S.T.Y.X.の名は忘れられなければならない。百年の昔に募らせた、全ての憎悪(Στύξ)と同じように。千年の間に積もらせた、全ての嘆き(Woe)と同じように。死者の国(アンダーワールド)の入り口は、いつの世であれどこにもない場所(ユートピア)である。
記憶処理機能が回復してくれないと作者が安心できないのでレテ河相当物再構築回。※ツイステ受動喫煙※六章後編2バレ

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蚕食

 

 (オルト)兄と同じ学校(ナイトレイブンカレッジ)に通いたいと言った。イデア・シュラウドが彼らの記憶する全き真実を見えないところへ押しやるのを決めるのには、それで十二分だった。

 

 レテの河は失われた。忘却の女神がシュラウドに手を貸すことはもはやない。それでも、忘却と欺瞞を抜きにして賢者の島へ行けると思うには、イデアは少しばかり冥府(アンダーワールド)のことを知りすぎた。死の先(アンダーワールド)から戻ったものが陽の下を歩けるほど、この世界は無菌ではない。

 

「父さん」

 炎の髪の男が振り返る。機密情報と家族の団欒以外なら何でもくれた、イデアの父だ。きっと、たぶん、間違いなく、イデアの弟を最初に冥府(扉の向こう)に投げ入れた男。それを無表情と効率厨の仮面の奥に隠してずっと嘆いている、一人目の弟(オルト・シュラウド)の父。この島に生まれて、番人(シュラウド)以外の生き方を知らないままに死んでいくだろう彼の琥珀金の瞳が、続きを促すようにイデアの同じ色を見た。

「……レテの河の代わりを作ったら、オルトと一緒に学園に通ってもいい?」

 お前がそうする必要はない、と父は言った。かつてイデアがケルベロス・システムを完成させようとした時と同じように。イデアにそれができないと思われているのではなかった。イデアが十の時に技術者として追い抜かされた男は、それでもイデアを子供として扱おうとしている。

 

「お前たちがそうしたいのなら、そうするといい。ディア・クロウリーは融通の利く男だ」

 ORTHOのことを人に準ずるもの(ヒューマノイド)と最初に定義したときのように、硬直した無表情と柔らかな声で父は言った。イデアが、オルトと一緒に馬車に乗るのだと言った時のように。一人残った我が子の、叶えられる望みを叶えるために。

 

「……ケルベロス・システムと同じ特性を組み込もうと思ってて……シュラウド(僕たち)には効果のないようにしたくて」

 もう二度と、オルトの姿を忘れないように。イデアの罪を忘れないように。冥府(オルト)の嘆きの声が、(オルト)の願いの声が、この脳裏から消えてしまわないように。奈落(タルタロス)の底で数十年先の約束を待っているだろう彼の存在を、この記憶から取りこぼさないように。

 その願いに、父は当然気づいただろう。傷を抱え続けることを選んだ息子を憐れむように目を伏せて、彼は頷いた。

「好きにしなさい。ただし、ひと月までだ。説明を引き延ばすのも限度があるからな」

 


 

 ベッドと椅子とテーブル。スタンドアロンのコンピュータとオルトの機体(ギア)保管用ポッド。工具が一式。自分達の部屋ではない、謹慎室にオルトの調整に最低限必要なものだけを運び込んでもらったそこが、イデアの嘆きの島における今の部屋だった。

 

 イデア・シュラウドは失敗した。地下のオルトは終ぞ外を見ることなく再び冥府(アンダーワールド)に沈んでいった。あの日イデアの最初の弟が、憎悪(ステュークス)の抱える亡霊(ファントム)の手で死者の国(アンダーワールド)へ連れて行かれたように。イデアの二番目の弟(「ムシュー・お人形」)と共に冥府(ブロット)の沼底に沈んでいった。(オルト)の手を二度までも放してしまった、イデアのせいで。

 

「お、オルト。お願いがあるんだけど」

「『レテの河』のサルベージなら手伝わないからね!」

 ぷい、と効果音のしそうな勢いで顔を背けた弟に、イデアは思わず笑ってしまった。

「違うよ。あった方がいいと思ってるのは事実だけど、オルトに頼みたいのはそうじゃなくて」

 

「……お前が、彼らに憶えていてほしいものは何?」

 イデアの言葉に、オルトは不機嫌を隠さずに質問で返した。全部、と言いたかった。(イデア)の叫びも、「前」(オルト)の嘆きも、ORTHOはなかったことになどされたくない。冥府の覆い(シュラウド)のことも、自分たち兄弟(シュラウド)のことも、イデアの弟(オルト)は誰にも忘れてほしくない。

