もともと、のんびりすることが好きな性分だったように思う。
日当たりのいいところでぼんやり本を読んだり、気が向いたらその辺をふらふら散歩したり、ゆったりした時間に身を任せているときに一番穏やかな顔をしていた。
かといっていつもぼさっとしているかと言われればそうではなく、片付けるべきことはきっちりゴールまでの最短距離を描き、その通りに終わらせてしまうタイプだ。それこそ、夏休みをのんびり過ごすために、夏休みが始まるまでに宿題の全てを終わらせてしまうような。
だから、今コイツが休みなく必死に働いているのも、きっとそういうことだろうとは思っている。思ってはいるけれど。
「……まだやってんのクズ兄貴」
「お兄様に対してクズ呼ばわりとはひどいんじゃねえの、妹」
高専の中でも、限りなくひとの出入りが少ないエリア。特に生徒となればこのあたりに近寄るような必要もなく、私だってコイツがいなければ何があるのかも知らなかっただろう。
窓もない暗がりの部屋。いくつものモニターが私には意味のわからない数字や文字の羅列を映し出し、床には報告書やその類の書類がいくつも散らばっている。
その中心に鎮座するそいつは、モニターから目をそらすことなく、ひたすらキーボードを叩いていた。ゆらりと漂うのは、煙草の匂いと珈琲の香り。床に足の踏み場を探しながらそいつが座る椅子に近寄り、その白衣のポケットから目当てのものを抜き取った。
「お前な、煙草なくなるたびに俺んところから盗ってくのやめろっつってんの」
「煙草を口実に可愛い妹が会いに来てあげてんじゃん、空気読めよ兄貴」
「その妹がヘビースモーカーじゃなければその言葉信じてもいいんだけどな~。ほどほどにしとけよ未成年」
「ほどほどならいいんだ」
「煙草の危険性を理解した上でやるならお前の勝手だろ。でもちょっとはバレねーようにしろよ、夜蛾に説教されんの俺なんだからな」
「ウケる。今度夜蛾の目の前で吸ってやろ」
「やめろ馬鹿。硝子、今何時?」
携帯の画面を確認し、もうすぐ真夜中、と答えれば、兄貴はおっさん臭く息を吐きながら大きく伸びをした。もうそんな時間か、と肩を鳴らす。
「俺もちょっと寝るからお前もさっさと寮戻れ。途中一服とかしてんなよ」
「え、珍し。もう寝るの」
「何か知んねーけど明日、俺の研究について授業しろって言われてんだよ。眠さに負けて適当なこと言ったら殺されそうだろ」
「授業?」
「今年の一年、ふたりとも一般家庭出身なんだろ? 教科書通りの解説もいーけど、たまには最近の呪霊についての研究も含めて授業とか何とか……あ~~~めんどくせ~~~」
ぐったりと脱力して椅子の背にもたれる兄貴は本当に嫌そうだった。いや実際嫌なのだろう。このめんどくさがりが教師役とか笑いしか出てこない。いったいどういう風の吹き回しだろうと思うより先に、たぶんこの引きこもりを外に引っ張り出そうという教師陣の厚意だな、と見当がついた。
高専を卒業して二年あまり、一応呪術師としてたまの任務に出るほかは、ほとんどこの部屋に引きこもってモニターに向かい合っていると聞く。いまだ生徒扱いが抜けない夜蛾なんかは、たまにはあいつを外に連れ出したほうがいいぞなんて私に言う始末だ。
ぼさぼさの髪に、消えることのない隈、日に当たらないせいで真っ白の肌。確かに、この顔を見ればそう言いたくなるのも無理はないのかもしれない。あんなに好きだった日光からも、ずいぶんと離れてしまった。
「……ふーん。何か面白い話すんの、それ」
「別に。お前からすれば何を今さらってことばっかだと思うぞ。ついでに研究に協力してくれって話には持ってくつもりだけど」
「へー」
「……何企んでんだよ」
「いや? 面白そうだからちょっと茶々入れさせてってセンセーに言ってみよっかなって」
「ええ……お前身内の授業とか受けてーの? お兄様のこと大好きか」
「初めての授業でトチるとこ爆笑したいじゃん」
「お前まじでそういうところ俺の妹~」
いいからさっさと寮戻れ、とぺしりと頭をはたかれた。当然のように手加減されたそれは、もちろん痛くもなんともない。
はいはいと兄貴に背を向ければ、背後でぎしりと椅子のきしむ音がした。
「硝子」
眠そうな声に呼ばれて、振り返る。椅子から立ち上がった兄貴は、私に背を向けたまま、また大きく伸びをしていた。
「早く寝ろよ」
「……兄貴に言われたくない言葉ベストスリーくらいに入りそう、それ」
「お前な。ちなみにあと二つは何なんだよ」
「『よく食べろ』と『煙草やめろ』」
「マジで反論できないこと言うのやめなさい」
ちょっと笑って、兄貴もとっとと寝なよ、と軽く言えば、はいはいとめんどくさそうな声が返ってきた。文字通り寝食を忘れて研究に没頭しがちな馬鹿兄だが、私に適当な嘘を吐くことだけはない。今日くらいはちゃんと寝てくれるだろう。
欠伸混じりのオヤスミを聞いて、深海のように暗い部屋を後にした。
***
いや確かに昨日妹がそんなこと言っていたような気はしたが、まさかマジでいるとは思わないだろ。
何でいるんだよ、と目で訴えてみれば、性格のよろしくない我が妹はにっこりと微笑みを返してくる。ひとの嫌がることを進んでやるその心意気、いったい誰に似やがったんだと思うと同時に俺だな、と思い至ったので考えるのはやめた。
