魔人ちゃんはがんばらない【完結】   作:難民180301

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5. モテ期

 うちのリビングにしょんぼり魔法少女がいる。

 

「はぁ……」

 

 そいつは力なくソファに腰掛け、どんよりした瞳を虚空に向けながら憂鬱なため息をこぼす。ぱっつん前髪の下の眉はハの字、口はへの字に固定され、力なく伏せられた犬耳と丸められた尻尾が幻視できる雰囲気。ゆったりした部屋着が喪服みたいに真っ黒なのでなおさら陰鬱に見える。

 

 由立たゆ。私のために闇堕ちしてくれた世界一かわいい魔法少女である。

 

 先日緑色の化け物に私が誘拐され、いいようにしてやられた件をまだ引きずっているらしく、たゆは趣味の庭いじりもおざなりにして、スキあらば鬱々とため息をつくようになった。すでに九月を回っており、夏休みを終えた闇狩りトリオは学校で忙しい。たゆを励ます重責は私一人にかかっている。

 

 もちろんこの話術に秀でた魔人のサフィちゃんにかかればたゆを元気にするなんて朝飯前だ。今すぐにでもたゆを元気百倍にできる。

 

 だけど一つ大きな問題があって、実行に移せないでいる。

 

「落ち込むたゆもかわいいな」

「……何か言いました?」

「何でも」

 

 思わず口に出してしまった。しょんぼりたゆがかわいい。普段元気過ぎるくらい元気だからギャップがたまらん。

 

「サフィ、近いです」

「気のせい」

 

 隣に座ってガン見していると困惑したように目を泳がせる。その慌てぶりが愛しい。出会った頃はショートボブだった髪はうなじの少し下あたりまで伸びている。あのとき涙に濡れていた瞳は光を呑み込む闇を湛えている。

 

 思えば私も変わったものだ。初めて声をかけたとき、たゆはソファではなく公園のベンチに座ってしくしく泣いていた。なんとなく放っておけず家に連れ込んで慰めたけど、そのときはさっさと立ち直れ鬱陶しい、としか考えていなかった。

 

 だけど今の私はたゆが落ち込んでいてもいなくても好きだ。だってたゆだし。

 

「あかん」

 

 我ながらたゆが好き過ぎて気持ち悪いなと思った。惚気るのはやめてさっさと慰め大作戦を実行することにする。

 

 たゆの袖を引っ張り、私の太ももを指差す。

 

 目をぱちぱちするたゆを軽く引っ張ると、抵抗なく私の膝枕に身を任せた。さらりとした黒髪が素肌を滑り、思ったよりくすぐったい。声が出そうなのをぎりぎり我慢し、太ももをきゅっと閉める。

 

 しばらくたゆの横顔を眺めながら頭を撫でていると、ようやく感触に慣れてきた。的確な甘い慰めの言葉で一気に攻め込む。

 

「たゆ。前も言ったけど、君はがんばってる。この前のは相手が悪かったんだ。たゆも私も悪くない。落ち込む必要なんて──」

「違います」

「んふっ」

 

 たゆが身動ぎして見上げてくる。太ももがぞわぞわして変な声が出た。

 

「サフィを守れなかったのはショックでした。でもそれは、サフィの言うとおり相手が悪かった、で納得できます」

「じゃ、じゃあ何を落ち込んでるの?」

「落ち込むというか、イライラしてるんです。サフィばっかりひどい目にあうことに」

 

 むすっと顔をしかめて頬をふくらませるたゆ。膨らんだほっぺたをつつくと拗ねたように顔を逸らして、黒髪が私の内ももをくすぐる。気を抜くと声が出そう。

 

 たゆの症状はしょんぼりではなくイライラだったらしい。私ばかりがひどい目にと言うけれど、そこまで気にするほどだろうか。

 

 順番に思い出してみると、レッドグラッジに討伐され、群衆に袋叩きにされ、必殺機構にリンチされ、存在矛盾で消滅しかけ、直近ではグリーングリームに誘拐の上乱暴された。

 

 なるほど確かにろくなことがない。もしたゆが同じことをされていれば、私だってイライラするし、やるせない気持ちになると思う。実際この前グリーングリームにたゆが殴られたときは私も憤懣やる方ない思いだったし。

 

 それでも今の私が平気なのは、怠惰の魔人だからだろう。何もせずに頑張らない怠惰な暮らしには、明日の心配も昨日の後悔もない。ただ今の一瞬を全身全霊で頑張らないだけだ。

 

 だから引きずらない私の代わりに、たゆはイライラしてくれている。ありがたい反面もっと気楽に生きればいいのにとも思う。

 

 たゆの両頬をつかんでこっちを向けさせると、闇堕ちした真っ黒な虹彩と目が合う。

 

「ねえ、たゆ。今幸せ? 私の膝枕気持ちいい?」

「それは、はい」

「じゃあもういいじゃない。イライラすんのやめよ?」

「えー?」

 

 不満げに口を尖らせるたゆ。まったく人とはなぜ過ぎたことをいつまでも引きずろうとするのか。

 

 頬から手を滑らせ、顎の下を犬みたくわしゃわしゃしてやると、「みゅ」と変な鳴き声めいた音が漏れた。

 

「今、私と二人っきりで幸せでしょ。それで十分。来るかも分からない未来を心配したり、終わった過去を悔やんだりなんて、馬鹿らしいよ。大事なのは今なんだから」

「そう……なんですか?」

「そうなのだ」

 

 たとえばほんの数分後にでもレッドグラッジが押しかけてきたり、空気に擬態したグリーングリームが襲いかかってきたりするかもしれない。

 

 でもそれは今じゃない。なら楽観に溺れて今の怠惰を受け入れるのが一番楽だ。しんどいことやめんどいことは何も考えず、楽なことだけ考えればいいし、なんなら考えなくてもいい。思考も呼吸も捨てて怠惰を受け入れるのだ。

 

「いや呼吸はしないと死んじゃいますよ」

「ふっ、脆弱な人類め」

「魔人マウントうざぁ……人類の反撃!」

「んふっ、ふふふやめ、やめてよっ」

 

 髪の毛が内ももをくすぐって、たゆの両手がシャツの上から体を撫でてくる。右手は背中を回ってうなじのあたりを、左手は尾てい骨のあたりをこりこり──背筋を電流のような快感がほとばしり、おへその下が一気に熱を帯びた。

 

 ちょっと待て元気になってほしいとは思ったけど元気過ぎでしょ今私が上だったじゃん。

 

