体育祭が最良の結果で終わり、雫たちのクラスは良好な雰囲気で梅雨の季節を迎えていた。
檜山たちは士郎と煽り合うということもなく、自分たちの雄姿やら不良としての武勇伝を仲間内で語り、光輝たちはいつも通りにテレビの内容や、好きなアイドルについての感想や理不尽な部活の先輩について愚痴を言い合う。そんな穏やかな日々の中でも、見えないところで地雷は潜んでいる。
この時の雫は、それに気付いていなかったし、それどころではなかった。穏やかな日々の中でも雫には環境の変化があったからだ。
体育祭での一件以来、光輝を巡って他所のクラスの女子たちの牽制合戦が始まり、香織がそれを軟着陸させるという一幕があり。
体育祭で活躍してしまった自分に何故か”お姉さま”と慕う女子が増えたりと、それはもう散々な日々を過ごしたのだ。
平和とは、大勢の人々の水面下での努力によって保たれているものなのだ。
「同い年なのにお姉さまってどうなのよ。」
「雫ちゃんは凄かったからねぇ。あれを見ちゃったら皆が慕うのはもう仕方ないよ。」
香織はそう言うが、あの時の自分は実力以上の走りが出来ていた。もう一度同じタイムを出すには、コンディションをピークに持っていかなければならない。雫に言わせれば出来過ぎた結果なのだが、雫の大人びた容姿や長身が、憧れも相まって女子たちから分別を奪う要素になっていた。
強くてカッコいい女性だと、思われているのである。
「シズシズはうちのクラスにとって勝利の女神だったもん。お姉さまより、女神の方があってるんじゃない?」
「やめてよ、気持ち悪い。女神なんて柄じゃないわ。」
からかってくる鈴を一蹴しながら雫は、やれやれと溜息をついた。
(まぁ、昔みたいに女扱いされないよりはマシよね……)
周囲から期待される人間は、同じくらいに心理的な重圧も背負うものだ。それに見合わない働きをすれば、一瞬で手のひらを返されるのだから。部活や生徒会やらで何らかの活動をしていれば、誰だって似たような重圧は受けるだろう。雫の受けているそれなど可愛いものだ。光輝や龍太郎だって、体育祭でやったような人間関係の調整を何度もこなしている。
(……お姉さま、か。)
部活や道場で、門下生を指導したことは幾度となくある。その度に、自分がそう言われるに相応しいふるまいが出来ているか、内心気にしてもいる。自分はちゃんと出来ているだろうか。
(……藤村先生に相談してみようかな。)
自然と、姉らしいことが出来る存在。雫にとっての手本になりそうな人を思い浮かべた。
藤村先生のことを思い浮かべた流れで、彼女の弟である士郎の方を目で追う。見れば士郎は、普段は話さない男子生徒と何かの話をしていた。
(……ま、いつものことか。)
士郎が誰かから頼まれごとをすることは、このクラスでは珍しいことではない。雫はすぐに、香織との雑談に戻った。
その日の放課後。
弓道部での活動を終えた士郎は、町の中心部から少しだけ外れた喫茶店に入っていた。待ち合わせの人物が到着するまで、今日やった授業のノートを見直し復習する。頼んだ紅茶には口をつけていない。
「ごめん衛宮。ちょっと迷っちまって。」
「いや、謝ることなんてないぞ。約束の時間より5分早いじゃないか。」
待ち合わせの相手は、自称オタクの清水幸利だった。普段からどこか卑屈な雰囲気を漂わせていたが、今日はそれだけではなく顔色まで悪かった。そのため士郎が声をかけたのだが、教室では離せないからと喫茶店で待ち合わせをしたのだ。
「こんな場所、この町にあったんだなぁ。俺、喫茶店なんてほとんど来たこと無かったし気付かなかった。……何か、人少なくない?」
そう清水が言うように、店内は客がほとんど入っていない。
「最近光輝の奴から教えて貰ったんだ。平日は人がほとんど来ないから、相談にはもってこいだ。」
「そっか、あのリーダーも色々知ってんだなぁ。」
清水はそう愛想笑いを浮かべるが、やはり顔色が悪い。流石に心配になった士郎が清水に飲み物を勧める。
「とりあえず何か頼んどくか?」
「そうだな、……あ、アイスココアで。」
バイトさんに注文をして、清水は士郎の方に向き直る。その顔はまだ青白いままだったが、瞳には決意があった。
「あのさ、衛宮。この話をする前に、ちょっと約束してくれないか?」
「いいけど、どういう約束だ?」
随分と勿体をつけたものだが、士郎は微笑のままそれに応える。相談する人が口にする言葉は、大体決まっているからだ。
「……えっと、信じられないかもしれないけど、俺の話を信じてほしい。」
「ああ、勿論だ。」
士郎の言葉に気を良くしたのか、清水はさらに言葉を続ける。
「あ、あと。俺の話した内容を聞いても、怒らないで聞いてくれるか?」