当初の予定ではふたりの生徒しかいないはずだった教室には、何故だか五人もの生徒が着席している。とりあえずひそひそと「うわ、マジでそっくり」「目元とか完全に硝子だね」とかやっている特級ふたり、さっさと出て行ってくれないだろうか。
やれやれと、俺は大きなため息をつく。
「……何かもう自己紹介の必要もなさそうだけど、どーも、そこにいる家入硝子の兄です。いつも生意気盛りの妹が世話になってます」
「世話してんの私の方なんだけど」
「そういうところなんだわお前。はい、改めて俺の名前は家入ミツキですが、海に月と書きます。ちなみにこれで本来は何て読むか知ってる? ハイそこの前髪くん」
「夏油です」
「前髪で通じてんじゃん」
「……クラゲですね」
かろうじて笑顔を保ったが、眉間がぴくりと揺れたのはごまかせなかったぞ夏油クン。話には聞いていたが、表面上は真面目に振る舞っていてもわりと沸点が低いというのは本当らしい。ちなみに彼の両隣ではうちの妹と白髪の彼が口元を抑えて震えていた。夏油くんいい友だち持ってんなウケる。
それはさておき、クラゲと答えてくれた彼にひとつ頷いて続けた。
「そう、海に月と書いて『クラゲ』と読む。お察しの通り、生まれてこの方俺のあだ名はどこ行っても大抵『クラゲ』、本名よりも『クラゲ』って呼ばれることの方が多かったんで、呼ぶ必要があるならそっちでどうぞ。名字だと妹と被るし、ミツキって名前も正直似合ってない自覚があるから」
「クラゲ先生!」
「ノリがいいな許す。でも先生はいいよ、俺教師じゃないし」
「クラゲさん!」
「よし。一般家庭出身とは聞いてたけど、呪術師には珍しいタイプだな」
元気で大変よろしい、と言えば黒髪の彼は褒められたーと明るく笑った。本当にこの子通う学校間違えたんじゃないだろうか。手元の名簿を見て名前を確認する。灰原くんな。その隣に生真面目な顔で座っているのが、同じく一年の七海くん。
今日の授業は本来ふたりに向けてのものだ。冷やかしの三人よりも彼らの理解を確認しながら進めよう。
「で、今日は俺の研究について話すわけだけど……まあそんな難しいことじゃないからあんまり気負う必要はないよ。簡単に言うと、呪霊って何って話」
「マジの基礎じゃん」
「その通り。じゃあマジの基礎と言ってくれたところで、呪霊って何かな白髪くん」
「あ?」
「……え、何、答えられない感じ? 二年生でしかも特級やってながら?」
「言ってねーだろ! つか特級っつったってことは俺らのこと知ってんじゃねーか!」
「いや硝子がクズクズ言ってたからどのくらい器が小さいのか試しとこうと思って」
夏油くんは苛立ってもちゃんと答えてくれる程度の器はあったな、としれっと言えば、白髪の五条悟くんはぐっと黙る。夏油くんは二、三度瞬きをして、ククッと笑った。それを横目で見た五条くんはさらに渋い顔をして、いやいやながら口を開く。
「……人間から漏出した呪力が積み重なって形をなしたモノ」
「その通り。人間が出した負の感情は呪力となり、形を得て呪霊となる。これが教科書通りの答えだな。じゃあ、えーと、七海くん」
「はい」
「今の説明はきっと入学して即聞かされたと思う。で、この説明納得できた?」
「全く」
「よし、君は見込みがあるな。大変よろしい」
ここで驚いた顔をしたのは、特級のふたりのみ。俺の研究について知っている硝子は平然とした顔で、灰原くんは何となく考え込んだ顔をしている。彼の場合は納得していない、というよりはよくわかっていない、という様子か。それでも何も考えずただ受け入れているよりはずっといい。
しかし、ここまできっぱりと否定をしてくれる生徒がいるとは思わなかったな、と少し口角が上がるのを感じる。改めて七海くんを見て、理由を尋ねた。
「理由も何も、ただ『そうなる』という結果を教えられただけですから。呪力が呪霊になる過程の詳細も理由の説明もない以上、納得しろという方が無理では」
「いいね、全くもってその通り。対象が何であれ、こういうものだから、と一言でそれに関わる全てを片付けようとするのは非常に危険だ。呪霊の存在に慣れてしまったやつほどそういう考えに走りがちだから、気をつけないといけないよな」
俺の研究のスタートもそこだったよ、と改めて全員の顔を見る。様子見を決め込んでいた特級ふたりの関心もいくらか得られたようで、その視線には好奇心の色が見えた。
まあ掴みとしてはこんなもんだろうか。別に面白い話をするつもりもないが、さすがに目の前で居眠り決め込まれたら俺も気分は良くない。何よりそんな授業をしたと、後で硝子に笑われるのも癪だった。
妹にいいところを見せたいなんて気持ちは欠片もないが、馬鹿にされたいわけでもない。
「呪霊とは何か、そしていかにして生まれるか。それが俺の研究テーマだ。先に言っておくと、これについてはまだまだ研究途中で解明はできていない。が、その研究過程として俺がやってることを今日は話せと言われている。これは呪術師の任務に直結してる話だから、まあ真面目に聞いてくれると嬉しいよ」
「うわ、真面目ぶっててウケる~」
「硝子、お前はちょっと黙ってなさいね」
研究の話をするときくらいは取り繕わせてくれマジで。
*