 と文句を言おうとしても舌が回らず、浮遊感にも似た興奮に身を任せているうち、気づけばたゆに押し倒されていた。

 

「ここってそんなに気持ちいいですか?」

「あ……っ」

「わあすごい。せーかんたいですね!」

 

 追撃の尾てい骨こりこりで頭が真っ白になった。気持ちいい。たゆの匂いで頭がいっぱい。柔らかくてあったかい。

 

 押し寄せる怒涛の快感に理性が飛ぶ直前、何か吹っ切れたようなたゆの声が聞こえた。

 

「たしかにいろいろ釈然としないこととかありますけど、どうでもいいですね! だってサフィが大好きで、えっちが気持ちいいんだから!」

 

 

 

ーーー

 

 

 

 心配や後悔よりも思考停止した今の快楽を。怠惰の魔人の生き方をたゆは受け入れ、私たちは何度も体を重ねた。

 

 そうしていつ終わるとも分からない幸せな今を享受していた九月初め。

 

 予想だにしない角度から、途方もない過去が殴り込みをかけてきた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 ことの始まりはある日の昼下がり。

 

 いつものようにたゆの料理を平らげ、私は片付けを手伝いもしないでソファにひっくり返っていた。目的もなくスマホを立ち上げるとクロウからメッセージが届いている。『今日闇狩りにいっていい?』に対し『りょ』と返答しておく。たゆにおやつを用意するよう言っておこう。

 

『本日の情念値は全国的に高く──』

 

 垂れ流しのテレビは情念値予報をやっている。高ければ高いほど魔族が発生しやすく、高い日は不要不急の外出を控える旨の定型文で終わる。それから種々雑多なニュースコーナーへ移行するのがこのチャンネルの流れだ。興味なくてもさすがに覚えちゃった。

 

 でも今日のテレビは一味違った。

 

『えーここで速報です』

 

 穏やかなキャスターの声音が、険しく固いそれに変わる。同時に小刻みなビープ音が響いた。

 

 画面に目をやると、災害時によくあるL字型のテロップが出ていた。ただしその色合いは忌々しい赤色で、白抜き文字は『魔族必殺機構からたいせつなお知らせ』と綴っている。

 

 キャスターは深刻そうな顔つきで、

 

『殺意の魔人の封印が近日中に解ける可能性があると、魔族必殺機構が発表しました。繰り返します、殺意の魔人の封印が近日中に──』

 

「うそぉ」

 

 マジで?

 

 縁側のガラス戸を見る。青い夏空を縦に割る有刺鉄線の巨塔は変わらず巍然とそびえ立ち、何も異常は見えない。

 

 がしゃん、と何かが割れる音。かと思うと目の前に、大慌てするたゆの顔が現れた。黒いアーマードレスに変身済みで臨戦態勢ばっちり。

 

「さささサフィ落ち着いてください! 落ち着いてテーブルの下へ隠れましょう!」

「君が落ち着け」

「いたっ!」

 

 額へデコピンをお見舞いしてやると、たゆはわたわたと両手を上下させ、言葉を呑み込むように口を真一文字に引き結んでようやく落ち着いた。まったく皿を割ったなこいつ。

 

 五年の魔法少女経験があるたゆでも、今回の件は恐慌に値するらしい。さすがに地震雷火事魔人、昔から言い伝えられてきた災害の中でも最悪の部類となると仕方ないのかもしれない。

 

 画面の中で、キャスターに数枚の資料が手渡される。

 

『ただいま入った情報によりますと、必殺機構はすでに複数の魔法少女を対処に当たらせている模様です。機構の代表であるレッドグラッジ氏からは、「封印の周辺には万全の警戒網を敷いており、どのような突発的事態にも対処可能につき、周辺住民の皆様におかれましては秩序だった避難を心がけていただきたい」との声明が届いております。ああ、よかった……失礼しました』

 

「えっサフィ? 今のどういう意味です?」

 

 何が起きても必殺機構の人らがなんとかするんで、とりあえずみんな落ち着いて避難してね。たゆに分かりやすく言い直すとそんな感じ。

 

 それ以上の情報はないらしく、キャスターは強い口調で落ち着いた避難を繰り返し呼びかけ始めた。チャンネルを変えてもどこも同じ有様だ。局によってはキャスターが緊張で声を詰まらせてしどろもどろになっているところもあった。情報を伝えるプロでも動揺する内容なんだ。あっ、このチャンネルだけはアニメの再放送やってる。

 

 スマホからSNSを覗くと、トレンド一位が秒で「殺意の魔人」になった。すごい。

 

「ねえねえたゆ、見て、すごい。一瞬でトレンド一位だよ!」

「わあほんとですね、じゃなくて! 私たちも逃げましょう、今すぐ!」

「なんでやねん」

「だってだって、殺意ですよ!? いくら必殺機構がいると言っても……」

「はいはいしんこきゅー、吸って吐いてー」

 

 さっき落ち着いたように見えたのは気のせいだったか。たゆはすっかりパニックになっている。

 

 手を握り、アーマーから露出した背中をさすりながら五分ほど経つと、やっとたゆの目に理性が戻ってきた。冷静なうちに私たちの方針を共有しとこう。

 

「まず言っとくけど、私たちはここを動かない。おっけー?」

「……なんで?」

「私たちが追われる身だから」

 

 角さえ隠せば権能で誤魔化せる私とは違い、たゆの顔は世間に知られてる。下手に逃げた先で衆目に触れるのは怖いし、そもそもこの家よりも優れた潜伏場所のあてがない。なら追手がいない現状、慌てず騒がずどっしり構えていればいい。

 

「もちろんずっとじゃなくて、殺意が倒されたらすぐ引き払うよ」

「あ、そっか。レッドグラッジが来ちゃいますね」

「そうそう」

 

 私たちにとってもっとも厄介な追手のレッドグラッジは、なぜかぱったりと姿を見せなくなった。その理由が殺意の魔人なのだろう。片や闇堕ち魔法少女と一緒に逃げ回るだけ、片やかつて十万人以上の人命を奪った極悪魔人。どうやって封印の緩みを嗅ぎつけたのかは知らないけど、私たちから殺意への警戒へリソースを切り替えたのは明らかだ。

 

 無論、私はこれを想定済みだった。夏バテなんてアホみたいな理由で追撃を止めるレドグラじゃないって信じてた。これはほんと、マジで。後からならなんとでも言えるとかじゃなくて。

 

