助けた老婆と共に、噴水を囲む形で作られた広場の隅にあるベンチに座る、シャーラ・サザナミとエインズ・マーレイ。
十代の二人からすると、老婆は自分の何倍も年上の存在であることは疑いようがない。
しかし、物怖じしないシャーラはともかく、引っ込み思案のエインズも気兼ねすることなく話せるのは、老婆の優しげな笑顔と柔らかな物腰に依るところが大きかった。
スペースコロニーの隔壁から差し込む太陽光が三人を照らし、コロニー内部で作り出された風が彼女らの髪や頬を撫でる。
例え作られた、人工の安らぎであったとしても、それらがこの冷たい宇宙空間に温かく平和な空間を生み出していることに変わりはなかった。
「お婆さんは、このコロニーの出身なんですか?」
ひと通りの自己紹介を済ませたのち、エインズが話題を振る。
「とんでもない。ここはジオンが共和国になった後から作られたコロニーだよ。生まれはズムシティの方なんだけど、娘が事業に成功してね。ずっと暮らすなら、長閑なここの方がいいって」
紙袋からはオレンジを、手提げバッグから果物ナイフを取り出し、慣れた手つきでオレンジの皮を剥く老婆。
シュルシュルという心地よい皮剥きの音と、老婆の穏やかな話し声がシャーラとエインズの心を落ち着かせる。
「どうせなら、地球の方が良かったんじゃない?」
あまりにも遠慮のない、シャーラの質問。
彼女に悪意はないと分かっていても、エインズはそんな彼女の質問にぎょっと目を見開くが、老婆はまったく気にすることなくオレンジの皮を綺麗に剥く。
「まぁ、地球ならもっと安心はできたかもねぇ。隔壁の向こうには宇宙が広がっていて、おまけにここはサイド3。一年戦争の前からずっと、
老婆は剥き終わったオレンジの果肉に軽くナイフを入れ、食べやすい一口サイズに果肉をカットする。
「ほら、食べてみるかい?」
そして、その切り分けたオレンジの果肉を、自身の隣に座るシャーラへと差し出した。
爽やかな柑橘系の匂いが、シャーラの食欲をそそる。
「……ありがとう」
礼を言って、それを口に入れるシャーラ。
オレンジの酸味と甘味の絶妙なバランスが、彼女の味覚を喜ばせた。なにより、先ほどシャーラが露店で食べたものより格段に瑞々しい。まるで木に生っていたものを採ったかのようである。
「おいしい。すっごく、おいしい」
「よかった。コロニーで育った果物も、結構おいしいだろう? 私の友達が作っているものなんだけど、これを食べるのが毎日の楽しみのひとつなんだよ。一年戦争が起こる前からずっと改良を重ねてきたオレンジだって、よく自慢されるのさ」
嬉しそうに笑う老婆。
彼女はそれから残りのオレンジを器用に切り分け、それをシャーラとエインズに同じ数だけ配る。
二人はお礼を言って、それぞれに配られたオレンジを食べ始める。
その様子を楽しそうに眺めながら、老婆は再び話し始めた。
「────私も、はじめて親からコロニーのことを聞いたときは怖かったよ。朝、目覚めたら隔壁が壊れて宇宙に放り出されているかもしれないとか。何かの拍子でコロニーの気候がおかしくなって、干からびるかもしれないとか……。考えたもんさ」
冗談を言うように、呵々と笑う老婆。
しかし、シャーラもエインズもそれを笑っていいのか分からず、苦笑いを浮かべていた。
「……けどね」
そう区切って、老婆はシャーラとエインズに優しく微笑みかける。
「結局は、お二人と同じだよ。ここには私の大事な人がいて、通い慣れた道やお店があって、好きな風景がある。
微笑む老婆の顔は、とても幸せそうだと二人は感じた。
「人間、どこで生きるかよりも。──どう生きるか、そして誰の隣で生きるかの方が大事だよ。人間の人生を豊かにするのも、貧しくするのも、つまるところは
その顔に刻まれた皴と同じか、それ以上に様々なことを経験したであろう老婆の言葉。
彼女の言葉には様々な感情が見え隠れしていたが、最後にシャーラとエインズが感じ取ったのは、ありがとうという感謝の念であった。
「分かります、すごく……」