呪霊が人間にとって超常的な存在であることは認める。だが、その超常的な存在との付き合いももはや千年を超えているというのに、あまりにも「呪霊」への理解を諦めすぎていないだろうか。俺が呪術高専に入学してまず最初に思ったのは、それだった。
「いや実際ね、漏出した呪力がどう呪霊に変化していくか観測できりゃ一番てっとり早いんだけど、まだその辺上手くいってなくてな。現状、天災や人的事件なんかの呪霊の発生源になりやすい案件と、実際に発生した呪霊のデータを照らし合わせて関連を探り、遠回りに呪霊の発生条件を調べている」
他にも、たとえば人口や地理的条件、もちろん当時の世情、そこに住まうひとびとの心を揺さぶるもの全て。そういったあらゆるデータを取り込んで、相関を調べる。
膨大なデータが必要な手法にはなるが、研究なんてものはそもそも地道に進めていくものだ。いや千年前からちゃんと記録残しといてくれれば俺がこんなに苦労することも、なんて言っても仕方がない。
「たとえば大きな天災があった翌年は呪霊の発生が多い傾向にあることや、人口の多い土地ほど呪霊の数は多く、また厄介なやつが多いこと。これくらいは呪術師ならだいたい体感として理解していると思う。けど、体感はあくまでも体感だろ。そういった傾向を明確な数字をもって実証するわけ」
「出来てんの?」
「それくらいなら一応な」
へえ、と五条くんは感心したのか何なのかわからない相づちを打った。
あまりにも明らかな事実くらいなら、俺が持っているデータでも十分結果が出ている。だから手法自体が間違っているとは思わない。
「残念ながらデータが少なすぎてまだまだ新しい発見にはほど遠いけどな。全体的な傾向を数値化し、最終的にはそこから個々の案件に視点を落としていきたいと思ってる。ここまで進めばかなり実用性が出る」
「というと?」
実用性、という言葉に七海くんが反応した。なるほど、どうやら彼はそれなりの合理主義者らしい。
「具体的に言うと、……あー、一応これは現状の批判とかではないと前置きしとくけど。夏油くん、たとえば特級になってから受けた任務の中で、いやこれ三級くらいの術師で十分じゃねって思った案件なかった?」
「……ありますね」
「逆に五条くん、二級案件だけど呪霊の数が多いから行ってこいって言われた任務で、いやこれどう見ても一級以上じゃんっていう呪霊に遭遇したことない?」
「めっっっちゃあるけど?」
「最終的には、そういうのをなくす」
いや正直ゼロにするのは限りなく不可能だが、ゼロに近づけることくらいは出来ると思っている。
そもそも、現状のやり方があまりにもアナログなのだ。発生した呪霊の情報をキャッチしたら「窓」が直接現場に赴いて対象を確認し、呪力を体感ではかって等級をつけ、そこから等級に見合った呪術師の派遣を要請する。しかも派遣する呪術師について上層から茶々入れまで来るときたら、そりゃもう実力に見合った任務になるかなんて運でしかない。
呪力が機械で測定できるようなものではないとは言え、もうちょっと別の方法考えろよと言いたくもなるというか。
「こういう条件で発生した呪霊ぽくて、今どんな様子で、過去似たような案件にはこういうのがあって、『窓』が感じた呪力はこれくらいでって情報を統合して、おおよその呪霊の等級を統計から弾き出す。理論的には、これで任務と呪術師の実力のギャップはかなりなくせるはずだ。もちろん、サポートに入る補助監督の選出も統計をもとに行う」
「補助監督なんか誰でも同じじゃね?」
「こら悟」
「まーその辺ははっきり言って任務の内容と呪術師のレベルにもよる。けど、補助監督にも得手不得手はあるだろ。避難誘導が得意なやつ、付近住民言いくるめるのが得意なやつ、あと帳のクオリティにも実は差がある。小さいことのようで、そういうのでも任務の成功率、生存率にも差は出てるんだよ」
そう言うと、夏油くんや七海くんは感心したように頷く。灰原くんも、皆無事なほうがいいですもんね、とどこまでも元気がいい。そう、皆無事なほうがいい。その通りだ。
そこでさっと七海くんが手を上げる。
「はい七海くん」
「現状として進捗はどの程度なんですか?」
「……」
「実用に足るレベルに達する見込みはいつごろなのかも聞きたいですね」
「……夏油くん、実は前髪っつったの根にもってんな?」
まさか、と夏油くんは朗らかに笑うが、これは絶対根に持ってる。いや~さすが妹に真面目系クズと称されるだけのことはある。器が小せえ。
いや俺だってそれこそ昼夜を問わず休みなしでデータを取り込み、システムの開発を続けている。ときには俺の術式も行使して、わりと身を削って頑張っているのだ。学生時代から構想を練り、暇をもらえる四年生時代から開発は始めたが、なんせほぼほぼ独りでそれをこなしているなので。ぶっちゃけたった三年じゃ、胸を張れるほどの進捗はない。
「……いや、システムの基礎はとりあえず出来てんの。デバッグと調整はまだまだいるけど……あと取り込んだデータがまだ十数年分くらいしかないから、蓄積として全然たりない。から、……最終的な構想を百と見るなら、進捗はせいぜい三くらいかな……完成にはあと十年か二十年は最低欲しい」
「全然できてねーんじゃん」
