どうしてそんなに怒らずにいられるのか、と聞かれたことは何度かある。
中学まででも何人かには聞かれたし、高専時代には渋い顔をした庵にも聞かれた。最近で言うと、七海くんにも尋ねられたことがあったなと思い返す。
幾度となく繰り返される、小学生でもやんねーぞという五条の悪戯。日々ストレスをためている七海くんは、眉間に深い皺を刻んでいた。
「反応がいいから面白がられるんだろ。ほっときゃいいのに」
「わかっては、いるのですが……!」
「そんな歯噛みしながら言わなくても」
根が素直なぶん、どうしても感情も素直に表現してしまうらしい。七海くんは一見ポーカーフェイスにも見えるが、実は意外と感情を外に出すタイプだ。灰原くんも素直なタイプではあるが、彼は感情の波がもともと高いところで一定している。からかってその機嫌を上下させ、反応が面白いのは七海くんのほうだろう。
後輩へのウザ絡みという娯楽を覚えてしまった五条は、それはそれは面白おかしく七海くんに絡んでいるらしい。正直気の毒。
「……いや、うん、何というか。理由をちゃんと考えるようにはしているよ」
「理由、というと?」
あまり考えずにしていることを言葉にするのは難しい。うーん、と少し考えて、自分の感覚を言葉に直していく。
「仮に何かむかつく相手がいたとしよう。そいつが俺に向かって何かしら言葉を吐いて、イラッときたとする。そこで、即座に反撃するんじゃなくて、一歩立ち止まって考えるんだよ」
何故、俺はそれに腹を立てているのか? そいつは俺を怒らせるつもりでその言葉を吐いたのか? 悪気はあるのか? そもそもそれは、耳を傾ける価値のある言葉なのか?
「何で俺はむかついたのか。たとえば俺にそもそもの原因があってむかついたなら、それは俺の問題だよな。だったら怒るより自分の弱点消すことを考えた方が建設的」
「……はい」
「そうじゃなくて向こうが喧嘩売ってきたからむかついたのだとしたら、次考えるのは相手が何を考えて喧嘩を売ってきたかってこと。まあこれはいろいろ理由があると思うけど、とりあえずざっくり二択で考える」
「悪気があるのか、ないのかですか」
「そ。そういうのって、だいたい相手がそういうシグナル出してるから何となくわかんじゃん。たまに微妙なのもなくはないけど」
五条なんて完全に「怒ってください」ってシグナル出してるし、と言ってみれば、深刻な顔をした七海くんは大きく頷く。本当に手を焼いているらしい。
少しは手加減しろよ五条、とは思うが、他人の迷惑なんか考える人間性がないからこその「五条悟」だ。多分諦めた方が早い。もはや目を付けられたのが運の尽き。
「もし悪気がねーんなら、それはそいつが他者を不快にさせている自覚のない想像力欠如の馬鹿だってことだろ。そう思うと、怒りより先に哀れみがくるんだよな。実際、無自覚に敵を作るやつって一番救いようがないだろ。生きてるだけで四面楚歌って、普通に大変じゃね? 知らんけど」
「むしろクラゲさんに『敵を作るとまずい』という発想があったことに驚いています」
「敵の有無より自覚の有無が重要なの。俺は敵だらけなの自覚してるので、いざというときの自衛の手段はちゃんと考えてあります」
わかってれば対策は立てられるから、と言って、七海くんの呆れたような目線を軽くかわす。
こういうタイプは、むしろ怒りを示してやった方がもしかしたら本人のためなのかもしれない。自分が他者を怒らせていることを自覚すれば、本人次第で改めることも出来る。が、そんなやつのために俺が労力を使ってやる義理などあるはずもないので、どうぞそのまま勝手に自滅してくださいと思っている。
だから、特に怒りもわかない。スパイス程度に哀れみを付け足した無関心が関の山だ。
「……では、悪気のある相手だった場合は?」
何とも言えない顔をしながら、七海くんはそう言った。その脳裏にはあの情緒五歳児のクズ野郎の顔でも浮かんでいるのだろう。
その顔を見て、つい俺も苦笑が浮かぶ。そうだな、と前置いて続けた。
「悪気があるってことはつまり、何らかの理由があって俺を怒らせたいわけじゃん。まーだいたいは単純に『不快にさせたい』とか『面白い反応が見たい』って理由かもしんないけど、とにかく何らかの意図を持って俺を怒らせようとしてるわけだ」
そんな相手の期待に応えてやる必要が、どこにある?
