皐月2着ダービー1着の馬が菊の舞台を飛び越えて凱旋門へ挑む。
その「重さ」がようやく少しはわかるようになりました。
9歳でそこそこ走れる理由はさっぱりわかりません。
史実鑑賞を始めて1年程度の身ですが
突然オリウマ娘の話を書きたくなった原点のレースです。
『キセキの抵抗! しかしアリストテレスも伸びる! いいや! 外からさらに伸びてくるウマ娘がいるぞ!』
秋冷の大気すらも熱風に変える激しい戦いを終えて、脚はとっくに限界を迎えていた。
歩くどころか立つ気力さえも使い果たした。今日のレースは有馬よりも短いはずなのに、まるでフランスの粘り着く重い芝の上を春天の距離で走らされたような心地がする。太股から下の感覚は麻痺しているが膝関節はガクガクと揺れるので、かろうじて足はまだ生えていると認識できた。でなければゴール手前100m辺りに落としたかと探しに行くところだった。
やり尽くした。もうどうでもいい。
このまま芝に寝転がろう。
服の汚れなんか気にするものか。
生徒会連中だったら気品がどうのこうのと宣うかもしれないが、お生憎様。
そんなものはとっくの昔に捨てている。
いつも本気で走って来た。
勝てなくなっても、いつだってレースは本気だった。
新しい子たちが私を置き去りにして最終コーナーを駆け抜けて行く様を、自分じゃない誰かの背中がゴール板を横切るのを、いつも口惜しく眺めていた。勝利は何年も私を素通りして他人の手に渡り、いつしか周りからの本気の声援もだんだんと少なくなっていった。
しかし悲しいとも恥ずかしいとも思わない。
ただ悔しかった。本気で走って負けるのは、たまらなく悔しかった。
だからこんなことを言うのは変かもしれないけど、今日はさすがに汗をいっぱいかいた。いつだってガチの勝負をやっていたはずなのに、このレースは本当に疲れた。それなのに走り終えたばかりのコース場では汗を拭く物が何もない。
でも、もうどうでもいいんだ。
服が肌にへばりついて、動きは余計に鈍くなる。タオルよりも今は安らぎが欲しかった。今日はもう走らなくていいわけだし、体操着の裾で汗拭いてへそ丸出しにしているくらいならターフで大の字になっている方がまだわずかに女子としての体面は保たれている気がする。だから今ばかりは、寝転んだまま空を見上げさせてくれ。それにしたって空は青い。こんな景色は久しぶりだ。なぜだろうと考えたが理由は単純だ。
いつもレースの結果に俯いてばかりいて、長いこと顔を上げていなかったからだ。
「姉さん、お疲れ様でした」
ふと空の半分が黒鹿毛に覆われる。地面で仰向けになっている私を見下ろすのは笑顔のキセキだった。
「あぁ……お疲れ……」
「ふふ、そんな格好では笑われてしまいますよ。さぁ、立ち上がってください」
「いや、もう勘弁して……動けないって……」
「ですが、スタンドの皆さんに応えるのは勝者の義務ですよ」
諭されて、ようやく理解する。整わない呼吸音と壊れた心臓の音で聴覚は埋め尽くされて気づかなかったけれど、耳を澄ませば私は別の音にも包まれていた。
拍手と祝福のうねりの中には、私の名前もたしかに混じっている。
『やりましたマカヒキ! 遠い異国の地で掴んだ勝利から、実に5年ぶりの勝利を! ここ、阪神で掴みました! 京都大賞典GⅡ! 勝ったのはマカヒキ! 勝ったのはマカヒキです!』
「そっか……やっぱり、私でよかったんだ……」
「えぇ、姉さん。このレースの1着は貴方ですよ」
何年前かなんて覚えていない。
でも待たせてたわけじゃない。
だって一等賞は人にあげるものではなくて、自分で勝ち取るものだから。
待っていた。
勝利を待ちわびていたのは他でもない。
私だ。
ポディウムの天辺を一番待ち望んでいたのは、私自身なのだ。
ふいに視界がぼやける。汗が目に入ったのかと思ったが、そのわりには滲みる痛みもない。バカみたいな話だが、泣いているんだと理解するのに数秒は要した。
「……ごめ……あっち向いててくんない? 少しだけ」
「いやです」
「……なんでよ」
「嫉妬ですよ」
「……私が勝っちゃったから?」
「それもありますけれど、ちょっと違うかもしれません」
それからキセキは、最初はただ労うだけのつもりでいたのに掲示板を外そうがいつも明るく振る舞っていた私が涙流して喜んでいるのを見るのは悔しいと、そんな風なことを述べた。
「ずるいです」
「……ずるはしてない」
「もっといつも以上に大声上げて叫んで走り回ったりしてください」
「……うっそでしょ。私いつもそんなんじゃないじゃん」
「私だって人気は上位だったのですから。だから嬉しかったです、私をまだ評価してくださる方が大勢いてくれることが。だから、もし勝てたら、もっと嬉しいのだろうなって」
キセキは、そこで少し間を開けた。
「でも勝てたら、本当は泣いたかもしれませんね。その答えを私も確かめてみたかったです」