「俺的には三年間でひとりでここまでやっただけだいぶ褒められたい。というかそもそも有効データが全然そろわないことが一番の原因なんだよ。そう、その点についてちゃんと話しておきたいんだけど」
俺が今日こんなめんどくさい授業を引き受けたのも、それについての話がしたかったからだ。
呪霊というものについて、現状では機械で測定することも出来なければ、記録を残すことも出来ない。だから、任務に赴いた呪術師の所感こそが唯一のデータになる。
その重要性を一年生に説きたかったのだが、一年生以上にそれを伝えたかったやつが勝手に乗り込んできてくれていた。ちょうどいい、と俺はそいつに目を向ける。
「何が言いたいかって言うと、報告書はちゃんと書けって話なんだよ。いやお前に言ってんだぞ五条悟、毎度毎度何なんだよあの報告書」
「はあ? ちゃんと書いてんだろ」
「『最強なので余裕でした』が報告だと思ってんなら義務教育からやり直してくれ頼む」
「は? 小学生の日記かよ。ウケる」
「悟、いつも真面目に書きなって言ってるだろう……」
「夜蛾はもう何も言わねえけど?」
「何諦めてんだあの教師。ちゃんと指導しろよ」
一番欲しい特級術師の任務報告がろくなものじゃないっていうのは、俺にとってかなり手痛い。実力のある人間の所感ほど欲しいところなのに、最強の片割れの報告が小学生並みとは。いや笑ってる場合じゃねえんだよ妹、俺には死活問題なんだわ。
うわ、と引いた顔を見せる七海くんの隣で、灰原くんがクラゲさん、と元気よく手を上げた。
「えーっと、報告書って、任務であったことを書けとは言われてるんですけど、具体的にどういうことが書いてあればいいんですか?」
「いい質問だな灰原くん。花丸あげよう」
「やったー!」
もはやこの無邪気さがありがたい。というかこんな綺麗な心の人間が呪術界きて大丈夫だろうか。疲れ切った俺の心ですら心配になってきた。どうか擦れずに生き残れよ少年。
「もちろん最低限の情報として、日時や場所、被害状況、任務完了までの経緯。まあそれくらいはだいたい皆書いてくれてると思う。ここに追加して書いて欲しいのが、自分の目で見た呪霊についての詳細だ。事前情報とのギャップがあれば特に詳しく欲しい。何より、任務にあたる呪術師として、自分が適当であったかどうか」
事前に報告されていた呪霊の等級は正しかったか。その数や特徴は。それを祓うために召喚された呪術師として、自分の能力・術式・戦闘スタイルを踏まえて適当だったと言えるかどうか。
「いや大前提として、その任務を遂行するのに自分が一番相応しいから呼ばれてるはずなんだよ。人員不足はさておくけど。そこに別の意図とか、ほら、あるわけねーじゃん?」
いや、あるんだけどさ、上層の嫌がらせとか。
一応の授業でそこまで言うのもさすがに憚られたので濁したが、夏油くんは何とも言えない顔のままで、五条くんは露骨にめんどくさそうな顔をしていた。実力があって生意気が過ぎるならそりゃ目の敵にされてんだろうなと、そのあたりだけはちょっと同情しなくもない。俺もたいがい上層には嫌われている身だが、この二人は俺の比ではないだろう。
そういうのも、このシステムが完成すればなくせると思っている。
「それは本当に自分がやるべき任務だったのか。違うなら、どういう呪術師なら適当だったのか。祓った呪霊の等級や能力を踏まえた所感が欲しい。特に、実力のある呪術師の意見ならなおさらな。そういうわけでちょっと頑張って書いて欲しいんだわ」
「んなこと言われたら俺全部『こんな雑魚任務俺が行く必要なかった』って書くけど?」
「いいよ、そこに理由までちゃんと付けてくれたらな。つーか俺から見ても特級こき使いすぎだと思うし、その辺報告書で好きなだけ文句言ってくれ」
え、とサングラスの奥の瞳が見開かれた。光を受けた六眼は、まるで海面のように輝いている。
俺はちょっと笑って、言葉を続けた。
「体裁を整えろって言ってんじゃない、率直な意見を寄越せって言ってんの。自分じゃなくても、ある程度フィジカルのある呪術師にそこそこの呪具持たせれば十分だったとか、結界術得意なやつにサポートさせれば二級術師でもイケたとか、そういうやつ。それを俺が集約してデータに落とし込み、誰が見ても文句言えないような『指標』に加工する」
そうすれば、とりあえず特級に任務割り振っときゃいいなんて雑な命令はなくなる。自分の実力にあわない任務について、無駄にひとを死なせることもなくなる。
「呪術師は完全な個人戦、自分の実力がなきゃ簡単に死んじまう。だけど、ちょっとした工夫とサポートで生き残る可能性が上がるなら。自分や他の呪術師がもっと楽に任務をこなせるようになるなら。そう思ったら少しはやる気になんねーかな。お前らだって、どうせなら学校生活楽しく遊びたいだろ」
ちなみに俺の高専時代はほぼ任務の思い出しかありません、と付け加えれば、一年生ふたりは露骨に嫌な顔をする。いやマジで灰色の青春時代でしたね、俺は同期もいなかったし。先輩とか後輩とか補助監督とか、昨日話してた人が次の日には死んでるとかマジで経験したし。
そんな経験、わざわざ後世に引き継がせる必要もない。
「つーことで報告書はしっかりよろしくな。ああ、一年諸君はまだわかんねーこと多いと思うし、出来る限りでいいから」
「頑張ります!」
「はい」
「やべーな、素直すぎて俺の心が浄化されそう」
