4コーナーを回る先団に上位人気の姿はない。
電撃の短距離戦。
女神は平等に、その日もっとも強かったウマ娘に微笑んだ。
重賞勝利経験など関係なく、勝った者が勝者だった。
激戦の末、驚愕と歓喜の渦巻くターフの端で。
少女は再び空を見上げる。
そぼ降る雨の窓辺から夜景を眺めていた。
ガラスを濡らす無数の水滴が街の輪郭を歪めている。昼間にトレーナーと行ったお店の大きな看板もおぼろげに揺れて、かすかに文字が読める程度である。
ネオンでどれだけ照らそうが暗闇が消えることはないのに。
それでも人間は光を灯す。だから東京では電気が足りないという。
無駄。
ではないが、足りない。足りるわけがない。
何物も太陽の替わりにはなれない。
レースだってそうだ。
2着をどれだけ積み上げようが、1着とは交換できない。
声援に応えるという点からいえばライブには出られるのだから2位が無価値なわけではない。けれども、やっぱりそれは添え物だ。センターにはあくまでもセンターがいて、譲った分だけサイドへの拍手は減ってしまう。
結局、私は何年経っても真ん中に立って歌ったことがなかった。萌黄賞で下したはずの逃げ上手なあの子は、私よりも先にGⅠを取って私より早く辞めてしまった。せいぜい「掲示板内」の私はいつだって誰かに先着されている。慣れはしないが、だからって、そのたび泣くような繊細さはいつしか失ってしまっていた。私の名前の横にはいつも「残念」「惜しい」「いいところまでは行くのに」そんな台詞が貼り付いている。そういう運命なのだ。私には、いつだって何かが足りていない。
骨折はウマ娘にとっては身近なケガだ。私の右足首には今もボルトが埋め込まれている。しかし手負いの身で勝てるほどレースは甘いものではない。そして勝てないことを褒めるファンなどいない。丸一年かけた治療とリハビリの日々から、久しぶりの実戦。その瞬間の私にとっては精一杯の位置だとしても、言い訳の機会なんか誰も与えてはくれない。1桁人気で勝ち負けするのと2桁人気で2桁着順に収まるのでは同じ「信じていた」の言葉でも、込められた熱量はまったく違う。世間の評価は残酷で、しかし正直である。強くなければ負けるという当たり前の繰り返しに、いつしか励ましてくれるファンも少なくなっていた。
走るたびに腫れた足もようやく落ち着いた頃、2年ぶりに出場したGⅡの大舞台では10番人気からのクビ差2着という大波乱を巻き起こしてみせた。
誰もが驚いたし私自身も惜敗の悔しさよりも嬉しさが勝った。なにせグレードレースで初めてポディウムに立てたのだ。やっと本来の力が発揮できたと、トレーナーの笑顔も久々に見た気がする。
だがレース直後に、私はまた1年間を休養に費やすこととなる。今度は骨ではなく呼吸器系の異常だった。運動誘発肺出血、こちらもウマ娘には馴染みの病である。そして掛かりやすい病の常として絶対的な治療法が存在しない。ただ体を休める、それだけである。
2度にわたる長い休み。
こうして私は競技選手として致命的な、肉体年齢のピークを無駄にした。
休養明けぶっつけのGⅢは3着以下の後続を2バ身突き放して先頭は14人中2人だけ。
私たちは他のウマ娘を置き去りにして、たった2人で残り100mからゴールまでを競い合った。
相手は同い年の子である。脚色が鈍り始めると言われる年齢同士、互いに負けるわけにはいかない。しかし彼女はマイルを主戦場としていた。それに比べたら短距離向けの私には、走り慣れた1200mではなく1400mの距離ではやはり最後の一息が足りなかったのだろう。またもやクビ差の2着に敗れる。
才能だけでは足りない。
運だけでは勝てない。
何より走れる体が備わっていなければ。
だから全部だ、全部。
全部を持っていなければ、なにか一つでも欠けてしまえば。
1着でゴールを通過することはできない。
雨は止みつつあったが、急な風が時折吹いては窓ガラスを軋ませる。それ以外は何も聞こえない部屋で、来訪者はゆっくりと喋り始めた。
