魔人ちゃんはがんばらない【完結】   作:難民180301

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2. 急接近

「たゆぅー、抱いてー」

「ダメです!」

「どうせ誰も見てないってばー」

「見てなくっても私が気にするんです。恋人でもないのにそういうことするのは良くないことです」

「アホなのに真面目だよねぇ、たゆ。そういうところ結構好きだよ」

「んもーっ! からかわないでください!」

 

 たゆはぷんすこ怒って、一人でお風呂に行ってしまった。

 

 レッドグラッジ襲来から数日後の夜、危機を乗り越えた私とたゆの距離は縮まるどころか広がった。原因は告白とちゅーである。

 

 大好きです、と言ってはにかむたゆは確かにきれいだった。本当にかわいいやつだと思った。でもそれがいわゆる愛の告白なんじゃねと思い至るのには若干遅れて、あの日のお昼にはたと気づいた。

 

『あれっ、私もしかして告られた?』

 

 どんがらがっしゃん、とたゆは洗濯かごをぶちまけてすっ転んだ。今更蒸し返されるとは思わなかったみたい。真っ赤な顔を両手で覆って赤べこよろしく首を振っていた。

 

 女同士とか、魔法少女と魔人で天敵同士だとかは一旦脇に置いて、私はこう返答した。

 

『悪いけど私怠惰の魔人だから、そういうの分かんないんだ……保留させて』

 

 結論の先延ばし。だってほんとに好いた惚れたとか分からないもん。食べて寝て起きるだけの生活で満足できちゃうんだもん。恋愛は専門外。

 

 たゆは真剣な顔つきで保留を受け入れてくれた。その代わり始まったのがスキンシップの自重だ。一緒にお風呂に入ったり寝たり、対面で抱き合ったりするのが禁止された。許されるのは手をつなぐことと膝枕くらい。辛い。抱いたり抱かれたりする気持ちよさを教えてくれたのはたゆなのに、理不尽だ。

 

 そう思って不意打ちで抱きついてみたら、かなり深刻な反応をされた。

 

『お願いだから……我慢ができなくなるから……お姉さんを傷つけたくないんです』

 

 両手をわなわな震わせて心底悔しそうにするので、私も引き下がるしかなかった。私も困らせたいわけじゃない。

 

 とはいえ人肌の温もりはやっぱり恋しくて、最近は欲求不満だ。あの柔らかで温かい体に包まれたい。しなやかな腕に抱かれて耳元で囁いてほしい。その快感をなまじ知っているから、余計悶々とする。

 

 たゆの姿を無意識に目が追いかける。ショートボブの下にちらちら覗くうなじとか、ブレザー制服の上からでも分かる立派な胸とかお尻とか。昨日は晩ごはんを食べてるとき、瑞々しい唇と赤い舌に目が惹かれた。

 

「お風呂あがりましたー」

 

 今もそうだ。パジャマ姿の火照ったたゆに目が吸い寄せられる。

 

「お姉さん?」

 

 艶々した黒髪に天使の輪が浮かび、薄手の生地の下に驚くほど美しい体の起伏が見える。思わず視線を下にやると、桜色のきれいな爪の揃った素足が見え、呼吸さえ忘れて見入ってしまう。

 

「な、何か変ですか?」

 

 たゆは不安げに体の各所をチェックし始めた。そこでようやく私も我に返る。とたん、顔が耳の先まで熱くなった。

 

 めっちゃ意識しちゃってる。たゆが告白してきた意味を、理屈じゃなくて感情とか本能の部分が理解してきてるみたい。たゆをそういう相手として認識するフィルターが出来てる感じがする。

 

 我ながらウブというか純情というか。思えば魔人として生まれて二年と少ししか経っていないから、色恋に疎いのは当然か。

 

「うおーっ!」

 

 あたふたするたゆの隣を駆け抜け、私はお風呂に逃げ込んだ。

 

 どうもこの日に至った自覚は相当厄介だったみたいで、私はたゆとまともに目を合わせられなくなった。手をつなぐのも膝枕も恥ずかしくて出来やしない。前に裸で抱き合っていたのを思い出すだけで顔が熱くなる。