「いや肺と同じく汚れきってるから無理っしょ」
「何でお前は兄貴をこき下ろすときだけ反応早いわけ?」
「それこそ兄貴の妹だからじゃん?」
「返事の仕方が完全に俺の妹って感じでマジでやだわ……」
煙草やるからちょっと黙ってなさいとポケットの中に入っていたケースを放り投げれば、ラッキーとか言いながら硝子は両手でそれを受け取った。
七海くんにとんでもねー目線を向けられたような気がしたが、所詮俺は教師でも何でもないのでそんな目で見ないでほしい。
「はい、そんな感じで俺が今日言いたかったことはだいたい言ったんだけど、何か聞きたいことある? 久しぶりにすげー喋って疲れたわ」
「はい!」
「どーぞ灰原くん」
「僕、いまいち負の感情っていうのがよくわかんないんですが!」
「……えっマジで言ってる?」
あ、七海くんの眉間の皺が増えた。
***
灰原の小学生のような質問にもなんだかんだで答え抜いた兄貴は、あくびをしながら教室を去って行った。
その背中を見送った私たちは、自分たちの教室に戻るべく廊下を歩く。その途中でクズの片割れに仲が良いんだねと言われ、どう返答したものかと一瞬悩んでしまった。
多分、仲が悪い方ではない。普通に話すし、喧嘩というほどの喧嘩もしないし、たまに兄貴のぶんまで買い物や雑用をこなして、かわりにそのポケットから煙草をかすめ取っていく。
私がどうというよりは、なんだかんだで兄貴が私に甘いのだと言うことには気づいていた。
「まあ悪くはないんじゃない。あんなんだから喧嘩とかしないし」
「顔も似てると思ったけど性格も似てるんだな。話し方とか」
「そ? 自分じゃわかんねーわ」
「いやマジそっくりだろ。硝子の男版じゃん」
術式は似てねーみたいだけど、と六眼が煌めく。へえ、と夏油は面白そうに笑った。
「硝子、クラゲさんは何級なんだい?」
「一級」
「やっぱりか。不健康そうな顔をしてたけど、身のこなしは手練れのそれだったな」
「ま、そんくらいじゃねーと高専であんな研究堂々とできねーだろ」
さらりと五条は言ったが、それは事実だった。
呪霊の研究自体がこれまでなかったわけではない。しかしそれはどちらかというと秘匿されてきたし、その研究内容は御三家をはじめとする有力な家系が独占している。それも、おそらくは術式の強化や呪具の開発といった、呪術師が呪霊を祓うという意味で実用的な方向にしか活かされていない。
兄貴のようにデータを収集して演算を繰り返し、呪霊の発生そのものについて調べる研究はほとんどなかったようだ。一度兄貴が「先行研究皆無って嘘だろ……何してんの呪術界……」とぼやいていたのを聞いたことがあるので、少なくとも公には行われていない。
何故、その研究が今まで行われなかったのか。呪術師にとって呪霊の存在が当たり前すぎて、当たり前を見直すという発想がなかった、というのもひとつだろう。しかし、それ以上にあるのは。
「あの研究が完成すれば、
対象の呪霊の危険性が機械的に弾き出せるようになれば、その任務に最も適した呪術師が判断できるようになれば。
わざわざ呪術界の上層が誰にどの任務を割り振るかなど、口を出す必要はない。
「気に食わねーやつはヤバい任務行かせて殺すっていう常套手段が使えなくなっからな。そんな研究、相当ウザがられてるだろ。むしろよく生きてるわ」
「悟、」
「いーよ夏油。実際、何度か騙されてヤバい任務行かされたりしたらしいし」
「やっぱ?」
「『死ぬかと思った』ってぶつくさ言いながらぼろぼろで帰ってくる」
「それで済むのはいっそ大したものだね」
そう、確かに兄貴は強いのだと思う。呪具の日本刀一振りを携えて、心底面倒だという態度で夜の暗がりに姿を消す。いつものごとく任務完了までの最短距離を描いて実行し、とにかくさっさと高専に戻ろうとするらしい。そして戻ったら戻ったですぐに任務の情報を取り込み、また研究に勤しんでいると。
どこまで研究馬鹿なんだろうと私も思うが、残念ながら兄貴は本来そんな熱心な人間でもなければ、研究への好奇心だけで寝食を投げだせるタイプでもない。
だからきっと、何かあるのだろうとは思っている。本来は昼行燈でしかない兄貴が、わざわざ好き好んで闇の中に飛び込み、必死に働いている理由。あの馬鹿兄貴は決して、言おうとはしないけれど。
「ま、小学生の日記みたいな報告書は勘弁してやりなよ五条。あれマジで兄貴頭抱えてるから」
「めんどくせ~~~~~」
「全く……いいじゃないか悟、クラゲさんの研究は私も有意義なものだと思うよ。灰原も言っていたけど、皆無事ならそれが一番だしね。それに、悟だって嫌がらせの低級の任務には辟易していただろう?」
「そらそーだけど。……十年二十年とか言ってたけど、あれマジで完成するわけ?」
「いや私に言われても知らんけど。まあ寝食削って研究に没頭してるのはマジ。任務以外じゃ外どころか、部屋からも出ないでモニターの前に座ってるよ。休日とか作ってんの見たことない」
「……マジで?」
「大マジ」
お前の兄貴はマジで人間なの、と完全に引いた顔をした五条に少し笑った。熱心すぎて心配にすらなるね、と夏油すら苦笑気味だ。
「だから兄貴想いの妹は仕方なしに面倒見てやってるわけ。私が食べ物差し入れなかったらとっくに死んでるよあの馬鹿」
