「待って……どうして……。まだ終わってないじゃないか! 」
熱を帯びてひび割れた大理石のような剣と鎧、翼のような盾を纏った自分の身体が宙に浮く感覚に襲われる。W社の転送装置だということを分かっていたのは、今となっては幸福かどうかわからない。
側頭部を殴られるような衝撃が奔る。続いて、ジジジッという故障した機械特有の異音。
──痛みに頭を押さえて、手に風の感覚が触れた。周囲の様子からして、ここはどこかの裏路地だろうか。そう考えて、すぐにおおまかな場所を特定することができた。
「音楽……九区か……」
耳には喧騒ではなく無数の旋律が届いている。"音楽の裏地"である第九区だろう。ただ、フィリップの記憶においては"ピアニスト"の演奏が行われた地という記録の方が印象に残っているのだが。
ともかく、場所が特定できた以上は行動を起こすべきだとフィリップは考えた。しかし……
「……もう逃げないと思ったんだけどな」
足が動かない。蹲って、心のままに泣きたくなる。体は傷ついているが、動けないほどではない。けれど、独りになって抱いた決意すら叶わなかったという事実は確実にフィリップを苛んでいた。
オスカーが自らを気遣ってくれたということはわかる。それはサルヴァドールへの義理もあるのかもしれないけれど、悪意の介在する余地はないだろう。
「──なら、生きるべきなんだろうな」
自分のせいで本になってしまった人たちを取り戻すために。自分の責任を果たすために。結局は自分が弱かった失態を拭うためではあるけれど、それは諦める理由にはならないのだから。
"それはそれで、これはこれだ"と割り切ることもできないけれど、無駄な犠牲だったと結論付けたくはない。
未だ幽かに熱を放つ剣を支えに立ち上がる。ひとまず、傷の手当てをしなければならないだろう。重篤な傷はないが、軽傷が積み重なっている。その後は、どうするべきだろう。夜明事務所はリウ協会所属事務所であったし、そちらに報告しようか。
そんな風に考えを巡らせていると、ふと周囲が静かになっていることに気づく。静まり返っているわけではない。ただ、ピアノの音が聞こえた。
次に響いたのは、建物がいくつも崩れる音だ。同時に、"なにか"が地下からせり上がってくる。六本の腕を持つ怪物と、その代名詞となる巨大なピアノ。それは──
「なんで……ピアニストがここに……? 」
かつて、9区に住む人間の8割を殺した元凶だった。ハナ協会が派遣した特色フィクサーによって討伐されたはずの、過去の惨劇。
どうしてという戸惑いが打ち消されたのは、その数秒後だった。
宙を滑るように不規則な軌道で迫ってくる五線譜がフィリップを襲う。展開し続けていた蝋翼の盾で咄嗟に防ぐことができたが、足を止めて考え事をし続けていては、今も聞こえてくる悲鳴や人の壊れる音の仲間入りをしてしまうだろう。
地面を蹴って、都市へ広がるように伸びていく五線譜と逆方向へ向かう。自らの意志の力──E.G.O.が発現する以前より大きく向上した脚力は、数度の跳躍で戦場の渦中へ到着することができた。
「危ないっ!」
左手に携えたギラギラと燃える剣で、フィクサーの一人に向かっていた五線譜を切り払う。
「今度は諦めない……!」
「た、助かった……」
助けたフィクサーは軽く礼を言って、また周囲を飛び交う五線譜や音符へと立ち向かう。
いくらE.G.O.を我が物としたとはいえど、フィリップがその力で戦ったのは図書館での一戦のみだ。使い方はそれこそ心で理解できているが、直感ではなく自らの判断で使いこなすには時間が必要だということは理解していた。
けれど、それ以外にもフィリップにしかできないことはある。
「死なないことを優先してください!ピアニスト──アレは死んだ人を音符変えて、眷属にします!」
情報アドバンテージ。伝聞なれども、ピアニスト──即ち幻想体のある程度の情報を知っているということがどれほど大きな効果をもたらしたかは、この場にLobotomy社の──例えばイェソドがいれば深く理解を示しただろう。
「聞いたな!ちょうど逃げる理由もできたことだし、早めに逃げとけ!」
そう何人かのフィクサーが叫び、瀕死や重傷者を戦場のただなかから運び出していく。
ピアニストによる演奏がフィクサーに及ぶのを防ぎ、どうしても防げない最小限の犠牲に留め続ける。
