ウマガール・ドント・エバー・ストップ   作:愛田誠

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202×年、天皇賞 春

月並みですが「今日もどこかで馬は生まれる」を見ました
スズカやライスの物語は有名ですが
追い始めてほぼリアルタイムで見たのは
ピンクカメハメハが最初になるでしょうか

馬も騎手もいつだってがんばっています
外れても彼、彼女らを罵ってはいけない(戒め)


地中で原石の輝きは育まれる

私が暮らした2人部屋の壁には、先人の手によって壁紙が少し剥がれた箇所がある。

 

最初は何か固いものが擦れた跡なのだと思っていた。しかし数ヶ月後に別の部屋に住む友達がこの気になる壁の傷と同じものを、より壮大な規模で再現してしまい寮長に叱られるという事件によって真実は判明する。友達はスケジュールを書いた紙を常に目の付く場所に置こうと試みて、剥がれ落ちないように粘着性の強い両面テープで壁に貼り付けた。壁紙の傷はテープを剥いだ跡というわけだ。おそらく前の住人も壁に何か貼っていたのだろう。憧れる先輩のポスターか、それとも夢をしたためた決意書か。今となっては誰にもわからないけれど。

 

入居した当初、私はその傷痕が嫌だった。住む者がいくらでも入れ変わる寮の部屋に新しさを求めるのも酷だろうが、しかし希望を抱いた新人にとって単純な古さは陰となる。

例えば隣の部屋なら、天下に轟く剛速二冠ウマ娘を宝塚記念でくだした人が以前に暮らしていて代替わりを重ねた今なお縁起物として扱われている。一方で私は前の住人を知らない。なんの情報もない中古物件とはつまりそういうことだ。大成したウマ娘はあらゆるところに名を残す。レースの記録やライブでの記憶に留まらず、どの部屋も統一されているはずの椅子や机にすら彼女たちは名前を刻んで特別にしていく。その椅子に座ればレースに勝てるとかベッドで寝起きすれば足が速くなるだとか有名人が過ごした空間ともなれば、そういう類いの噂があらゆる小物に付いていた。

 

実際の効用はともかく声高に噂を否定する者がいない。ある意味、レースと一緒なのではないか。天候や枠に左右されて結果などいくらでも変わる勝負の世界に絶対はないが、それでも、もしかしたらという幻想を一心に抱かせる者がレースには必ず存在する。夢を託せる者、人はそれを強者(ヒーロー)と呼ぶ。

 

 

 

うらやましい話だ。

私だって、そっち側のウマ娘になりたかった。

 

 

この部屋で暮らしている間、私は壁紙が欠けている部分を隠すように絵を飾っていた。仕送り学生が思い付きで買える程度の模造品だが、印刷がキャンバス地に施されているため質感は古めかしい油絵そのものに感じられる。彩色鮮やかな青絹をまとった祈る聖母の絵。別にホモサピエンスの宗教に深く関心を持っているわけではないが、それでも私は聖母像が好きだった。一般的に聖母は慈愛に満ちた表情と共に、青いマントを羽織っていることが多いらしい。私は青が好きだ。自分の勝負服も青をベースにしている。とはいえ、もちろん色の好みだけが理由ではない。

 

素直に言えば、救われたかったのだ。

ホープフルステークス2着という立派な成績を残しながら、直後の骨折により一生に一度の皐月とダービーを棒に振る。

絵を買ったのは、その頃である。

 

病み上がりで臨んだ前哨戦を辛勝し、どうにか三冠最後の切符は手にした。

しかし本番は逃げウマ娘のマークが遅れて5馬身差の2着。

完敗だった。

 

強がり抜きで、1位以外は無価値だとは言いたくない。

2着も十分に誇っていい結果だ。着順を知らせる掲示板は誰しもが名前を残せるわけではない。GⅠならば尚更だし、デビュー戦含めて1回も掲示板に名前を載せることなく終える子だって大勢いる。ごく一部の覇王を除けば毎度レースに勝つなんて方がよほど非現実的なのだ。