「兄さんは?」

 答えは迅速だった。兄の琥珀金は小動もしなかった。彼が、造り物(魔導ヒューマノイド)である自身よりも尚、理性の人であることをORTHOは知っている。

「僕がオーバーブロットしたこと、雷霆の槍で以って彼らがそれを撃退したこと、シュラウド(僕たち)がNRCのあちこちを壊したこと、彼らが詳細な検査を受けたこと」

 それから、一拍置いて。

「……あと、みんなでゲームしたこと

 そこで初めて、イデアは目を逸らした。まるでそれが、世界のぜんぶを投げ出すことよりも後ろめたい望みであるかのようだった。

 

 オルトは少し考えてから、「ナイトレイブン・クエストも?」と訊いた。攻略者にとっては愉快な思い出ではないかもしれないが、地下なるオルトにとってあれは兄以外とゲームをした唯一の思い出だ。

 

「お前がそう望むなら。……あー、場所だけちょっと辻褄合わせていい?」

「判断基準の開示を要求します」

 

「わかった。……まず、嘆きの島の所在、特に冥府の門の存在を知られるわけにはいかない」

 イデア・シュラウドは、じっとオルトの目を見たままにそう言った。アジームの館の場所が周知なのは、彼らの財が黄金の形ではないからだ。水路と絹地の織手、あの場所に所在のあること、婚姻による身内の広さ。積み上げた他家との過去そのものが、彼らの財産であるからだ。宝物を盗まれたところで、よしんば権利証を奪われたとしても、彼らの立場が揺るぎないからだ。血族の一人欠けたところで、彼以外の誰かがそれを埋めるからだ。

 

 その(呪詛)だけが証である冥府の番人(シュラウド)とは違って、この血にこそ最も価値ある扉の前に在るもの(アンダーワールドへの鍵)とは違って、彼らが世界を滅ぼすのには時間が要るからだ。少なくともイデアは、古い記録からそう教わった。

 

 けれど、それ以上に。

 

「お前が、少なくとも魔法的に、冥府(アンダーワールド)と繋がり得るものだと知られるわけにはいかないんだ。……できれば、僕も」

 

 地下世界(アンダーワールド)は、死者の国(アンダーワールド)である。強烈な魔法エネルギーによって焼き付いた、死者(永遠なるもの)の意思と記憶が在る場所。魔力によって世界に焼き付いた未練と記憶(ゴースト)と、ブロットによって世界に焼き付いた怨嗟と妄執(ファントム)のある場所。

 門の向こうの冥府(オルト)は今や冥府そのものであり、呪学的な照応で言えば死者の国の王にさえ通じる。魂が観測不能なものである以上、空と地下のオルト・シュラウドには同一の魂が遍在するという解釈も可能だ。神代から溜め込まれたブロット(タルタロス)よりも、冥府の門の鍵(シュラウドの血)よりも、異端の天才の最高傑作(魔導ヒューマノイドORTHO)よりも。その身柄を狙う者は多くなるだろう。

 

 イデアは、それが怖い。もう一度オルト・シュラウドを失うことが、二度とまみえることのできない(オルト)がこれ以上増えるのが、たまらなく恐ろしい。

 

 オルトは、罪がなかったことになるのは嫌だと訴えた。魔導ヒューマノイド(オルト・シュラウド)が世界に刻み得た傷のことを、外の世界が忘れてしまうのは嫌だと言った。それは、冥府たるもの(オルト・シュラウド)が最初で最後、外の世界に与えることのできたはずのものなのに、と。それでなければステュクスの向こう(この世)の誰も、奈落の底のオルトの存在を知らないままで終わってしまう。

 

 今度こそ、イデアはその声に悲嘆と憎悪の籠ることを隠せなかった。ゴースト(さまよえるもの)が先へ進めないものだとして無罰と強制成仏の二択でしか罰せられないように、オルト・シュラウドが人に準ずるもの(ヒューマノイド)であるのは現状、名前の上でだけの話だった。

「お前の罪は僕のものだ。……お前の意志がどうこうじゃなくて、どこの国でも法律上そうなってる」

 今度こそ、この(オルト)にこそ、こんなことは言わないでおこうと思っていた。オルト・シュラウドがただ一人として立てないものであるかのようなことは、絶対に。それなのに、イデアはあまりに無力だった。弟の望み一つ満足に叶えてやれないくらい。オルトを、シュラウドのものとして一人送り出すことも適わないくらい。

