「面っ!!」
光輝の振るった竹刀から、思い切りのいい快音が響く。
対戦相手はしかしそれに動じることもなく、淡々と間合いを図っている。今のは、相手が見せてくれた隙を打った光輝会心の一本だった。
ありふれた休日の日曜日に、雫と光輝、そして八重樫道場の門下生たちは汗を流していた。いつもと違うのは、道場が招いた先生、藤村大河が稽古をつけてくれているということだ。今はかかり稽古の最中であり、雫は自分の番の稽古を終えて、綿タオルで汗を拭っていた。
かかり稽古とは、攻撃側と防御側に分かれての稽古である。攻撃側が十分な速度、声、踏み込みで攻撃していれば、防御側はそれを受ける。十分でない攻撃があれば、容赦なく防御側はそれを切り捨てる。これを、攻撃側や防御側を入れ替えながら行っていく。
攻撃側は絶えず自分自身の会心の一撃を放たねばならないので、攻撃側にとってやや面倒な稽古と言える。雫も休憩の番が終わると、再びその流れに加わった。
しかしながら、光輝と雫の稽古への意気込みは高かった。雫は自分自身の今出せる全力を出し、声を枯らして竹刀を振るう。
相手を変えて移動しながら、目的の相手、藤村大河へとたどり着いた。
雫は、大河への礼を込めて、全力で竹刀を振るった。
そして、全ての稽古が終わり。
互いに礼を行い、道場の掃除をして解散となった。
「藤村先生。本日はお越し下さりありがとうございました。」
父が大河に頭を下げるのに合わせて、雫も頭を下げる。
「いいえ。私の方こそ、お招きいただいてありがとうございます。本当に、久しぶりに楽しく稽古が出来ました。いいお弟子さんたちですね。」
「いやいや、そう言って頂けて光栄です。熱心な子が居ると、周囲も活気づきますからね。」
「ええ。あの光輝くんですね?」
「うちの出世頭ですからね、光輝は。」
そんな大人同士のやりとりの後、父が去り、雫は大河に漸くお礼を言う事が出来た。
「あの、藤村先生。」
「うん?どうしたの、雫ちゃん?」
「私、むかし……小学校のころ、先生に相談に乗っていただきました。実は今日もそのお礼を言いたかったんです。
本当に、ありがとうございました。」
「……?小学校?」
「五年前のことです。」
やはりと言うべきか、藤村先生は記憶に無いようだった。当然だろう。雫だって、最近まで記憶を封じ込めていたのだから。
当時の雫は、ありふれた小学生だった。今のように休日はお洒落に気を遣うということもなく、今のように周囲より背が高いということもない。
ただただ普通の、ありふれた小学生。
今と違うのは、その時の雫は虐められていた、ということ。
理由は単純だ。
……光輝と仲が良い。
たったそれだけの理由で、女子たちは団結して雫を無視した。仲間の輪に入れてもらえず、それを光輝に相談すれば、そんなはずはないと否定された。
クラスの皆が、そんなことをする筈が無いと。
何も信じられず、家に戻って道場で稽古をする気にもなれず。
橋の下で蹲っていたところで、見知らぬ高校生のおねぇさんに声をかけられた。おねぇさんは、竹刀袋と防具袋を下げていた。
「どうしたの?大丈夫?どこか痛いの…?」
思えば当時の私は自棄になっていたのだろう。見知らぬ女性を警戒することもなく、そのおねぇさんに心を許していた。
とんでもなく不用心な話だ。
「……痛くない。」
「そっか、痛くないか。そんな風には見えないなぁ。」
「……痛くなんかないもん。」
女の人は何も言わずに、そっとハンカチを渡して、涙と鼻水を拭ってくれた。
それをきっかけに、私はおねぇさんに全てをぶちまけた。
家への不満、お洒落が出来ないことへの不満、クラスメイトへの憎悪、光輝への怒り。
それらをすべて、おねぇさんは受け止めてくれた。
「……こんなことなら、好きになんてなるんじゃなかった。」
確かそんな風なことを言った気がする。
「それは違うよ。誰かを好きになるって、凄く大切なことなの。」
きょとんとした私に、その人は言った。
「雫ちゃんのお父さんもお母さんも、雫ちゃんのことが大好きだから、自分の好きな剣道をさせてあげたかったんだと思う。
大切な人には、自分の好きなものを好きになってもらいたいから。」
「そうなの?」
「そうなの。友達とペンの交換とか、交換日誌とかしない?」
「……うーん?」
「多分、お父さんもお母さんも、雫ちゃんが悩んでいることを話せば、分かってくれるんじゃないかな。光輝くんも、今は無理でも、分かってくれるよ。」
「……分かったらゆるす。」
「おっ、立ち直ってきたな?」
「……でもね。分かってくれるように、ちゃんと伝える。分かってくれなくても、伝える。伝えることが、大事なんだよ。」
それから、私はおねぇさんのことが気になった。手に持っているのは、剣道の竹刀。
この人も、剣道をしているのだ。小学生にとっての高校生は大人だ。そんな大人のおねぇさんは、何をしているのだろう。
「おねぇさんも好きな人いるのー?」
今にして思えば、恐れを知らない質問だったと思う。
「……うん。そうだよー。いるよー。」
「どんな人―?」
「そうねー。いつも死んだ魚みたいな目で、無精ひげで、身の回りのことにだらしがなくて……」
「何で好きなの?」
当時の私はそう言った、気がする。
……そうか。
昔から、ツッコミキャラだったんだな、私。
「……でもね。凄く、寂しそうな人だったの。」
「……?」
「何か、もう色んなことに疲れちゃって、自分を好きになれなくなった。そんな感じがする人だった。」
「うん。」
「……そういう人は、大切なものを取りこぼすの。」
昔の私は、その意味は分からなかった。
今は、何となくだが分かる気がする。
「でもそんな人が、誰かの為に困ったようにしてるところを見て……支えてあげたくなって。でも、結局告白は出来なかったなぁ。」
「……分かんない。」
「それでいい。いや、むしろその方がいい!ちゃんと生きてればきっといつか、人を好きになって、この人の傍に居たい!って思う人に会えるから。」
「うん。私、頑張ってみる。」
そうして、そのおねぇさんは私を家まで送ってくれた。
…正直、藤村先生が言うような人が居るのかどうかは分からない。
ただ。
辛い時に、傍に居てくれる誰かが居るということは、それだけで心の支えになる。
それを、藤村先生は教えてくれた。
この世界でも切嗣は……