 

 これだけでも厄介なのに、私はもう一つ別の感情を覚えてしまった。

 

「それでですね、もうすっかり仲良しになれたんですよ」

 

 自覚から数日後、たゆは晩ごはんの席で楽しそうに語った。

 

 話題は学校の友だちだ。クラスのぼっちに声をかけ、あっち行けと拒絶されつつも「美少女だから大丈夫」とゴリ押しで仲良くなったまでは以前にも聞いていた。

 

「あっち行け、って言いながら私の袖をぎゅっと掴んで。あっちに行けないよって聞いたら、涙目で睨んでくるんです。かわいいでしょー」

「ふんっ」

 

 何がかわいいでしょ、だ。知らんわ。

 

「声をかけるたびあっち行けって言われるんですけど、本当に引き下がるとすっごくアタフタするんです」

「知らない」

「あの口癖直したらきっと友だちたくさんなのに、もったいないですよねー」

「けっ」

「……お姉さん? もしかして怒ってます?」

「ぜんぜんですよ由立さん」

「距離感のある呼び方ぁ! えっ、何かしました私!?」

 

 たゆが困惑してるけど、私も同じだ。途方もないイライラとモヤモヤが心を覆っている。たゆが他の女の話を始めるとなぜかこうなってしまう。

 

 険のある言葉が勝手に口をつく。

 

「友だちと仲良くなれて良かったね。そいつと一生イチャついてりゃいいんじゃない?」

「……あっ」

 

 何かに気づいたように声をあげるたゆ。なんだよ、今更私のイライラに気づいても遅いぞ。

 

 だけどたゆが素早く食卓を回り込んで私の手を包み込むように握ると、ささくれだった気持ちが全部吹っ飛んだ。

 

「私の一番はお姉さんですから」

 

 タレ目がちな瞳にまじりっけのない意思を燃やして、まっすぐにそう言ってくれる。口の横についたご飯粒がちょっと間抜けだ。でもあの日の朝日に照らされた横顔を思わせるまっすぐな迫力にすっかり気圧されてしまって、

 

「あ、う、そ、そう」

 

 どうにかそう答えるのが精一杯だった。その後のごはんの味はあまり覚えてない。例の「あっち行け」ちゃんにヤキモチを妬いていたんだと気づいたのはその日ベッドに入ってからのことで、あまりに恥ずかしくて一睡もできなかった。

 

 私は含羞と嫉妬を知った。たゆをそういう相手として意識している。だけどこの感情は果たして、たゆの『大好き』に応えるのにふさわしいソレなのか? 

 

 私は怠惰の魔人だ。食べて寝て何もせず頑張らないために生まれてきたから、たゆの告白を受け止める中身がない。空っぽだ。

 

 空っぽの私に一体どうしろっちゅーんだちくしょー。

 

 そんな調子だから最近は寝付きが悪い。お昼まで寝るつもりだったのに、たゆの動き出す物音を聞いて、なんと午前7時半に起床してしまった。朝寝坊を生きがいとする魔人としては異例の早起きだ。

 

 部屋を出ると、たゆはキッチンでお弁当の支度をしているところだった。私を見るなりあいさつも忘れて目を丸くしてる。

 

「お姉さんがこの時間に? 天変地異ですか!?」

「大げさな。こういう日もある」

「どうしましょう、お昼の分しか作ってないんですけど……」

「二度寝予定なんで問題ないよ」

 

 なんとなく、玄関まで付き添い見送った。

 

「いってらっしゃい」

「いってきます!」

 

 たゆは太陽みたいに眩しい笑顔になって、弾むような足取りで外へ出ていった。

 

 その声と笑顔が頭にこびりついて何度も反芻される。甘い声と蕩ける笑顔。あいつあんなにかわいかったっけ?