 

 彼が、シュラウドでなければ。イデアは彼を送り出す事がきっとできた。もっと別の、手入れがしやすくて炎の髪のない機体を贈って、地下から一番遠いところまで送り出す事が、きっとできたはずだ。オリンポスの頂上よりももっと高いところへ行くのを見送ることが。

 

「兄さんのいじわる」

 

 きっと、奈落の底の彼が彼らの知るオルト・シュラウド(魔導ヒューマノイド)ではなかったことを、賢者の島の子供たちのうちの誰も知らない。そのことはオルトもわかっていた。それでもオルトは、冥府たるもの(オルト)は、覆いの内の子供(オルト)は、これ以上。

 

「……忘れられたくない」

 そんなの僕もだ、なんて言えるわけもなかった。忘却よりも記憶を選ぶことが正しい願いだと、イデアだってわかっている。記憶よりも忘却を与えることが本来の行いだと、オルトだって理解しているように。

 

 永遠の喪失を、レテの向こうの暮らし方を、その昔にどれだけ知りたくなかったことでも知恵の実を飲み込んだ後から手放すことは一層苦しいことを、イデアはとうに知っていて、それでも人々に(忘却)の道を示そうとしていた。この道のほかに何かできるかもしれないということから目を背けて、これ以上この島に嘆き(死者)を増やさないために。

 

「僕は覚えてる。……それだけじゃ不満かもしれない、けど」

 オルトは、兄に百年でも生きていてほしい。誰かに、それも一方的に傷つけられるところを見たくない。それが、一番最小の願いだ。

「……わかった。邪魔はしないよ。……でも」

 

 オルト・シュラウドは、冥府の番人(イデア・シュラウド)が滅多刺しにして押し殺している小さな少年(あの日の願い)を憶えている。この世界でたった一人、それを尊重しても許されるものとして、憶えている。だから、生きていればそれでいいなんて絶対に言わない。

 

 望みを叶えるだけが兄弟(オルト)ではない。兄は、初めからそんなものは願わなかった。

 祈りに応えるだけが作品(オルト)ではない。兄は、初めからそんなものは作らなかった。

 ただこの自分(オルト・シュラウド)が、一人のひととして、兄弟の幸福を願っているだけだ。

 

「いいよ、それで十分。……あ、でもやっぱちょっとだけ手伝ってほしくて」

「もう、兄さんったら。なあに?」

「術式具体形の演算」

大型計算機(メーティス)の申請出しなよ」

「誰かさんがあちこち派手に壊してくれたせいで予定いっぱいなんだってさ」

「……はーい」

 

 罪をなかったことにはしないと、兄は言った。オルトがオーバーブロットしたことも、隠すことはしないと。ただ、全部が賢者の島(イグニハイド)で始まったことにはする、とそう言った。

 


 

 兄はレテの河に変わる魔法の媒体として、最終的に電磁波を選んだらしかった。海中でも減衰しない、妖精族ですら意識しなければ感知しないほどの超々長波長電波。その催眠規則(パターニング)

 被害そのものを忘れさせることはなく、辻褄を突き詰める者には効果も薄い。けれど神々ならぬ今の秘匿するもの(シュラウド)にとってはこれが精一杯だ。

 

「……ねえオルト」

 情報処理用機体(イグニハイド・ギア)の回路をフル稼働させるオルトに、電波に変換(コンバート)する前の魔法式を睨みながらああでもないこうでもないと唸っていた兄が話しかける。

「NRCの編入先、一年生にするならさ」

 殺風景な部屋に青白の光が瞬く中で兄が見ているものは、きっと画面の中の魔法式ではなかった。オルトがもう一度賢者の島に行くそのあと、一年か、もしかしたらもっと先の未来。冥府(オルト)が奈落の底から這い出たときに、彼が諦めてしまったもの。

 

「副寮長になるつもりある?それから、次の寮長も」

 イデアが一番好きなイグニハイド寮生はもちろんオルトだけれど、これに関しては贔屓のつもりはない。もともと副寮長を置いていなかった理由の半分はオルトがいれば十二分だからなので、そのオルトが正式に生徒になるならこれは当然の話だ。

「そもそもうちの寮トップに成りたがる生徒少ないし、オルトならその辺の二年よりよっぽど寮のことよく知ってるし、それに……」

 

