鳩時計は未来をつくる   作:ふみどり

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欲しいものがあるのなら、自分の手で作り出す。
エンジニアとしての生き方を選んだ弱虫のはなし。


鳩時計は未来をつくる

 界境防衛機関__近界民(ネイバー)から人々を守護をするべく活動する民間組織「ボーダー」。その基地は異世界との門が開いた三門市に構えられ、基地の施設はほぼ全てトリオンと呼ばれる生体エネルギーによって築かれている。

 トリオンおよび近界技術については、ボーダー擁する技術者(エンジニア)が日々研究・開発を続けている。ボーダーが未知のテクノロジーを具える近界民(ネイバー)に対抗できるのも、このエンジニアたちの努力があってこそと言えるだろう。

 明晰かつ優秀と名高い彼らだが、その実はさまざまだ。

 異なる技術において成果を残し、それをトリオンの運用に生かす者。トリオンの研究を志し、それが実用的な分野において評価され、ボーダーに引き抜かれた者。もとは戦闘員として前線に立っていたが、本人の意志でエンジニアに転向した者。

 新しいテクノロジーであるだけにエンジニアにも比較的若いものが多いが、その中でもとりわけ若く、「変人」かつ「天才」と称されるエンジニアがいた。

 

「ひゃーっはっはっはっは! ほーれ見ろ言わんこっちゃねー!!」

 

 ボーダー本部基地内にある狙撃手(スナイパー)用の訓練場、その壁にぽっかりと空いた穴。

 当然ながらある程度の衝撃には耐えられるよう耐久計算されたうえで設計されているにも関わらず、その穴は外の空が見えるほどの。

 

「だぁから言ったじゃないすか鬼怒田さん、絶対ェ耐久レベルもっとあげた方がいーって! 予算たりねーのはわかっけど盾にもならねー壁とかまじ意味ねーじゃん!!」

「やかましいぞ木檜(こぐれ)ェェエ!!」

 

 怒り心頭の上司の目にも構うことなく腹を抱えて笑い転げる「天才」、木檜理鳩(りく)。まだ十九歳の大学生でありながら、新トリガー開発など確かな功績をあげてエンジニアとして認められている。

 もっとも、その突拍子もない人間性については周囲に苦笑されるばかりなのだが。

 

「まあまあ室長、今回ばかりは理鳩の言うとおりですし」

 

 ボーダー入隊当初から木檜の面倒を見てきた冬島は、でもお前もいい加減笑うのやめろと木檜の首根っこをひっつかむ。あー冬島さんだーと笑いすぎた腹をさする木檜は、小柄な体躯もあって実年齢よりも幼く見えた。

 

「何度も施設の耐久度について意見書出してたんでしょ、この馬鹿」

「馬鹿ってひっでー。だって本部は近界民(ネイバー)侵攻時の要っしょ。おれらの想定を軽く超える攻撃が来ても最低限耐えられるようにしとかねーとやべーじゃねーですか」

「まあそうだが、使えるトリオンにも予算にも限りがあるからな。実現可能なレベルでものを考えるのもエンジニアの実力のうちだって言ってるだろ?」

 

 そこで予算奪い取るのが室長の仕事では、と真面目な顔で言い放つ木檜を正座させ、鬼怒田は頬を引きつらせてぐぬぬと唸る。

 実際、壁にできた大穴を無視はできない。身内にこれだけのトリオン保有量を誇る人間が現れた以上、侵攻してくる近界民(ネイバー)にも同等以上のトリオン保有量をもつ戦力が存在することを想定する必要がある。壁の修復だけではなく、基地全体の耐久レベルを計算し直さなくてはならなかった。

 自身を落ち着かせるように大きく息を吐いた鬼怒田は、じとりと目の前の生意気な若輩を見つめた。正座をさせられていることなど全く堪えた様子のない木檜は、にこにこと笑いながら鬼怒田の指示を待っている。

 指示が来ると確信しているのが鬼怒田にはまた腹立たしい。そもそも木檜の専門は基地システムでなくトリガーの開発・改良であった。

 

「……木檜」

「へい」

「この大穴を開けたのは玉狛支部の新人、雨取千佳だ。彼女のトリオン保有量を測定のうえ、トリオン保有量モデルのアップデート、および各トリガー使用時の威力演算のやり直し、そこから防壁の必要強度を弾き出して冬島に報告しろ。必要トリオン量もだ!」

「ういっす!」

「もちろん日常業務もぬかりなく行うように。口を挟んできた以上はそれくらいやってもらうぞ」

「もちろん! この天才に掛かれば楽勝っすよ!」

 

 専門外の仕事が増えたにも関わらず、どちらかというと新しい遊び道具をもらったかのような喜びようを見せる。この貪欲さが木檜の「変人」たる所以でもあった。

 苦い顔の鬼怒田に、木檜の性質をよく知る冬島も苦笑するしかない。

 

「理鳩、さすがに壁の設計はこっちでするからな」

「専門外ですしそこまで欲張りませんて。でもそれはそれとして防壁の強化案考えるのでチェックしてください」

「お前本当に熱心な。遠征で持ち帰ったトリガーの解析やってたんじゃないのか」

「あ、そうそう、あれを元に新しいトリガー考えたんすよ鬼怒田さん! 後で企画書見てくださいね!」

 

 船酔いしてた冬島さんが面白すぎて解析がはかどりました、と朗らかに宣う木檜の細い首が冬島の手によってがっしりと握られる。相変わらず仕事が早くて偉いなァと冬島に締められながらも、自称「天才」はけらけらと笑うだけ。

 もはや木檜の暴走など勝手知ったるエンジニアたちは、そのさまに苦笑しながら壁の穴のチェックと改修作業に入っていく。とりあえず穴塞いじゃいますよ、と声を掛けられた鬼怒田は軽く頷き、なんだかんだで仲の良い兄弟のような師弟に目を戻した。

 木檜がボーダーに出入りするようになって三年、冬島はずっとこの問題児の面倒を見てきた。それは冬島が特殊工作兵(トラッパー)になっても変わることはなく。鬼怒田もまた、生意気だが優秀な若きエンジニアのことが嫌いなわけではなかった。

 いつも専門外の仕事までやりたがる熱心すぎる彼を、鬼怒田は苦々し気に睨みつける。

 

「まったくいつも余計なことまで……木檜」

「へい?」

「……お前、()()は守っとるんだろうな」

 

 不機嫌そうな鬼怒田の声に含まれたわずかな心配と気遣いに、木檜はさらに眦を下げる。実は情に厚い上司の真意をよく理解していながら、トーゼンっすよと空とぼけてみせた。ポケットから懐中時計を取り出し、その盤面を顔の横で揺らす。

 一見してシンプルなつくりの時計だが、その内部では多くの歯車達が己の役目を果たし、カチ、コチ、と正確に時を刻んでいる。

 

「おれほど時間にうるさいやつもいませんて」

 

 鬼怒田さんも知ってるっしょ、と変わらない笑顔を見せる木檜。鬼怒田はただ、それを何とも言えない顔で見つめるしかなく。少し困った顔で笑う冬島も、何も言わないままその頬をつねりあげた。

 パワハラだ~と木檜が零した嘆きの声は、当然のように黙殺された。

 

 

 ***

 

 

 カチ、コチ、カチ、コチ。頭のどこかで響く音は、いつだって正確に時を刻んでいる。

 実のところ木檜は、時計など持つ必要のない人間であった。意識せずとも現在時刻を秒単位で把握しているし、指定の秒数を数えろと言われれば狂いなく時を告げることが出来る。