だから2着でもよかった。だって次に勝つのは私なのだから。

 

次に勝てば、次こそは。

 

だけど現実には、次なんてなかった。 

右脚屈腱炎。

私はもう全力でレースを走れない。

 

ホープフルを負けたとき。

 

骨折でダービーに出られなかったとき。

 

菊花賞で、逃げる前の子を捉えられなかったとき。

 

涙なんて、とっくに涸れたと思っていた。

 

トレーナーから引退を勧められて、私は泣いた。

きっと一生分を、そのときに泣き終えた。

 

 

こうして今、私は先人が残した壁紙の傷を眺めている。もうこの部屋には絵を飾らなくていい。見たくないものを隠さなくていい。名前のない誰かに怯えなくたっていい。結局私は重賞未勝利で、そちら側のウマ娘になったのだから。

 

それよりも深刻な悩みは、いざ片付けてみたら思いのほか私物が少なくて段ボール箱とガムテープが余ったことである。そう都合良く譲れる先があるわけないし、そもそも引っ越し用品のお裾分けなんて貴方も引退しなよって言っているようなものだから絶対にやってはいけない。広げた段ボールを再び畳んで紐で縛れば、あまりの無駄さにおかしくなった。自分を卑下するわけではないが、世の中は成果を得られるばかりではないのだとあらためて感じる。

 

「ううう、先輩……」

「うん? って何なの、その顔は」

 

同じ部屋で暮らすカルセドニーは今朝も涙目であった。彼女はターフを去る私とは反対に、まだデビューをしていない。私が先輩として走りのあれこれを教える前に引退してしまうのを、とても寂しいと言ってくれた。

 

「ほら、もう、元気出して。今のうちからそんな水分飛ばしたら体重減るよ」

「だってぇ……私のデビュー戦、見てくれるって……」

「あー、ごめん、ほんと。役に立たない先輩でごめんね」

 

そんなつもりはなかったが、かわいい後輩は余計に泣き出してしまう。それから役立たずは私の方だと、必ず先輩の役に立ってみせますからと、部屋を飛び出していった。

 

 

引退を決めてから、後輩には気を遣わせてばかりいる。何を喋っても自嘲気味に聞こえるのは状況のせいでもあるし、自分の性格のせいでもある。

 

泣いたら忘れよう。

それが幸運に恵まれない私の処世術だった。虚勢を張りたいわけでも虚無的に斜めから世界を眺めたいわけでもない。物事はうまくいかないし誰もが強者(ヒーロー)になれるわけではない。確率で言えば選ばれなかったウマ娘の方が圧倒的に多くて、それが普通なのだ。1着はどうしても1人しか手に入れられないし、いくら嘆いても順番は回って来ない。だから悔しがるのはいいが、泣くのは1回だけと決めていた。1回泣いたら全部忘れようと心に誓って、実践しているだけなのだ。私はけして強くない。だからこそ周りに心配をかけないように振る舞うにはルールが必要だった。

 

心残りなら山ほどある。しかし悔やんだところで晴らせる想いにも限りはある。それにまだ決めかねているものも多い。今後の行く先、それは寮を出てから住む場所だけではなく実際に私の将来の話である。

 

「とはいえ、ねぇ」

 

この部屋を出る前に、トレーナーからある相談を受けていた。実家に帰って出会いがあれば結婚するという、ごく普通の引退を考えていた身からすればあまりにも突拍子もない提案だった。なんの成功の保証もない。答えは簡単に出せるはずなかった。

 

 

──海外でコーチをやってみないか。

 

 

目を見て会話をしているのに、最初は主題が自分なのだと気づかなかった。だって私は人に教えることなんか欠片も持ち合わせていないのだ。レースの何たるかなんて、わかっていたならせめてGⅢの1つも勝利しているはずである。どう振り返っても私は数多いる重賞未勝利ウマ娘の1人に過ぎない。それでもトレーナーは本気のようだった。