 

 二度寝しようとしても変に目が冴えて、仕方なく朝の情報番組をつけてみた。興味のない情報の波を小一時間も浴びていると、クリーチャーが出現する。

 

『みんなおはよー★ 魔族必殺のレッドグラッジだよ★』

 

「うわ出た」

 

 急にヤバイ女が出てきた。黒のレオタードに鮮烈な赤いフリルをあしらった装束。数日前に私を殺した魔法少女、レッドグラッジだ。

 

『今日は全国的に情念値が高くて、魔物が発生しやすくなってるよっ★ 危ないから不要不急の外出は控えるようにしてね★』

『レッドグラッジさん、ありがとうございましたー! いやぁ、あの晴れ晴れとした笑顔を見ると朝から元気が出ますね!』

 

 寒気しかしねえよ。

 

 どうも魔族情報の注意喚起役として呼ばれていたらしく、キャスターが引き継ぐとすぐにフェードアウトした。

 

『続いてニュースの時間です。近年増加傾向にある闇堕ちについて、闇狩りの長グリーングリームは強い懸念を──』

 

 電源を切った。

 

 朝から気分を害した。だけど毎日生放送のこの番組に出ているってことは、この楔野町にヤツはいない。何かの間違いで私を嗅ぎつけても即やってくることはないわけだ。

 

 そう考えると胸がすっとした。今ならうまいコーラが飲めそうだ。

 

「おや?」

 

 キッチンの冷蔵庫に向かうと、珍しい物が目に入る。食器乾燥機の横に、二段のちんまりしたお弁当箱があった。さっきたゆが用意してたやつだ。

 

 たゆが忘れ物とは珍しい。さては私の早起きによほど動揺したんだな。

 

 時間はもう9時を回っている。取りに戻ってくるのは間に合わない。ムチムチ巨乳のたゆが一食でも抜けば、おっぱいにすべてのカロリーを消費され餓死するのは確実だ。選択の余地はない。

 

「めんどくさ……」

 

 というわけで私はお弁当片手に、生まれて初めて朝から外出することになった。

 

 目的地は無論コンビニではなく、たゆの通う学校である。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「はぁーだっる」

 

 来るんじゃなかった。

 

 時刻は正午、商店街の大通りに面する細い路地。

 

 私はやる気をなくしていた。室外機に腰掛け、足をぶらぶらしてみる。渡し損ねたたゆのお弁当がやけに重たく感じる。ひたすらだるい。

 

 初めての遠出だけど道に迷うことはなかった。公園を通り抜け川の土手沿いに歩き、商店街を抜けて幹線道路を南下していくと、たゆの通う中学に難なく到着した。ケチがつき始めたのはそこからだった。

 

 正門のところに立ってた守衛さんに呼び止められて、

 

『お弁当を届けに来たぁ? はいはい、キミみたいなファンはこれで15人目だよ。やれ手紙だの化粧品だのお菓子だの、パステルエッジのファンがたくさんくる。まったくろくでもないね。どうせ君も薬やら体の一部やら混入させてるんだろ? くだらないことをしてないでちゃんと学校に通いなさい。そもそも食べ物を粗末にするのはいけないって親に習わなかったかい? これだから最近の子供は──』

 

 全力で腹パンしそうになったのを我慢したのはマジで偉かったと思う。その場で回れ右して猛ダッシュ、ふざけたお説教をぶっちぎって商店街まで舞い戻り、今に至る。

 

 たしかに私の見た目は上下スウェット姿の銀髪幼女だよ。たゆとの遺伝的つながりなんて欠片も見当たらないし一緒に暮らしてる事情を知らない人からすれば私は不審者だろう。たゆの魔法少女パステルエッジとしての有名を考えれば、説教されるのもしゃーない。

 

 とはいえ、だ。

 

「ちくしょー……」

 

 ムカつくもんはムカつく。

 

 最悪なことに、ポツポツ雨まで降ってきた。ふざけるな雨は私が屋内にいるときだけ降る決まりだろうがこれだから地球はダメなんだよバーカ。

 

 壁に拳をお見舞いしてやった。痛い。

 