七海くんの口が、きゅっと結ばれた。それはどこか、悔しそうにも見える。
「ただの意地の問題だけど、相手の思うままに踊らされるなんて癪だろ? だから俺は絶対怒ってなんてやらないね。あえてそのシグナルを受け取らない。そのうえで何で俺を怒らせたいのかを探って、次の行動を選択するよ」
俺に悪意をもった相手の計算式など、ぶち壊してやるに限る。ひとの計算通りに動いてやるほど、俺はお人好しではない。
「まあつまり、俺は君より性格が悪いんだよ。仮に五条が俺で遊ぼうとしたところで、絶対にノってなんてやらねーからな」
「……そういう偽悪的な表現をわざわざ選ばなくてもいいと思いますよ」
「事実は事実。そういうわけで俺は君より怒る機会は少ないと思うけど、あんまり参考にならないと思うぞ。そもそも俺、他人の言動なんかどうでもいいってのが大前提にあるし」
「……いえ、努力してみます」
「それはあんまり建設的じゃない努力では」
「本当に、ほんっとうに五条さんがウザいんです」
わあ、どうやら相当に鬱憤が溜まっている。五条を回避できるなら悪魔にでも魂を売り渡してしまいそうだ。そういやこの世界、呪霊はいるけど悪魔って存在してんのかな。うーん、どうでもいい。
そうだな、とぼんやり考えながら七海くんに飴を差し出す。水色に着色されたサイダー味の飴を受け取って、七海くんは露骨に顔をしかめた。どうやらそれを見てどこかの誰かの六眼を思い出してしまったらしい。しまった、渡す味を間違えた。
とりあえず、取りなすように口を開く。
「まあ、キレる前に一呼吸置く癖はつけたほうがいいと思うよ。相手の意図は考えた方がいい。衝動で動くのはたいていろくなことにならねーからな」
特に、あえて自分を怒らせようとしている相手の場合は。
そういえば俺そんなこと言ったなと、このタイミングになって思い出す。目の前の赤いルージュは何故だか妙に挑発してきて、これでもかというくらい「怒れ」というシグナルを発している。それがわかった時点で、俺に「怒る」という選択肢などなかった。相手の思惑に乗ってやる義理など、俺にはない。
さて、何故彼女は俺を怒らせようとしているのだろう。怒った俺に、何をしてほしいと思っているのだろう。そもそも彼女は誰だ。どういう存在で、どんな思惑があって、誰の味方で誰の敵だ。その表情から、言葉から、呪力から、情報を拾い上げて繋いでいく。
ぱちり、とピースがはまった音がした。頭の中に、ひとつの推論が浮かび上がる。そういうことか、と改めて彼女を見据えた。
「アンタ、俺に殺されにきたのか」
今、俺の中に何かしらの感情があるとすれば、それは「憐憫」に近い別の何かだった。
***
その言葉を聞いた彼女は、一瞬目を見開いたような気がする。しかしすぐに表情を戻して、何を仰っているの、と侮蔑を込めて言葉を返した。
「それは脅しのおつもり? がっかりだわ、伺っていたよりずいぶん気の短いのね」
「いいよもうその話し方。めんどくせ」
兄貴はすたすたと私のところに寄ってきて、ちょっと持っててと書類の束を渡してきた。両手を空けて何をするのかと思ったら、ポケットから煙草を取り出して口にくわえる。おいここ禁煙だぞクソ兄貴。
「線香みたいなもんだろうが。堅いこと言うなよ」
「こうやってルール守んねーやつがいるから喫煙者の肩身が狭くなってくんだよな」
「未成年の喫煙者に言われるとは思わなかったわ。肩身狭いのが嫌なら禁煙すれば?」
「は? やだけど」
火の付いた煙草の先から立ち上る白い煙。ゆらゆらと天井を目指すそれを眺めながら、兄貴は大きく息を吐いた。
