彼女が選んだ道。
「……リムド。お前は、しっかりとこの世界に
それならば、仕方がない。
アランはシャーラに手を伸ばす。
「俺で良ければ、教えよう。戦う術、そして生き残る術を」
グッと、アランとシャーラが握手を交わした。
この日の空は、ずっと晴れていた。
まるで、シャーラ・リンクリッツという少女の新たなる人生を祝福するように。