フィリップの知る事例において、ピアニストの厄介な点は被害規模と物量だったと言われていた。死者が音符となって区域の外へと演奏を広げ、その物量で新たに被害者が増えていく。先に警告できていたことによって、死者の数はフィリップの想像から多少なりとも減っていた。彼自身は知る由もないが、例えば、白い髪をしたとある特色のような。ただ──
「決め手に欠ける……!」
重傷者が離脱していき、戦場に残っているのはフィリップだけだった。幸いにも、押し寄せてくる五線譜や音符は問題ない。E.G.O.を使い、修羅場で急成長したフィリップだから捌き切れているといいうべきだが。
それでも、未だに決定打を入れることができなかった。
「やるしか……ないのか……」
勝機があるとすれば、全力の一撃での一点突破。ただ、それで本体の前に辿り着けるかという問題はあるが。失敗すれば死に、下がった負傷者たちが対処せざるを得なくなる。余力はあるだろうが、死者が増えるほど不利になる以上、ここで仕留めなければならないだろう。
「もう逃げない……これ以上見てばかりはいられないから」
誰かのためという理由は、自分が居心地の良い世界を守りたかったという私欲だ。けれど、眼前の悲劇を知ってしまったのなら、逃げ出そうとも後悔が付き纏う。それなら、今起きていることを直視して立ち向かうしか無い。それが、フィリップにとっての"自我を守る"ということだった。
翼と剣に炎を纏う。押し寄せるような激しいものじゃない。前に進むための燃えたぎる熱だ。
イカロスのように、前へ前へと猛烈な突進を行う。物憂い夕焼けを背負い、引き裂こうとする五線譜を羽の盾で受け流し、茜さすギラギラと燃える剣で、ピアニストの胴体ごとピアノを貫いた。
フィリップのこの場でのアドバンテージが情報だったとすれば、最大の弱点は実戦経験の少なさだろう。ねじれは人間とかけ離れていると理解しきれていなかったのだ。その辺りは、ねじれ事件を対処していたユナとの人間関係のこじれから通じるディスコミュニケーションが原因だった。
「まだ動くのか……っ!」
渾身の一撃は深々と胴体を貫いており、今からの回避は不可能。そして、至近距離である以上、羽の盾で防御しきれるかどうかは不明。
傷つけられて、ようやく個人を認識したのだろうか。もしかしたら、自分をピアノの前からどかそうとする客と重ねたのかもしれない。その彼、フィリップを殺そうと、明確な殺意を持って鍵盤上の指を動かし──
「そんな隙だらけじゃ、刺してくださいって言ってるようなもんだよな」
黒い長剣でその首を刎ねられた。それを為した人物、黒い手袋を着けたその男は、ピアニストの演奏によってできた瓦礫を見て呆然としている。
「家が……。家財全部がれきの下だよな……?」
力なく呟いた彼は、パジョンがどうとか、仕事終わりのマッコリがどうとひどく落ち込んでいた。
「ベビーベッド……掘り出すかぁ?」
悲壮感は漂っているが、怒りや諦めといった声色はうかがえない。純粋にどうするかと呆然としているのだろう。ひとしきり肩を落とすと、彼はフィリップの方に向き直った。
「おっと、名乗ってなかったな。ローランだ。チャールズ事務所の一級フィクサー。今回はホントに助かった」
「チャールズ……事務所……?」
その名前はフィリップも聞き覚えがあった。かつて存在した一級事務所。何かしらの理由で解散したらしいが、それぞれのフィクサーが専門分野に特化した事務所だったらしい。それが、まだ存在している……?
「えっと、フィリップです。五級フィクサーの……」
「え?五級?……いや、まあ等級と戦闘力が等しいわけじゃないか」
そこから、特に実のある会話はしなかった。間接的に恩があるとはいえ、初めて会ったフィクサーの素性を探ろうとするような性格じゃないローランと、それどころじゃないと考え事をしているフィリップでは、会話も進まない。
そもそもとして、フィリップは確信に近い疑念を抱いていた。図書館でフィリップと戦っていたのは、目の前の男だからだ。それが、なんの反応もなく初対面のように振舞う……?あり得るとしたら、それこそ──
「そこの坊や。随分と面白いことになっているねぇ」
突然、女の声がした。その声を聞いてローランは顔を顰め、深くため息を吐く。
「イオリ……」
特色、紫の涙。次元を渡る確率変動者がそこにいた。
Limbus Company、楽しみにしてます!!!
ドンキホーテちゃんカワイイ!!!