「雨、こんなに降らなくたっていいのにな……」
「そうすね」
随分前からトレーナーの気配は感じていた。彼は私を気遣うときほど、足音を消そうとする。本来、我々ウマ娘という種族は気が小さいゆえ大きな音に敏感である。それ以上に、彼は私に対して臆病だった。トレーナーはたいして驚かない私に苦笑しながら本題を口にする。明日はGⅠが控えていた。GⅢ勝利経験すらない私には勝ちきる展望など持てるはずもないのだが、彼が言うには勝てる要素は山ほどあるらしい。曰く、上位人気はどちらかといえばマイラー寄りで短距離に絶対の実績があるわけではない。それに一番の問題は雨だ。雨水を大量に含んだ芝は走る者の体力を激しく奪う。短距離レースとはいえ逃げウマ娘のスタミナが持つのかどうか。他の者の差し脚も届くかどうか。
「この重い馬場がまた良い方に向くかもしれない。昨年のこのレースでも君は……」
「離された4着だったっすね」
正直、聞く気分にはなれなかった。精一杯の励ましを短く冷ややかに片付ける私に、それきり彼は黙ってしまう。かわいそうに、勝利に一歩届かないのは主にトレーナーが悪いわけじゃないのに。だが今さら関係性を改める気も起きない。
こういう性格なのだ、私は。
「トレーナー」
「なんだい?」
「眠くなったっす」
「あ、あぁ……ごめん。すまない」
彼は髪を掻きながら心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「ゆっくり休んでくれ。それじゃ」
「トレーナーも」
何の因果か名前の通り、私は人間に対して素直になれない。気持ちの余裕なんてないGⅠ前夜ともなれば尚更だ。そそくさと退散する彼の背中を見送ってから、本人には聞かせる気のない言葉の続きを呟く。
「……トレーナーも、早く寝てくださいよ」
明日走るレースでは上位人気は若い子ばかりで私はすでに無理のきかない年なのだ。体のケアも手を抜いてはいられない。ドアが再び開かないかとかすかに期待もしたが、早々に諦めて私もシーツに丸まり目をつぶった。
『さぁ、枠入り順調! いよいよ始まる春のスプリント王決定戦! GⅠの栄誉は、どのウマ娘の物となるのか!』
中京競馬場にアナウンサーの声が響き渡る。
不思議な巡り合わせで横の14番ゲートは前哨戦GⅢで私にハナ差で勝った子だった。
「……勝たなきゃ……勝たなきゃ……勝たなきゃ」
「あのさ、お互いにいい年なんだし。もうちょっと落ち着いたらどう?」
「……えっ? あっ、阪急杯の! お久しぶり!」
「いや、パドックからずっと近くにいましたけど」
「えっ! そうなの? ごめ!」
「いや、いいけど」
しかし、その後も彼女は思い詰めた表情で何か小声で呟いている。注意散漫と言うより集中しすぎの視野狭窄といった感じで、明らかにレースの前から掛かり気味である。
「……勝たなきゃ……勝たなきゃ……」
声をかけるべきか。しかしレースとなれば彼女は前走で先着を許した相手なのだからライバルだ。私と違い結果をすでに残している。上の相手に手を差し伸べる必要なんてないだろう。それに私は最後の直線は外を目指したい。そうなれば真隣の彼女は邪魔になるかもしれない。これはレースなんだ。だからこれ以上、気にしないことにした。
気にしないつもりでいた。
「……勝たなきゃ……約束したんだ……ロードカナロア先輩と……同じレースを勝つって」
「ダイアトニック!」
「……えっ? あっ!」
ゲートが開いた。一言叫ぶのが精一杯だった。
スタートのタイミングを逃した14番は一瞬で視界から消えていく。
彼女は出遅れたようだ。
前走であれだけ競い合ったライバルがあっけなく脱落していく。
しかし、これがレースだ。
レースはいつだって強い者が勝つ。
才能があって運に恵まれ誰よりも勝利に貪欲で、時に非情になれる者。
そういう者がレースを制する。
レースは個人の競争だ。自分がどうなりたいか。その覚悟が脚の速さを、作戦を、想いを他人より勝るものにする。
約束?