 その痛みでちょっと冷静になり、反射的にこめかみのあたりを手で押さえた。よかった、角はちゃんと隠せている。

 

 魔人の印であるおぞましくねじくれた一対の角が、うっかり外でバレてしまえば大騒ぎになる。欺瞞の魔法は強くしてるしレッドグラッジも不在とはいえ、油断はできない。早く安心できる我が家へ帰ろう。たゆはまあ、一食抜いたくらいで死なないだろ、たぶん。

 

「大丈夫かね?」

 

 立ち上がろうとしたその時、声をかけられる。

 

 顔を上げると、人の良さそうな青年が心配げにこちらを見つめていた。やけに目を引く赤い腕章を付けている。

 

「ずいぶん落ち込んでいるようだ。お父さんとお母さんは?」

「平気っす。あと迷子じゃないんで。家が近いんで散歩っす」

「散歩?」

 

 青年が信じられないと言いたげに目を見開く。

 

「それなら早く帰った方がいい。朝にレッドグラッジが言っていただろう、今日は全国的に魔物が出やすい。魔が差す者も出るかもしれない。こんなところに居てはいけない」

 

 そういえばあのイカレ魔法少女がテレビで言っていた気がする。情念値とか外出を控えるとかどうのこうの。でもたゆにお弁当を届けに行くのは不要不急じゃないだろう。

 

 それにこの青年だってこうして外に居る。人のことは言えない。

 

 私のジト目に気づいたのか、青年は苦笑して二の腕の腕章をこちらに向けた。赤地に白抜きの文字を読み取った私は危うく悲鳴を上げそうになった。

 

「『魔族必殺機構』の者だ。今日のような危険日に見回りと注意喚起の役目を──」

「すぐ帰りますさよなら!」

 

 呆気に取られる青年を横目に私は室外機を飛び降り、そそくさその場を後にする。「忘れ物だよ」と後ろで聞こえるが知らない。命の方が大事だ。

 

 魔族必殺機構は文字通り魔族を必ず殺すための組織だ。この前殺されたのを機にちょっと調べた。頭目はやっぱりというべきか魔法少女レッドグラッジで、魔族被害の情報共有、公開、対策、被害者支援なんかもやってるらしい。

 

 やってることは割と健全だけど、トップがあのレッドグラッジな時点でもうダメだ、怖い。早く安心できるところに帰りたい。

 

 と、そんな思いが通じたのか、それともただの偶然か。

 

 路地から出るや否や、甲高い悲鳴が商店街のアーケードに響き渡った。

 

「きゃーっ!」「全員離れて!」「すぐに通報を」「魔法少女は、パステルエッジは何をしてる!?」

 

 大通りを平和に行き交っていた人々がパニックに陥り、我先に逃げ出そうとしてもつれあい、より恐慌の度がましていく。

 

 そんな阿鼻叫喚の中心にいるのが、黒くのたうつ怪物だ。人の胴体ほどもある黒く野太いミミズが、何百匹も絡まり合ったような威容。アーケードの天井に届きそうな巨体が大通りの中央に陣取り、周囲の人間にゆっくりと触手を伸ばそうとしている。

 

「おお」

 

 魔物だ。生で見るのは初めてだ。出やすい日とは聞いてたけど、こんな通り雨みたいなノリで簡単に出るもんなんだな。見た目グロっ。ただ、私が魔人だからかあんまり怖いとは思わない。

 

 私の隣を誰かが駆け抜ける。さっきの青年だ。なぜか魔物とパニックの人たちの方向へ向かっている。

 

「全員落ち着いて! 魔族必殺機構です! すでに魔法少女を呼んであります! みなさんは近くのお店に入って隠れてください!」

 

 よく通る声だった。青年が駆け回って声を張ると、パニックの人々が近くの店舗へわたわたと避難していく。魔物の触手は案外鈍くて、逃げる人の動きについていけない。

 

 でも、走り回って避難を促す青年は別だった。

 

「うぐっ」

 

 老婆を助け起こしていた青年の首に、魔物の触手が巻き付く。苦悶に顔を歪め、宙吊りになる青年。

 