 そんなわけで、今の私たちにできることは少ない。封印から解放されたとたん最悪の赤いアイツに出迎えられる殺意に、念仏でも唱えておこう。あんなのに狙われるなんてかわいそうな魔人ちゃんだ。

 

 ああそれと、もう一つあった。

 

「サフィ? なんでニヤニヤしながらスマホにかじりついてんです?」

「たゆぅ、ぶっちゃけさぁ。対岸の火事ってワクワクしない?」

「うわーっ、サイテー! 野次馬根性、不謹慎! 人としてどうかと思いますっ!」

「だって私魔人だもーん、人でなしだもーん」

「わっる! 今初めてサフィが人類の敵に見えました!」

 

 テレビとかSNSとか、メディアが何かの話題一色に染まってるとき。しかもその話題の当事者じゃないときって、めちゃくちゃドキドキする。

 

 SNSと匿名掲示板とまとめサイトをハシゴしていると、さっそくソース不明のデマが湧いてきた。このライブ感サイコー。なになに、『魔人騒動は茶番』『必殺機構が裏で世界を牛耳っている』『魔人とは魔法少女である』。一文字読むたびに時間と脳みその処理能力が無駄になっていく感じ、たまりませんわ。

 

「ねー、たゆもこの楽しみを知ろう?」

「知ーりーまーせーん!」

 

 たゆはぷいっとそっぽを向いた。

 

 アホ真面目なやつめ。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 封印消滅の恐れが発表されて以降、世間の話題は殺意の魔人一色に染まった。久引町の上空は報道ヘリと真っ赤なカラーリングのヘリが忙しなく飛び交い、遠くからサイレンが聞こえる。テレビは荷物を抱えて徒歩や車で整然と避難していく近隣住民を映し、なぜかスタジオでヘルメットをかぶった専門家たちが、厳しい顔で頭の良さそうなコメントを吐く。CMは露骨に必殺機構の啓発モノが増え、その頻度は私でさえ魔族殺すべしのメロディを暗記するほど。ネットでは公式機関の声明と流言飛語の類がいっしょくたに入り乱れ、さながら情報の百鬼夜行と化していた。

 

 そういった騒ぎを対岸からぐうたら眺めるのが、私の役目だ。

 

「あ、エリアメール来てた。避難指示だって」

「えりあめーる……? 前から思ってましたけど、その権能スマホって契約とか名義とかどうなってんですか?」

「知らん。魔人ちゃんパワーだ」

「魔人ってすごい」

 

 無限残高と謎スマホは、欺瞞と改ざんの権能の極致である。怠惰の魔人はすごいのだ。

 

 滅多に使わないメールフォルダを閉じて、例の闇狩りトリオにメッセージを送ってみる。電波が混雑してるのか送信中のまま固まった。

 

 なのにネットはサクサクつながるんだから権能は超便利。現代社会での怠惰な暮らしにネットとお金は欠かせないってことなんだろう。怠惰に生まれてよかった。

 

 となると俄然気になってくるのが、殺意がどんな力を持っているのか。私の生まれつきの知識、通称魔人ちゃんペディアには記載がない。適当にチャンネルをザッピングしていくと、この前魔法少女にけしからんことをして捕まったはずの専門家おじさんが語っているのに出くわした。

 

『殺意の魔人の恐ろしさは計り知れません。五年前、出現から間もなく十二万人に魔が差し、そのうち九割強が死亡しました。魔法少女が三名殺害されたことから、物理的な脅威をも有しているでしょう』

『具体的にはどのような権能が考えられるでしょうか?』

『詳細は分かりませんが、人類にとって喜ばしいものでないことは確実ですね』

 

 当たり前だろ。ふわふわした物言いでお茶濁しちゃってこのおっさんはもう。キャスターの人も微妙に「使えねー」みたいな顔してるぞ。

 

 見切りをつけてネットで調べてみると、魔人まとめサイトがトップに出てきた。過去に出現した魔人の被害と権能が表にまとめられ、詳細は個別ページのリンクで見られるようになっている。

 

 生まれてから二年と半年、私以外の魔人と出会ったことはないけど、過去には大体十年周期でたくさん魔人が出てきてたらしい。無慈悲に討伐された彼女たちに内心で敬礼しつつ、スクロールしていく。

 

『性質:憎悪 権能:憎悪の肥大化。些細な苛立ちを破滅的な憎悪へと導き、凶行に至らせる 被害:死者2803人』

『性質:性欲 権能:催淫触手。触手に触れると個人を歩く性器としか認識できなくなる 被害:不可逆性精神汚染6744人』

『性質:殺意 権能:不明 被害:死者・行方不明者118961人 精神汚染:3770人 備考:固有魔法により封印中』

 

「こわっ」

 

 思ったよりエグい。数だけなら殺意が圧倒的だけど、権能のキツさはどの魔人も共通してる。

 

「この中にサフィが居たら一人だけ浮いてそうですねー」

「うーむ」

 

 私なら『権能:全身全霊で何も頑張らない』になるのか。場違い感半端ないな。

 

 ただ、魔人の発生機序を考えると、このページに載ってる魔人の権能はすべて人類の欲求から生まれたことになる。こんな恐ろしい考えを抑圧しながら繁栄してるんだから、人類の器用さには頭が下がる。

 

 みんないろいろ溜め込んで生きてんだな。魔族の元になる負の情念だけじゃなく、叶わないと諦めた憧れ、望み、願いさえ抑圧し、それを受け取った魔法少女たちが平和な現実を守る。人と魔族を冷酷に線引きし、分断して考える。理性的に暮らすのはとても大変なんだろう。

 

 魔人の私はそんなの知ったこっちゃないので、好きな子と一生ダラダラして過ごそうと思う。

 

 スマホをソファの端に放って、隣に座るたゆと指を絡める。にぎにぎし合いながら頭を傾け、角はしまったまま肩にすりすりした。たゆも私の頭に頬ずりをしてくれる。甘い匂いとぬくもりに心が弛緩していく。

 

 自分のすべてを任せられる人がすぐ隣にいるのは最高だ。私はできれば痛いのも死ぬのもヤだけど、たゆになら何をされてもいい。

 

 えっちとは違う、ただ緩やかな時間を過ごしている間にも、つけっぱなしのテレビが音を垂れ流している。

 

『殺意の魔人はあのブルーグレイスですら討伐できなかった魔人です。魔法少女たちは大丈夫なのでしょうか』

『大丈夫。レッドグラッジはブルーグレイスの妹さんです。きっと大丈夫です』

『そ、そうですか』

 