 父の職業故に生まれたときから時計に囲まれていたからなのか、それとも自身のトリオンが時間にうるさい性質だったのか、周囲には名前をもじって「文字通りの鳩時計じゃん」などとからかわれる始末だ。

 まあまあ便利なサイドエフェクトだと、木檜自身は思っている。父からもらった懐中時計の実用性が薄れてしまうことに申し訳なさはあったが、自分のように時間に限りのある人間にとっては、特に。

 

「……あと二時間十七分二十五秒」

 

 それまでに木檜は今日やるべき仕事を片付け、出来れば帰宅まで済ませなければならない。木檜のトリオン体への換装は、一日に十二時間までと決められている。

 頭の中でやるべきことを整理しながら、玉狛の新人ちゃんにはアイツに繋いでもらうか~と同い年の「実力派エリート」の顔を思い浮かべた。友人と言えなくもない関係の彼は、木檜がボーダーに入隊するきっかけを作ったひとりだ。

 

『きっと一緒にぼんち揚を食べる日がくるよ。おれのサイドエフェクトがそう言ってる』

 

 初対面でこれを言われたときには真剣に迅の頭を心配したものだが、結局その未来が訪れてしまったので木檜としては少々複雑なものがある。いつも飄々としている彼のことは決して嫌いではないが、未来が見えると言われれば予知を覆したくなるのがひねくれ者の性というものだろう。

 どうせおれが連絡するのも見通してるんだろうなと思いながら、小さく息をつく。しかし、やると言った以上は効率よく事を進めなければ余分な時間を食うことになってしまう。そんな余裕は、木檜にはない。

 やれやれと首を振りながら床を踏みしめ、木檜は足早に開発室へと急いだ。

 

 

 ***

 

 

 それは、三年前の初夏のこと。ドスドスと大きな足音を立てながら、鬼怒田は怒り任せに病院の廊下を進んでいた。

 ボーダーに引き抜かれてしばらく、鬼怒田は多忙を極めていた。トリオンという未知のエネルギーに、トリガーという新しいテクノロジー、何より自身の能力を高く評価して開発を任せてくれる城戸の存在。やるべきこともやりたいことも山とあるこの状況で、何故だかこうして三門市内の病院にまで引っ張り出されている。

 先日もまた大きな近界民(ネイバー)侵攻が起きたばかりで、病院にはどことなくバタついた空気が漂っている。複数箇所に同時発生した門に対応するにはまだボーダーの人手が足りず、一般市民にも少なくない被害が出てしまった。こちらのデータにないトリオン兵が送り込まれたことも考えればかなり被害はおさえられたほうだと鬼怒田は思うが、それでも怪我人が出たことにはかわりない。

 要たるボーダーの基礎システムの構築、門誘導システムの開発、今回回収したトリオン兵の解析、もちろんノーマルトリガーの改良や開発、量産。正直を言えば一秒でも無駄にできる状況ではなかった。

 迅の予知と忍田の後押しがなければこの時間も解析に使っていたものを、と歯噛みをしながら指定された病室のドアをノックした。少年と青年の境目のような、少しかすれた声が返される。

 とにかく会ってみて欲しい、と忍田は言った。そして見極めて欲しいと。

 

『彼の資質のはかるには、きっと貴方が最適だと思う』

 

 今回の侵攻で大怪我をした十五歳の少年だという。最初に彼を見いだしたのは予知に導かれた迅で、忍田も迅に勧められて彼と話をしたらしい。

 しかし、と忍田は困ったように眉尻を下げた。

 

『私はどうも警戒されてしまって』

 

 あまり話を聞けなかったのです、と忍田は言ったが、人当たりのいい忍田でそれなら自分はなおさらだろうと鬼怒田は息を吐く。やれやれと思いながらスライド式のドアを引くと、床に落ちていたらしい紙がかさりと揺れた。

 白を基調とした個室には、同じく白い紙が場所を問わずに散らばっている。床などかろうじて足の踏み場がある程度で、すみません散らかってて、とベッドに座る主が顔を上げる。書きものをしていたらしい彼の手にもまた、白い紙と鉛筆があった。

 

「……ボーダーの方ですか?」

 

 そうだと頷くよりも先に、紙に描かれたそれに目を剥いた。鉛筆で描かれた白黒の、一般市民にとってはそれこそが近界民(ネイバー)と思われているもの。侵攻の被害を受けた者なら、きっともう二度と見たくないはずのそれ。

 

「……トリオン兵、だと?」

 

 とりおんへい、と繰り返される不思議そうな声に構うことなく、鬼怒田は床に散らばった紙を次々と拾い上げる。黒い線のみで表現されたトリオン兵のスケッチはひどく精密で、しかも走り書きのコメントが添えられていた。

 

『たぶんこれがレーダー 中でカメラっぽい光が動いてた』

『内部に隠されてるから弱点かも』

『ここの両足が連動? してたかもしれない』

『歯はあったけどひとを噛み砕いている様子はなし』

『腹の中にひとを格納 食べたというよりしまってた 拉致?』

『拉致なら安全考えて保管してる腹部分の装甲は厚めのはず』

『重量のバランスどうなってんだ 重さのない素材とかあり?』

 

 当然ながら、専門知識のない子どものコメントなど取るに足らない内容のものばかりで、たいして重要なことが書いているわけでは決してない。だが、その「専門知識のない彼」が、生物とも見えるトリオン兵を意志なきロボットだと見抜き、生命の危険に恐怖を感じるどころかしっかり観察をして自分なりの分析まで重ねている。

 それはもはや、ただの子どもの好奇心と呼ぶにはあまりに狂気に近い。未知への知的好奇心に取り付かれた人間のそれと言えた。

 

「……あの」

 

 ようやく鬼怒田は、その少年に目を向ける。

 大怪我を負ったというわりには包帯は少なく見える。そう身長が小さいように見えないのに妙に小柄に感じる身体に、少し戸惑ったような表情。手は少し黒ずんで汚れており、今もまたトリオン兵について書き物をしていたらしい。

 あまりに熱心すぎる手元には、装甲と重量のバランスについての覚え書きが見えた。

 

「……これは、全て君が?」

「……そう、ですけど」

「ふむ。君はあれをロボットの類いだと?」

 

 鬼怒田の問いに、少年は目を見開いた。戸惑いながら視線を揺らし、きゅっと鉛筆を握って線とも言えない線を紙の上に走らせていく。

 

「呼吸も、してませんでしたし……意志とか感情とか、そういうものが、見えなかったんです。生き物というよりは、……プログラムされたままに動く機械っぽいなって。生き物の群れにしてはあまりにも外見が一致してて、個性もなかった。大きさとか全部一緒で、カラーリングも」

 

 徐々に饒舌になっていく様子は、まるで水を得た魚のような。

 自分の見たトリオン兵の形を線で辿りながら、ここの装甲が、ここの駆動がと、もはや鬼怒田に話すというよりは自身の思うままに口を動かしていく少年。表情こそ堅く乏しいが、その瞳には明らかな昂揚が見えた。誰が見ても、この彼の様子を見て街を破壊し自身を傷つけた正体不明の「何か」について語っているとは思わないだろう。

 何となく、この少年が忍田と打ち解けなかった理由がわかったような気がした。鬼怒田が見る限り、今の彼の様子は「善良」とはほど遠い。しかし、鬼怒田とて技術者。この少年の気持ちがわからないとは言えなかった。

 くるくると回っていた少年の舌が止まったタイミングを見計らって、鬼怒田は問いかける。

 