 で、なぜかその現場へ全力で駆けつけている私。

 

「あーっ、もう! 損な性格だよ我ながらぁ! こら離せ苦しそうにしてるでしょーが!」

 

 どうせ乱暴するなら私の見てないところでやってほしかった。

 

 青年を捕まえる触手にぶら下がり、手で叩いたり引っ掻いたりしてみる。タコみたいにブヨブヨして気持ち悪い。

 

 同族だからか、言葉もないのに魔物の困惑が伝わってきた。「え、何このちっさいヤツ」みたいな気持ちが直接脳内に響く。

 

「うう……」

 

 まずい、青年の顔色がどんどん悪くなってる。目の前で人死になんて冗談じゃない。

 

「やめろってば、言うこと聞きなさいっ!」

 

 半ば無意識に、私は魔法を解いていた。

 

 おぞましくねじくれた一対の角を露わにする。瞬間、魔物はすべての触手の動きを止め、吊り上げていた青年を解放した。

 

 私も触手を放して下に降り、犬猫をなだめるノリで言った。

 

「よしよし。そのまま元いたところに帰りな」

 

 大通りを埋めていた黒い巨体が、繊維のほつれるように薄れ、虚空に消えていく。完全に姿が見えなくなると、商店街には痛いほどの沈黙が降りた。

 

 確信はなかったけどうまくいった。魔人は魔族の上位個体であるなら、魔物に指示もできるんじゃね、と思いついたのだ。殺意の魔人が魔物を使役してた、ってテレビでも言ってたし。残念ながら魔法少女の、たゆの出番を奪っちゃったな。

 

「つ、角……?」「魔人だ」「魔人が出た」「魔人」「魔人」

 

 注目を感じる。店内に逃げていた人たちが口々にそう言っている。

 

 魔人バレは仕方ない。いくら世間の魔人ヘイトが高いといっても、この状況で私が非難されることはないはず。怖い魔法少女が来る前に、何事もなかった体で素早く退散すれば誤魔化せるだろ。

 

 という考えが、どれほど甘く愚かだったことか。

 

 私は思い知らされることになった。

 

「死ね」

「え」

 

 後ろから角を掴まれ、強く引っ張られる。背中を打ち付けて呼吸ができない。力ずくで引き倒された。

 

 チカチカする視界の中に、憎悪に歪んだ男の顔が見える。二の腕には「魔族必殺」の腕章。

 

 それはついっさきまで決死の避難誘導に励んでいた、人のいい青年だった。

 

「魔人は死ね」

「がっ……!?」

 

 青年の靴底が私の胸を踏抜く。痛みと酸欠で涙がにじむ。そのまま何度も胸と腹を踏まれたり、蹴られたり。

 

 絶え間ない痛みの連続。それが止まったのは、青年が息を整える小休止のときだった。

 

 体のあちこちが軋んで動かない。どうにか目だけ動かすと、もう逃げられない状況っぽい。

 

 さっきまで魔物から逃げていた人々が、私と青年を取り囲んでいる。みんな一様に歪んだ顔つきで、憎悪の視線で私を射抜いている。

 

 人々は肩で息する青年を押しのけ、近づいてきた。

 

 それから足やバットを高く振り上げて──私の意識は暗転した。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「魔が差す、という言葉がある」

 

 痛い。

 

 全身の痛みに思い切り悲鳴をあげようとして、だけど掠れたうめき声にしかならない。首に何かが食い込んで息ができない。耳から入ってくる男の声が、頭の中にぐわんぐわんと響く。

 

「魔族の発する悪い情念に当てられて、理性を失う現象だな。たいていは恐ろしく攻撃的になる程度だが、場合によっては発狂死することもある」

 

 ちゃり、と金属音。鎖だ。手先の感覚がない。ちょっと肌寒くて、口に何か詰め込まれ、目隠しされている。

 

 裸で後ろ手に縛られた上、ぎりぎり爪先立ちになる程度に首を吊り上げられているみたいだ。死ぬ気で立ってないと首が絞まる。

 

 頭のモヤが取れ、全身の痛みが引いていく。残った痛みは鎖が首に食い込むものだけ。

 

「こうした魔族の脅威に我々は立ち向かわなければならない。人類の賢明なる理性をもって、戦わなければならない」

 

 痛い、辛い、しんどい。

 

 どうしてこうなった? ここはどこ? あれからどれくらい経った? 今、何が起こってる?