他人なんか関係ない。そんなものが勝利につながるものか。
向こう正面のゲートを飛び出して1番人気の子は先頭を逃げている。だが、だからどうということもない。そもそも彼女に限らず前列を引っ張るのは私よりも期待を受けている子たちばかりなのだと、私は静かに後方に控えた。焦って前を追いかけても私には残せる脚はわずかしかない。ただ黙って背中を追うだけ。自分の脚をどこで使うか、ただそれだけだ。レースとは自分の状態を見極めて、自分との戦いを粛々と行うものなのだ。他人なんか関係ないんだ。
他人なんか関係ない、はずなのに。
ゴールが近づくにつれてスタンドからの歓声が大きくなっていく。故障でレースに出られない期間も多く、そして誰もいない無人の会場を走る初めての体験もした。昨年の中京は頬に泥が当たる音しか聞こえない大雨の中だった。だから声援は、実に久しぶりな気がする。集団が三角に突入すると声のうねりは激しさを増す。視界にゴール板を捉えた。
その瞬間、見慣れたいつものトレーナーと。
そしてなぜかもう一人、よく知るウマ娘の顔が浮かんだ。
──なぁ、トゥラヴェスーラ。楽しもうぜ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
『レシステンシア苦しいか! 並ぶのはジャンダルム! キルロードが追う! そしてトゥラヴェスーラも上がって来たぁ!』
レースは個人の戦いだ。だから他人を負かさなければいけない。
でも、私は他人に勝ちたいから走りたいわけじゃない。
思い出した、私がレースに出る意味を。
自分より若い年代の背が前を駆けていくのに慣れて、負けても泣かなくなって。
鈍っていた自分の感情。
そうだ。
私はレースを制したい。
勝ち負けだけではない。見る者すべてをあっと言わせたい。
そんなレースがしたかったんだ。
私のよく知るそのウマ娘は粗雑で暴れん坊な、いわゆる悪い先輩で。
体は小さいくせに負けん気だけは強かった。
彼女は語ってくれた。
──俺んときのダービーはクソみてぇなレースだったぜ。
桜花賞を通れば誰もが次にオークスを目指す三冠ティアラ路線。
オークスを選ばずに、あえてダービーを選んだウマ娘。
過去にも変則ローテでダービーを目指した者はいた。
しかし、ことごとくが敗れ去った。
けれども、その年のダービーは違った。
この光景を一体、どれだけの者が予想し得ただろうか。
半世紀以上の空白を埋め、己が道の先でダービーを勝利した偉大なウマ娘。
そのウマ娘の名はウオッカ。
先輩はウオッカと同じダービーを走っていた。
ウオッカが先頭で駆け抜けた後の会場にはもう、先輩に目を向ける観客など誰もいなかった。
──勝つってことはよ、刻むってことなんだよ。歴史とよ、人の心によ。
後に先輩は言葉通り、史上最軽量体重での有馬記念制覇。
そして数多いるウマ娘の中でたった十四人しかいない宝塚と有馬を制した春秋グランプリウマ娘として歴史に名を刻む。
──見てる連中を驚かせろ。そうすりゃ。
肺が破裂したって構わない。
伸びきれず、そして追い付けず人気上位が誰も前を走っていないこのレース。
この感触。
去年と同じだ。そんなバカなと、みんなが私を見ている。
「走るのをぉ! 楽しもうぜええ!」
去年は前に壁があった。今年は横一線の中に私はいる。遮るものは何もない。不利がなければ、残りの勝負は純粋に脚の速さだけだ。
──レースってのはな、ビビらせたやつが勝つんだぜ。
「届けえええ!」
『1着ナランフレグ! 初タイトルがなんとこのGⅠ! 大仕事を成し遂げました!』
『2着はロータスランド! GⅡ2勝の底力を見せ2着! 』
『3着はなんと! 17番人気のキルロード! トゥラヴェスーラは追い上げましたが惜しくもクビ差! 今年もトゥラヴェスーラは4着まで!』
今日勝った子は、強かった。
芝のコンディションだとか枠だとか。
そうではなくて。
彼女は強かった、ただそれだけだ。
私と同じ、重賞を勝ったことがない子だけれど。
レース一つで世界を変えたナランフレグは。
歴戦の勇者を思わせる力強くて天にも届きそうなガッツポーズで観衆に応えている。
私はまた、その場所には届かなかった。
けれど不思議と清々しい気分である。
なぜだろう。
馬場は同じでも去年と違って、空が晴れているからだろうか。
「トゥラヴェスーラ!」
「……あっ、トレーナー」
「お前……血が出てるぞ!」
「えっ、そうすか」
鼻下を拭うと勝負服の袖は真っ赤に染まった。
また鼻血だ。運動誘発肺出血、再発。治るまで、またしばらくレースには出られない。
結果に「もしも」はない。
1200mだろうが、3200mだろうが勝者はいつも一人だけ。
でも後悔がないと言ったら、それは嘘だ。
もし体調が万全であったなら。
馬場もこれほど荒れていなければ。
もしかしたらこの脚は、もっと前までもったかもしれない。
私以上にショックを受けたのはトレーナーの方だった。
「どうでもいいす」
「え……?」
「体を治して、次のレースに行くっす。小倉でも函館でもいいす。セントウルステークスもまた走りたいっす」
勝ちきれないから人気もしない。
もし私みたいな子にも走る使命があるとすれば。
「短距離王者を決めるのは高松宮だけじゃないすよ。まだ、あるじゃないですか。私、まだ走ってないす。走れる限り走るっす。スプリンターズステークスに出たいっす」
「お前……」
だから何回でも挑んで。何回でもみんなを驚かせてみせる。
私の名のトゥラヴェスーラ。
意味はスペイン語で、わんぱく小僧。
負けたから、年だから諦める?
冗談じゃない。
素直になんて、なってやるものか。
「だからトレーナー」
うつむいていたトレーナーが、やっと顔を上げてくれた。
「褒めてください。てゆか笑ってください。トレーナー」