さて、と改めて兄貴は彼女に目を向ける。
「とりあえず
「何を、」
「呪力の流れが不自然だ。見りゃわかる」
ゆらりと兄貴が動いた。彼女が反応するよりも先に距離を詰め、彼女の左腕をつかむ。目の高さまで持ち上げられたその手首には、腕時計ともうひとつ、黒い革のような何かで編み込まれたブレスレット。それを見た瞬間、ぞわりと怖気だった。何か、ひどく
さっきまで彼女に覚えていた違和感のもとはそれだと確信する。呪力を狂わせる何かが、そのブレスレットには込められていた。
「やっぱりか。数年前にこんな粗悪品流行りましたよね、九十九さん」
「あったね、お手軽に呪力を増幅できますなんて謳ってたタチの悪い呪具。せいぜい見えない人間が少しばかり見えるようになるくらいの効果しかないうえに、使用者の肉体と精神の両方に相当な負荷が掛かる」
「使用者の精神を不安定にして負の感情を増幅させ、無理矢理呪力に変換するわけですからね。むしろよく堪えたもんだ」
腕を引こうとする彼女の抵抗などものともせず、兄貴はその腕から呪具を抜き取る。するとまるで吸い取られるように彼女から呪力の気配が消えた。同時に彼女は膝から崩れ落ちかけるが、すぐに体勢を立て直して兄貴の腕を払いのける。
彼女の顔に、先ほどまでの毒々しい笑みはもうない。怒りと、焦りと、それ以外の何か。烈しい感情が、瞳孔に現れている。
兄貴は、手に持ったそれを気色悪そうにしげしげと見つめる。後で処分だな、と嫌そうにそれをポケットに仕舞った。
「呪力量を誤魔化したかったのかしらねーけど、こんなもんつけてたら逆に自白してるようなもんだぞ。アンタ、呪力ないんだろ」
ぐ、とルージュが歪んだ。
補助監督じゃないんですか、と灰原が驚いた声を上げる。じゃなきゃこんな呪具を使う理由がねーよ、と兄貴は軽く返した。
「呪力のない人間が、
「待ってくださいクラゲさん、呪力のないひとが術師を怒らせて何の得があるって言うんです。下手をすれば殺されかねないのに」
「だから言っただろ七海くん、このひとは殺されにきたんだよ」
ずいぶん姑息でくだらねー手だ、と言い捨てて、兄貴はまた煙草に口を付ける。珍しくそのフィルターには、強い噛み痕が残っていた。
「
するすると、脳内で疑念がほどけていく。そのひとを見たときの、気持ちの悪い違和感。ただただ兄貴を煽り、怒らせるためだけの言動。
女性の額に、汗がつたう。
「加えてもうひとつ。これ、初対面じゃねーよな。禪院の本家ですれ違ったことがある」
「、」
「化粧変えたくらいじゃ誤魔化せねーよ。確か禪院の傍流も傍流のクソ野郎に連れられてたっけ。どう見ても対等な関係には見えなかったな。となるとアンタは、禪院の分家筋か、禪院傘下の術師家系の人間てとこ」
禪院家は、術式至上主義だと聞いたことがある。しかも、非常に男尊女卑の傾向が強い。兄貴にして「平安から価値観のアップデートが出来てない可哀想な世間知らずの集まり」と言わしめた家系だ。
この馬鹿そんな連中にまで恨まれているのかと呆れたとき、少し笑った夏油がなるほど、と口を開く。
「クラゲさん、確か『禪院のドクズ』さんを半殺しにしたことがあるんでしたっけ?」
「へえ! やるね海月!」
「何やってんのクソ兄貴」
「喧嘩の押し売りされたから仕方なく高価買い取りしてやっただけだよ。とはいえ、ドクズはドクズでも本家筋のドクズ。傍流のカス野郎がアンタを生贄にして俺を追放し、ドクズに媚びを売りたかったってところかな。利権と保身しか考えてねーやつのやりそうなことだよ、呪力もない女ひとりの命なんて惜しくもないだろうしな」