 珍しく根拠なしにおっさんが断言している。

 

 私も同意だ。殺意の魔人がどれほど強力だろうと、魔族必殺に全力な機構とレッドグラッジが負けるはずない。なんたって私たちの追っかけを中断してまであっちを優先してるんだから気合の入れ方がちがう。殺意さんはご愁傷さまだ。

 

「そういえば、そのブルーグレイスとかいう魔法少女は今何してんの? 引退した?」

「えっ」

 

 たゆが意外そうな声を上げた。

 

 別に変なことは言ってない。たしか封印したのもそのブルーグレイスだし、当時最強と呼ばれていたのも知ってる。レッドグラッジと協力すれば勝ちは揺るがないはず。

 

「もう亡くなってます」

 

 と、思ったんだけど。

 

「殺意の魔人と刺し違えて、そのとき固有魔法の封印に覚醒したって、レッドグラッジさんが。テレビでもそう言われてます」

「……そうなの?」

 

 そーです、とたゆがうなずく。

 

 ブルーグレイス、死んでるのか。言われてみれば、死に際に殺意を封印してったって聞いたような。

 

 だけど何か釈然としない。ブルーグレイスのことはネット情報ですらまともに調べたことないけど、なぜか死んでると言われてもピンとこない。本当はどこかで生きてるんじゃないの?

 

「なにこれ」

 

 混乱してきた。私はブルーグレイスにどんな感情を抱いてるのか。私にとっては目障りな塔を遺していっただけの人物のはずなのに。

 

 スマホで調べようとしても、さっきソファの端の方へ投げて手が届かない。

 

 いちいち調べるのも面倒だ。また気が向いたときにしよう。

 

 今はたゆにすりすりするのを優先することにする。

 

「たゆぅー、好きぃー」

「私もですよぉ、サフィー」

 

 あー、ダメになっちゃいそう。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 実際に封印が消滅したのは、避難開始から六日後の夕方のことだった。

 

 いつものようにたゆとイチャつきながら、対岸の火事感と台風で学校が休みになった小学生のような非日常感を楽しんでいると、テレビの中の人たちが唐突に血相を変えた。

 

『封印が解除されます! 繰り返します、たった今、封印が解除される模様です!』

 

「お」

 

 消滅の恐れとか可能性とか言うから、肩透かしもあり得ると思ってたけど。ようやくこの騒ぎも山場を迎えるみたいだ。

 

 画面がスタジオから赤茶けた荒野に変わった。遠方にたたずむ馬鹿げた大きさの巨塔に異常は見られない。

 

 むしろ先に異常を示したのは、画面じゃなく庭からリアルに見えている方の封印だ。画角の外にあたる塔の上方部分が、糸のようにはらはらとほどける。ほつれた有刺鉄線は光の粒子を散らして宙空へ消え、上から下へ向けて塔がみるみる消えていく。

 

「サフィ、上からの方がよく見えますよ」

「抱っこ」

「もー」

 

 テレビを消し、たゆに横抱きにされて二階へ。かと思ったら、たゆは庭へ出て軽く膝を曲げ、屋根の上へ跳んだ。

 

 急な浮遊感でびっくりしたけど、ここは確かに最適な野次馬スポットだ。丘の上の立地だから封印周辺の荒野がよく見える。

 

 今日の天気は曇り。円周十数キロは下らない塔が失くなった空は、思いがけず茫漠な灰色に染まっていた。

 

 ゆっくりと十分近くかけてようやく塔の根元まで消失が及ぶ。目には見えないけど、あの赤茶けた荒野の中央に殺意の魔人がいるのだろう。

 

「うわ」

 

 出し抜けに、山が降ってきた。

 

 正確には、山と見紛うほど巨大な岩石だ。封印の塔に劣らないスケールの岩塊が、魔人のいるであろう地点に落ちていく。落着と共に爆発的な土煙が巻き上がり、数秒遅れてわずかな振動が屋根を揺らした。大体二十キロは離れてるここさえ揺らすあたり、直撃した魔人には洒落にならない威力だろう。

 

 しかし出迎えはそれだけじゃ終わらなかった。岩の真下、土煙に覆われた中でオレンジ色の閃光が連続して瞬く。

 

 何かの爆発だ。岩と煙が閃光に吹っ飛ばされ、荒野に百メートル単位のクレーターをいくつも抉る。

 

 一体何が起こってるのか、まったく分からん。

 

「解説のたゆさん、お願いします」

「へ? 何をですか?」

「解説。何やってんのあれ。普通の武器とか兵器は効かないのに」

「ああ、あれ全部魔法ですよ」

「マジか」

 

 てっきり大人たちが物理兵器を使ってるのかと思った。キロ単位の土地を数秒でズタズタにする魔法とか超怖いんだけど。

 

 手でひさしを作って眺めていたたゆは、顔をしかめた。

 

「たぶん、グリーングリームの仕業ですね。どうやったのかは分からないですけど、岩と爆発にあの人の魔力が乗ってます」

 

 先陣を切ったのは緑の怪物らしい。

 

 爆発は今も秒間四、五発くらいの頻度で続いている。この家なんてあの爆発一つで跡形も残らない規模だ。開幕の質量攻撃といい、どんな手品を──固有魔法かな。

 

 たぶん、万物に擬態するとかいう理不尽魔法で岩塊そのものに擬態していたんだ。あの爆発は空気に擬態して、水素とか酸素とかの濃度をいじって爆破してるんだろう。

 

 だとしたら余計分からない。あれだけのことが出来るくせに、グリーンは私とたゆを結果的に見逃した。本当に何がしたかったのか。

 

「あっ、真打ち登場ですよ!」

 

 たゆが弾んだ声を上げる。

 

 爆破の連鎖が止まるや否や、赤い閃光が地を駆けた。一拍遅れて抉れた地面が広範囲にわたってめくれ上がる。

 

 続けて赤く輝く無数の戟が、大地を突き破って一帯を針地獄と化した。一つ一つの戟が高層ビルに匹敵する大きさだ。きっと範囲攻撃なんだろう。

 

 さらにそれらの戟は輝きを増し、穂先から極太のレーザーを雨あられと発射する。幾重ものレーザービームは一点で交差しながら、ここからでは見えない小さな何かを追い続ける。外れたレーザーが地面を焼切り、ケーキみたいに両断された大地が爆発していく。

 