 

競馬発祥の地、ヨーロッパ。

ダート界の絶対王者、アメリカ。

貴族による華やかな催しというレース本来の姿に近いUAE。

最速のウマ娘が集う香港。

日本のウマ娘も今日では当たり前のように世界各地で走っている。国の数だけウマ娘たちの戦場は存在し、そして裾野が広い分だけレース強国と下位の間には長大なレベルの差が生じている。

 

トレーナーが勧めるその国は、例えば日本なら年間に約8000人のウマ娘が生まれているのに対し年間1500人と実に1/5程度の規模しかなく、かつての日本ウマ娘が海外勢の高い壁に阻まれジャパンカップを勝てなかったように自国開催する国際グレードレースを海外勢に蹂躙されるという、有り体に言えばレース発展途上国と表現しても差し支えなかった。

 

──だからってわけじゃない。お前には他の誰にもない資質があるんだ。

 

だからって。

自分を信じるなんて、できなかった。

こんな平凡な私が誰かの役に立てるなんて。

私の呼吸で、私の走り方で、そもそも自分が勝てていないのに。

 

 

 

夢の続き。

トレーナーはそんな言葉を口にしたが、私の夢は、今さら、もう。

 

「お待たせしました! 先輩!」

 

突然部屋のドアが開く音と、カルセドニーの声がほぼ同時に聞こえた。

 

「うわっ! びっくりした! な、何? どうしたの?」

「私は先輩のお役に立ちたいのです! だから探してきましたよ!」

「はい? だから、何を?」

「余った引っ越し用段ボールをお譲りできるお相手です!」

「はぁ? ……えっー! ちょ、ちょ! 待ってよ!」

 

あまりにも唐突で返事がうまくできない。だから、それは相手次第じゃ地雷も地雷な万が一にもやってはいけないことなんだって。

 

「どうぞ、こちらの方です」

 

彼女に促されて、誰かが部屋に入ろうとしている。私はその人の顔を見るよりも先に頭を下げて、カルセドニーの非礼を詫びた。

 

「あー! ごめんなさい! うちの妹みたいなのが、とんだ失礼を!」

「なんで先輩、謝ってるんですか?」

「だって!」

 

だって、あり得ないじゃないか。そうそう都合良く似たようなタイミングで引っ越しする子がいるはずがないんだから。

 

「いえ、いいんです。ちょうど欲しかったので、助かります」

「はい?」

 

その声は優しく穏やかな響きを伴っていた。意外にも本当に寮を出る人がいたらしい。顔を上げると、さらに驚くべきことにその子には見覚えがあった。

 

「お久しぶりです。菊花賞以来ですかね」

「……ディ、ディヴァインラヴさん」

 

 

 

ディヴァインラヴ。

ティアラ路線の前哨戦として出場する子も多いエルフィンステークス。

彼女は挑み、そして掲示板を外して負けた。桜花賞トライアルのチューリップ賞を前にしてマイルを大敗する。それはクラシック世代にとっては絶望を意味していた。

 

リステッド競争すら勝てない者がグレードレースを勝てるわけがない。

しかし彼女は足掻き続ける。

マイルがだめなら中距離で、距離延長して臨んだ1勝クラスや2勝クラスで他の同世代より早い先輩相手との勝負に勝ち続け、そしてついにティアラ路線のウマ娘が秋華賞ではなく菊花賞に挑戦する。

連勝中の上がりウマ娘として彼女の勢いに期待する声はあったが、重賞未勝利のウマ娘が、しかも70年以上ティアラ路線ローテの子が勝っていない菊花賞となれば、6番人気と言ったら聞こえはいいが中身のオッズは17倍と優勝争いを期待される上位とは離された評価をされていた。

しかし結果は大方の予想を裏切るものだった。

 

ティアラ路線ウマ娘、堂々の菊花賞3着。

 