「……どうして俺が怒ると思ったんだ?」
「いや、まぁ……」
幸利はとても申し訳そうな顔だった。喉元まで出かかった言葉を言いたくないような、しかし言いたくて言いたくて仕方が無いような、そんな雰囲気だ。
「怒るかどうかは聞いてみないと分からないけど、清水がそれだけ困ってるんだったら話してみてくれ。少しは力になれるかもしれない。」
その士郎の言葉を信じてくれたのか、清水は意を決して話しはじめた。
「……実はさ、ストーカーを見たんだ。」
「!?」
士郎は驚きのあまり絶句した。しかし、士郎の驚きはそこで終わらなかった。
「……しかもそのストーカーが、白崎さんだったんだ。」
そこから、幸利は自分が遭遇した出来事を詳細に語り始めた。
中間考査前の休日、ハジメと一緒に勉強の邪魔になる書籍を処分しに出かけたこと。
その道の途中で、こちらを見る妙な視線を感じたこと。
その視線は実は自分ではなく、ハジメを見ていたこと。
そしてここ一か月、休日の度にハジメが尾行されていたこと。
「南雲はまだストーカーされてることに気づいてない。俺が気付いたのもぶっちゃけ偶然っていうか、何か美人そうなオーラ出してる人が、毎回違う服で、一定の距離で近づいてたんでそうじゃないかって思ったんだ。」
その言葉を聞いた士郎は、怒るよりも困惑のまま幸利に問いかける。
「……本当に白崎なのかどうかは置いといて、それなら警察に相談した方が良いんじゃないか?」
そう言うと、幸利は何枚かの絵を見せてきた。
「これ、そのストーカーが来てた服と、その人の全体像なんだけど。髪型とかはカツラで誤魔化せるし、身長は靴で伸ばせば何とかなる。でも俺には白崎さんにしか見えなかったんだ。南雲を見てる目が白崎さんにしか見えなかったんだよ。」
そう言われて出された絵は、確かに香織らしい骨格の女性に見える。そしてその絵の中に、士郎にとって気になるものがあった。
(……これ、あの時の服じゃないか?)
以前休日で映画を見に行った日。士郎の服があまりにもダサいと町の服屋で買いなおした、その時に、香織が買っていた服が、その中にあった。
「俺も滅茶苦茶なこと言ってるのは分かってるし、これだけじゃ証拠にならないかもしれないけど。」
言っている幸利も必死だった。自分には、ハジメ以外に親しい友人などいない。そのハジメがクラスのマドンナから思いを寄せられているらしいことに、内心嫉妬したこともある。だが、友人の幸せを願う心だってあったのだ。
なのに。
なのになのに、その子がストーカーだったかもしれないのだ。清水の内心か混乱と恐怖でいっぱいになった。
清水は深々と士郎に頭を下げた。
「衛宮、信じられないかもしれないけど、俺を信じてくれ。何とか穏便に、南雲がストーカーに気付かないように何とかしてやってくれ……!」
どう考えても、無茶振りであった。付け加えるなら、士郎は光輝たちのグループの一員だ。あまり付き合いのない幸利の言葉を信じて、友達である香織を疑うなど普通はありえない。幸利に対してそんな義理はないのだ。
だが、この時の幸利はそんなことまで頭が回っていない。
幸利は友達として、ハジメの心を守りたかった。やっと出来た友達には、ストーカーだの何だのと気にせず幸せであってほしかった。
何とか穏便にストーカー事件を解決して、普段通りにハジメとオタク談議がしたかったのだ。
ただ幸利には、直接、香織と話をする勇気が無かった。そんな時に、士郎から話しかけられたのだ。
幸利は、藁にもすがる思いで士郎に縋りついたのだった。
「清水、頭を上げてくれ。清水は何も悪いことなんてしてないじゃないか。」
それを聞いて、幸利は反射的に頭を上げる。
「白崎から事情を聞いて、ストーカーかどうか確かめる。」
「衛宮!」
清水の顔がこれ以上なく輝いた。この瞬間だけなら、光輝にも匹敵する笑みだったかもしれない。
そうではないかもしれない。
「もし本当に白崎がストーカーだったら、話し合ってそんなことは止めさせる。」
そう言った士郎の言葉には、一点の曇りも無かった。
「あ、ありがとう……!」
「いや、まだ事件は解決してないんだ、礼はいい。それより、清水もよく話してくれたな。今まで大変だったろう?」
「あ、ああ。正直に言うと怖くて、最近は寝不足で。でも、話せてよかった。聞いてくれて、本当にありがとう。」
そう言って、幸利はココアを飲み干すと何度も感謝の言葉を述べて去っていった。今日は、もしかしたらよく眠れるかもしれない。
(まずは裏を取らないとな。)
士郎はそう思い、今後すべきことをノートに書き出すのだった。
原作と違って南雲くんと友だちになった結果、知りたくもない事を知ってしまった清水くんに幸と利あれ。