「……好きかね、ロボット」

「ロボットというか、仕組みがあるものが好きです。ひとつひとつの部品が噛み合って、ちゃんと結果に繋がっていく流れが」

 

 時計の針ひとつ動くのにだって、その後ろにはたくさんの歯車の仕事があるでしょう。

 そう言って彼は、枕元にあった何かを手に取る。しゃらり、と細い鎖が軽い音を立てた。

 

「父がつくった時計です。こんなちっさいなかに細かい部品がすげーいっぱい入ってて、一個でも欠けたら針が動かないんですよ。すごくないですか」

 

 時計職人である父の作だという、手巻き式のポケットウォッチ。

 毎日ゼンマイを巻かなければならないアナログな品だが、その中身は職人の技術という技術が詰め込まれている。無駄なく敷き詰められた部品、狂いなく噛み合う極小の歯車、考え抜かれた知恵と洗練された技術の積み重ねの象徴と言えよう。

 なるほど、この少年にとっては伝統の技術も最新のテクノロジーも同じであるらしい。求められたカタチのために、ひとつひとつの部品を組み合わせて作られた技術の結晶。それに魅了された人間ならば、見たこともないトリオン兵(しくみ)を前に昂揚しても無理はない。

 しかし昂揚が恐怖に勝っているのはかなり異常か、と鬼怒田は内心だけで呟いた。

 

「では君も将来は時計職人に?」

「まだ決めてないです。時計も好きですけど、ほかにも好きなものはたくさんあるし。近界民(ネイバー)……とりおん兵って言うんですか? これも気になるし。どんな仕組みなのか見当もつかねーし、分解できるならしてみたいです。……ところで、あの」

「何かね」

「……どちらさまですか?」

 

 おっと、と鬼怒田は慌てて名刺を出す。ろくに挨拶もしないまま話をするのは礼儀として頂けない。

 開発室室長、と鬼怒田の肩書きを見た少年は一瞬で目を輝かせる。

 

「ボーダーの開発室ってことはあのとりおん兵とかいうのにも詳しいんですか!? あれどうやって動いてるんですか、動力源は? あと素材! あんなに丈夫なくせに動き機敏とかおかしいでしょ重量バランスどうなってんの!?」

「ええい一度に聞くな! こちらが名乗ったのだから次は自分も名乗りなさい!」

「あ、木檜理鳩ただの高校一年生です」

 

 いや現時点でどう考えても「ただの」ではない、という本音を丁寧に隠し、思わずと言ったように口元に苦笑を乗せる。

 

「では木檜くん。君の質問はボーダーの機密事項に関わる。答えることは出来んな」

「……じゃあやっぱこの世界にはない技術なんだ」

「機密事項だ。ボーダーの者しか知ることは出来ん」

「……!」

 

 一瞬間を置いて、下がり掛けた木檜の視線が再び上がる。鬼怒田の意図を正確に捉えた木檜は、わかりました、と大きく頷いた。その瞳には、すでに強い決意が見て取れる。

 その様子に鬼怒田もひとつ頷き、満足げに口を開いた。

 

「あとは家の人とよく話し合いなさい。当然危険も__きみ、」

 

 悲壮感など欠片もない彼の様子に圧倒されて目に入らなかったが、鬼怒田は今になってようやく違和感の正体に気づいた。まっさらなベッドで身体を起こしている彼の下半身は毛布で隠れているが、その一部にはあるはずの膨らみがない。

 目を見開いた鬼怒田の視線の先に気づいた木檜は、ああ、とまるで何でもないことのように口を開いた。

 

「侵攻のときに、ちょっと」

 

 その少年の右足を隠す膨らみは、膝あたりから途切れていた。

 

 

 ***

 

 

 こつり、と義足のかかとが床に触れて音を立てる。

 近界民(ネイバー)侵攻の被害で右足を半分失った木檜は、日常においては義足を履いて生活を送っていた。木檜自ら設計・作製したトリオン製の義足は、ただ歩いて生活する程度ならば普通の足と遜色ない働きをしてくれる。

 とはいえ、失った片足は確かに木檜に大きな爪痕を残していた。

 

「……あ、」

 

 業務を終えた木檜は、ボーダー本部の近くに借りている自宅に戻っていた。

 予定通り自室に戻った木檜はトリオン体の換装を解き、さっさとシャワーを浴びて一息つく。迅を通して約束を取り付けた雨取との面会に向けて、ついでに質問事項もまとめておこうとデスクに向かった、そのときだった。

 

「げ、」

 

 脳の中を過去の記憶が駆け巡る。

 大地震かと錯覚するほどの地響き。突如として起きた停電。何が起きたのかもわからないうちに建物は崩れだし、気づいたときには空が見えていた。轟音と、悲鳴と、空の青さと。木檜がそのときに聴いたもの、見たもの、感じたもの。

 その全てを、筆舌に尽くしがたい激痛が塗り替えていく。

 

「……は、」

 

 落ち着け、と木檜は心の中で自分に言い聞かせる。声にすることは出来なかった。瓦礫に足を押しつぶされたときと同等の痛みは、歯を食いしばっていないと堪えることも難しい。

 人体の欠損や麻痺を受けた者特有の症状として、幻肢痛と呼ばれるものがある。失った手足が未だあるかのように感じ、そのないはずの部位が強い痛みを訴える。そのメカニズムの詳細は解明されておらず、決定的な治療法も見つかっていない。痛みを感じている部位がそもそも存在しないため、麻酔や鎮痛剤も有効ではなかった。

 とかく個人差の激しい心身症だが、木檜の症状はかなり重症に分類された。堪えがたい痛みであるだけに生活に及ぼす影響は大きく、痛みが出るタイミングもばらつきが激しい。

 近界民(ネイバー)侵攻から、三年。木檜はずっとこの痛みに堪えてきた。

 

「あー、くそ、……」

 

 痛みが緩んだ一瞬に、口を動かした。すぐさま襲いかかる痛みの波に、また奥歯を噛みしめる。

 木檜がボーダー外でもトリオン体換装を許されている理由、また一日十二時間までと制限を付けられている理由は、この幻肢痛とトリオン体の関係にあった。

 生身の肉体をトリガー内に格納しトリオン体の「身体」に意識をうつしている間は、この幻肢痛による痛みを覚えることはない。痛みのせいで日常生活すら危うい人間にとっては一筋の光明と言えた。

 ただ同時に、懸念もある。幻肢痛の軽減には、実際に()()のに脳がまだ()()と錯覚している「幻肢」を消失させることがひとつの鍵だと言われている。しかし五体満足のトリオン体で自由に身体を動かすことは、この幻肢の消失を遅らせる可能性があった。それはつまり、幻肢痛の根本的な解決から遠ざかる危険があるということを意味する。

 果たしてトリオンは幻肢痛の薬になるのか、毒になるのか。ボーダーではトリオン体と健康の関係を調べる研究も行われている。決して強制ではなかったが、木檜は「何年も続きかねない幻肢痛治るのなんて待ってらんないし、外でもトリオン体使わせてもらえるのむしろありがたいんで全然いーっすよ」と軽く研究への協力に承諾した。

 幻肢が痛む間も頭のなかで鳴り響く時計の音を数え、痛みの持続時間を計測する。カチ、コチ、カチ、コチ。その一秒一秒に、歯を噛みしめる。木檜は、いつのまにか自分が椅子から転がり落ちていたことに気づいた。身体のどこかに痣くらいはできているかもしれないが、この痛みに比べれば撫でられたほどにも感じない。カチ、コチ、カチ、コチ。冷や汗が気持ち悪いが、それを拭う余裕もない。滴った汗がフローリングの床に丸く浮かんでいる。