エインズも、その老婆の言葉に深く頷いて笑う。
一方、シャーラは頷くこともなく、ただ黙って目を伏せていた。
シャーラ・サザナミは考える。
自分の居場所はどこか。誰が隣にいてほしいか。
そんなことを思っても、彼女のこれまでの人生はそれらが無くなってばかりだった。
シャーラの実の両親も、親代わりに彼女を育ててくれたリムド・リンクリッツも、戦いの中で死んだ。
そして、彼女はもう何も失いたくないから、何かが目の前で失われてほしくないから、強くなろうと決めたのである。
しかし、いまの自分にはその何かが、守るべきものはまだあるのだろうか、とシャーラは疑問に思った。
彼女を育てたリムドやアランたちはみな、口を揃えて彼女に言っている。
────戦いしか知らない人間になるな。力しか、拠り所のない人間になるな。
いまのシャーラ・サザナミに戦うこと、力を求めること以外の何があるか。
そんなことを考え始めると、彼女はとても辛く、悲しい気持ちになってきた。
アランたちにはよくしてもらった。自分をここまで育て、名門校に入学させてもらった恩もある。だが、あそこは自分で見つけた、自らの意思で決めた居場所ではない。
ならば、彼女が自らで見つけた自らの居場所とは、隣にいたい人とは何なのか。そもそも、
考えれば考えるほどシャーラの眉間に皴が寄り、表情は険しくなる。
「難しく考えることはないんだよ、お嬢さん」
そんなシャーラに、老婆が微笑みかけた。
「自分がいて、楽しい場所。自分が思いっきり笑えて、思いっきり泣ける人。そういうので良いんだよ。お嬢さんなら、この男の子がそうなんじゃないかい?」
老婆の言葉に、エインズが頬を赤らめて顔を伏せる。おそらく、シャーラはまたエインズを叩いたり、茶化したりしてうやむやに終わるだろうと彼は思う。
それでも、シャーラという一人の女性の前でそういうことを言われるのが、エインズにとってどうしようもなく照れくさかった。
「……アタシの居場所、こいつが?」
しかし、今回のシャーラが違った。
まじまじとエインズの横顔を眺めて、低く唸りながら考えている。
真剣な表情で、エインズを見つめるシャーラ。
そのことが嬉しくて、彼はまだ顔を伏せながらも視線はちらちらと彼女の方を見ていた。
シャーラの視線がまるで熱線のように、エインズの白い頬を赤く染めていく。それと同時に、彼の中でひとつの淡い期待が湧き起こる。
エインズ・マーレイにとって、既にシャーラ・サザナミが特別な存在であるように。
もしかしたら、シャーラ・サザナミにとっても、エインズ・マーレイは────。
「…………まぁ、食べ物はくれるし」
「僕の価値って、食べ物だけなの⁉」
思わぬシャーラの言葉に、エインズは座っていたベンチからずり落ちてしまう。
「まぁ、今のところは……」
「あまりにも人道に反する回答じゃないかな!」
あんまりにもあんまりなシャーラの言葉に、彼らしからぬほどの勢いで突っ込むエインズ。
そんな若く青い二人を見て、老婆は静かに笑っていた。
「……大丈夫。二人とも、しっかりとした眩しい目をしてる。きっと、大事なものは見つけられるよ」
老婆は小声でそう呟きながら、前途ある二人の少年少女の未来に幸多かれと祈る。
シャーラたちには敢えて話さなかったが、この老婆はかつて一年戦争で息子を失い、悲しみに暮れる中で娘の助言に従ってこのブリュタールに引っ越してきたのだ。
この穏やかなコロニーで過ごすうち、彼女の心の傷はゆっくりと癒えていった。
しかし、シャーラとエインズを見たときに老婆の脳裏に在りし日の記憶、まだ生きていた息子が娘と楽しそうに話す姿をふと思い出してしまったのだ。
だからこそ、老婆は心の中で祈った。
未来を生きることができなかった息子の分も、この子たちの未来に幸福が訪れますように、と。
これ以上若い二人の邪魔をするわけにもいかないと、老婆は自らの左手首に着けた腕時計に目をやり、わざと驚いたような仕草をする。
「あれまぁ、もうこんな時間。悪いけど、そろそろ家に戻って洗濯ものを取り込まなきゃいけないんだ」