 レーザーの追従する先では、グリーングリームによる空気爆破と質量攻撃が待ち受けている。暴力的な面制圧と一点突破のレーザーによる波状攻撃は、もはや悪夢だ。私ならゼロコンマで蒸発してる自信がある。

 

 それでもその戦いは、終わらなかった。日が落ち、目がチカチカして私がリタイアし、夕ご飯を食べてお風呂に入って、一夜明けてもまだやっていた。

 

「長すぎでしょ! 何なのあいつら!」

「ふぁ……うるさくて眠れなかったです……」

 

 寝癖の跳ねたたゆが、あくびをして目をしぱしぱさせている。実際ここまで届く音は地鳴りのように低い残響しかないけど、すぐそこで宇宙戦争のような光が瞬いていると眠りも浅くなるものだ。

 

 朝のニュースは無論、この戦いのことで持ちきりだった。

 

『戦闘開始から十七時間が経ちました。がんばれ、がんばってくれレッドグラッジ! グリーングリーム!』

『がんばれー!』

 

 目の下にくまのできたキャスターが、原稿を放り出して身を乗り出す。スタッフたちの応援も続く。もはや番組の体を成していない。

 

 決着が着いたのは、お昼まで二度寝した寝起きの頃だった。

 

「うみゅ……?」

 

 寝ぼけ眼にガラス戸の外を見ると、すべてが赤く染まっている。空は原色の赤色でのっぺりと塗りつぶされ、色とりどりの自然も陰影のない赤一色だ。

 

「た、たゆ、たゆ! 起きて、たいへん! すっごく赤い!」

「えへへ……」

 

 慌てているうちに、赤色の世界がうごめいた。

 

 すべてを染め上げていた赤が、束ねた布のように撓み、一点に収束していく。元の色に戻った青空をバックに、赤は封印の塔に伍する極大の戟へと収斂した。

 

 戟は穂先を下にして、ゆっくりと地へ落ちていく。落着と同時、赤い火球へと姿を変え、広範囲を覆った。

 

「痛っ、うぇ!?」

 

 ここは火球の範囲外。にもかかわらず、光に触れただけで私はあのときの、存在が削られる痛みを覚えた。

 

 かざした手の指先が、ほつれて消えかかっている。あの戟はおそらく魔族必殺の象徴で、光にすらその効果がある──

 

「サフィ!」

 

 たゆがすぐに庇ってくれなかったら、魔法の余波だけで死んでいただろう。闇堕ちしても魔法少女のたゆに、その光は効果を及ぼさなかった。

 

 その魔法を最後に、戦いの音は止んだ。色の戻った世界は驚くほど静かで、空は晴れやかな青空だった。

 

 結果の予想はつく。あんな無茶苦茶な魔法を使えるレッドグラッジとグリーングリームが負けるはずない。必殺機構がここをかぎつける前に、引き払う準備をしなきゃ。

 

 そんな風に考えていたので、決着から一時間後に発表された結果に「ほぇ?」とアホみたいな声を出してしまった。

 

『たいへんな事態になりました』

 

 キャスターが読み上げる。

 

『グリーングリーム氏は死亡。レッドグラッジ氏は殺意の魔人と刺し違え、意識不明の重体となった模様です』

 

 

 

ーーー

 

 

 

 あれだけ恐れていた殺意の魔人がいなくなったのに、その日のテレビとネットはお通夜ムードだった。いつも憶測に憶測を重ねてあることないこと喋り散らす局でさえ口数が少なく、ほとんど放送事故に近い絵面を電波に乗せてるところもあった。世間の関心を反映するSNSのトレンドは、よほど衝撃だったのか、午後三時頃になってようやく『レッドグラッジ重体』『グリーングリーム死亡』の二点がトレンド入りを果たした。

 

 午後六時のニュースにて、目元を赤くしたキャスターが言葉を詰まらせながら原稿を読み上げる。

 

『グリーングリーム氏は、慈善団体「闇狩り」の代表として、八十年間立派に職務をまっとうし──うおおん!』

 

「ダメだこりゃ」

 

 男泣きするキャスターから、しばらくお待ちくださいのテロップに差し替えられる。この愁嘆場は後を引きそうだ。正直そこまで悲しくない私としてはうっとうしい。

 

 とはいえ、無理もない。魔法少女は、人々が現実を生きる上で捨てざるを得なかった、正しい情念の受け皿。魔族とは逆に人類の愛着と期待を一身に背負う立場で、取り分けもっとも長く活躍してきた緑女が亡くなったわけだから、ひとしおに悲しいのだろう。いっぱい泣け。

 

 さて、そんな人類であるたゆの様子はというと。

 

「たゆ、平気?」

「んー、複雑です。どうせならちゃんと仕返しをしておきたかったですね……サフィは?」

「特に何も」

 

 食卓に肘をつき、むすっと口を尖らせて、たゆは悔しいとも嬉しいとも言えない表情だ。いっそ前に殴られたことを根に持って、いい気味だと笑えれば人生楽なんだろうけど。

 

 私は特に感想はない。死んだら善人も悪人もないし、ナムアミダブツって感じ。

 

 それより大事なのはレッドグラッジだ。意識不明の重体って具体的にどんな状態なのか。あいつは回復次第私たちを追っかけてくるだろうし、いつ復活するかが生活に直結している。

 

 だけどどの番組、どのネットニュースでもレッドグラッジの続報は流れていなかった。代わりにグリーングリームがいかに優れた魔法少女だったかを礼賛する追悼みたいな放送が増えてきてる。びっくりするくらいどうでもいいことしか言わないんだから、もう。

 

「んんーっ、はあ。なんか気が抜けました。先にお風呂入ってきます」

「いてらー」

 

 たゆが立ち上がり、リビングを出ていった。まだ夕飯前だ。私をソープ塗れにしていやらしいことをする気力すらないらしい。しばらくそっとしといてあげよう。

 

 私も情報収集は疲れた。スマホをショートパンツのポケットに仕舞い、うるさいテレビを消してソファに寝そべる。

 

 ああ疲れた。何もしたくない。靴下履いてるのと似た窮屈感が煩わしい、角を隠すのも止めだ。仰向けなら角も引っかからない。

 

 死体みたくだらーっとして数分した頃、リビングに足音が入ってきた。

 

 たゆが忘れ物でも取りに来たのか。そう思っていると、足音は不規則に乱れ、ばたんと大きな音で終わる。つまずいたのかもしれない。まったくそそっかしいやつ。

 

 腹筋で起き上がるのに失敗し、ソファの背もたれを這い上がるように上体を起こした。

 