 

『お前、時間は守っとるんだろうな』

 

 実は身内への情は厚い上司の声が、脳内でリフレインする。つい、奥歯を噛みしめて震える唇が笑いそうに歪んだ。

 この数年のデータを解析した限り、木檜の幻肢痛には一切の改善がない。痛みの頻度も持続時間も痛みの程度も、三年前から変わっていなかった。これにトリオン体換装が関わっているのかどうかは今のところはっきりしていない。そもそも個人差が大きいだけに、木檜のデータだけで結論など出るわけもなかった。

 だが、少なくとも改善が見られないのならトリオン体でいる時間を短縮するべきでは、と木檜に言ったのは鬼怒田だった。ずっと木檜の面倒を見てきた冬島も、今の直属の上司にあたる寺島も、木檜の事情を知る友人たちもまた、口々に。

 しかし木檜は首を振った。今やりたいことがたくさんあるからと、だいたい換装のせいだとは限らねーしと、そう言って。それが嘘だと言うことを理解しながら、一日十二時間の制限だけはきっちり守ると、その言葉を免罪符にした。

 木檜自身、何となく感じていた。自分の脳はトリオン体への換装を受け入れてはおらず、幻肢痛は「逃げるな」という自分自身からのメッセージだと。

 痛みのたびに、脳があのときの記憶を鮮明に叩きつける。トリオン兵という未知の「仕組み」への好奇心で塗りつぶし、なかったことにした感情。自分の足が途切れていることに気づいてしまったときの、あの気持ち。

 ギリ、と奥歯が鳴る。強く握りこみすぎた手のひらには、爪の形に血が滲んでいた。

 

「……おれの身体なら、おれのいうこと聞けっつーの……」

 

 ようやく痛みから解放された頃には、時計の針は深夜を過ぎてもはや明け方になっていた。カーテンの隙間に見える空はほのかに明るい。

 身体を起こした木檜は、玉狛の新人ちゃんとの約束夕方で良かった~と遠い目をする。幸い今日はボーダー本部での業務はない。大学の講義の予定は入っていたが、単位の危うい講義でもないので今日は睡眠を優先することにした。

 床を濡らした冷や汗を適当に拭いて換気し、もう一度シャワーを浴びて寝る姿勢に入る。昼過ぎくらいまで寝ようと義足をはずそうとしたところで、来客を告げるチャイムが鳴る。

 現在の時刻は午前五時五十七分。確かに木檜には個性の強すぎる友人が何人かいるが、こんな時間に部屋を訪れる常識知らずはひとりしか浮かばない。

 

「……迅、おれようやく寝るとこなんだけど」

「知ってるよ。はい差し入れ」

 

 昨夜電話で話をしたばかりの、未来を見る彼。何気なく差し出されたビニールの袋には、木檜が好きな三門みかんのジュースが何本か入っていた。

 

「たくさん汗かいたあとは水分摂らなきゃ。また何も飲まないで寝ようとしてただろ」

「……。……迅」

「うん、()()()()。で、おれ当直明けだからついでにちょっと仮眠させて」

「どう考えても後半が本音~~~差し入れってか賄賂~~~」

「いーじゃんりっくん、どうせ夕方には玉狛っしょ? 一緒に行こーよ」

 

 はいはい入れて~と迅はするりとワンルームの部屋に入り込む。勝手知ったる様子でクローゼットの中にある(誰かが勝手に持ち込んだ)客用布団を取り出した。と、思えば今度はシャワーも借りるね、と(これまた誰かが勝手に持ち込んだ)部屋着を手に浴室へ。友人とはいえ自分の部屋のような遠慮のなさに、木檜も呆れるしかない。

 迅が木檜の部屋に乗り込んでくるのはこれが初めてではない。この遠慮のなさなど、むしろ初対面のときからそうだった。逆らうだけ無駄なのだということは理解している。

 迅に押しつけられたビニール袋の中からジュースを一本取り出し、一気に呷った。

 

「……は、」

 

 三門みかん特有の甘酸っぱさが、ゆるゆると緊張の糸をほどいていく。身体に水分が行き渡るのと同時に、柔らかい眠気が脳に浸透していくようだった。

 残ったジュースを冷蔵庫に入れ、ベッド脇に腰掛けて今度こそ義足を外す。トリオン製の右足をベッドサイドに立てかけ、木檜はベッドに潜り込んだ。まだ迅はシャワーを浴びているが、出てくるの待つ義理など木檜にはない。せめてもの情けとして電気だけはつけたままにして、布団をかぶった。

 それから十四分二十七秒後、密やかな足音が部屋に入り込む。足音の主はそっと電気を消してベッド横に敷いた布団にもぞもぞと潜り込んだ。

 微睡みの中で迅の気配を感じていた木檜の耳が、ひそりと落とされた呟きを拾う。

 

「……少なくとも今日明日はもう()()()()から。大丈夫だよ、りっくん」

 

 夢うつつの木檜は何も言わない。迅もまた、返事を待つことなく目を閉じた。

 迅は、木檜が幻肢痛で蹲っているところに現れたことは一度もない。現れるにしても必ず痛みが治まったあとだった。いつも適当な言い訳をもって、飄々とした笑顔で木檜の前に現れる。さすがにその意図がわからない木檜ではないが、お互いにそれを言葉にすることはなかった。する必要もなかった。

 窓の外はすでに明るい。朝日を受けた三門市は活動を始め、そこかしこで日常の喧噪が目を覚まし始めている。しかし濃い紺の遮光カーテンで分断された部屋の中では、穏やかな夜が訪れたばかり。

 午前六時四十五分、狭いワンルームにふたりの寝息だけが響いていた。

 

 

 ***

 

 

 

 見える未来は、決して幸いにあふれたものではなかった。

 瓦礫の山に囲まれながら、足をつぶされてなおトリオン兵を凝視し続けた同じ年頃の少年。迅が彼に見た未来は、どの道を辿ったとしても相応の苦しみを伴っていた。笑顔だけの未来をもつ人間などいるはずはないが、それでも右足を失う彼の未来には、迅には想像しかできない苦痛と苦労の色が見える。

 彼、木檜理鳩が自分と関わることによって、起こり得る未来。関わらないことによって、起こり得る未来。そのどちらが彼にとって幸いなのか、迅にはわからなかった。

 ただ言えたのは、迅が木檜に関わることによってボーダーは若く優秀なエンジニアを得るということ。彼が未来に残す功績は、ボーダーに多大な影響を与えるということ。

 そして、迅と木檜が同じ顔で笑い合う未来が確かに存在するということだった。

 

 

 ***

 

 

 迅とともに玉狛支部を訪れた木檜は、想定を軽く上回る雨取のトリオン量に涙が出るほど笑い転げた。そりゃ本部の壁もぶち抜くわ~と測定器を仕舞い、いくらか話をしてさっさと荷物を取る。夕飯食ってけば、という迅の誘いも軽く断って早々に支部を後にした。

 まるで台風のような来客に、雨取だけでなく同席していた三雲も呆気にとられ、空閑だけは面白そうにその様子を眺めていた。

 三人の様子に苦笑した迅は、あれでも優秀なエンジニアなんだよと一応のフォローを入れる。

 