同路線ウマ娘による菊花賞入線は1966年以来、つまり遡ること約半世紀ぶりの快挙である。

 

だが早過ぎる本格化は競争生命にとっては致命的でもあった。

次レースはレベルの下がる3勝クラスで、GⅠ3着を受けての一番人気を背負いながら惨敗。

GⅠで順位を争った子が格下相手のクラスで失速してしまう。

しかし、それすら珍しくもないのが現実だった。

 

「潮時だなって自分でもそう思ったんですよ。私、勝ちにはこだわりたいんです」

 

もう上積みが見込めない。そうなれば遅かれ早かれ引退するしかない。

段ボールの束を運び入れた彼女の部屋は、質素でガラガラな私と違い様々な荷物にあふれていた。パステルカラーの小物やぬいぐるみたち。机の棚には参考書と共に、3面の卓上ミラーと中身をしっかりと小分けしたメイクボックスが置いてある。

女の私が言うのもなんだが、実に女の子って感じだった。私と違いカルセドニーは目を輝かせながら品々を眺めている。

 

「えー! すごい! 中身これ全部KATEなんですか?」

「……毛糸? そりゃあ、ぬいぐるみならフェルトでしょうに」

「もう! 違いますよ先輩!」

 

ディヴァインラヴさんにも笑われた。彼女は大口開けて笑う私たちと違って、笑い方まで女の子だった。

 

 

レースだけではわからなかった彼女の違う一面を見ている気がする。

菊花賞で負けたとき、私は泣いた。泣いて、また忘れようと思った。

だが彼女は泣かなかった。

 

──やはり距離が向いていなかったようです。また一からやり直しですね。

 

冷静に敗戦を分析し、ゴール板を通過した瞬間から次のレースを考え始める。

重賞で活躍できなかった彼女は一流と比べれば、たしかにセンスは劣るのかもしれない。けれど屈しない。限界を認めようとしなかった。だから自室でも熱心に筋トレをしているような子だと思っていた。しかし部屋にダンベルは見当たらない。

 

気がつくと私は引っ越しの手伝いを彼女に申し出ていた。自分の荷造りなら終えているし、暇だったことは確かだ。でも、それ以上に彼女に興味が湧いたというのが本音である。

 

運命的な何かを、私は彼女からあらためて感じていた。

 

 

放課後から門限までの限られた時間を使い、それでも2日ほどでディヴァインラヴさんの部屋の片付けは済んだ。備え付けの机やカーテン以外の物はすべて段ボールに入れられて、部屋は新しい主を迎え入れるべく閑散とした空間へと変わる。

入居したばかりの頃は広いばかりで何もない部屋にも夢があふれていた。だが私も、彼女も、再びこの場所に帰ることはないだろう。

がらんどうとなった部屋は耳を澄ませても、さよならしかもう聞こえない。

 

「ありがとうございました。お陰で助かりました」

「こちらこそ、お役に立てて何より」

 

彼女も私も頭に手拭いを巻いてジャージ姿で、真っ新になった床へ腰を下ろす。こうして会話を交わす前までは、勝手にラフな格好の彼女を想像していた。

今となってはジャージ姿ですら違和感がある。

彼女の振る舞いは常に品格が保たれており、私の勝手なイメージのように雑にあぐらをかいて座りなどしない。どこまでも物静かで優しく、その印象は飾っていた絵とよく似ている。

彼女の仕草はまるで聖母のように思えた。

 

「では、お礼といってはなんですが」

「いやっ! いいって! そんな!」

 

半ば押し掛ける形で始めたものに見返りなどいらない。しかし彼女は頑なだった。わかりましたと折れるまで、しばらく押し問答は続いた。そして長考の末に絞り出すように言葉を発する。

引退を決意して、もう荷物のなくなった寮の部屋も続けたかった学園生活も未練はないと言う。

それでも一つ、思い残したことがあるのだそうだ。

 

「本当は、貴方と見たいものがあるのです」

 

 

 

 