「たゆ、大丈夫──」

「あ」

 

 たゆ、じゃない。

 

 リビングの床に這いつくばっていたのは、見知らぬ少女だ。夜闇のような黒髪が腰まで伸び、鮮烈な赤いメッシュが無数に黒の上を流れている。一糸まとわぬ華奢な体は、真新しい擦り傷や土埃で痛々しく汚れていた。

 

 ここまでならよかった。百歩譲って痴女気質の美少女がうちに迷い込んできたと納得することもできた。

 

 問題は、角だ。少女のこめかみの少し上から生えた、一対のおぞましいねじれ角。一方の角が半ばから折れているが、人がアクセサリーでつけることは絶対にあり得ないそれらは、少女が魔人であることを示している。おまけに尾てい骨のあたりから鱗のないエナメル質の尻尾みたいのが生えていた。どう見ても人類じゃない。

 

 厄介な匂いがぷんぷんする。住居不法侵入で通報してやる。

 

 だけどその前に、ケガが痛そう。服も用意しなきゃ。

 

「えっと……こんばんは」

「……」

「救急箱取ってくる。ちょっと待ってて」

 

 たしかたゆ用に買って使わずじまいのやつが、物置部屋にあったはず。ついでにたゆも呼んでこよう。

 

 その子の横を通ってリビングを出ようとすると、手首が掴まれた。

 

「ちょ、ちょっとちょっと近いって!」

 

 ぐい、と一気に距離を詰めてくる。黒と赤のオッドアイの嵌った、端正な顔立ちが目と鼻の先だ。こんなのたゆにバレたら浮気に見えるじゃんか。

 

 離れようとしても両肩を掴まれ、その上しなやかな尻尾が腰に何重にも巻き付いてきた。

 

「落ち着いてよ、ほら、私も魔人だから。手当てしようって言ってんの、ね?」

「……」

 

 言葉通じてない? ここまでガン見されると同族でもさすがに怖い。

 

 せめてもの意地で目をそらさず、じーっと鋭い魔人ちゃんアイで睨み返してやる。少女の赤と黒の目は瞳孔がなく、見ていると吸い込まれそうな深みがあった。

 

 そうしてよく分からないにらめっこをしていると、ついに少女が口を開く。

 

「セーカ」

 

 最初はぽつりとしたつぶやきで、

 

「セーカ、やっぱりセーカだ。あなた、セーカでしょう」

 

 涼やかに伸びる声音が尻上がりに大きくなっていった。言葉の裏には隠しきれない喜びと確信を感じるけど、あいにく人違いだ。

 

「違うよ、私はサフィ。君の言うセーカって子じゃない」

 

 少女は首を傾げ、私の体を頭から爪先まで見た。

 

「少し縮んだのね。でもその青く澄んだ目は変わってないわ。魔人の角も素敵よ、似合ってる。今はサフィと名乗っているの? いえ、別に良いのよ。私にとってあなたはセーカ。それ以外の何者でもない」

「そ、そう」

「もう、セーカったら今まで何をしていたの? 私、ずーっと良い子で待ってたのよ? だけどセーカが意地悪するから、待ち切れずに出てきちゃった。おかげでひどい目にあったわ」

 

 ぷくーっと頬を膨らませる少女は年相応にかわいらしい。

 

 ただ、ふと最悪の予感と情報のすれ違いが頭によぎり、純粋にかわいいとは思えない。いやいや、まさかね。刺し違えたって言ってたし。

 

「聞いてセーカ、ほんとにひどいの。やっと外に出たと思ったら、緑おばさんとヒノにいじめられたの! とっても痛くて怖かった!」

「……えーっと、誰にいじめられたって?」

「だから、緑おばさんとヒノ! 魔法少女のグリーングリームと、ヒノよ!」

 

 うわぁ。思わず頭を抱えた。レッドグラッジは本名ヒノっていうんだ、と軽い情報から受け止めていく。ちょっと間をおいて、一番重いやつを確認する。

 

「君、何の魔人?」

「殺意の魔人よ。知ってるでしょ?」

 

 知りたくなかった。

 

 最悪に凶悪な魔人がなぜかうちにやってきたなんて、知りたくなかったよ。たぶん報道が統制されてるってことも知りたくなかった。

 

 レッドグラッジが私たちを放置してから、封印消滅の恐れが発表されるまで間があった。その間は必殺機構が情報を抑えていたのだとしたら、今回も特大のネタを隠蔽しているのだろう。殺意の魔人が健在であること──つまり、レッドグラッジの敗北を。

 

「でもよかった。こうしてまた会えたんだから……」

「いたた痛い痛い!」

「あっ、ごめんなさい!」

 

 恍惚とした目つきで私を見ながら、尻尾は骨盤をぎりぎり絞め上げていた。すぐに解放されたけど、気分はまるで虎にじゃれつかれる飼育員だ。

 

「大丈夫、セーカ? こんなに弱くなってかわいそう……だけどごめんなさい、正直に言うとうれしいわ」

「何が」

「私のために、魔人に生まれ変わってくれたことが、よ。同じ魔族なら争う理由はないものね」

「ちょっと待てーい! 色々と待てい! えっ、何、まず私と君ってどこかで──」

「サフィぃーっ! なんか知らない女の声がするんですけどぉ!」

「今来るのかよっ!?」

 

 ここでたゆがリビングに転がり込んできた。トゲトゲダークの背中が開いたアーマードレスを身にまとい、黒く染まったハートの大剣を構えている。いつでも強力な魔法を行使できる態勢だ。

 

 だけど使い手はちょっとアホなたゆなので、使う前に処理落ちを起こしてしまった。

 

「ま、魔人さん……!? えとえと、サフィのお友達……?」

 

 困惑して私と殺意を見比べている。知らない女の声がしたと思って駆けつけてみれば、全裸の傷ついた魔人が私に尻尾を巻きつけてしなだれかかっているとくれば、まあ混乱もしよう。

 

 そしてたいへん困ったことに、私もこの状況を把握しきれてない。

 

 とにかく一旦落ち着いて話し合いをしよう。

 

 そう提案するよりわずかに早く、殺意がつぶやいた。

 

「魔法少女……そっか。ごめんねセーカ、全部分かったわ」

「えっ?」

「私を迎えにこなかったのは、意地悪じゃなかった……この女に捕まって動くに動けなかったのでしょう」

 

 全然違うけどそもそも私って殺意を迎えにいかなきゃいけなかったの? そこからしてすれ違いがある。

 