「仕事中毒というか、気になったらすぐにやっちゃわないと気が済まないやつでね」

「い、いえ。でも、何というか……木檜さん、千佳が本部の壁を撃ち抜いたことを責めるどころか褒めちぎってましたね……」

「ははは! 本部の守りが甘いってさんざん文句言ってたから」

 

 戸惑った様子の三雲に、迅は手を振って軽く笑い飛ばす。

 ボーダー本部基地は近界民(ネイバー)侵攻時の最後の砦。その防御が温すぎるのは問題だと、これまで木檜はあらゆるデータを提出して訴えていた。コスト面で見送られていた意見も、実際に撃ち抜かれれば受け入れざるを得ない。

 

「『いっそのこと炸裂弾(メテオラ)でもっと景気よくぶっ壊してくれても良かったのに』ってあれ本気で言ってたな」

「……あれ冗談じゃなかったのか?」

「うん、嘘じゃなかった」

 

 雨取のトリオン量で威力の大きい爆撃を行えば、一般家屋の二、三軒は軽く吹っ飛ぶだろう。だから市街地では気を付けて使ってねと木檜は笑顔で宣ったが、その顔は完全に「何それめっちゃ見たい」と語っていた。

 おかしそうに笑う空閑の肩に、小さなトリオン兵がにゅっと顔を出す。

 

《なかなかに過激な人間のようだ。迅が私に隠れていろと言った理由もわかる》

 

 空閑のお目付役、自立型トリオン兵「レプリカ」。多機能かつ明確な自我をもつトリオン兵など、木檜からすれば最高の興味対象だ。これ以上なく目を輝かせ、雨取のトリオン量測定の話すら忘れて飛びつきかねない。

 予知するまでもなく予想できた迅は、事前にレプリカには隠れているように連絡をしていた。そうだろ、と迅は軽く頷く。

 

「まず間違いなく解析どころか分解させてって言い出すから」

「うーむ。分解はちょっと」

「あいつ分解魔でね~よくその辺の機器類分解しては元に戻してるんだよ。レプリカ先生のことも『ちゃんと元に戻すから~』とか駄々こねだすね、絶対」

「本当に熱心な方なんですね、木檜さんって……」

「……でも、優しいひとだったね」

 

 ぽつり、と雨取の小さな声が落ちる。

 木檜は確かに台風のような勢いでもって玉狛支部を訪れたが、決して雨取に無遠慮に接することはしなかった。にぱっとお手本のような笑顔を幼さの残る顔に乗せ、罰則や説教のために訪れたわけではないことをまず言外に示した。

 

『ボーダー本部所属のエンジニア、天才の木檜理鳩くん十九歳ですよろしくな!』

 

 そして木檜は訓練場の壁を雨取の「功績」と表現し、おかげでボーダーの防衛機能がさらに向上すると褒め称えた。防衛機能向上の必要性や、今防壁の強化案を練っているエンジニアにも同様の意見が多かったこと、修理自体もそれほど時間や手間のかかるものではなかったことを丁寧に説明し、だから壁に穴開けてくれてありがとね、と木檜は礼すら言ってみせたのだ。

 自分のせいで誰かに迷惑がかかるのではと心配していた雨取には意外すぎる言葉だったが、それは確かに雨取の心を軽くした。あのお礼は嘘じゃなかったよという空閑の言葉に、雨取はほっと笑顔を見せる。

 

「うん、りっくんはひと気遣って嘘つくような生やさしい人間じゃないから、そこは大丈夫」

「きっぱり言いますね迅さん……」

「本当だよ。冗談は言うけど必要のない嘘はつかない」

 

 その言葉に、ぴくりと空閑が肩を揺らす。振動をうけたレプリカがどうした、と尋ねるが、空閑は答えることなく顔を上げる。

 まっすぐな視線が、迅を貫いた。

 

「コグレさんは嘘をついたよ。ひとつだけ」

「へえ?」

 

 それは珍しいな、と迅も不思議そうに首をかしげる。迅が聞いていた限り、木檜は冗談めかして言った言葉こそあっても、嘘を言ったとは思わなかった。

 そんな迅を見た空閑もまた、首をかしげる。つまらない嘘だとは思わなかった。だが、では冗談だったのかと言えば、何故だかそれもそれで違うように思えた。

 ソファに腰掛けたまま、空閑は迅を見上げて言った。

 

「『天才』だけが嘘だった」

 

 その言葉に迅は一瞬目を見開き、なるほどね、と愉快そうに呟く。

 口癖のように「天才」を自称する木檜。その「嘘」は「冗談」ではないことを迅はよく知っていた。どちらかというと、それは、そう。

 

「悪いけど遊真、その『嘘』はしばらく見逃してやってよ」

「……ふむ?」 

「りっくんの決意表明みたいなモンだから」

 

 いずれ「嘘」を「本当」にしてやるという、ひねくれ者なりの意地だろうか。

 

 

 ***

 

 

 冬島にとって木檜は良き弟子であり、良き弟分でもあった。

 木檜がボーダーに入隊した当初は当然専門知識もなく、足のこともあったためにどう教育していくかと悩んだものだが、数ヶ月も経てばそんな悩みは消え去った。

 

『冬島さん、このトリオンについての論文なんですけど』

『冬島さん、トリガーの調整したので見てください』

『冬島さん、質問いいですか?』

 

 この少年、とにかく勉強熱心が過ぎた。それはもう、冬島がドン引きするレベルの勉強熱心だったのだ。

 一応冬島の業務の邪魔にならないよう気をつかってはいたが、それでも課題を出せば締め切りよりかなり早くこなし、質問事項をきっちり用意して提出してくる始末。一を言って十を理解することはなくとも、三を言えば一と二をきちんと考えて確認してくる丁寧さがあった。自分の理解を適当にすることのない姿勢は素直に好ましい。

 人見知りの気があるのか表情が堅いことは多かったが、それでも木檜が自分を慕ってくれていることは冬島にも伝わっていたし、冬島もまた若い弟子を可愛がっていた。自分のもつ知識と技術をできるかぎり教えてやろうと思う程度には、確かに。

 その甲斐あってか、木檜の成長には誰もが目を瞠った。確かに素養としてこの世界の機械には詳しかったが、それでも入隊から一年とたたずに新型トリオン兵の機能と構造を数分で解析したエンジニアは他にいない。

 木檜は「仕組み」が好きなのだとはにかんで言った。合理的な「構造」をもつトリオン兵も、トリガーも、ほかのあらゆるものも、すべて。

 

『だから構造を解析するのも楽しいし、構造を考えて組み上げていくのも楽しいです』

 

 ひとつひとつの部品の積み重ね、ひとつひとつの技術の積み重ね。地道に、確実に、丁寧に、考え抜かれて培われてきたもの。それを好きだと言えることは間違いなく技術者として最高の素質だと冬島は思う。同時に、あのひとが木檜を見込んだ理由も同じなのだろう、と素直じゃないなりに若い技術者を気に掛ける上司を思って少し笑った。

 そのうちおれくらい軽く超えちまうかもな、と微笑ましくその笑顔を見る。理鳩、と自分よりかなり低いところにある頭に手を乗せた。成長期が始まる前に足を失ったことが関係しているのか、木檜の身長はそのとき以来ほとんど伸びていないらしい。

 

『お前、何か目標とかあんの?』

『目標、ですか?』

『こーいうモンを作りたいとか、こんなエンジニアになりたい、とか。将来的な目標』

 

 う~ん、と冬島の手を乗せたまま木檜はゆらゆらと頭を揺らした。今のままでいい、というなら別に冬島はそれでも良かった。ただ、見据える先があるなら手助けくらいはしてやりたいというのが師匠心というもの。