「その『ドクズ』さんが首謀者とは考えないんですか?」
「『呪術師に非ずんば禪院に非ず』を未だに謳う化石みたいな連中だぞ。いくらドクズでも、本家筋の人間ならここまで姑息な手段は選ばない。御三家であり術師である人間としてのメンツってもんがある」
俺にはその感覚理解できねーけどな、と兄貴はしらけた顔。なんとも兄貴らしい。同感。
で、と兄貴は煙を吐き出しながら語りかける。
「その反応的にあってるっぽいけど。アンタ、どうする?」
どう、と尋ねられた瞬間に彼女は動いた。彼女の懐から見えた、鈍い光。しかし次の瞬間には、その腕は兄貴の手に取って押さえられていた。
ナイフを持った彼女の腕は、ぴくりとも動かない。どこまで俺は舐められてんだ、と兄貴はうんざりした調子で言った。
「こんな
「っ……!」
「殺されたいのは勝手だが、俺を巻き込むな」
俺は、アンタを殺さない。
その言葉で、彼女の中の何かが切れたらしい。彼女の身体が震え出し、落ちたナイフが床を滑る。兄貴が腕を放すと、彼女はそのまま床に崩れ落ちた。肩が揺れ、膝が揺れ、さきほどまでの強気な表情は見る影もない。潤んだ瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうで、目元のメイクがすでににじみ始めているように見えた。
この濃いメイクは泣かないための戦化粧か、とふと思った。きっと、もっと薄い柔らかな色の方が似合う顔立ちをしているのに。
「……こ、ろして、」
兄貴の足下に、縋るように。力の入らない腕を伸ばして、白衣の裾をつかむ。兄貴を見上げた彼女の頬に、一筋の光が伝った。
「おねがい、わたしをころして……っ」
「アンタを殺しても俺にメリットねーし」
「お、ねがいします……っ!」
いや普通にめんどくさい、と心底嫌そうな顔で言う兄貴。さすがクズというか、女性に縋られても特に思うところはないらしい。
まあ自分を陥れようとした相手に、特に同情もなにもないということだろう。その辺りは同感なので、私もサイテー、というだけにとどめた。え、これ俺が悪いの、という顔でこっちを見る兄貴が面白い。ウケる。
うーん、と苦笑をしつつ、とりあえずという感じで夏油が口を出す。
「事情くらい聞いてあげてもいいんじゃないですか?」
「夏油お前、今の俺の立場だったとして事情聞くわけ?」
「そりゃあ聞きますよ。弱者を助けるのが術師の務めですから」
「お前そろそろその言葉だいぶ嘘くさいぞ。じゃあ夏油が聞いてやれば」
「求められてるのはクラゲさんでしょう」
「揃いも揃ってクズすぎウケる」
お二人とも、と眉間に皺を寄せた七海が低い声を出す。同時にさっと立ち上がった灰原が話を聞きましょう、といつもの大声。
その様子を見た九十九さんもあははっと声を上げて笑った。
「気持ちはわかるけどね、海月、夏油くん。たまには心の綺麗な後輩を見習ってもいいと思うよ? 何よりレディの涙を無視するのはいただけないね」
「まさか俺より心が汚れてるひとからそんなことを言われるとは」
「クラゲさん、少し言い方を考えたほうが」
「内容を指摘しねーあたりお前も同じ穴の狢だよ」
「君たちほんとに可愛くな~~~~~い」
つってもな、と兄貴はやはり嫌そうに彼女を見下ろす。
「ひとが自分の命を投げ捨てる理由なんてたいがい決まってんだよな。誰が人質なんだよ、家族? 恋人?」
「お、とうとが、」
「へえ、弟」
「わ、たしと違って、呪力もある、術式もあって、男の子だから……っちゃんと、生きられるはずなんです!