昼はとうに過ぎているのにも関わらず、食堂はなぜか人集りができていた。学年は様々だけれど誰もが熱に満ちており、興奮の色濃い瞳は一様に壁のビジョンへと向けられている。そして集めた熱気が注がれる画面にはちょうど、特別なレースの証しである勝負服に身を包んだウマ娘たちが映された。

 

「あっ、今日って、もしかして」

 

引退が決まってからレース感は鈍る一方だ。こんな大舞台をまさか忘れてしまうなんて。

 

「そうです。今日は天皇賞です」

 

ウマ娘は短距離を得意とする子、マイラー、王道の中距離路線とそれぞれ適性が異なる。例えば速いといえば、当然スプリンターの子を思い浮かべる。

では強い子といえば?

距離は伸びれば伸びるほど脚の速さだけではなく息の入れ所や戦術、そして何よりスタミナが必要になる。いくら人間に比べればフィジカルの優れたウマ娘といえども1000mを全速で走り続けられる子はいない。心肺機能、体力は努力だけでは補えない生まれついた才能なのだ。選ばれし者と平凡なウマ娘では同じ距離でも同じ速さでは走れない。

 

春の天皇賞。それは最長のGⅠレース。

肉体の限界に迫る3200mを先頭で駆け抜けた者にのみ、盾の栄誉は与えられる。

 

「出るんですよ、あの子が」

「あの子……って」

 

緑と黄色の勝負服が目に入った瞬間に言葉を失った。ゲートに向かう途中、観衆に向かって振る手には2本線の入った白いバンテージが巻かれている。

私たちはすでに見ていた。

先頭を一度も譲らず阪神3000mを逃げ切ったあの子は、あの日もバンテージの巻かれた腕を沸き起こるスタンドへ高々と天に掲げて勝利を示していた。

その子の名は菊花賞ウマ娘、タイトルホルダー。

 

「貴方は、勝つと思いますか?」

「……えっ?」

「春天、あの子が勝てると思いますか?」

「私は……」

 

 その瞬間、食堂の誰かが叫んだ。

 

「いっけぇ! ディープボンド先輩!」

 

会場の注目を集めているのはディープボンド。

あの凱旋門賞に出場した後、有馬記念を好走し2着。先に行われた春天前哨戦となる阪神大賞典でも3000mを走って最速の上がりで一番人気に応えるなど、まさに現役最強のスタミナを誇るウマ娘の1人と言える。前評判ではディープボンドが圧倒的な支持を受け1番人気に推されていた。      

「今年こそ勝ってよプボちゃん!」

「ロンシャン仕込みの走り! 見せたれぇ!」

 

食堂も一色とはいかないまでも、やはり彼女への声援が明らかに大きい。それに初の対決となった年末有馬の大舞台でタイトルホルダーは彼女に先着を許している。成績はすでにディープボンドが1つ、白星を挙げていた。

 

「今日のレース、誰が勝つと思いますか? オーソクレースさん」

「そん……なの……」

「私には、わかります」

 

思わず振り向くと、彼女は笑っていた。

ディヴァインラヴは笑顔で答えた。

 

 

「今日のレースはタイトルホルダーさんが勝ちます」

 

 

 

 

 

 

『さぁ! 今年もやって参りました春のGⅠ! 長丁場のレースを制し、春の盾を手にするのは一体どのウマ娘でしょうか!』

 

スターターが台に上がり旗を振ると、菊花賞でも聞いた関西GⅠのファンファーレが鳴り響いた。各ウマ娘は金管の音色を合図に続々とゲートへ収まっていく。

 

『最後に大外、ゆっくりとディープボンドが収まりまして全ウマ娘ゲートイン完了。今、スタートしました! おおっと! フライング! 1人ゲートを勝手に開けてスタートした子がいます! これはどうなんでしょうか?』

『うーん、普通に失格ですよね』

『走っています! そのまま止まりません! 気づいていないのでしょうか!』

『シルヴァーソニックはしてやったりって顔ですね。もしかしたら作戦のつもりなのかもしれません。まぁ、失格なんですけど』

 