 

「さあ、戦いを始めよう」

 

 何か、体に入ってきた。おへその辺り。包丁? 痛い。痛い。

 

「すごい。もう傷がふさがった」

「魔族は物理攻撃に耐性がある。だからこそ魔法少女が必要なんだ」

「魔法の攻撃じゃないと、何をしても死なねえ。コアは傷一つ付かねえ」

「化け物」「気持ち悪い」

「だがこの魔人に反抗する力はない。私たちの怨みを受け止めるために生まれたのだろう」

 

 違う。

 

 私は何もしないために生まれたんだ。頑張り屋の人類が見て見ぬふりをして心の底に押し込めた、休みたい気持ち。それを体現するために生まれた。他の魔人だってみんなそれぞれの役割がある。

 

 ああそうか。だから魔が差すんだ。

 

 自分たちが見ないふりをした、あってはいけない気持ちと向き合ったとき。きっと人は冷静じゃいられないのだろう。

 

「さあ戦おう、そして怨みを晴らそう」

「ふ、ぅぐ……っ!」

 

 鋭い痛み、鈍い痛み。体の中に冷たい何かが入ってきて、ぐちゃぐちゃと中身をかき混ぜる。頑丈な棒みたいなものが、お腹や背中を強く打ち付けていく。

 

 反射的に体を折ろうとすると首が絞まる。身じろぎすらろくに出来ず、ただ痛みを受け入れるしかない中で、私は悟った。

 

 甘かった。

 

 魔族への当たりが強いとか、ヘイトが高いとかいう次元じゃない。テレビで感じていた魔族への反感は氷山の一角でしかなかった。私は外へ出るべきじゃなかったんだ。

 

「俺の妹は魔物に喰われて死んだ。生きたまま腹を割かれて少しずつ中身を引きずり出されてな」

 

 ぐちゃ、と音を立てて、つま先立ちをしていた足が踏み潰された。

 

 立っていられない。鎖が首に食い込み意識が遠のく。

 

「私の夫は殺意の魔人に狂わされた。あの人は今も施設から出られない」

 

 すぐに叩き起こされた。刃がお腹に入ってくる。カレーをかき混ぜるみたいに、中身をぐちゃぐちゃ混ぜ返される。

 

 怨みと痛みが交互にやってきて、頭がぼんやりしてきた。

 

 私ってなんだっけ? 何のために生まれてきた? そもそも私って生きてるのか、死んでるのか、どっちなんだろ?

 

 何も分からない。

 

 痛い。

 

 辛い。

 

 しんどい。

 

 助けて──たゆ。

 

「お姉さああああぁぁぁんっ!」

 

 意識が闇に溶けていく中、パステルカラーが輝いて。

 

 ぷっつりと、意識が途切れた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 魔物出現の報がたゆに届いたのは、魔物が確認されてから20秒後のことだった。警戒を強めていた魔族必殺機構による迅速な連絡だった。

 

 たゆは友人のお弁当からおかずをせびるのを中断し、即座に現場へ駆けつけた。

 

「魔族は死ね!」

 

 しかしそこに残っていたのは、血走った目で口々に呪詛を唱える民衆。彼らの顔は憎悪で一様に醜く歪み、歯ぎしりする口元からはヨダレが垂れていた。

 

 魔物の情念のために魔が差しているのだろう。しかし肝心の魔物はどこへ行ったのか?