言うことを聞かなければ、その未来を潰すと。
率直に言って嫌悪感がひどいが、生憎とその内容にではない。自分の意志で生きることをとっくに諦めている彼女の思考が、どうにも気味が悪かった。
彼女の思考は、すでに毒されている。非術師である自分、女である自分が思うままに生きられないのは仕方がない、と。そんな諦観をもたないと生きていられない場所に、彼女はいたのだろうか。想像が出来なさすぎて哀れみすらも覚えない。
一通り聞いた兄貴も、特に興味もなさそうに煙草をふかしている。やっぱり時間の無駄だったとでも言いたげだった。
「事情説明終わり?」
「っ……!」
「いやそんな悲劇のヒロインみたいな顔されてもな」
「クラゲさん、」
「七海、黙ってろ」
いつになく強い口調に、七海も押し黙る。懐から取り出した携帯灰皿に白くなった灰を落として、ひたすらめんどくさそうにため息を吐いた。
「そうだな、一万歩譲ってお気の毒にとは言っとくよ。あの家のクズっぷりは俺も知ってる。さぞ苦労して生きてきたんだろうな。で、だから何?」
「、」
「アンタは確かに呪力もないし、女性だからと不利なことも多かっただろう。でも、別に出来ることはゼロじゃなかったはずだ」
「……え」
「自分を守るために、弟を守るために。頭ひねって策を弄したか? 非術師でも戦えるすべを模索したか? 今だってそうだろ。自分の事情説明して、麗しい姉弟愛語って、だから何だ」
大事なのは、その次の言葉だろ。
それは兄貴にしては珍しく、ひどく堅い声音だった。あ、う、と歪んだルージュが声にならない言葉を辿る。混乱で眼球の動きが激しい。それでも動かない脳を必死に回転させて、次の声を作る。
「た、…て」
「聞こえねーな」
「た、すけて、おと、とを、……弟を助けてください!」
「要求に具体性がねーうえに対価の提示もないとか舐めてる? ボランティアで動く術師なんてそこの術師向きじゃねーふたりくらいだぞ」
えっと、えっと、と泣きながら次の言葉を考える彼女と、その前にめんどくさそうに立つ兄貴。うーん、どう見てもいじめられっこといじめっこの図。
夏油と九十九さんは愉快そうに、灰原と七海は何とも言えない顔で二人を見つめていた。私はどっち側って、そりゃあ前者だ。何故って、兄貴の言いたいことくらい私にもわかるから。
兄貴は、彼女に「対等」を求めている。
「アンタは何が欲しい? 持っているものは? 情報は? 何を使って何を動かせば目的に近づける? 目的を明確にしろ。自分の手にあるものを最大限に活用して目的達成までの道筋を描け」
きっとそれは、兄貴が今まで自分に言い続けてきた言葉。
「あ、」
「俺はヒーローじゃない、呪術師だ。ただの人助けはしない」
「う、あ、」
「言語を使えよ。察してもらうことを前提に吐いた言葉は、相手の都合の良いように解釈される。明確で明瞭な言葉を選択しろ。解釈の余地を与えるな」
「、」
改めて思う。やはり、兄貴は甘い。
術師として血なまぐさい世界に身を置こうとも、深海のような部屋で数の海を漂っていても、兄貴の本質は変わらない。その、心底めんどくさそうな横顔を見る。
家入海月という人間は、決して他に手を差し伸べてなどやらない。背中を押してなどやらない。立ち上がるなら勝手に立ち上がれと、進む先は自分で選べと、足を踏み出すなら自分の意志でと。それでこその「人間」だと。だから、兄貴は諦めた人間に興味を示さない。だから、兄貴は己の意志で進む人間を見下さない。
すべてのものには星の数ほどの可能性があるという。それらのひとつひとつを観測し、可能性の行く末を見つめる術式をもつからこそ。
家入海月はただ、
「……やっぱ時間の無駄だったか?」
裾離せよ、と兄貴が声を掛けたところで、彼女はぐっと指に力を込める。ぎり、とその歯が噛みしめられたように思えた。