「寮長の名前は、ずっと記録に残る。教職員しか見れない卒業生名簿じゃなくて、その気になれば誰でも見れる形で」

 ナイトレイブンカレッジの寮長は、各寮位相における七大君主(グレートセブン)の代理人で、寮空間との契約主でもある。歴代寮長の名前は同窓会誌でもホームページでも公開され、図書室の記録簿にも残される。公表情報なので学校に問い合わせれば絶対に返ってくる。オルト・シュラウドという生徒がいたことを、誰もが知ることができる。

 

 それを、こうやってオルトに関する記憶を歪めようとするイデアが願うのはおかしな話かもしれない。でもとにかくオルトは頷いたのだ。嬉しそうに、兄さんとおそろいだね、なんて言って。それなら、この話はもうそれでおしまいだ。

 


 

 オルト・シュラウドがナイトレイブンカレッジ一年C組に編入してから、一番初めの月のない夜だった。昔々は憧れていたはずの瞬く星の光の下を、イデアは一人きりで歩いていた。ひと月の制限にぎりぎり間に合った新生・忘却の呪いは、今日のこの夜に(そら)から降る予定だった。

 

「結局、忘却(レテ)より碌でもないものになっちゃったな。まあいいか。冥府(オルト)ORTHO(オルト)が無事でいるより大事なことなんて何にもないんだから」

 

 レテの河は、神代の魔法の産物であった。いつか本当に必要になる日のため、時見の瞳の三女神(モイライ)が授けたものだという。それに少しずつ手を入れて、本当に必要になった時というのは嘆きの島が海に沈んだ日のことだったのだろうと思う。

 

 レテの河は感染する。だがそれゆえに、海の底の人魚たちまでは届かないことが多い。効果が重なって消しきれない論理積から、幾らかの賢者は水底の嘆きに辿り着いたことさえある。

 

 けれどこの天より降る無明の光は、賢者の目をこそ曇らせる。死を見つめるものの少ないように、嘆きの島(覆いのその先)は隠される。あの光は、死と病の色(メリノエー)の司る、忘却よりも恐ろしいものを呼び起こす。

 

 手首に巻いた電波腕時計を見る。こうして外に出ている意味は何もないから、これはただの感傷だ。

 

「衛星通過まで三、二、一。断続電磁波(プロピュライアの光)照射開始」

 

 扉の前に在るもの(プロピュライア)の光。新月(見えざるもの)の明かり。魔術の女王(ヘカテー)の灯火。

 

「……忘れてくれよ。(S.T.Y.X.)のことも、冥府(アンダーワールド)のことも、()のことも、全部悪い夢だったんだ」

 あの日の本当は、全部が全部現ならざるもの(冥府の所掌)で、この夢こそが本当だと。そう信じてもらう。それがどんなに残酷な話でも、冥府(オルト)の安全に優越することなどイデアの世界には何もない。

 

「ひどい話じゃな」

 

 真横から、誰かの呆れた声がした。

 

 妖精族(神秘のいきもの)らしく箒なしに浮かんだ(見目は)少年は、イデアを詰りはしなかった。今夜の髪には月影に似た銀の色を差して、リリア・ヴァンルージュはそこにいた。

 

「うわっ!?……って、リリア氏か。サプライズ大好き妖精ムーブもほどほどにしてくだされ……」

「えー。正真正銘の妖精族に酷なこと言うのー。まあ本題はそれではないんじゃが」

「ですよねー。これ?」

 すい、とイデアが上空を指したのに合わせリリアも頷く。呪術照応に任せて神秘を削りに削った魔法の形式は、リリアにとって大いに覚えのあるものだった。アイドネ・シュラウドの魔法がそうだったように、イデア・シュラウドの魔法がそうであるように、術者以外が()()()魔法を使うよう組み立てられた術式。それは人よりもむしろ妖精に強く働くものだ。今夜の術はずいぶん大掛かりだが、それでもその例には漏れない。

 

「うむ。この術式、()()()()()()()()?」

「そりゃそうでしょ。(ニュクス)の眷属なんだから」

 (ニュクス)は、眠り(ヒプノス)がそうであるように、冥府(■■■)の配下である。その眷属を自ずから名乗る茨の谷の民に、冥府に由来する術はさぞや通りのいいことだろう。死者の国の王(グレートセブン)ではなく、地下の王(冥府たるもの)に紐づけられた術であれば、なおさら。

「ああー、それなら道理じゃな。術のことを聞いても?」

 イデア・シュラウドは一瞬だけ遠くを見やって、それから肯じた。死は眠りの兄弟であり、茨の魔女は死者の国の王と浅はかならぬ仲であったという。

「……まあ、リリア氏、って言うかマレウス氏なら発動したことくらいは把握できてた方がいいか」

 ごくごく一部とはいえ、夢を見ない妖精もいたはずであることだし。

 