つぶった目の上をさらに腕で覆っていたので何一つ見えていない。だけど、かすかだが一瞬、鼻をすする音が聞こえた。
「さぁ、いい加減に立ってください。今日は特別な日になるのですから」
顔を隠していた腕を強引にほどいて、彼女は私を引っ張り上げようとした。
「痛い痛いって、乱暴な。起きます、起きるから」
「さぁ、早く目元を拭いて。……って、やだ、真っ赤ではないですか」
「……君もな」
勝者の特典、ウィニングライブ。
煌びやかな勝負服を身に纏い、輝くステージの中央に立つ。
それは1着だけに与えられる栄光のセンターポジション。
「……って、ないじゃん! 今日のGⅡはライブないのになんで?」
「立派な心懸けです。大切なことは聞いていらしたのですね」
無理矢理控え室に連れ込まれ、無理矢理衣服を剥がされて、そして無理矢理に勝負服を着せられた。そういえば勝負服を持って来るようにと言い付けられた理由は何だったのだろうか。
ステージ・リハはなかったし、見た感じウィナーズサークルの方にもモニターの類いは置いてなかった。それなのになんで正装をしなければならないんだろう。
「いいですから。背筋を伸ばして、行ってくればいいんです」
キセキに背中を叩かれて小走りで駆けて行った先で私を待ち構えていたのは、群集の視線だった。大勢の人が久しぶりに勝った私を待っていた。この光景との対面も、実に懐かしい感触がした。
だからだろうか。なぜかとっても落ち着かない。感謝の気持ちがないわけではないが司会が「○年ぶり」なんて話を振ってくるたびに、ありがとうよりもたまたま勝って申し訳ないという詫びの言葉を口にしそうになる。場違いじゃないか。若くてかわいい子なら他にいっぱいいるだろうに、私は空気を読めていないのではないか。言葉に窮して台詞を噛むたびに早く立ち去りたいとの想いは募る。
しかしとっとと帰らせろと念じる以外にすることがない式典も、やがて終わりが近づく。
そのとき、この場所では聞けるはずのない金管の音色が響いた。
打ち合わせたわけでもないのに聴衆は皆、自然と拍手を捧げ始める。
中央にある巨大なターフビジョンにはここではない、遠い府中のゲートが映し出されていた。
『すぎやまこういちさん作曲の――』
「お疲れ様でした、姉さん」
インタビューを終えて花道を帰る私を、キセキは待ってくれていた。
「あ、うん」
「どうかされましたか? 心ここにあらずといった面持ちですが」
「なんか、不思議だった」
「えぇ、そうですね」
「例えて言うなら、正月に親戚一同が集まって急に昔のビデオ上映会が」
「タイムリープしたみたい、ですか?」
「そう、それ」
「ふふ、どれですか」
京都大賞典は今年は会場が異なるが、いずれにしても関西で行われるGⅡレースだ。
それなのに、あの瞬間。
あのとき、会場で流れたのは関東GⅠのファンファーレだった。
「ねぇ、キセキ。私、あの曲、聞いたことある」
「当たり前ではないですか」
むしろどうすれば忘れられるのですかと、キセキは呆れて溜め息をついた。
「記憶にあって当然です。だって姉さんは東京2400mを制覇した、立派なダービーウマ娘なのですから」
そうだ。
そうだったよね。
あのファンファーレを初めて聞いたのは、ダービーだったんだよ。
「キセキ、あのさ」
「なんですか」
「勝ったら泣くほど嬉しいかもしれないって言ってたじゃん」
「えぇ、そうですね」
「あれさ、違うと思うんだ」
「それは、どういうことでしょう?」
「勝ったらさ、たぶん」
悔しい。
勝ったけど、悔しい。
だって、ここは。
今日のレースは。
「今日はGⅠじゃないじゃん、ライブもないし」
私の名は、マカヒキ。
かつて世代の頂点に立った、ダービーウマ娘だ。
「中京でも阪神でもいいよ。私はもう一度、ちゃんとこの耳で、GⅠのファンファーレを聞きたい」
「そうですね。それなら、まずは東京でしょうか」
「東京で何かあんの?」
「ご記憶にないのですか? 京都大賞典の勝者には秋の天皇賞優先出場権が与えられるのですが」
「あぁ、秋天か……って、ええええ! うっそでしょ! 私自慢じゃないけど天皇賞なんて春も秋も出たのに複勝どころか掲示板に絡んだことが1回しか! てゆか無理無理! 秋天なんて今月じゃん!」
「秋天でもジャパンカップでも構いませんよ。頑張ってくださいね、私の分まで」
「……いや、あっ、はい」
キセキは笑いながら期待していますよと、また私の背中をぶっ叩いた
そうさ、私はダービーウマ娘、マカヒキ。
海外でだって勝ったし、あの凱旋門だって走った。
言うでしょ、無事是名馬って。
今度はどこで何を走ろうか。
頑丈なのが、取り柄でね。
だから走れる限り、ゴールを目指す。
走れる限り、夢を追う。
だって、仕方ないよ。また見たくなったんだから。
思い出したんだ。
今日の阪神で見た空よりも。
府中の空は。
ダービーの空はもっともっと、青く澄んでいたんだ。