コノシア湖。
地球圏に数多く存在する大小のコロニーの中で、最大の人造湖である。
観光用コロニーとしてジオン公国解体後に建造されたブリュタールにおける目玉のひとつとして造られたこの湖は、地球圏からの観光客で大いに賑わっていた。
湖に浮かべられた小型クルーザーやボートで、自然豊かな風景を楽しむカップルや家族連れ。赤い彗星の異名で知られる伝説的なモビルスーツパイロット、シャア・アズナブルも訪れたという湖の撮影ポイントで、ツーショット写真を撮影する恋人たちもいる。
しかし、シャーラ・サザナミとエインズ・マーレイはそんなものに興味を示すことなく、コノシア湖の周囲に広がる人工林、コノシア湖自然公園を宇宙開拓記念館に向けて歩き続けていた。
「……アタシ、帰ってもいい?」
「は、早いよ! まだ歩き始めて五分も経ってないって!」
ふてくされた顔でエインズの後ろを歩くシャーラ。
「
「
「なにが自然よ。こんなもの、街中にある公園と大して変わらないじゃない」
裕福な家庭で育ったエインズはともかく、ジャングルや山岳地帯などでゲリラ戦を行うジオン残党軍の中で育てられたシャーラにとって、コロニーの人工林など規模がどれだけ大きかろうと公園の芝生や植木と変わりはしなかった。
歩きやすいように舗装された道と、ほぼ平坦と言っても過言ではないほど起伏に乏しい地面。
綺麗に枝葉が剪定された広葉樹や、歩道にはみ出さぬように刈り取られた雑草。
地球のカオス極まりない自然と比べて、この湖や人工林はあまりに整然としすぎているのだ。
「顔の前を飛び交う、うっとおしい羽虫もない。倒木のせいで道が進めないこともないし、いつの間にかヒルに血を吸われたり、泥や獣の糞が服を汚すことだってない。本物の自然っていうのはね、うんざりするほど強くて
「や、やけに生々しい言葉……。シャーラさん、アウトドアの趣味とかあるの?」
「……まぁ、そんなとこね」
小銃を手に緑の地獄という表現が相応しい密林を昼夜問わず駆けずり回ったり、連邦軍の追跡から身を隠すために山岳地帯の薄暗い洞窟で息を潜めるのがアウトドアというのなら。
そう言いたくなる気持ちをぐっと堪えて、適当に相槌で留めるシャーラ。
なんと退屈で気の抜けた自然もあったものだと、彼女は人間の
木々の陰や地面に落ちている枝葉の中で、わずかに光るものをシャーラは見つける。
彼女は瞬時に理解した。あの光るものの正体は、
何者かが、自分たちを監視している。つい先ほどまで気の抜けた欠伸をしていたシャーラの顔には、鋭い殺気と獣のような警戒心が満ちていた。
「もうすぐ記念館だよ、シャーラさん。コロニーの建造に使われたモビルワーカーとか、宇宙世紀のコロニー開発史に関わる貴重な史料がたくさん展示されていて────」
当然ながら、一般人のエインズはまったく気づいていない。
監視者に不審がられぬよう、シャーラも素知らぬふりをしてエインズの長い
「……数は、見つけられたのが三人。もしかしたら、もっといるかも。今すぐこっちを攻撃する気配はなし」
独り言をエインズに聞こえぬよう呟きつつ、シャーラは脳内で現状を整理していった。
記念館に向けて歩道を歩くシャーラたちを両側から挟み込むようにして、監視者たちは人工林の中に展開している。
彼女たちと監視者との距離は二十メートルほどで、気配の消し方や人員の配置の仕方からシャーラは素人ではないと推測した。
「互いに互いの射線を意識してる。参ったな、こっちは手ぶらだってのに」
学校行事だからと油断した自分の甘さに苛立ちつつ、シャーラは自らの前を呑気に歩くエインズをどう守ろうかと思案する。
幸いなことに、この圧倒的に有利な状況であるにも関わらず、監視者たちから何か行動を起こそうという気配はなかった。もしシャーラたちを拘束、或いは殺害することが目的なら、既に
自分たちが単なる一般人かどうかを見極めているのか。
その考えに至ったシャーラは、彼女が思いついた最善手を打つべく、歩く速度を少し早めてエインズの隣につく。
そして、彼に向けてこう言った。
「アンタ、アタシに対して
「…………え?」
あまりに突然、かつ意味不明なシャーラの言葉に、ぽかんと口を開けて目を丸くするエインズ。
普段、他人を寄せつけないぶっきらぼうな態度のシャーラ・サザナミから突然こんなことを言われれば、当然の反応と言える。
「時間がない、早く」
しかし、睨むだけで気の弱い小動物なら殺せるほどの眼光をシャーラから向けられたエインズは、まったく状況を飲み込めていない思考を放棄。
なんとでもなれと言わんばかりの勢いで、彼はシャーラに抱きついた。
シャーラよりも身長の低いエインズが彼女に飛び込んだ結果、彼の頭はシャーラの同年代に比べて成長した柔らかな胸にヒット。
バチン!
木々で鳴いていた小鳥が驚いて飛び立つほどの音を立てて、シャーラのビンタもヒット。
彼の左頬は紅葉のように赤く腫れた。
傍目から見れば、誰もいないのを良いことにイチャつく馬鹿な学生カップルである。
監視者たちもそう思ったのか、シャーラたちの周りから人の気配がスッと消えた。
まるで浜辺に打ち寄せる波が引いていくように鮮やかな退却。相応の練度がなければ不可能だろうとシャーラは考え、そんな連中をやり過ごせたことに彼女は胸を撫でおろす。
「ぼ、ぼく、なにかわるいことした……?」
ぽろぽろと大粒の涙を目から零し、プルプルと震えるエインズ・マーレイが犠牲にはなっているが。
あまりにも気の毒なその様子にシャーラは罪悪感を覚えつつ、彼女はエインズに対して先ほどまでの剣呑な状況を説明した。
「……ごめん。実は────」
「え、えぇっ! そんな映画みたいな状況になっていたなんて……」
「アタシにも理由は分からない。けど、間違いなくストーカーとかチンピラの類じゃない。訓練された兵士か、それに近いヤツだと思う」
いまさら周りをきょろきょろと見るエインズだが、当然ながら監視者たちは既にいない。
「で、ソイツらの目を誤魔化すために、イチャつくカップルのフリをする必要があったってワケ。分かった?」
「う、うん。ビンタは普通に痛かったけど、そういうことなら納得したよ。……ちょっとだけ、役得もあったし」
「……今回
危機を前にして、シャーラの表情が学生から戦士のものへと変わっていた。
先ほどまで、記念館へ行くことに愚痴を言い、退屈そうに欠伸をしていた十代の少女はもうそこにはいない。いまエインズの前にいるのは、据わった目で周囲を注意深く警戒し、その顔から感情を消した一人の若き戦士であった。
「え……、引き返さないの?」
そんなシャーラの様子に、エインズは少し戸惑いながらも彼女に質問する。
「今ここで引き返したら、さっき監視していたヤツらに不審がられる。それに、記念館に向かっていたアタシたちを連中は咎めなかった。それなら、少なくとも記念館には近寄れるってことよ」
「な、なるほど」
「どのみち、いまのアタシたちに選択肢はない。アンタも、それなりに覚悟はしといて」
エインズにそう言って、シャーラは記念館へと歩を進める。彼もまた、恐怖と困惑をどうにか飲み込んで彼女に追従した。