レースは小さな波乱が起こるも、大方の予想通りタイトルホルダーがハナに立つ。競り合う子はいない。正面スタンド前を通過するときにはすでに隊列は縦に長く伸びていた。後続を5、6バ身突き放して彼女は先頭を突き進む。

 

「1000m通過が1分6秒……」

 

菊花賞よりもスローペースだ。これなら息を入れられる。脚を残せるかもしれない。

 

『さぁ、先頭タイトルホルダーのリードは徐々に縮まり1バ身! 18名……もとい17名のウマ娘たちは続いて内回りの3コーナーへ向かいます!』

 

「……行け」

 

阪神内回りは有馬の舞台、府中とは違う。

固まったバ群は簡単には、ばらけない。

 

『さぁ! 4コーナーを通過して直線へと入りました! 依然、タイトルホルダー先頭のまま! ディープボンドも懸命に追う!』

 

「……行け。……走れ」

 

『先頭だ! タイトルホルダーが先頭だ! 突き放した! タイトルホルダー、後続を突き放して独走!』

 

「……耐えろ。耐えて、お願い!」

 

いつの間にか口から漏れる声も大きくなる。瞬きすら忘れてゴール板へと近づく鹿毛を祈りながら見つめていた。背景のターフビジョンを通り過ぎてディープボンドが背後に迫るが、カメラがパンしてゴール板を正面に捉えると先頭と追う者、近いように見えた2人の距離差はあらわになる。

 

7バ身。

GⅠの差としては、ありえないほどの完勝だった。

 

『タイトルホルダー、ゴールイン!』

 

ゴール板を通過する光景が映し出されると会場は落胆に包まれた。

 

「ああああ!」

「ディープボンド先輩が!」

「まじかよ~、そんなんありか?」

 

無理もないだろう。1番人気はディープボンドだったのだから残念に思う子の方が多かったはずだ。阪神大賞典を二連覇し前年はフランスでも重賞を勝利して、しかしまだGⅠだけは手に入れていない彼女への今レースにおける期待の声は大きかった。それだけ実力あるウマ娘なのだ。しかし今日はタイトルホルダーの方が強かったとしか言い様がない。

 

「……やった。勝った」

 

 

 

「当たり前でしょう!」

 

 

 

唐突に背後から耳が痛くなるほどの絶叫が食堂内に響き渡った。レースを観戦していた子たちも一斉にこちらを振り向く。声の主はディヴァインラヴだった。

 

「菊花賞ウマ娘が! 負けるはずないんだから!」

「ちょ、ちょっと」

 

彼女は躁的に止まることなく、まくし立てる。

 

「GⅠウマ娘は強い! ハナを逃げて勝つのだって当然の結果なんですよ!」

「わ、わかったから……もうちょっと小声で……」

 

周囲の反応が驚きから、徐々に冷めた目線へ変化するのを感じた。いわば敵陣で別の推しを応援しているのだから無理もない。阪神レース場は甲子園からさほど遠くない。愛読紙はデイリースポーツと豪語する縦縞ファンにジャイアンツの話題を振ったらヤバいくらいのことは弁えている。

 

「私は! 信じていましたから!」

「い、いいから、もう!」

 

結局は無理矢理口を塞ぎ、興奮するディヴァインラヴを食堂から連れ出す。廊下を引きずり校舎隅の人気のない段裏まで連れ込んだところで、ようやく彼女も落ち着いたようだった。

 

「すみません。取り乱しました」

「取り乱しすぎだって!」

「勝つと信じていましたから」

「まぁ、気持ちはわかるけど」

 

タイトルホルダーが獲った菊花賞を思い出す。

1着はもちろん彼女で、2着は私。

そしてディヴァインラヴは3着。

私たちは同じレースを走っていたのだ。

 