 実は前からちょっと思ってたんですけど、と木檜は顔を上げた。

 

『遠征、行ってみたいです。ここにはない技術を直で見たい』

 

 おっと、と冬島は眉を上げる。その反応を見て、木檜はわかってますけど、と苦笑した。その目的達成の困難さを、木檜自身よく理解していた。

 別に、戦闘員でないことが問題なのではない。実際、遠征に出るには戦う人員以外にも艇を動かす人員ほか、さまざまな役割の人間が搭乗する。そこにエンジニアが含まれるのは何もおかしいことではない。

 ただ、やはり問題となるのは木檜の足だった。

 遠征に出た先は、穏やかな国家ばかりとは限らない。戦闘の可能性、それもボーダーより遙かに進んだトリオン技術をもつ国家と戦うことになる可能性がある。非戦闘員とは言え、万が一遠征艇ごと攻撃を受けてしまったら。攻撃を防げずトリオン体が破壊され、生身になってしまったら。いくら特別製と言えど、義足で機敏に動くのはなかなか難しい。

 非常時に自分の足で逃げることさえ危うい「足手まとい」を遠征に連れていくわけにはいかない。木檜も、自分のために他者に負担を強いたいわけではなかった。

 

『おれが遠征に行くにはー……何度も遠征を繰り返して遠征の成功率あげて、近界(ネイバーフッド)の情報集めてある程度安全性を確保して、……あと当然、おれが連れていく価値のあるくらい優秀なエンジニアにならなきゃ、ですかね。ハードル高い』

『ああ。しかも、そのレベルで遠征ができるようになるには普通に考えて数十年はかかるな』

『ですよね。しかも今のボーダーは防衛がメインだから、遠征を前提に考えたトリガーの開発はあんまり進んでませんし』

『お、そこまで目が行くようになったか。そうだな、はっきり言ってかなり難しいぞ』

 

 冬島は、特に木檜相手には頑張ればできるという精神論を振りかざすことはしない。木檜自身がそういった希望的観測を好まないということをよく知っていたからだ。

 作りたい未来(カタチ)があるなら設計図を引き、ひとつずつ組み立てていく。それが木檜の思う技術者(エンジニア)としての在り方だった。

 若きエンジニアの眼には、挑戦的な色が浮かんでいる。

 

『難しいですか~』

『ああ。ボーダーが現時点で主軸に置いていない方向での、飛躍的な技術革新が必要になる。しかもお前が元気でいる間うちになんて期限つきなら、そりゃ天才の所業だ』

『確かに~。じゃあおれ、天才になるしかないですね』

 

 あまりにさらりと言い放たれた言葉。

 なろうと思ってなれるものなのか、と冬島がからかえば、他に方法がないなら頑張るしかないじゃないですか、と技術バカの弟子は笑った。

 

『とりあえず形から入るのがいいかな。おれ天才って結構狂った(マッド)なイメージなんですけど。自分の専門に一直線でほかは結構どうでもいいみたいな』

『確かに紙一重なイメージはあるけどな。ほどほどにしろよ、室長にどやされる』

『時間はちゃんと守りますし、ものを壊したりはしませんって』

『約束のラインが最低限すぎねーか』

『気のせいじゃないっすか』

 

 にっかりと歯を見せた木檜に、ああこれは火ィ付けちまったと笑ってしまったことを冬島はよく覚えている。

 その日以来、木檜は自分にプレッシャーを掛けるように「天才」を自称し、人見知りも一切しなくなった。誰に対しても自分のペースをつくって接し、戦闘員に対しても怯むことなく話しかける。

 自分の技術向上も考えてか、トリガーについての要望を聞いてまわったり、戦闘の悩みを聞き出したり。トリガーを調整する必要があれば惜しみなく行い、新型トリガーの開発のヒントがあれば即座に行動を起こした。木檜の助力によって勝ち星を増やした隊や、新しい戦闘スタイルを編み出した隊も少なくはない。

 隊員に感謝されても、木檜はただいーよいーよと軽く手を振った。それが仕事で、それが自分の技術のためだからと笑い飛ばす。そう、木檜はとにかく笑うようになった。楽しいことがあれば笑い、難しいことがあれば笑い、成功すれば笑い、失敗すれば笑い、驚けば笑う。

 それが木檜の思う「天才」なのかと冬島が尋ねれば、木檜はまた笑い飛ばす。

 

『苦悩する天才より生きるの楽しそうな天才のが小気味いいかなって。いや実際楽しいから笑ってるし、笑ってると楽しくなるからなんですけど』

『まあ無理して笑ってるわけじゃないならいいけどな』

『してませんよ~。おれが機械いじり好きなのは冬島さんだってよく知ってるでしょ。いろいろ遠慮しないことにしただけです』

『……そうか』

 

 すっかり笑顔が板についた「天才」の頭に、そっと手を置いた。

 この頃にはもう、木檜は冬島の指示がなくともエンジニアとしての仕事を十分に果たせるようになっていた。新しいトリガーの開発にも携わり、すでに一人前と言える働きをみせている。

 少し前まで何をするにもおれの後ろについてきたのに、とわずかな寂寥を覚えなくもなかったが、それ以上に冬島が感じていたのは誇らしさだった。よく育ったなあと頭を撫でてやれば、身長全然伸びてないんすけど嫌味ですか、と生意気な口が返される。

 

『本物の天才になるのももうすぐかって言ってるんだよ』

『さすがに気が早いですが、期待はしてていいですよ』

 

 何せおれ、冬島さんの弟子ですから。

 そうにやりと宣った可愛い教え子を見て、冬島は思う。この「天才」を育てたことも、自分のエンジニアとしての大きな功績のひとつになるだろうと。もう自分がいなくてもきっと木檜はいつか「天才」になってしまうのだろうと、心から。

 低い位置にある愛弟子の頭を撫でながら、冬島はそっと目を閉じる。内心にあったわずかな迷いは露と消え、冬島は戦闘員(トラッパー)への転向を決意した。

 

「しつれーしまーす、冬島さんいますー?」

 

 と言っても、結局冬島と木檜の関係はたいして変わることもなく。

 もう深夜も近いボーダー本部内、冬島隊の作戦室。防衛任務を終えた彼らの部屋に、木檜はひょっこりと顔を出した。おう、と当真は寝転がったまま片手をあげる。

 

「りっくんじゃん、相変わらずちっせーなぁ」

「やー当真くん、知ってる? こないだ気づいたけどおれじつは風間さんより大きいんだよ。一センチ」

「お、そういうの何て言うか知ってるわ。あれだろ? どんぐりの背比べ」

「ひゃはは、当真くんに苛められたって真木ちゃんに泣きついてやる」

「それはやめて」

 

 ぽんぽんと交わされる軽口に苦笑しながら、冬島は飲んでいた栄養ドリンクの瓶を片付けた。あんまり夜に騒ぐなよと姿を見せれば、冬島さんいたーと愛弟子は笑顔を向ける。

 冬島が特殊工作兵(トラッパー)になることを伝えると、木檜は「じゃあトラップトリガーもっと考えなきゃですよね!?」と目を輝かせた。ボーダー入隊当初から世話をしてくれた師匠が離れるというのに、さみしがるどころか新たなトリガーの開発に繋がると喜ぶ始末。まあそれが木檜の思う「天才」なのだろうと冬島は遠い目をするしかない。