「術式名称は『プロピュライアの光』。思考誘導の類いっすわ。忘れさせるんじゃなく、認識しなくなる。忘れたいと思わせる。自分から目を逸らさせる。全部悪い夢、冥府の王女(メリノエー)の仕業だ、ってね」

扉の前に在るもの(プロピュライア)、か。確か死者の国(アンダーワールド)の王女のことじゃったな?」

「そ。魔術と月の女神で、悪夢の女神と同一視される」

 

「影響を避ける方法は?」

「悪夢なんだから寝なきゃいいよ」

 投げやりにそう言うイデアに、リリアは思わず苦笑した。幾ら妖精族の代謝があってなきがごとしとはいえ、眠らなくとも生きていけるものは圧倒的な少数派だ。竜妖精(ドラコニア)でさえ五日に一度は眠る。

「無茶を申すな」

「まあトリガーが光の一種だからその辺避けることかな。後は……」

 地下に眠る黄金の瞳がリリアを見た。彼は、リリア・ヴァンルージュが茨の谷の将だと知っているのだろう。彼の祖母とは事実交流もあった。

「悪用はせん。魔法契約を結んでもよいぞ」

 

「……『冥府たるもの』に誓えるなら。魔法は要らない」

 イデア・シュラウドは、魔法による契約を信用していない。片側が妖精であるならばなおのこと。魔法の契約はペナルティが重い分、破らないぎりぎりを見極めるようとするものが多すぎる。それなら、実際的な拘束力など生じなくとも、冥府たるもの(オルト・シュラウド)にかけての約定の方がよっぽど信用できた。

「…………。うむ。誓おう」

扉の前に在るもの(ヘカテー)は特に新月の女神の側面が強い。新月の日だけ光遮断の結界に籠れば掛からないよ。超長波長の電波だから気を付けてね」

 この術(プロピュライアの光)は新月が昇っている間にしか使うことができない。正確には認識疎外が十分には働かず、記録されたものを見れば思い出すことができてしまう。魔法抵抗力の強い妖精族(アールヴ)であればなおさらだ。

 

「そうか。礼を言うぞ、冥府の愛子」

「どーも」

「否定はせんのだな」

「お、オルトと拙者が相思相愛なのはただの事実ですし」

「……!祝福はいるか?」

「いらない」

 

 リリア・ヴァンルージュは、嘆きの島の底に何が居るのか知っている。名を失った彼方の王、その妄執の焼き付き。それがイデアの弟を吞み、その意思を獲得したことを知ったとして、彼は何もしない。その確信があった。事実リリアは(物凄く驚いてこそいたが)、訳知り顔で頷いて「茨の竜らをよろしく」とイデアに伝言を頼むだけだった。

 

「うん、まあ冥府(オルト)に伝えときますわ。拙者が死ぬ(またオルトに会う)時でいいならだけど」

 


 

 結局、オルト・シュラウドが入ったのはボードゲーム部ではなかった。だからイデアは今日もアズール・アーシェングロットと交互にサイコロを振っている。今日は各人二人分の変則モノポリー。ラス1になるか時間終了時に自陣合わせての総資産が多いほうが勝ち。

 

「イデアさん、この間のオーバーブロットの件ですけど」

 開始早々片方が牢屋送りになったアズールは、なんとかゾロ目を出そうと手首の感触を確かめながらそう言った。遠慮とか容赦とかいう文字はアズールの辞書にはない。それで契約が優位になるなら考えるが、この学園ではそうもいかないので。

「はいはい、何?モスラの売上と破損は三割増で返したはずだよね?」

「それは頂きましたが、そうではなくて。そもそも何が原因だったんです?僕が気付いたのはあなたの『ゲーム』が始まった後でしたが、そもそもイグニハイド寮を含め誰も肝心なところの目撃者がいないようで……」

 

 アズールは、あの日のことを思い出していた。イデア・シュラウドが部活に来なかった。思い返せばそれが最初の兆候だったのだと思う。

 

 まず、放送システムが乗っ取られた。次に、イグニハイド寮からドローンがわさわさと這い出してきた。そしてオルト・シュラウドの声で、「ナイトレイブン・クエスト」の開始が宣言された。参加意思のないものは大講堂に集まるよう通達され、イグニハイド生の多くが向かう中、五分後に蹂躙が始まった。