 

 民衆の一人に話を聞いたたゆは、血の気が引いた。

 

「魔物は勝手に消えたよ。だけどその後、魔人が現れてね。みんなで袋叩きにして、必殺機構の人が連れて行ったよ」

「弱い魔人で良かったねえ、もし殺意なら私たちみんなお陀仏だったよ」

「わざわざ呼び出してごめんよ、パステルエッジさん。今日は学校だろ?」

 

 人々の口ぶりには、魔族の脅威に自分たちだけで対処した誇らしさが満ちていた。

 

 弱い魔人? 袋叩き? 不穏な単語に鼓動が早まっていく。浅い呼吸を繰り返して動揺を抑えるたゆ。

 

 落ち着け。あのぐうたらすることに人生を賭けているお姉さんが、昼間からこんなところに来るはずがない。遠出したとしても近所のコンビニか公園までだ。

 

 最悪の予想を否定していると、視界の隅に、見慣れたものが写った。

 

 ピンクと白のチェック柄の包み。中身は見なくても分かる。たゆが今日、うっかり忘れていった弁当箱だ。

 

「ああ、それかい? 魔人の持ち物みたいだけど──」

 

 たゆは言葉を失い、頭が真っ白になった。

 

 面倒くさがりなくせに、途轍もないお人好しでもあるあの人が、たゆの忘れ物に気がついたとする。それを届けにくる道中で魔物と遭遇し、何かの拍子に角を隠す魔法が解けて──

 

「どこですか」

「ん?」

「魔人はどこに連れてかれたんですかっ!?」

「そりゃ、機構の事務所じゃない? あの中学の近くの」

 

 たゆは全力で駆け出した。パステルカラーの一条の光線と化して町を駆け、目的地にまっすぐ向かう。

 

 魔族必殺機構楔野支部。幹線道路沿いに聳える近代的な建物はすぐに見えてきたが、その入り口は人垣で塞がれていた。

 

 集団はカメラやスマホをぎょろりとたゆに向け、猛然と取り囲む。

 

「パステルエッジさんが到着した模様です。話を伺ってみましょう。今回の魔人出現についてどうお考えですか?」

「コメントをお願いします!」

「一般人が魔人を捕獲したというのは事実でしょうか?」

「サインください!」

「どいて、どいてぇっ!」

 

 突破するのは簡単だ。魔法少女の膂力を振るえば一瞬で包囲を割れるだろう。しかし確実にけが人の出るそのやり方をたゆは習慣的に切り捨て、小一時間を無為な押し問答に費やす羽目になった。

 

 そうしてわずかに頭が冷え、やっと最適な方法に思い至る。

 

「と、跳んだぁ!?」

 

 斜め上に飛び上がり、放物線を描いて入り口まで一直線。

 

 そこに渋面をした警備員が歩み寄ったとき、たゆは我慢の限界を迎えた。

 

「魔法少女といえど、無断で敷地内に入られては──むぐっ!?」

「どこですか」

 

 警備員の胸ぐらを掴み上げ、自分でも驚くほどの怒声を張る。

 

「魔人はっ……お姉さんはどこですかぁ!?」

「こちらですよ」

 

 震え上がる警備員に代わり、答えたのは建物内にいた必殺機構のメンバーだった。

 

 人のいい青年といった印象の彼についていく。階段で地下一階へ降り、清潔感のある廊下を進み、最奥の扉の前で足を止めた。

 

 青年を押しのけ、扉を蹴り開ける。

 

「おお、パステルエッジ」

「少し来るのが遅かったんじゃないか?」

「今日は平日だぞ。無理もない」

「学校もあるのに、わざわざ来てもらってすまないな」

 

 一つの家具もない無機質な空間で、男たちが晴れ晴れとした笑みを向けてくる。

 

 その中央に、魔人が居た。両手足を鎖で縛られ、首に巻かれた鎖が天井のフックに吊るされて爪先立ちになっている。うつむいた小ぶりの顔には目隠しと口枷がはめられていた。

 

「だがちょうどいいタイミングだ」

 

 男の一人がカッターナイフを振り上げ、横薙ぎにする。魔人の絹のように滑らかな肌がざっくり切り裂かれ、血が噴き出した。

 