 木檜的には「本部にいるなら一緒じゃん」という感覚らしく、師匠離れしつつもこうして時折冬島の作戦室を訪れていた。当真や真木ともすでに軽口を叩く仲を築いており、何故だか真木を恐れる冬島と当真をたびたびからかっていた。当真がソファでだらだらしているところを見ると、どうやら真木は不在らしい。

 ひょいひょいと跳ねるような足取りで木檜は冬島に駆け寄った。

 

「雨取ちゃんのトリオン数値計測して演算やり直してきたんで報告にきました~。はいこれ諸々の概算数値と、あと防壁の耐久性強化案です赤入れてください」

「さすが、早いな。どうだった、アイビスで壁に大穴開けた子のトリオン量は?」

「これがもー爆笑モン。今までの個人トリオン量トップって二宮さんでしたっけ? 三倍近くあります」

「てことはブラックトリガーレベルか。そりゃすごい」

 

 わかった、と冬島は数値の入ったメモリを受け取り、ポケットに仕舞う。そのままじゃあ行くぞ、と木檜の頭を掴んだ。

 

「当真、お前もメシ行くか」

「お、いーっすね。ラーメン行きましょーよ、この時間でもやってるとこ知ってるんで」

「えっこれおれも行く感じ? おれ今日はまだ時間あるんで開発室にいでででで」

「そもそもお前は今日休みだろ、何で本部来てんだ。メシ食って帰って寝ろチビ」

「あっチビって言った! いや理鳩くんもう十九歳なんですよ冬島さん、じつは当真くんより年上だったりして残念ながらもう伸びる気配は、」

「大人しくついてこないと奢ってやんねーぞ」

「ごちっす!」

 

 変わり身はえーと笑う当真をつれ、相変わらずの師弟は作戦室を後にする。

 静まりかえっていた廊下が三人の賑やかな声で塗り替えられていく。玉狛の話、美味い飯屋の話、新しいトリガーの話、鬼怒田の怒髪天を衝いた話、ログで見たランク戦の話、どうでもいい話。雑談のなかで真面目な話もしているはずなのにとてもそう見えないのは、すぐに脱線するせいか三人の気性のせいか。

 冬島に尋ねられた木檜が今日の「残り時間」を答えると、そういや、と当真は二十センチ以上低いところにあるつむじを見た。

 

「前から思ってたけど、りっくんて生身と同じように右足のねえトリオン体モデルつくって義足履くのは研究的にナシなんか? そうすりゃ痛みも出ねえし、アタマへの影響も少ないんじゃねーの?」

「お、当真くんて馬鹿なのにたまに鋭いね」

「ははは理鳩、お前少しは包み隠せな」

「注意してほしいのそこじゃねーんだよなァ隊長~~~?」

 

 口元を引きつらせた当真に、口の悪い師弟は同じ顔で笑う。

 もちろん天才の理鳩くんもそれくらい考えたけどね、と木檜は当真から視線を外して前を向いた。わずかに歩みを早め、両隣のふたりより半歩前に出て、言う。

 

「脳の勘違いがなくなって幻肢が消えたからって必ず幻肢痛がなくなるとは限らないんだよね、幻肢を残したまま痛みだけ消えたって実例もあるから。片足のないトリオン体つくっても、それで解決する保障はどこにもないわけ。……だったら、」

 

 くるりと振り向いた木檜は、変わらない顔で笑う。

 

「やっぱ両足で歩きたいじゃん」

 

 データサンプル的にもどっちでもいいって言われたし~と再び前を向いた木檜をアタマの後ろで両手を組んだ。

 ひょいひょいと歩く木檜を見て、当真はちらりと冬島に視線を送る。その意味に気づいた冬島は、視線だけで気にするなと返した。冬島が知る「今」の木檜も、木檜がなろうとしている「天才」も、この程度のことで揺れるような繊細さなど持ち合わせてはいない。

 一瞬だけ目を伏せた当真は、すぐに調子を取り戻して口を開いた。

 

「なんだ、『天才』のくせに気づいてねえのかと思ったぜ」

「なわけないっしょ、『天才』の理鳩くんだよ? 当真くんてば本当におれを舐めすぎだよね~誰のおかげでこないだのテスト赤点回避できたと思ってんの?」

「いやそれについては正直舐めてたわ。りっくんマジ教え方上手いのな、どんな手使ったんだって国近に詰め寄られた」

「えっ理鳩お前学校の勉強とかできんの? 機械関係以外も?」

「あ、冬島さんまでひっでえ! おれ普通に大学入試パスして大学生やってんですよ、それくらいできます。何なら成績はいいほうです」

 

 信じられないという顔で見る冬島に、心外だと顔全部で表現する木檜。そんなふたりを見て盛大に噴き出す当真。廊下が再び賑やかさを取り戻す。

 

「だってお前、むしろいつ勉強してたんだ? おれお前が学校の勉強してんの見たことねーぞ。高校ンときだってテストがどうとかって話したことなかったろ。興味ねーことには触んねーやつだと思ってたわ」

「そりゃボーダーでは機械いじりだけしてたかったんで、こっちに影響出さないようにしてたんですよ。何がものづくりの役に立つかわかんねーから学びを疎かにするなって鬼怒田さんにめちゃくちゃ言われたし」

「ああ、言いそう。そんでちゃんと勉強してたのか、変なとこで素直だなお前は」

「えっあれ必須って意味じゃねーの? 赤点取ったらクビになったりとか!」

「いやどっちかっつーと室長の主義の問題じゃねーかな」

「ああ、エンジニアとしての心得的な?」

「嘘!?」

 

 愕然として足を止めた木檜の両肩をそれぞれ叩き、くつくつと笑いながら冬島と当真は木檜を追い抜いていく。

 ぐぬぬと唸った木檜は、小走りで自分より足の長いふたりに追いついた。

 

「今日冬島さんのおごりなんですよね? 覚悟してください」

「ひとの金でやけ食い宣言やめろ。だいたいお前今トリオン体じゃねーか、満腹になんなくて食い過ぎるから節制するって言ってただろ」

「寺島さん見てたら別にいいかなって」

「よっしゃりっくん、どうせならトリオン体の限界に挑戦しよーぜ」

「よしきた」

「本気でやめろ」

 

 どこまでも終わらない軽口の応酬は、ボーダーを出て当真おすすめのラーメン屋に到着するまで続いた。ラーメンに餃子、スープにチャーハンを各数人前ずつ。三人で食べるにしても多すぎる注文に店員は眉を顰めたが、自信満々に「絶対残しません」と言い切る木檜を見て、疑いつつもオーダーを通した。

 その結果は、もはやいうまでもない。

 数時間後、三人はようやく店を出る。財布が空になるまで食べ尽くされた冬島の傍で、満足げな顔をした木檜と当真は仲良く腹を撫でていたのだった。

 

「う~ん、結構満腹だけどまだイケる」

「うわトリオン体やべーな。おれの五倍は食ってたのに」

「お前ら本当に覚えとけよ」

 

 

 ***

 

 

 きりり、きりりとぜんまいを巻き上げる。

 カチ、コチ、カチ、コチ、針は動く。

 ひとつひとつ、丁寧に。一歩一歩、確実に。

 カチ、コチ、カチ、コチ、時を刻む。

 立ち止まることを許さない。

 

 

 ***

 

 

 自身のなかで響き続ける音。仕組みあるものへの度を超えた好奇心。足を失った絶望と自身を蝕む痛みへの恐れ。目指す未知の世界と、「天才」という手段。

 それらすべてを歯車として、木檜理鳩は時を刻む。

 