 あれは、確かに蹂躙と呼んで差し支えなかったと思う。イデアが召喚したらしいブロットまみれの謎の魔獣と、オルトが操作するどこに隠していたんだというガジェット群。

 

「知りたいの?」

「はい、とても」

 

 副寮長(約二名を除く)と教職員が避難と防衛を、寮長(下手人含めた三名を除く)含む一部有志が攻略を担当することが決まった時には、オンボロ寮や運動場を含めた広域に工事会社を入れる必要のある被害が生じていた。

 

 けれどそれだけのことをしでかした張本人は、オーバーブロットの経緯も動機も黙り通しだった。その結果が三週間の停学だ。修復費と治療費、ついでに英雄の国まで行って行われた精密検査費用の全額をシュラウド家が負担しなかったら退学だったかもしれない。はっきり言って寮長を罷免されなかったのは奇跡である。

 

「えぇ……。というか僕にも確定的なことは言えないよ。僕は瘴気に()()()()だけで先にオーバーブロットしたのはオルトだ」

 心底うんざりしていると全身で主張するイデアは、しかしはっきりとそう言った。

 

 シュラウド兄弟のオーバーブロットがずいぶん奇妙な形だったことは、アズールも覚えている。背後に立つブロットの化身は、オルト・シュラウドの声で流暢に話した。化身と繋がったイデアと同等にこちらの言葉に反応し、剰えイデアと互いに庇い合いすらした。

 

「そうだったんですか!?」

 だからアズールは、そう叫び声をあげながらもどこか納得している自分に気が付いた。自己の内から生じるという意味での魔力を持たず、当然ブロットを生じるはずのないアンドロイド(オルト・シュラウド)がオーバーブロットを起こしたという事実を飲み込んでしまえば、(オルト)が先だったというのは自然な話のように思える。

 

「そうだよ。()()()編入が認められた。オーバーブロットによって化身を生じるのはそれだけの欲望……()を持つものだけだから」

 アズールに取ってみればまるっきり初耳の話を、イデアはさも常識であるとばかりに詰まらなそうな顔で語った。

 

 骨ごと魚をかみ砕いた時のような、乾いた小枝を踏んだ時のような、軽くて細いのものが砕かれるときの音がした。それが薄らと朱く色づいた、不完全燃焼の毛先の立てる音なのだと、アズールは一拍置いてから理解した。

 

「僕も詳しいことは知らないし、知ろうとも思わない。ようやく落ち着いた弟のトラウマ引き摺り出す趣味はない。……だからさ」

 イデアの瞳は、コインの黄金よりも鮮烈な黄色をしている。どれだけ目立つ色味でも捕食者に狙われることのないと知っているものだけが纏う、致死毒の鮮黄。

「ええ、わかっていますよ。わざわざオルトさんに聞きに行ったりはしません。そこまで悪趣味ではありませんから」

「ジェイド氏嗾けるのもやめてね。そもそも効かないと思うけど」

「本当に信用ないですね。僕そんなことするように見えます?」

「見える」

「オルトさんにはしません。あなたに嫌われるのも彼に嫌われるのもごめんです」

 アズールはリドルに聞いたのだ。英雄の国のボイポス大学附属病院でまる一日検査をすると幾らになるのか。あれを六人も七人も物のついでに出せる家を敵に回すなんてごめんだった。モストロ・ラウンジの賠償だって、オンボロ寮の修繕(というかあれはもう建て替え)だって、価格交渉の影すらなかった。

 

「それならいいけど。……ああ、そうだ。オルト、映研入ったって」

「……なんですって?」

 聞いてませんけど!?とアズールが叫ぶと、今度こそ青炎の男は普段と同じ色で笑った。アズール・アーシェングロットには、なぜだかそれがずいぶん得難いものであるように思えた。

 

 その本当の理由は悪夢の向こうに消えてしまったから、どうしてそこまで深刻に感じたのかを理解する日はきっと来ない。あの二日間の記憶は眠りの内に時間ごと捻じれてしまったから、オーバーブロットの半日後には検査入院の大部屋で、彼らが持ち込んだテレビゲームで盛り上がっていたはずの関係に、イデアの停学中ずっと危機感を抱いていた理由を思い出すことも、もうない。

 いずれにしても、あの日オルト・シュラウド(ブロットの化身)兵器(雷霆の槍)を向けた時もう二度と見れないのかもしれないと覚悟した色で、部活の先輩(イデア・シュラウド)は笑っている。

 


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