 しかしその血は巻き戻しをかけたように体内へ引っ込み、傷口は痕も残さず消えた。

 

「さすがは魔人というべきか、どうやっても倒せないんだ」

「我々の怨みはすでに晴らした。討伐を頼むよ、パステルエッジ」

「魔法は魔法少女にしか使えないからな」

「は……?」

 

 たゆは耳と目を疑った。目の前の光景を、言葉を到底信じたくなかった。

 

「怨みを……晴らした……?」

「ああ!」

 

 力強く頷く男たち。その足元には、様々な道具が転がっている。

 

 出刃包丁、彫刻刀、アイスピック、のこぎり、金槌に釘、かんな、やすり、ペンチ。部屋の隅のコンセントから延長コードが伸びて、ハンダごてやドリルが接続されている。

 

 それらに返り血は付いていない。当然だ、魔人は魔力のこもっていない物理攻撃では死なない。傷が付いてもすぐに再生する。

 

 その事実と、男たちの言葉。清々しい笑顔と、ぐったりうなだれてピクリとも動かない魔人から、ここで起きたことについて緩やかに、救いようもなく理解が及んでいって。

 

「──」

 

 たゆは声もなく、堕ちていった。

 

 深く深く、闇の底へ。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 サイレンの音が聞こえる。ざあざあ降りの雨音も遅れて耳に入ってくる。

 

 体中が痛い、と思ったけど気のせいだった。気を失う前の余韻が残ってたみたい。今はただ、甘い匂いと柔らかで心地良い感触に包まれている。

 

「たゆ」

「お姉さん。痛いところはないですか?」

 

 重いまぶたを開くと、たゆがこっちを見下ろしていた。

 

 久しぶりの膝枕だ。こんもり膨らんだ胸の向こうに、たゆの幼い顔が見える。潤いのある朱色の唇に目が惹かれた。

 

「ないよ。もう大丈夫。外、うるさいね?」

 

 場所はいつものリビング、ソファの上。マンションの外からひっきりなしにサイレンが聞こえてきてうっとうしい。

 

 たゆはきゅっと唇を引き結んで、

 

「ごめんなさい、お姉さん。私がお弁当を忘れたせいで、あんなこと……」

「ああうん、いいよ。助けてくれたんでしょ? ありがと」

 

 別に誰が悪いって話でもない、強いて言えばいろいろなめぐり合わせが悪かった。落ち込む暇があるなら私の話を聞いてほしい。

 

「あのね──」

 

 素早く起き上がりざまたゆの膝に座って、唇を重ねる。恥ずかしいから一瞬だけ。

 

 顔を離すと、ぽかんとしたたゆと目が合った。みるみる耳まで赤くなっていく。たぶん私も同じ。

 

「たゆ、私も君が好き」

 

 何もしたくない空っぽの私に芽生えた、妬みと恥ずかしさ。その元になる思いはきっと、たゆの大好きと同じものだ。

 

 目隠しと怨みの言葉で世界が埋め尽くされたあのとき、たゆへの想いだけが私に残った。たゆの色と声だけが何もない中たしかにあった。

 

 まじりっけのないこの思いこそ、誰かを好きになる感情だ。理屈じゃなくて心がそう思った。

 

 ていうかぶっちゃけ、この気持ちには気づいていた。なんか認めるのが恥ずかしくって意地張ってたんだ。

 

 だけど私は怠惰の魔人。色々なだらしない欲求をまっすぐに叶えていくのが私だ。

 

 自分に素直に正直に。心を抑えるなんて面倒でだるくてしんどいことしない。

 

 魔人ちゃんは、がんばらない。

 

「大好き」

 

 もう一度ちゅーする。

 

 たゆの鼓動が豊かな胸越しにもはっきり伝わってきた。私にも心臓があれば、鼓動が溶け合って気持ちよかったんだろうな。

 

 そんなないものねだりが陳腐に思えるくらい、私たちは本能のままに溶け合う。

 

 サイレンの音はずっとうるさいままだった。


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