「っあの男の支配から解放されたい! 私も、弟も!」
「へえ?」
「術師とか家系とかどうでもいい、私たちが自分の意志で生きられる場所が欲しい! 貴方にそれが出来るなら、手を貸して!」
「……ふーん。まだまだ抽象的だけど、ぎりぎり妥協点か。で?」
「あ、貴方は呪霊の研究をしているんでしょう。特に、呪霊の発生について、任務記録からデータを抽出して統計を取っている」
「そうだな」
「わ、たしたちの家は、……今は傾いてるけど……それでも三百年は続く術師の家系よ。これまで祓ってきた呪霊の記録は残ってる。貴方が手を貸してくれるなら、私はその全てを貴方に提供する!」
それが対価よ、と言い切った彼女。意地を見せたというよりはただのやけっぱち、癇癪を起こした子どものような。けれど、その目には確かに光があった。
兄貴は、いまだ火の残る煙草を携帯灰皿の中に押し込んだ。そして、わずかに態度を改める。
「ま、いいだろ」
「!」
「そっちの条件は禪院のカスの排除とアンタら姉弟の自由。俺の条件はアンタの家がもつ呪霊の記録の提供。これは『縛り』だ、異論はないな?」
「な、ない!」
「ん。じゃあ、まずはそっちの条件片付けるか」
は~~~~~、とまた心底嫌そうな顔で兄貴は携帯灰皿をしまい、かわりに携帯を取り出した。あのひとと話すのめんどくせーな、とぶちぶち言いながら携帯をいじる。
ふうん、と愉快そうな夏油が茶々を入れる。
「どんな手を使うんです? 相手にこちらの意図がバレた時点で詰みでしょう」
「ああ、だから気取られる前に一気に潰す。が、俺がやると手間なのでひとに頼む」
「結局他力本願じゃないですか」
「適材適所って言えよ。使えるもんは使うだけだ」
俺だって使いたくねーけど、と兄貴は携帯を耳に寄せる。機械的なコール音が静かな部屋に響いた。
「……どーも、家入です。いま時間大丈夫ですか?」
僅かに聞こえた返事で、かろうじて男性の声が聞こえた。内容まではわからないが、機嫌の良さそうな声に感じられる。対して、兄貴の声はどこまでも嫌そうだ。本当にあまり話したい相手ではないらしい。
挨拶もそこそこに、ところで、とさっさと本題に切り込んだ。
「禪院もずいぶんとくだらねー手を使うようになったんですね。呪いを送ってくるならともかく、まさか生贄を送ってくるとは思いませんでしたよ。家族人質にとって非術師の女性に言うこと聞かせて、果ては俺に殺されてこいとか。くだらなすぎてまじで正気を疑うわ」
兄貴が口にしたその名前に、覚えがあった。禪院家の当主、禪院直毘人。何でそんな大物と兄貴が、なんて思う暇もなく、兄貴はどんどんと言葉を重ねていく。向こうの声は聞こえなくとも、会話の内容は明白だった。
「クズだらけの禪院も、術師としてのプライドだけは死守するもんだと思ってたんですが。こんなチンピラ崩れのやり方で俺を追放して満足です? ……は、それは自分の怠惰への言い訳ですか? アンタらしくもねー」
躾サボってたツケがきたんだろ、と時に敬語すら抜ける兄貴。禪院に恨まれてるくせに禪院の当主と普通に喋ってる兄貴って何。気の毒に、電話の相手を理解したらしい彼女は、蒼白になって震えている。
ちらりと九十九さんと目が合ったが、九十九さんはただ面白そうに肩をすくめた。さすが海月だね、と唇が動く。そんな一言で済ませていいのだろうか。
「禪院に名を連ねる者がやらかしだ、
何なら五条家の皆さんにでも事細かく事情説明しましょうか、直毘人さん仲良いですよね、としれっと言ってしまう兄貴、たぶん神経の太さが違う。言うまでもないが、禪院家と五条家は年季の入った犬猿の仲だ。
「俺も五条家に日頃の感謝を伝えるいい機会になりそうですよ。五条家には無償で呪霊の記録提供してくれた恩があるし、これで少しは恩返しになるかな」