 私とたゆが混乱している間に、殺意は自身の手首を口に運び、

 

「今すぐ助けてあげるからね」

 

 ぶちり、と骨と肉を噛みちぎった。

 

 半月形に抉れた傷口からどろりとした黒い流体が滴り、フローリングに接地すると共にうねうねと蠢き、五つの血溜まりを形成した。

 

 血溜まりはそれぞれ上方へ伸び上がり、てかりのある太い触手へ変わる。触手の先端の肉が裂け、幾重にも枝分かれを繰り返し、無数の触手が絡まり合う魔物の姿へと変異した。

 

 五体の魔物が私とたゆの間に立ちふさがる。

 

 平気だ、なにしろたゆは闇堕ちする前でも魔物を瞬殺していた。今なら五体いても一瞬で細切れにできるはず。

 

 でも殺意の魔人にとってはその一瞬だけで十分だったみたいで、

 

「もう大丈夫!」

 

 私を尻尾で巻き取ったまま、庭に通じるガラス戸を蹴破る。そして地面を踏みしめたかと思うと、私は浮遊感と圧迫感で何も言えなくなる。

 

 その加速度はもうグリーングリームのときの比じゃない。息が吸えない、掴まれた腰が痛い。もし人間だったらとっくに失神してる。

 

 また誘拐かよ。

 

(今度防犯グッズ買おう)

 

 とりあえず防犯ブザーとちかん撃退スプレーから。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 浮遊感と衝撃が交互に襲ってくる。夜闇に沈んだ田舎のあぜ道が濁流みたく後ろに流れ、時折止まってはまた流れていく。着地と跳躍を繰り返して移動しているみたい。バッタじゃあるまいし。

 

 どこに連れてかれるかは知らないけど、過去二回の誘拐経験からしてろくな未来は待っていないだろう。私は経験豊富なんだ。誘拐するんじゃなくてされる方の才能があるかもしれない。

 

 でも今回ばかりは仕方ないと思う。いつ解けるか分からない封印の近くに私とたゆが居着いたとたん封印が消滅して、殺意の魔人は赤と緑の強襲を切り抜け、なぜか都合の悪いことにピンポイントで私の元へやってきた。予想も対策もできるはずない。

 

「いたた……」

 

 理不尽な流れにやさぐれていると、殺意の足が止まった。アスファルトにヒビを入れて着地しつつ前へよろめき、膝をつく。お腹に巻き付いてた尻尾が力なく垂れ落ちる。

 

 おそるおそる近づいて顔を覗き込んでみると、殺意は目を固く閉じて苦痛を堪えているみたい。よく見れば折れた片角や全身の生傷だけじゃなく、肩甲骨のあたりに一対の細い楕円形の穴が穿たれている。場所と形からして翼が千切れた痕に見える。

 

 魔人ならコアさえ無事ならどんなケガも致命傷にはならないけど、痛いものは痛い。

 

 私は殺意の腕を首に回した。

 

「ほら、肩貸すからがんばれ。どっかで手当てして休むよ」

「痛い、痛いようセーカぁ……」

「うんうん、痛いよな」

 

 殺意はついに泣き出した。その情けなさといったら、セーカって誰とか何が目的とか、聞きたいことを後回しにせざるを得ないほど。

 

 ひーこら言って殺意を立たせ、周囲を見回す。久引町の郊外から中央街まで跳んできたらしく、大通りに真新しいマンションや雑居ビルが立ち並び、向かいにはコンビニや飲食店なんかがひしめいている。避難した住民たちはまだ戻っておらず、深閑とした夜の街が街灯と信号機に照らし出されていた。

 

 適当なマンションの居室に空き巣しようとしたけど、鍵がかかっている。そりゃそうだ。どうしよう。

 

「ここ、入る?」

 

 ぐしゃ、と金属のひしゃげる音がした。

 

 殺意の魔人の尻尾が、鍵穴もろともドアの一部を抉っていた。引き抜かれた尻尾の先端は槍のように尖っていて、「これでいい?」と首をかしげるような仕草をする。

 

 いいとも、元の住人には申し訳ないけど壊しちゃったものは仕方ない。さっさと中へ入り、寝室のベッドに殺意を横たえ、救急箱を探し出して手早く手当てした。

 

 消毒液をぶっかけて絆創膏と包帯をべたべたぐるぐるするしていくと、殺意の魔人は徐々に表情を和らげ、ついには笑顔を見せた。

 

「ありがと、もう大丈夫よ」

「じゃ、しばらく大人しくしててね」

 

 殺意はいったん寝室に置いといて、次にやるべきことをやる。たゆへ連絡しなきゃ。

 

 でもうまくいかない。私の権能スマホはいつでもネットにつながるしバッテリーは無限、壊れても再生するお役立ちアイテムなんだけど、困ったことにたゆがスマホを持ってない。闇堕ちと同時に解約されたっぽい。だからなぜかつながるうちの固定電話に掛けてみると、留守電に切り替わってしまった。

 

 たぶん、たゆは足止めの魔物を倒した後すぐに私を探しに出たんだろう。過去二回の誘拐を考えて、今も死にもの狂いで探してるはず。

 

 この町は過疎化しているとはいえ一人でしらみつぶしするには広過ぎる。どうにか居場所を知らせないといつ合流できるか。

 

「セーカ」

 

 居間で腕を組んで唸っていると、お腹に何かが巻き付いた。殺意の尻尾だ。明るいところで見ると艶のない黒一色で、手触りのいいエナメル質の表皮の下に強靭な筋肉を感じる。さっきのドア破壊を思うとこれに巻かれるのはかなり怖い。

 

「……大人しく寝てろってば、けが人」

「平気、もう痛くない。それより、セーカを一人にする方が怖いわ。また私を置いて、どこかに行ってしまいそうで」

 

 するり、と細い腕が後ろから首に回された。噛みちぎった手首はもう再生したのか、包帯の下に血の一滴すら滲んでいない。

 

「お互い魔人になったんだもの、もう争う理由はないわ。今度こそずっと一緒よ、セーカ」

「待てーい」

 

 殺意の手と尻尾をタップした。力が緩んだところで抜け出して殺意と向き合うと、きょとんとした顔をしている。その顔をしたいのは私の方だ。

 

「セーカって誰。そもそも君と私は今日が初対面でしょ」

「えっ」

「わわ、泣かないでよ」

 

 愕然とした殺意の瞳が涙で潤む。はらはらと溢れるしずくを思わず袖で拭ってやった。

 