「わ、わかりました。オレンジ、美味しかったです!」
ゆっくりと立つ老婆を見て、エインズも慌ててベンチから立ち上がり、深々と頭を下げた。
シャーラも少し照れくさそうにしつつ、立って頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとね。彼女さんと仲良くしなきゃ駄目よ」
老婆が揶揄うと、エインズはまたも耳の先まで真っ赤になりながら慌てふためく。
一方のシャーラは、微妙に口角を上げた何とも言えない表情をして、そんなエインズの様子を鼻で笑っていた。
「……ありがとね、二人とも。今日は本当に、楽しかったよ」
そう言って、老婆は手を振りながらシャーラたちと別れた。
「人生を豊かにするのも貧しくするのも同じ人間、か……。すごく、大事なことな気がする」
「まぁ、そうかもね」
腕を組んで遠くに消えていく老婆を見送ったシャーラと、そんな彼女を横目で見るエインズ。
自分の居場所。自分の隣にいてほしい人。
エインズ・マーレイにとって、シャーラ・サザナミはまさにそういう女性であった。
彼らが出会ってまだ一日も経っていないというのに、エインズはシャーラの隣がとても楽しく、落ち着く場所になっていた。
人と人との相性、人が人を好きになることに時間は関係ないのだ。
エインズは、シャーラの横顔をしばらく見ていた。
その心に宿る強い意志が灯火のように煌めく瞳と、十代の少女には似つかわしくないほど鋭い目。
蠱惑的な褐色の肌と艶やかな黒い髪が、コロニーの内部に吹く人工の風が撫でる。
耳から顎先にかけてのラインはとても細い印象を見るものに与え、可愛いというよりは美しいという感想の方が相応しい。
「……なに、アタシの顔になんかついてんの?」
エインズから熱い視線を送られていることに気づいたシャーラが、怪訝な顔をしながらようやく彼の方を向く。
シャーラを見ることに夢中だったエインズは、いきなり彼女から話しかけられたことで盛大に慌てた。
「えっ、いや、あの……、ごめんなさい!」
「謝られる意味が分かんないんだけど……」
気まずい沈黙が、二人の間に流れる。
しかし、先ほどの老婆との会話でシャーラも思うところがあったのか、わざとらしく咳払いをして、話を切り出した。
「じゃあ、あのお婆ちゃんも帰ったし、アタシらも別のところに行く? ……例えば、アンタがどうしても行きたいって言ってた、コノシア湖の
エインズの思考が、一時停止した。
聞き間違いではないか、と彼はまず我が耳を疑い。
次に彼は、己の都合がいいように認知を歪めているのではないかと、自らの脳を疑った。
しかし、何度エインズが心の中で反芻しても、いまのシャーラの言葉はコノシア湖の宇宙開拓記念館に行こう、という提案にしか聞こえない。
じわり、と目の端に涙を浮かべながら、わなわなと肩を震わせるエインズ。
「ちょっと、なに泣いてんのよ!」
「ご、ごめん。まさか、シャーラさんが僕の希望を受け入れてくれるなんて、思ってもみなかったから……」
「は?」
エインズの性格から他意はないだろうということをシャーラは理解しつつも、それはそれとして腹は立った彼女はエインズの頬を両手の指で掴み、
この行為には、半分ほど照れかくしの意図が含まれていることを知っているのは、シャーラ本人だけである。
「なによ、悪い?」
「ひぇ……、ひぇんひぇん。ありがとうございましゅ……」
かくして、シャーラとエインズの二人はコロニー公社の運営するバスに乗り、コノシア湖へと向かう。エインズが希望した宇宙開拓記念館は、この湖の周囲に広がる人工林の中に存在する場所であった。
座席の座り心地の悪さを愚痴るシャーラと、にへらと腑抜けた顔を隠すこともせず喜ぶエインズ。
かくして運命は巧妙に、そして無慈悲に二人を導く。
幾人もの少年たちがそれぞれの思いや信念を胸に抱き、過酷な運命と戦うために乗り込んだ
宇宙世紀0100年。
地球から最も離れたサイド3のコロニーで、次代の流れを決める戦いが始まろうとしていた。