そこまで言って、兄貴はさっと携帯を耳から離した。途端に電話口から聞こえる、老齢の男性の大きな笑い声。それはそれは面白くて仕方ないという調子で、闊達な声は笑い転げていた。
それが落ち着いて来た頃に、兄貴はまた耳元に携帯を戻す。ええ、と頷いて続けた。
「俺の要求はふたつ。まずは首謀者である術師への落とし前。内容は任せますが、二度とでかい面できないようにはしといてください。それから俺のとこに寄越された非術師の女性と、人質にされているその弟の保護および援助。アンタにとっちゃ安いもんだろ、今後の生活含めて面倒みてやれよ。弟さんは術式もってるらしいし」
あ、とそこで思い出したように兄貴は付け足した。
「言っとくけど面倒見てやれってのは誰かの妾にしろって意味じゃねーからな。自分の意志で生きられる環境を返してやれよって意味。……アンタだから言ってんだろ、俺は禪院の『普通』も『当然』も一切信用してねーんですよ」
それからいくらかやりとりをして、兄貴は通話を切る。携帯を白衣のポケットにしまい、膝を折って彼女と目線を合わせた。まだ、彼女は白衣の裾を握っている。
「禪院直毘人は知ってるだろ、禪院家の現当主だ。とりあえず話は通したから、数日以内には全部片付くと思う。今後のことはアンタや弟さんの意志確認しつつ詳細を詰めて、……どうした?」
彼女は呆然としたまま反応を返さない。あれ、と兄貴は不思議そうに彼女の目の前で手を振るが、いや普通に無理もないだろうと思う。
君ねぇ、と呆れた顔をした九十九さんが二人に歩み寄った。
「さすがにキャパオーバーだよ、彼女。呪具の影響も残っているだろうし、そろそろ心身ともに限界だろう。まったく、海月はレディへの気遣いをもっと学ばないと」
「それ俺の人生に必要なさそうなんで大丈夫です」
「う~~~ん可愛くない。とりあえず彼女は休ませてあげなさい」
とん、と細い指が額に落ちると同時に、ゆらりと彼女の身体が傾く。九十九さんは柔らかく彼女を受け止めて、小さな声で
「これでしばらくはぐっすりだろう。さて海月、まさか君が禪院家の当主と繋がりを持っていたとは思わなかったよ。彼はちゃんと動いてくれるのかい?」
「身内のケジメはちゃんと付けると思いますよ、メンツがありますからね。ただ、この姉弟の処遇に関しては若干不安なので、一応本人に直接念を押してきます。ちょうど京都の任務もあるし」
「……兄貴、これまじで行くの?」
確かに今私の手にある任務のリストの中には、京都で発生した呪霊の祓除の文字があった。他にも日本各地で発生した呪霊を祓うよう命令書には書かれていて、記載されている呪霊の等級はどれも高めだ。確かにこれはどう見ても嫌がらせ。
しかし、これまで兄貴はあまり任務には行かなかったし、行ってもせいぜい都内だと聞いていた。てっきりこれらも、適当に突き返すもんだと思っていたのに。
私の言葉に、仕方ねーだろ、と兄貴は特に気にした風もなく返す。
「その命令書は本物みたいだしな。多分、俺を通して九十九さんを動かしたいと上層が考えたってのはマジなんだろ。あと、……彼が亡くなったタイミングでやばめの任務多く割り振って、俺が死んだらラッキー、みたいな。カスはそこに便乗したんだろうな」
「アホほど嫌われてんじゃん、ウケる」
「俺も嫌いだから別にいい」
「子どもの喧嘩かな? で、どうするんだい海月、手伝ってあげようか?」
「は? アンタは呪霊の発生予測の検証があんだろが。幸いにも俺の任務とかぶってるところはないんで、きりきり働いてください」
「どうして海月は私相手だと妙に辛辣なのかな?」
「日頃の行い」
「君が言うかい!?」
あ~うるせ、と言いながら、兄貴は丁寧に自分の白衣を掴む指を外す。眠りを妨げないようにそっとその手を離して、立ち上がった。