「そんな、ひどい。セーカが言うから私、五年もあそこでじっとしてたのに」

「ごめん、ごめんってば、ね?」

 

 その場にへたりこんで殺意が泣きじゃくる。嗚咽してしゃくり上げる様は見た目よりも幼く見えるけど、魔人の尻尾は猫が不満を表すがごとく荒れ狂い、打ち付けるたび床板が紙のように捲れ上がる。

 

 理由も分からず自分が女を泣かせている状況ほど心地の悪いことはない。謝るにしろ励ますにしろ、まずは事情を聞かないと。

 

 セーカとは誰か。私と殺意の魔人はどんな関係なのか。

 

 根気強くなだめすかしながら聞いていくと、ティッシュ一箱使い切る頃にようやく殺意が答えた。

 

「誰って、セーカはセーカじゃない。赤井青華。あっ、魔法少女のブルーグレイスって言ったら分かるかしら」

「はぁ?」

「だから、ブルーグレイスよ。最強の魔法少女、軋む理性の矛を振るう、賢明なる理性の象徴。思い出した?」

 

 言葉が出ない。頭が真っ白、目が点になる心地。

 

 思い出したかと言われても心当たりは一切ない。そもそも私はブルーグレイスの本名が赤井青華であることすら今初めて知った。私が青華であり、魔法少女ブルーグレイスでもある記憶も実感もまったくない。私は間違いなく怠惰の魔人、サフィだ。

 

「えー、殺意ちゃん。この角を見て。どっからどう見ても魔人の印でしょ。実際私は二年ちょっと前に生まれたばかりの魔人だよ。魔法少女じゃあ断じてない」

「それはそうだけど……私のために、どうかして生まれ変わってくれたのではないの?」

「そんな都合よく生まれ変わりなんてないでしょ。まったく」

 

 ため息が漏れ出た。どうも私は人違いで拐われたらしい。

 

 魔法少女ブルーグレイスについては、殺意の魔人を封印した五年前当時の最強魔法少女だったことは知っている。殺意の魔人と並々ならぬ因縁があるのは察しがつく。今回はそこに巻き込まれたんだ。

 

 殺意の魔人は捨てられた子犬のような目で小刻みに震えている。そんなかわいそうな目をしても人違いの事実は変わらない。ぷいっと体を玄関へ向けた。

 

「どこに行くの?」

「帰るの」

「帰るってどこに……もしかしてあの魔法少女のところ? ダメよっ、魔人と魔法少女が一緒にいられる訳──」

「それが大丈夫なのさ。私とたゆは恋人だから」

 

 たまに主人と猟犬とかヒモとダメ亭主みたいにも思えるけど、なんにせよ私とたゆの関係は魔人と魔法少女の垣根を越えているのは間違いない。イカれた赤い連中との逃避行を共に切り抜けた仲に、部外者が挟まる余地はないのだ。たとえ殺意の魔人でも。

 

 そんな余裕がちょっと顔に出ちゃったのか。殺意の魔人の目が据わった。

 

「恋人ですって?」

 

 逃げよう、朝まで歩く羽目になっても徒歩で帰ろう。

 

 そのつもりで駆け出したときにはもう遅かった。尻尾が両腕を巻き込んで巻き付いてきて、身動きできないまま無理やり殺意と向き合わされる。目と花の先で、深淵の黒と原色の赤の瞳がどんよりと淀んでいた。

 

「恋人、恋人、恋人……!? ふざけないでよっ、私がどうしてあんなところで五年も……ずっと待ってたのに、迎えに来てくれるって信じてたのに、待ちきれずに出てきてみたら全部忘れて浮気……信じられない!」

「だっ、だから! 私は魔人のサフィ! ブルーグレイスでもセーカでもないんだってば!」

「いいえ!」

 

 鼻先がぶつかり、互いの吐息が混じり合う。殺意の瞳からとめどなく涙が溢れ、その滴はしだいに赤く濁っていく。

 

「あなたのその目! 空よりも海よりも深く、サファイアよりもきらめくその目っ! 間違いなくセーカの、ブルーブレイスの瞳よ。姿形が変わっても、私には分かる」

 

 目の色程度でと反駁することはできなかった。名無しの私にたゆが名前をくれるきっかけになった大事な部分だから。レッドグラッジには抉りたいとまで言われたが。

 

「決めたわ」

 

 殺意の尻尾は蛇のように私の体を這い、腕と足をぐるぐる巻きにした。尻尾の長さは身長の二倍程度だったはずなのに、今は十メートルを軽く超えている。腹立たしいほど便利な尾だよチクショー。

 

 殺意が膝を抱えて座る。私も正面から向かい合う形で座らされた。

 

「セーカが思い出してくれるまで離さない。どこにも行かせない。どこにもよ」

「ふんっ、今に避難した人たちが帰ってくるさ。たゆと、この町の魔法少女たちもすぐに」

「無理よ」

 

 殺意は右腕の付け根を左手で握り、そのまま水風船のごとく握りつぶした。肉の破裂する音、太い骨の折れる音、細かな何かが千切れていく音を経て、右腕が丸ごと切断される。断面から漏れ出る真っ黒な靄は壊れた蛇口のように流れ落ち、落ちた右腕を呑み込んだ。

 

 黒い靄は血ではなく、殺意の魔人を構成する負の情念──人類が抑圧して見ないふりをした殺意そのものだ。

 

 濁った殺意の奔流は瞬く間に二つの球を形成した。バスケットボール大のそれらはぼこぼこと泡立ち、おなじみの触手の塊へと変じていく。

 

 変異を終えて誕生した二体の魔物は、どちらも大型犬程度の大きさだ。しかし体を構成する触手の表面や先端に、返しの棘、鎬の浮かぶ刃、乱杭歯の生える口腔などがびっしり詰まっている。無差別な害意を具現化したような外見は、今までの魔物とは別格の威圧感を放っていた。

 

「この町に近づく人間をみんな殺して」

 

 魔物たちは頷くように体を震わせると、床へとぷんと沈み込み、姿を消した。

 

 後に残されたのは私と殺意の二人きり。

 

 尻尾の拘束はまったく緩む気配がない。たゆがあの二体をやっつけた上で、ここを突き止めるまで助けは望めない。

 

 殺意はにっこりと、惚れ惚れするような笑みを浮かべた。

 

「もう絶対に逃さない。大好きよ、セーカ」

 

 あー、ほんと。

 

 モテる女はつらいなあ。


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