「おー木檜、お前の緊急脱出(ベイルアウト)についての意見書チェックしたけど、もうちょい具体的な対策案練っといて。内容は悪くないと思う」

「ヤッター! 忙しいのに見て頂いてありがとうございます寺島さん! すぐ再提出するんでまた確認お願いします!」

「こら待て、そんなに急がなくていいから」

「いや、もうほぼ出来てるんで」

「……出来てんの?」

「面白かったんでちょっといろいろ考えてました!」

「……おれはお前を多少なりともコントロールしてた冬島さんを心底尊敬するよ、このマッドエンジニアめ」

「誉め言葉っす!」

 

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 

「おう木檜ェ、差し入れだ。とっとけ」

「やっば帯島ちゃんとこのみかんジュースじゃん! さんきゅー弓場ちゃん、帯島ちゃんにもお礼伝えてね。そのうち何かお返しするわ」

「気ィつかうな、お前にはトリガーの調整で世話になってっからな」

「りっくん暇〜? あ、弓場ちゃんもおるやん」

「よ〜イコちゃん、どったの」

「おう、生駒か。トリガーの調整か?」

「や、ちょお話きーてもらお思て。弓場ちゃんも暇やったら付き合って」

「仕方ねえな。短く済ませろよ」

「いや、うちの水上がめっちゃええやつで困ったって話なんやけど。どうしたらええと思う?」

「……生駒ァ」

「ひゃっはははすげーやイコちゃん、弓場ちゃんがめっちゃ苦悩に満ちた顔してる!」

 

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 

「よう鳩時計くんじゃないか、今何時?」

「へ~い鳩時計が午後三時十二分五十一秒をお知らせしま~す」

「……鳩時計と呼ばれても普通に返事をするのかお前は……」

「いや太刀川さんのことだから『木檜』も『理鳩』も漢字が読めなかったのかなって」

「……ん?」

「なるほど、それなら仕方がないな。木檜、頼まれていた隠密トリガー(カメレオン)改良への要望だ。遠慮なくというからかなり無茶を書いたが」

「いえ、無茶ぶり大歓迎っす! ありがとうございます、風間さん」

「ああ、どう応えてくれるか期待している」

「おれを普通にスルーすんのやめてくんない?」

 

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 

「なあ木檜、おれたちはついさっきまでテラスで立ち話してたよな」

「そうだね柿崎(ザキ)くん」

「なのに何で今こうして公園を歩いているんだろう」

「そりゃうっかり嵐山に遭遇して(コロ)の散歩に引きずり出されたからだね柿崎(ザキ)くん。迅すら手玉に取る最強マイペース野郎に時間あるなんて言っちゃったのが運の尽き」

「ははっふたりが一緒だからかコロもはしゃいでるよ。あ、理鳩、歩くの早くないか?」

「今トリオン体だからお気遣いなく~。まあいーじゃん、柿崎(ザキ)くんもちょっと気晴らししよーよ。たまには仕事以外のことも考えないと」

「いや、それお前が言うか?」

「ああ、さすがに自分を棚に上げるにもほどがあると思う」

「急に真顔になるじゃん」

 

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 

「いきなり押しかけて悪いね、木檜くん」

「構いませんけど、どうしたんすか? 東さんがわざわざおれをご指名なんて珍しい。いや東さんにご指名されるなんてめちゃくちゃ光栄ですけどね」

「ははは、気を使わなくて構わないさ。木檜くんがかなりの数のオプショントリガーの試作を隠し持っていると冬島さんに聞いてね」

「ひゃっはっは冬島さんチクショウ! ……なにとぞご内密に……」

「もちろん。ただ、ちょっと見せてくれないかと思ってな。お前のことだ、きっと戦略の幅を広げるようなものを作っているんだろう?」

「……東さんならあの試作たちもうまく使いこなしてくれそうですね」

「それは光栄だ。構わないか?」

「もちろん。トリガー見て戦略が浮かんだらおれにも教えてくださいね」

 

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 自身を動かす歯車と、積み重ねた「時」を糧として、未来(カタチ)を見据えて線を引き、ひとつひとつを組み立てる。それが木檜理鳩の選び取った、技術者(エンジニア)としての生き方だ。

 そうして時を重ねたその先で、いつか言ってやろうと決めている。この未来を()()()()のは自分だと。つかみ取ったのは木檜理鳩以外の誰でもないと。

 

『だからお前の()()じゃない。これは俺の()()だ』

 

 横取りすんな馬鹿野郎、そう言ってやろうと決めている。

 

 

 ***

 

 

 懐中時計のゼンマイを巻き上げ、自分のなかの音とともに時間を合わせる。カチ、とふたつの音が重なるのが木檜には心地よかった。

 

「マメだね~」

「落ち着くんだよ、ルーティンだ」

 

 ボーダー本部開発室のほど近く、少し奥へ進んだ先の廊下の隅。作業の途中で集中が切れると、木檜はふらりとここを訪れる。普段使わないものを保管している倉庫くらいしか近くにはなく、用がない限り誰も来る場所ではない。行儀悪く床に座り込んでいても咎められることのないこの場所を、木檜はわりと気に入っていた。

 とはいえ、それでも時折現れる物好きはいる。よう、と何故だかごくごく普通に現れて隣に座り込む迅に、木檜はもはや何を言うのも諦めた。

 時計が正しく動き出したのを確認し、ぼんやりと文字盤を眺める。時間を確認する必要がなくても、それだけで木檜の心は安らいだ。

 そんな木檜の隣で、迅はこつん、と背中を壁に預ける。

 

「りっくん」

「ん」

玉狛(うち)の新人くんたちさ、遠征目指してんだ」

「うん」

 

 こうしているときの木檜が生返事しか返さないことを迅はすでに知っていた。しかし、聞いていないわけではないこともわかっている。

 特に気にした風もなく、迅は言葉を投げ続けた。

 

「メガネくんも千佳ちゃんもまだまだだけど。ああ、でも遊真は強いな」

「そうか」

「遊真は嘘を見抜くサイドエフェクトも持ってる。りっくんの『天才』がまだ嘘なことを見抜いてたよ」

「へえ」

「きっといいチームになるよ。先が楽しみだ」

「ああ」

 

 そこで少しの沈黙が流れる。カチ、コチ、と時計の針が動く音だけが廊下に響く。

 詰まった息を解くように、ふう、と迅が小さく息をついた。その音に誘われて、ようやく木檜の視線が迅に向く。迅もまた、横目でその視線に応えた。

 お互い、視線でものを語っているつもりもなければ、何を伝えたいわけでもない。ただ、そこにいるだけの時間だった。それだけでよかった。

 わずかに目元を緩めた迅は、壁から背を離して口を開く。

 

「理鳩」

 

 呼ばれた名前に、特に違和感なく木檜は相槌を打った。木檜にとっては別に理鳩と呼ばれるのは珍しいことではないし、迅もたまにそう呼ぶことがある。どういう気まぐれで呼び分けているのか知らないが、木檜は気にしないことにしていた。迅の意図など、わからないくらいでちょうどいい。

 がさり、といつものように迅が抱えていた袋が揺れた。

 

「ぼんち揚、食う?」

「……食う」

 

 その返事に、迅は妙に嬉しそうに抱えていた袋を差し出した。その顔を見た木檜は、何だこいつと思いつつもつられるように同じ顔で手を伸ばす。

 そこにはただ、時計の音とぼんち揚を噛み砕く音だけが響いていた。

 




こちらでは初投稿です。
何かあれば優しくご指摘ください。

大変楽しく書きました。
お付き合いありがとうございました。
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