肩をこきりと鳴らして、出張とかまじ久々だな、と首を回す。
「……まじで行くんだ」
「割り振られた分くらいは片付けるよ。まあ研究も一区切りと言えば一区切りだし、少しくらい気晴らしに運動してもいいだろ」
「まさか任務を気晴らしの運動として扱う人間が五条さん以外にもいるとは」
「待って七海くん、俺をアイツと同列に並べないで。さすがに傷つく」
「それだけ余裕をもつのが大事ってことですよね、さすがクラゲさんです!」
「灰原くんってまじで頭イカれてるよな。うっかり尊敬しそう」
「え!?」
「灰原、今のは褒められてないからね。嬉しそうな顔をしない」
兄貴は私の手から任務の命令書を抜き取って、またぱらぱらと軽く眼を通す。ざっと二、三週間くらいかな、と頭を掻いた。
それから顔を上げて、改めて私を見る。
「硝子、数日彼女を学生寮にでも匿っといて。向こうの処理が終わるまで、彼女が生きてることを誰にも知られるな。ただし夜蛾には話を通して、禪院の使いが来たら極力立ち会わせるように。夜蛾なら御三家相手でも渡り合える」
「……ん、おっけ」
適当に誤魔化しとく、と言えば、よし、と兄貴は頷く。
それから私に背を向けて、今度は後輩たちに顔を向ける。その視線の意味を読み取ったのか、ふたりはさっと背筋を伸ばした。
「灰原、七海、特に何も起きないとは思うけど、暇だったら彼女の護衛しといて。出張あがりならもう数日は任務も入らないだろ」
「わかりました!!」
「了解です」
ぴっと灰原は敬礼し、七海はこくりと頷いた。まだ、その表情の陰りは抜けきっていない。張り切ってみせようと、軽口を叩いてみせようと、やはり親しくしていた人間の死、そして同時に叩きつけられた呪術界の闇は響くものがあっただろう。
だが、ただ落ち込み、嘆き、後悔している暇などないことは、きっとふたりにもわかっている。この後輩ども、どうやらまだまだ心折れる気はないらしい。
それを確認した兄貴は、また視線をずらす。その先にいたそいつは、私にも何か、と少し不思議そうな顔をしていた。
「夏油」
「? はい」
「俺がいない間、
たった、一言。その一言に、驚かされた。
兄貴が、誰かに何かを託すような言葉を言うのを、少なくとも私は初めて聞いたような気がする。それも指示という指示もない曖昧な言葉で、夏油相手に。
夏油自身もまた、その言葉を聞いてわずかに驚いたようだった。しかしすぐに表情を戻し、にこりと笑ってその声に応える。
「
それを受けて、くす、と小さな笑みが部屋に響いた。ずいぶんな殺し文句だね、とからかい混じりの言葉を投げた九十九さんに、兄貴は別に、と短く返す。最後にちらりと横たわったままの「彼」に目をやって、すぐに背を向けた。ドアのある方向へ、迷いなく足を踏み出す。
当たり前だが、兄貴が任務に行くのは初めてじゃない。むしろ私よりもずっとずっと、たくさんの危険な任務を乗り越えてきている。けれど、任務に向かうその背中を見るのは、これが初めてで。
あにき、と知らないうちに声が零れた。何だよ、と足を止めた兄貴が振り返る。その表情は、本当にいつも通りだ。あの深海にいるときと、変わらない顔。
「? 土産は期待すんなよ」
「いやいらねーけど。……何でもな~い。いってら」
不思議そうに首を傾げた兄貴は、何かあれば連絡しろよ、とそれだけ言って、また私に背を向ける。
「……いってきます?」
何で疑問形なんだよ、と突っ込むのも忘れて、その背中がドアの向こうに消えるのを見る。兄貴の口からその言葉を聞くのは、ずいぶんと久しぶりだった。
あまりにもいつも通りすぎたその態度が、何となく憎らしい。
***
無限に近しい数の海。波に逆らい、舞う海月。
硝子の檻は、何を想う。