「それは優しい妹だな。報酬は煙草かい?」
何も言わずに親指を立てると、夏油は愉快そうに肩を揺らした。どこで煙草入手してるんだろうとは思ってたんだよ、と軽く笑われる。
未だめんどくさそうな顔の五条に、まあ、と言葉を続けた。
「出来ないことを出来るって言うタイプじゃないのは確か」
家入海月は理想論者ではなく、根っからの現実主義者だ。過大評価せず、過小評価せず、自分のもつ情報を繋ぎ合わせ、可能と思えば進み、不可能と思えば手を付けることもしない。生まれ持った術式の影響もあるのだろう、根拠のない楽観論や精神論が死ぬほど嫌いな人間だった。
その兄貴が「可能」と判断して開発しているのだから、それこそ余計な横やりでもない限り、やつは完成させるだろう。めんどくさそうな顔をしながら、出来るっつったろ、と当たり前の顔をして。
私の言葉を聞いた五条は口元をひん曲げて少し考えると、仕方ねーな、とわざとらしくため息をついた。
「書けばいんだろ書けば。あ~~~~~めんどくせ」
「おや、素直だね」
「俺だってめんどくせー任務減るならそれに越したことはねーし」
「それは同感。硝子、クラゲさんは普段どこで研究をしてるんだい?」
「高専の使ってない部屋陣取ってるけど、何で?」
「面白そうだからまた話を聞いてみたいなと思って。ついでに差し入れでも持っていこうかな」
うわ心底嫌がりそう、と思わず本音を漏らせば、夏油は愉快そうに笑った。
なるほどコイツ、そもそも嫌がらせのつもりだな。前髪と言われたのをまだ根に持ってるのかもしれない。さすがクズ、心が狭い。
いや違うよ、と夏油は笑顔のまま続ける。
「報告書もちゃんと書くけど、任務にあたった術師の生の声のほうがいいデータになりそうじゃないかい? 協力できることがあるなら是非させてほしいと思ってね。別にからかわれたことを根に持ってるんじゃないよ」
「根に持ってんじゃん」
「根に持ってんな」
「根に持ってない。協力したいと思ってるのは本当だよ」
そのうち連れていってくれと朗らかに言われ、まあそれはそれで面白そうかと頷いた。
部屋に押しかけられるのは嫌がるだろうが、確かに特級術師の協力は有益なものになるだろう。いくらクズとは言え、夏油は適当な嘘を言うほど姑息なやつでもない。
もうちょい私以外とも会話させねーとなという、妹としての本音もあった。
「じゃあ兄貴の餌やり手伝えよ、夏油。ほっといたらマジで食べないから」
「一度クラゲさんに人間の生活を叩き込んだほうがいいんじゃないかな」
「つか何お前の兄貴、むしろどうやって生きてんの?」
プランクトンでも食ってんじゃない、と適当に言えば、本当のクラゲじゃないんだから、と夏油は呆れたように言った。
***
疲れた身体を引きずり、ほぼ住処と化した研究室に戻る。
別に特別疲れることをしたわけでもなく、生徒たちの前で少しばかり話しただけなのだが、そもそもひとと会話をすることがあまりない俺にとっては結構に疲れた。下手なことを言って妙な思想を植え付けたと言われては堪らないし、上より下と話すときのほうが気を使うことが多かったりする。
はあ、とため息をつきながらモニター前の椅子に座り込んだ。画面に表示された演算結果をチェックしつつ、今日の授業を振り返る。
「……見込みはあるな」
まだこの世界に染まっていない、一般家庭出身の一年生ふたり。タイプは全く異なるふたりだったが、両方とも思考回路は柔軟で、そして善良だった。腐ったこの世界で生きるには相応の苦労もするだろうが、きっと自分の頭で考え、判断ができる人間になってくれるだろう。
それから、若くして「最強」と名高い特級のふたりも。噂通りにクズで性根はひねくれ切っているようだが、そうでなくては上層と渡り合うことなどできはしない。教壇に立っていようが同期の兄であろうが、俺をちゃんと自分の眼で見定めようとしたところも評価はできる。まだまだガキはガキで危うさも見えるが、少なくとも他からの圧力で潰されるタイプではなさそうだ。
別に心配してやる義理など欠片もないわけだが、ただでさえ簡単にひとが死ぬ世界だ。どうせなら良い術師に育ち、無事に生き残って俺のデータ収集に貢献してほしい。
とりあえず五条悟の報告書が変わらないようなら夜蛾にクレームいれてやる、と思ったそのとき、俺の携帯が着信を告げた。任務でも入ったか、と画面を見ると、そこには面倒な人の名前。
疲れてるときに話したくねーな、としばらく様子をみたが、残念なことに諦める気配はない。やれやれと思いながら、仕方なく通話をつなげた。
「……はい」
『やあ海月、元気かな?』
「元気じゃねーんで切っていいですか。あと本名で呼ぶなっつってんでしょ」
九十九さん、とその名前を呼ぶと、彼女はいつものごとく何も気にしていないという風に笑い声をあげた。
変わり者と名高い、この世で三人しかいない特級術師のひとり、九十九由基。俺にとって数少ない協力者であり、後ろ盾であり、スポンサーでもあった。このひとがいなくては俺の研究は成り立たない。
まあだからって下手に出ているかと言われればそうでもなく。
「定期報告は先週送ったばかりですが、何かご不満でも?」
『まさか。さすがは海月だね、着実に成果をあげているじゃないか。特に今回の、これ。術師からは呪霊が生まれない可能性がある。これは相当な発見だろう?』