「でも、まぁ。そういう星の子だったんだろうね」

「そうですね。彼女は名前の通りになりました」

 

菊花賞で、その前のセントライトも、さらに前のホープフルでも。

人気していたのは実はタイトルホルダーではなく私の方だったのだ。

しかし私は重賞未勝利のまま引退し、彼女はGⅠ2勝のウマ娘となる。

 

「……私も、本当はタイトルが勝つって思ってた」

「そうでしょう! 彼女には勝ち続けてもらわないと困ります!」

「だよね」

「そうでしょう。だって、私は引退するのですから。もう走らないのですから」

 

彼女は楽しそうに、嬉しそうに、そう呟いた。

声の抑揚と内容が全然一致していないから、理解が追い着かなかった。

 

「……はい?」

「タイトルさんには勝って頂かないと困ります。あの子は強い。それはわかっています。でも私だって他の皆さんより先に先輩方と戦い、クラシック出場を掴みました。だけど、そこまででした」

 

彼女は表情を変えずに喋り続ける。

 

「本当はわかっていたのです。同世代の子に比べたら、私はあまりにも弱いと」

「ディヴァインラヴ……」  

 

彼女は笑顔を崩さない。でも、わかった。

 

「だから、引退します。本当は走りたかったです。ですが3勝クラスですら勝てないんですから、トレーナーから引退を勧められたときも素直に応じました」

 

彼女は本当に、心の底からタイトルホルダーを応援していたのだ。

なぜならそれは、彼女にとっての夢だから。

 

「クラシックレースで3着だったのですから、頑張ればもっと強くなって、もっと活躍して……もっと、大きなレースでだって、重賞だって、絶対、でも、走らな、くていいって、言われました。引退しろって。私、まだ、ケガもしてない、のに。でも、タイトルホルダー、さんは、私に、勝ったんです、から、もっと、もっと、勝ってくれない、と」

 

背一杯の強がりも、だんだんと解けていく。もうろくに喋れないくせに、それでも何もかも吐き出そうとして、声量は関係なく胸の奥から彼女は叫び続けていた。

 

「やだ、私、もっと、走れる。でも、引退しろ、って。やだ、もっと、私」

「……いいんだ。もう、いいんだ」

 

 

「うえええええん」

 

彼女を抱きしめると、その眼からは大粒の涙がこぼれた。

 

 

 

 

春天から数週間後、私は空港にいた。

田舎に帰るのは、やめた。

私はこれから海外へ行く。そしてそこで、おこがましいけどコーチをやる。

 

重賞未勝利が、何を教えればいいのかわからないけれど。

それでも大きなレースを戦ってきたつもりだ。

何ができなくて負けたのかとか、何をした子が勝ったのかとか。

そういうものはいっぱい見てきたつもりだ。

 

そういえば、私の推しは今度は宝塚記念に出るそうだ。

いいな。

私もグランプリに出てみたかった。

 

でも、きっとあの子は宝塚を勝つ。タイトルホルダーはきっと勝つ。

 

だって私と、ディヴァインラヴに勝ったウマ娘なんだから、絶対勝つに決まってる。

 

だから信じて、私の方が一足先に未来へ行く。

この空の果てには、どんな子が待っているのだろうか。

 

挫けてはいられない。もう泣かないって決めたのだ。

泣いたら忘れるなんて。

忘れるために泣くなんて。

 

本当に悔しいことは、どれだけ泣いたって忘れないものなのだ。

あの日、彼女の涙からそれを学んだ。

記憶を飛ばして、楽しいことだけ集めて生きるのはやめる。

楽しいことは、この先の未来にだって絶対にいくらでもあるはずだ。

 

 

私の名前はオーソクレース。

正長石。パワーストーンに用いられる鉱物の名前。

 

 

その意味は、不屈の精神。

 

 

推しの彼女がタイトルを次々掴むのと同じように。

 

私だって、どこまでも抗って。

 

そしてどこまでも走り続けてやるんだ。

 

 

 

 

 

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