「あくまで仮説ですよ。検証してみないとまだわかりません」
『だが、可能性は高い。検証は私のほうでも努力してみるよ。何かわかればまた連絡しよう』
どうも、と気の乗らない返事をする。
九十九さんは九十九さんで呪霊の研究を進めており、最終的には呪霊のいない世界を作りたい、という。それを初めて聞いたときは、なかなか荒唐無稽な話ですね、と言ってしまったが、本当にそう思うかい、と笑われて黙った。
呪霊のいない世界を作ることができるか否か。現時点では、それを不可能と言い切れるほどの根拠もない。あまりにも、呪霊に対する理解が浅すぎる。
判断材料さえ足りないことに苛立って舌打ちすらした俺に、九十九さんは手を差し伸べた。自身が後ろ盾になり、金も出すかわりに、頭脳を貸してほしい、と。
『相変わらず君は優秀だ。協力を持ちかけてよかったよ』
「……感謝はしています。貴方がいなければ俺は研究どころじゃなかった」
高専から一室部屋を与えられているのも。最新の機器を導入し、維持できているのも。めちゃくちゃに任務を割り振られるなんてこともなく、ある程度研究に専念できているのも。
「相変わらずさんざん嫌味は言われますけどね。さすがの上層も、まだ貴方を敵に回す度胸はないらしい」
『私の名前が役に立っているなら何よりだ。高専は相変わらずのようだね』
「保身と利権と血筋しか意味を持たない場所です。変わりようがありませんよ」
『あはは、君も相変わらず辛辣。それでも高専と縁を切らないんだから、君も物好きだ』
「……わかってて言ってるでしょう」
高専にいれば、任務報告という名目で呪霊のデータが入手できる。天元の結界に守られているこの場所なら、精密機械や重要データの保管もそれほど気を払う必要はない。一般家庭出身で結界つきの屋敷なんか持たない俺にとって、呪霊の研究をするならここにいるのがいちばん都合がいい。
それに何より、ここには硝子がいる。
『……他者に反転術式を施せる貴重も貴重な人材を、高専が手放すわけがないからね。といっても、ちゃんと大事にされているんだろう? 妹さん自身も、自分の意志で高専に来た』
「ええ。……逃げることを選択した瞬間にどうなるかわかりませんけどね」
硝子は確かに自分の意志でここに来た。自分の意志で、呪術師になることを選んでいる。それなら俺は、何も言うつもりはない。
ただ、この世界がどれだけ腐っているかはもう知ってしまった。
「何でこの世界、こんな前時代的でひとでなしなんですかね。かわいくねー妹ですが、使い潰される可能性や母胎扱いされる可能性がある限り、放置する気はありません」
『妹想いだね。美しい兄妹愛じゃないか』
「俺はやることやって気兼ねなく隠居したいんですよ。余計な後悔はしたくないだけです」
『素直じゃないね。そのうち君の可愛い妹さんの顔も見てみたいな』
「めんどくさそうなのでやめてください」
『あはは! そうじゃなくても今特級術師がふたり高専にいるだろう? 是非彼らとも会ってみたいんだよ』
そう言われて、あのクソガキふたりと九十九さんが出会うところを想像する。……ダメだ、めんどくさそうな気配しかしない。
もはや頭痛がしてきて目頭を押さえたが、九十九さんは変わらずからからと笑っていた。
『じゃあ、そのうち高専に顔を出すから。そのときはまた顔を見せてくれ』
「無駄なのを承知で言いますけど、事前に連絡くらいしてくださいよ」
『覚えておくよ。多分ね!』
そして笑い声とともに通話は終わる。どこまでもマイペースしかないひとなので、どうせ事前の連絡など入れることもなく乗り込んでくるのだろう。俺には俺の都合があることを少しは理解してほしいものだ。
沈黙する携帯をその辺に放り捨て、俺は椅子に深く座りなおした。何だかどっと疲れた。九十九さんは悪いひとではないと思うが良いひとでもなく、何故だか話しているとこちらのエネルギーを吸い取られているような心地になる。省エネで生きたい俺にとってはだいぶ天敵だった。嗚呼、とにかく疲れた。
少し休もうと、モニターを切り替える。数字で埋まった画面は切り替わり、海を漂うクラゲのダンスが表示される。
「……あーもー……クラゲになりたい……」
もともとクラゲと呼ばれるのは嫌いではなかった。ゼラチン質の透き通った身体は素直に綺麗だと思ったし、海を漂い、波に揺られ、沈みすぎたときだけちょっと頑張って泳いで、それ以外はなすがままのその姿には、惹かれるものがあった。もともと俺は面倒ごとは嫌いなのだ。そんな風に生きたいと思った。
だから、「呪い」という概念に触れてからはさらに「クラゲ」と呼ぶよう周囲に言ってまわった。本名の響きが綺麗すぎて柄ではないと、もっともらしい言い訳をつけて。「クラゲ」という呪いをかけられ続ければ、俺もいつかクラゲのようになれるんじゃないかと、そんなのただの気休めだと理解していながら。
来世ではマジでクラゲになれたりしねーかなと、実は本気で思ったりしている。
「……まじでめんどくせえ……」
今の俺を硝子のせいなんて言うつもりは毛頭ない。俺も、俺自身が選んでここにいる。
俺は自分の意志で高専に来た。呪術界の腐敗を見て、その前時代的でアナログで非効率な在り方を見て、自分の意志で呪術師をやる覚悟を決めた。
任務を適正かつ効率よくまわせるシステムを開発し、呪術師が任務をより安全にこなせるようにして、硝子が酷使されることのないように。俺自身も呪術師として任務をこなし、呪霊の研究で成果を出すことで呪術界における俺の地位を少しでも上げ、いざというときに硝子を庇えるように。
そして、それが全部終わって、俺がいなくなっても大丈夫だという確信を得たら、全部放り投げて隠居の日々を送る。穏やかな時間に身を任せて、ただ毎日をのんびり過ごすのだ。
今、そのためだけに、身を粉にして研究に没頭する日々を送っている。
「……、」
ぼんやりクラゲを眺めていたら、だんだん瞼が下りてきた。昨日は久々に数時間は眠ったはずなのだが、やはり慣れないことをするのは負担が大きかったらしい。
少し仮眠をしたらデータをまとめなおそうと内心で呟いて、俺はそのまま眠りに落ちた。
***
ノックをしても返事がないのは珍しかった。
不思議に思いながらドアに手をやればカギは開いていて、急な任務が入ったわけではないことがわかる。そっと部屋を覗き込めば、部屋の主はいつも通りモニター前の椅子に座っているのが見えた。肘置きの上に見える腕は、完全に脱力している。
「……兄貴、寝てんの?」
小声でそう呟き、足音を消してその傍に寄る。縮こまるようにして椅子に座っている兄は、深い寝息を立てていた。珍しく熟睡しているらしい。
せっかく差し入れ持ってきてやったのに、と軽食の入った紙袋をその辺に置いた。いつも適当にひっかけてあるブランケットを取り、身体を覆うように広げる。
さすがに慣れないことをして疲れたのだろうか、とモニターを泳ぐクラゲを見つめた。どこまで自分の名前が好きなのか、兄貴は疲れているときによくクラゲを見たがる。
呪術高専に来る前も、よく実家の近くにある小さな水族館に通っていた。
『硝子、見える?』
『見えるよ。クラゲ』
『うん、これはミズクラゲ。あっちはカミクラゲだって』
綺麗だね、と笑う兄に、私も頷いた。
両親が仕事で忙しかったこともあって、幼い私の面倒を見てくれていたのはほとんど兄貴だった。多少出歩くことが許される歳になると、時間とお小遣いの許す限り私の手を引いて水槽の前を歩いていたことを覚えている。我ながらよく飽きなかったものだと思うが、兄貴があんなに穏やかな顔をするのはクラゲを見ているときくらいだと知っていたからかもしれない。
兄貴は、昔から無意識で術式を行使していたらしい。その効果は「高速演算」。自分の脳にインプットした情報から、未来に起こる「可能性」を計算で弾き出す術式だ。先のことになればなるほど確実ではないし、頭に入れた情報が少なければ少ないほど精度は落ちる。もちろんイレギュラーが起きれば全く役に立たない、と兄貴は軽く言った。それでも日常生活の、それも学校生活程度のことであれば、だいたいは何をどうすれば一番良い結果になるのかを弾き出すことができた。面倒ごとが嫌いな兄貴は当然、何をやるにも最も効率の良い道筋を辿った。
その結果が、どこに行っても評判の「神童」扱い。もともと頭の作りが悪くなかったのもあって、何をするにも最高の結果が期待され、まとめ役を任されることも多かった。のちに兄貴は「さっさと術式に気づいていればもっと上手く立ち回れたのにな」と盛大なため息をつくことになるが、それこそ後の祭りだった。
期待という名目で余計な仕事を増やされることと、期待をあえて裏切って余計な面倒を増やすことを秤にかけた兄貴は、結局いつも前者を取った。
『こっちの方がめんどくさくないんだ。……多分』
仕方なさそうに言う兄貴の頭を、私はよく撫でていた。無意識の術式は当然コントロールすることも出来ず、暴走させると発熱や頭痛を引き起こす。しかし何故だか、私が撫でるとそれがおさまるのだという。私もまた、無意識で反転術式を使っていたらしい。
『硝子の手は不思議だなぁ』
良くなったよ、とお返しに頭を撫でてくれるのが嬉しかった。穏やかで、平和な生活を送っていたと思う。
私たちの存在が呪術高専に見出され、入学を勧められるまでは。
『来たくなかったら断っていいんだぞ、高専』
一度だけ、高専に入学した兄貴はそう言った。寮に入ってから顔を合わせる機会も減り、たまに実家に帰ってきてもやけに疲れた顔をしていた。多分、高専は兄貴にとって面倒な場所だったのだろう。でも私は、首を振った。
兄貴だけをそんな場所に行かせて、私が逃げるのは嫌だった。それに、何となく逃げられない気配も感じていた。そしてそれは多分正しかったのだと、今なら思う。
「……兄貴こそ、逃げればいいのに」
逃げようと思えば、兄貴なら決して不可能ではないはずなのに。
呪術師としての仕事も、研究も、兄貴なりの理由があってやっているのだろうし、だとしたら私が口を出すのは筋が違う。ただ、身体くらいは大事にしてほしいと思う。私の反転術式だって、決して万能ではないのだから。
右手に呪力を宿し、かつてと同じようにその額に手をやった。さらりと、自分と同じ黒髪に指を通す。眠りを妨げないように慎重に、緩やかに呪力を送り込んだ。
「……おやすみ、兄貴」
ちょっとは身体、大事にしてよ。
***
平穏を夢見る海月は、今日も望んで硝子の檻に囚われる。